高校騒動記〜三年生編〜


 恋は突然…?

//渡会直哉(わたらいなおや)//

 だんだん日差しが強くなってきた。衣替えを待ち遠しく思いながら道行く生徒の波に混ざってとろとろ歩いていると、前方に見覚えのある二人組みを発見。
 がっしりしているあの背中は住吉で…その隣りの小さい女子は、向井か?
 手を繋いではいないけれども、それでも友人同士というには近すぎる距離。
 顔を見合わせて、楽しそうに、幸せそうに笑っている、二人。
 なんだか無性に腹が立った。
「おらっ」
 腰に膝蹴りを食らわせると、住吉は低くうめいて振り返った。
「朝っぱらからなにしやがる」
 あ? それは俺のセリフだ。
「朝っぱらから仲良さそうでうらやましいねぇ。いつの間に仲直りしたんだよコラ」
 とたんに住吉の顔が赤くなった。うーわーなんか素でむかつく。
 ろくに抵抗しない住吉の足を蹴っていると、向井がシャツを軽く引いてきた。
「渡会君、いろいろごめんね。ありがとう」
「……なに、もう解決?」
「うん。ありがとう」
 にっこり。
 なんだ、青海との仲も修復できたんだろうか。
「全部?」
「うん」
 笑われても、なんだか俺としては釈然としないわけで。
「あーそりゃおめでとう」
 青海のことを考えたらめでたいことなのかもしれないけれど、でもなんかすっきりしない。
 なんですっきりしないかといえばそりゃなんだこっちの関係が俺が期待しているほど進展していないからだってのがなんとも腹立たしく情けない。
 面白くなくてひたすら住吉と軽く小突きあっていたら、いきなり向井がくすくす笑い出した。
「渡会君、詩織ちゃんとなにかあったでしょ」
 住吉の耳を引っ張っていた指がすっぽ抜けた。「いてェ!」とか聞こえたような気がするけれど記憶にとどまらずにするりと耳を抜けていく。
「……あ?」
 向井は笑っている。にこにこと。
「なんだかね、詩織ちゃん、かわいくなった。なんでかなぁ」
 言いながら、笑いながらもその目は俺から離れない。住吉の視線が顔に刺さっているような気がする。
「これから詩織ちゃんと恋愛話できるようになるのかな。楽しみ」
 にっこり。
 向井の意味深な笑顔とその言葉の内容に、頬に熱を感じた。
 おもむろに肩に住吉の腕が乗っかる。重い。
 なんだよ。
 そう振り払おうと顔を向けたら、そこには住吉の三日月形になった眼が。
「――渡会。ちょっとあとで腹割って話しようじゃないか」
 ……うー。あー。
「…………それにつきましては後日良く検討のうえ答弁申し上げます」


「………雨降って地固まる?」
 朝、教室のドアを開けて例の二人を見た森本が最初に口にした言葉がこれだった。
 反応することすらわずらわしくて、肯定も否定もせずにただ喉の奥から音を出す。窓際でなにやら楽しそうにしゃべっている二人を眺めやって、森本は軽く肩をすくめた。
「まぁ、しかるべきところにおさまったって感じかな」
「んー」
 机にあごを乗せて、口の中でもごもごと声だけ返す。俺の隣りでは七尾と野島が小声で馬鹿なことを言い合っていた。
「『住吉が土下座して謝った』にアンパン一個」
「『住吉が泣いて追いすがった』に銀チョコ一個」
「…どう違うんだよ」
 野島の言葉に七尾が面白くなさそうに口を尖らせる。そんなやつらを横目で見て、思わず口をはさんだ。
「…『住吉が向井の尻にしかれる』に焼きそばパン一個」
 野島と七尾が振り返った。なんだその人を見下すような馬鹿にするような顔は。
「そんなん言うまでもないことだろ。アレは絶対尻に敷かれる」
「敷かれる」
 …あーそうかい。
 一人超然と文庫本を開いていた森本がつと顔を上げた。
「まあ、まとまってよかったよね。もう一人のほうがどうなったのか気になるけど」
 とたんににぎやかに馬鹿話を続けていた野島と七尾が口を閉じた。気まずそうな顔を見合わせて。
「なんだ、終わってなかったのか?」
「いや、二人の顔を見たら終わったんだろうなとは思うけど」
 なんでか三人とも俺を見る。いや俺は知らんから。聞いてねえから。
 顔の前でひたすら右手を振っていると、いきなり背中をどつかれた。
「おっはよー!」
 …舟木、お前なぁ。朝っぱらからなぁ。
 人の背中を思い切りどついて、舟木はにこにこと笑った。
「なんか上手くまとまったみたいだね。よかったよかった」
「もう少し人目を気にしてほしいけどね」
 どことなく疲れた顔で言ったのは西岡だ。明るい色の髪をかきあげながら、忌々しげに例の二人を睨みつける。
「ま、幸せそうでよかったけど」
 言った西岡の目元がふと和んだ。悪者になりきれないんだろうこいつは。まぁ、悪い奴じゃぁねえよな。
「で、あの馬鹿はどこよ。もうホームルーム始まるってのに」
 和ませた目元にまた力をいれて西岡がそう言いはなった時、教室のドアが開いてひときわ明るい色の髪が飛び込んできた。
「ま、間に合った? 大城まだ?」
 髪を乱して肩で息をしながら慌しくそう言った青海にむける俺たちの視線は…なんというか、多分生温かかったんじゃないだろうか。
「しおりんギリギリー」
 のほほんと笑いながら告げられた舟木の言葉に安堵の息をつき、青海はようやく窓際の二人に気づいた。
 ちょっと眼を丸くし、そしてふわっと笑う。青海が手を軽く上げると、住吉が右手を上げ、舟木が手を振って返した。
 それで充分だった。
 野島が大きく息を吐き出してぼりぼりと頭をかいた。「俺、寝る」と呟いて自分の席へと戻る。七尾も「あー…」と呟いたきり気が抜けたようにため息をついた。
「なに、解決?」
 しらけた表情で西岡。青海が俺たちを見て不思議そうな顔になった。
「なに?」
 恨めしそうに七尾に見つめられて若干身を引いた青海の背中を、すれ違いざまに西岡が思い切り叩いた。
「い…っ」
 鼻を鳴らして自分の席へと戻っていく西岡の背中を見てから、青海は困ったように笑った。
「…いろいろごめんね。ありがとう」
 いや元凶はあんたじゃないし。
 顔の前で投げやりに手を振る。青海は軽く肩をすくめた。
「渡会にもいろいろ迷惑かけたね」
 いや迷惑どころか。
 そう言おうとしたとき。
「おら」
「ぐえ」
 背中にいきなりなにかが乗ってきた。振り向かなくてもわかる。住吉だ。
「おう、また寝坊か?」
「うーあーまぁ」
「人の上でのんきに世間話はじめないでくれませんかね」
「寝癖ついてるぞ」
 無視かいコラ。
「住吉コラてめえいいかげん――」
「お前ら最近いいことあったんだって?」
 ぅえ!? と青海が奇妙な声を出した。
 俺はといえば起こしかけていた体から一気に力が抜けて、机でモロに鼻を打ってしまった。
「なにさいきなり」
「ふーんそーかあったのかー」
 へーほーと俺の上でうそぶく住吉。なんか腹が立ってきた。
「お前いいかげんにぁガッ!?」
 ぐ、と上から顔を机に押し付けられた。
「人がてんぱってる間に一人だけイイ思いしたんだこの娘さんは」
「いいいイイ思いってなにさあんたオヤジみたいに」
 うがぁ青海うろたえんじゃねえよこっちまで恥ずかしくなってくるじゃねえか。
「オヤジで結構」
「ひ、開き直るな! ていうかその眼やめて」
 どんな眼だよ。どんなカオしてんだよ住吉。
「で、ナニがあったんだよ」
「………ッなにもない!」
 ちょっと青海さん。
 なんですか今の間は。
 と、住吉の肘が動いた。骨があたる。
「痛ぇよオイ」
「なー渡会。なにもなかったそうだけど、どうよ」
「だから痛ぇって!」
「で、どうよ」
 いてぇっつーの!
「スミ君! いいかげんに――」
 さすがに頭にきたのか青海の口調がきつくなったときだった。教室のドアが開く音と同時に、聞きなれてしまった声が聞こえてきた。
「チャイム鳴ったぞ席につけー」
 大城のやろうだ。
 普段ならありえないことなんだが、今日ばかりは大城の登場がありがたくて、肩から力が抜けた。上から舌打ちが降ってきて、頭が軽くなった。
 顔を上げる。
 ……なんだよ住吉その顔は。
「続きはまたあとだな」
 続くのかよオイ。
 さっさと席に戻る住吉を見送ってから前を見ると、なぜかまだ青海がいた。
 眼が合う。
 瞬間、青海の顔がパッと赤くなった。
 一瞬顔を覆うような素振りをしてから身を翻して自分の席へと駆けていく青海を呆然と見送っていたら、いきなり頭を叩かれた。
 森本だ。
「…なんだよ」
「顔赤いよ」
 うあ!
 チラッとこっちに投げかけられた森本の視線が痛い。
 なんとなく恥ずかしくって机に顔を伏せた。
 ガタガタと席につく音がしたあと、教室が比較的静かになった。大城の声が聞こえる。相変わらず良くとおる声。
 簡単な連絡事項と、全国模試の案内。つっても全員参加だけどな(野島は関係ないけど)。隣りの市まででなきゃいけない。めんどくせ。
 模試かー。よく考えたらもう五月も終わるんだよなー。
 青海はどこ受けるんだろ。
 なんてことをつらつら考えていたらだな。いきなり。
「で、昨日ホームルームサボった9人」
 なんて言葉が耳に飛び込んできた。
 思わず顔を上げたとたん、大城とばっちり眼があってしまう。うわなんか嫌なんだがあの笑顔。
 大城は俺たちを一人一人ゆっくり眺めると、にっこり笑った。
「話があるから放課後物理教室まで来るように」
 えー、とブーイングしたのは舟木だ。「はあ!?」と強気な声を上げたのは西岡。顔を見なくても声から十二分に考えていることが伝わってくる。
 大城の笑みがさらに広がった。
「逃げたら内申に響くから」
 …………マジすか。
 それだけ言うと、西岡と七尾のブーイングを笑顔で流して大城は教室を出て行った。
 いつもならこのタイミングでざわめきが教室に戻ってくるところなのに、今日はなぜか静かなまま。
「ふざけんなー!」
 七尾の絶叫が虚しく教室に響き渡った。
 どうでもいいけど七尾、地がでてるぞー。
 つうか俺、部活あるんだけどなぁ。
 あー。
 くそう。
 めんどくせえ。
 


「大城うざい」
「大城むかつく」
 青空の下。
 五月というさわやかな季節に似つかわしくない言葉を吐き捨てながらサンドイッチを頬張る男女が一組。
 西岡も七尾も傍目にはわりと見目のイイ顔しているのに、いやもう人様にはお見せできませんってくらいの表情だ。七尾女の前でだけはその顔絶対にするなよ。
「内申持ち出されたらなぁ」
 溜息とともに住吉が言った。箸で弁当箱を軽く叩きながら空を仰ぐ。
「手も足もでないよねぇ」
 とは舟木。
 熱い紅茶を飲みながら、向井が困ったように笑った。
「逃げようがないね」
 ほぼ同時に全員が溜息をついた。
「受験生は大変だぁね」
 落とされた言葉にそちらを見やると、野島がニヤニヤ笑っていた。住吉が憮然として野島を見た。
「就職組みも大してかわらんだろ」
「そうかぁ? 俺は内申関係ないぞ」
 なにい?
「関係あるでしょ。就活のときに響くんじゃないの?」
「学校の成績とかいるんじゃねえの?」
 舟木と七尾の問いかけに野島はニッと笑った。
「いらねえよ。だって俺家業継ぐし」
 ――あ?
 一瞬みんなの眼が点になったような気がした。
「家業…ってなにやってるの?」
「当ててみ?」
 切り替えされて舟木はむうと首を傾げた。
「泥棒さん」
 すぱっと言ったのは七尾だ。言ったとたん野島にスリッパで殴られそうになったのは見なかったことにしておく。つーかなぜに「さん」付け?
「ヒントは?」
 文庫本を片手に森本が口をはさんだ。ちゃっかり日陰に避難している。こいつの場合は西岡と違って日差しがまぶしすぎるからだろうけど。
 野島は少し考えるような素振りをした後、さらりと言った。
「建築関係」
 建築ねえ。あんまり想像できんような。
 と、一人無言でパンを頬張っていた青海が首を傾げながら口を開いた。
「大工さんとか?」
「あ、あたり」
 ええっ!? と叫んだのは向井除く女子の皆さん。つうかお前聞いといて驚くなや青海。しかもお前も「さん」付けだし。
「嘘、冗談だったのに」
「大工? お前が? にあわねー」
「うるせえ七尾削るぞ」
 とたんに七尾はおとなしくなった。
「てゆーか、それじゃあんた就職組みじゃないじゃん」
 西岡の突っ込みに思わず頷いた。確かに。厳密に言うと「就職」じゃないよな。
「ずっと暇そうにしてたから変だとは思ってたけど。まあ卒業後の進路がはっきり決まってるんならそれに越したことはないよね」
「お前にだけはそれ言われたくないぞ森本」
 一人涼しげに落とされた森本の言葉にすかさず住吉がからんだ。舟木もそれに同調する。
「うん、レオにだけは言われたくない」
「国立余裕じゃんお前。旧帝大狙えるじゃん。全国模試でフツーに上位に名前でてるじゃん。うらやましすぎだー!」
「そんな簡単じゃないけど」
「簡単だろうよ俺に比べたらよっぽどさー」
 七尾の言葉に森本はなにか言いたそうにしたが、そのまま溜息をついて読書に戻ってしまった。
 つーか進路かぁ。
 なんとなく青海を見た。
 オレンジジュースのパックを膨らませたりへこませたりしながら、ぼーっと空を見上げている。風にあおられた髪が金色に透けていた。
「女史ー」
「んー」
「お前進路決めた?」
 少しだけ間があった。
「うーん」
 曖昧な言葉。青海は空を眺めたままだ。
「渡会は?」
 逆に問われて少しだけ戸惑った。
「うんまあ、だいたいは」
 答えたとき。
「わーたらいー」
 声と同時にずっしりと肩に重みがかかった。
 ………でたよ。
「なーにどさくさにまぎれてリサーチしてんだ?」
「お前の頭にはそれしかねえのか」
「ないな。詩織、こいつ結構手ぇ早いぞ。やめとけ」
「おいコラ」
 笑ってんじゃねえよ青海も。手ぇ早いって、ここまでくるのに2年もかかってる俺が? ありえねえ。
「で? お前ら本当のところどこまでいってるんだ?」
「スミ君の考えてるようなことはないよ」
「あれ?」
 思わず声が漏れた。ついでに青海と眼があった。青海の眼が細められる。
「ねえ、渡会。別になにもないよね」
「え、あれ? …あ?」
 えー。なんですかー。なにもないんですかー。
「とか言われてるけど、実際はどうよ」
 イヤ俺に振られても。てかみんな見てるし!
「あー、まあ、なにもないんじゃないですか?」
 イヤ舌打ちとかされても困るし。
「煮え切らないやつらだな」
 ホントになぁ。
 なんかなぁ。
 ……溜息が出たよ。くそう。
 手の中のパンのビニールを無意味に丸めてみたりする。舟木と七尾のニヤニヤ笑いが無性に勘に触る。
 ふと見ると、住吉が青海の頭を叩いていた。なんであっちの方がカップルっぽく見えるんでしょうかね。
 あーあ。
 なんだかなぁ。
 溜息まじりに見上げた空は腹が立つほど青かった。




 で、そんなこんなで放課後だ。逃げずに来てやった俺はえらい。かなりえらい。んだが。
「一人足りない」
 教室に入ってきた大城の第一声がこれだった。
 ことりと首を傾げて。
「舟木はどうした」
「スーパーのタイムセールに間に合わなくなるからって帰りました」
 あっさり言われた青海の言葉に、大城の顔が引きつった。
「スーパー?」
 タイムセールに負けたか、大城よ。
 机に腰駆け足をぶらぶら揺らしながら七尾がぶちぶちぶーたれる。
「俺がこうして嫌々来てるのになんであいつだけ逃げるよ。スーパーって主婦かよ。納得いかねー」
「七尾」
 西岡の声が飛び、森本の声があとに続いた。
「で、用はなんですか?」
「そこにあるものがなーんか嫌な感じなんだけど」
 すっと出された青海の指の先にあるのはきれいに積み上げられた雑巾と洗剤の缶。
「サボった罰だ。ここの掃除を頼むぞ」
 にっこり笑顔で落とされた言葉に。
 ――俺たちが盛大にブーイングしたことは言うまでもない。


「大城のあほー」
「大城のちょんがー」
「大城のへたれー」
「こましー」
 青い空に向かってほえる阿呆が一人。
「七尾うるさい」
 青海が冷たく声を投げたが、奴は聞かない。窓からダラーんと両腕を投げ出したまま空を仰いでこれ見よがしに溜息をつきやがる。
「空は青いなぁ」
「とりあえず殴っていいか?」
 いや住吉その顔怖いから。
 握りしめた拳を向井に押さえられた住吉は、決まり悪げに手を下ろし、雑巾掛けに戻った。
「…『尻に敷かれる』で俺の勝ち」
 こそ、と後ろの野島に耳打ちすると、無言で蹴りが飛んできた。ちっ。
 縦横に傷が走っている机に書きなぐられた猫型ロボットをロックオンし、力を入れて雑巾でこする。消えねえ。
 …油性ペンか? ボールペンか? ありえねえだろクソッ。
「はー」
 七尾の溜息が聞こえてきた。なんかものすごく腹が立った。
 いいかげんにしろ、と怒鳴ろうとした時。
「コラそこの勘違い。うっとうしいんだよてめえ」
 真後ろから声が飛んだ。
 野島だ。
「――ああ?」
 七尾が振り向く。見事にゆがんだご面相。見目イイ面が売りなんじゃねえのかよ。
「んじゃなにか? 俺にそんなことしろって言うの? 馬鹿じゃんお前」
 イヤお前が馬鹿だろ。
 ああ!? と微妙に濁った発音で野島が怒鳴ったが七尾はとまらない。
「ふざけんなって。手ぇ臭くなるじゃん。汚れるじゃん。俺にゾーキンが似合うと思う?」
 はあ!? と怒鳴ったのは西岡だった。
「あたしでも我慢してやってるのにふざけないでよ!」
「我慢しなきゃいいだろ。こういうことはさー、大城のご機嫌とりたい奴がやればいいんだよ」
 …おいこら。
「…内申点が一番怖いのは七尾だろ?」
 ぼそっと、妙に低く響く声で言ったのは森本だ。
 七尾は一瞬固まって、それから鼻で笑いやがった。
「べえっつにー。俺は入れたらどこでもいいしー」
 うわなんかものずげえ腹立つ。
「雑巾掛けだって、プロがいるだろプロが。そいつに全部やらせりゃいいんだ」
 言いながら、七尾のボケは嫌な目つきで俺を見た。
 ……テメェ。
「渡会!」
 住吉の声が聞こえたが無視した。右手の雑巾を限界まで七尾のツラに近づける。
「じゃあそのプロがてめえのこぎたねえツラを拭いてやろうじゃねえか」
「待て待て待て待てくせえから! 真剣きたねえからそれ!」
「さっき洗剤つけたところだからきれいになるんじゃねえか?」
「悪かった俺が悪かった本当すまんごめんなさい!」
「お前の『ごめんなさい』は信用できない」
「んなことねえって! 本当にもう言いません真面目にやりまブッッ!」
 右手を広げると、湿った音を立てて雑巾は七尾の顔に落下した。声にならない絶叫が響く。
 さーあさっさと終わらせちまおうかー。
 猫型ロボットと再戦だ。
「こ、こら渡会! テメェしんじらんねえ! 普通やるか? マジでやるか?」
 猫型ロボットさようなら。そしてこんにちは体育教師。しかしうまいなこの似顔絵。
「うわなんか匂うしっ。最悪だお前」
 あ、涙声。そして水音。必死こいて顔洗ってるんだろうな。
「俺はダメで舟木はイイのかよ。あいつさっさと帰りやがっただろ。なんで誰も文句いわねえんだよ」
 そりゃいない奴に文句言ってもしかたねえし。
「ちょっと七尾!」
 西岡の声が飛んだ。
「あんた本当にいいかげんにしなさいよね」
「だからなんであいつは誰も責めねえんだよ!」
「…舟木さん、お母さんいないんだって」
 ぽつり、と、乾いた声が落ちた。
 七尾の動きが止まる。
 森本は机を拭く手はそのままに、淡々と続けた。
「家のこと全部彼女がやってるんだってさ。だからあまり遅い時間まで残れないって。さっきも謝り倒して帰っていったよ」
 森本の手が止まった。いつものようにクールに、まっすぐ七尾を見つめる。
「それでも彼女を非難する?」
 静かな声だった。
「――んなわけねえだろッ」
 言うなり、七尾は床にたたきつけた雑巾を拾い上げて机を乱暴に拭き始めた。
 …まぁ、根は素直なんだなあいつは。
 どうでもいいけど雑巾は洗おうな。余計汚れるぞ。
 猛然と机をこすっている奴を眺めてから、自分の受持ちのラクガキを消しにかかる。しかしほんとここの机ひでーな。
「ねえ森本」
 西岡の声がした。
「なんで透子のこと知ってたの?」
「あの子あんまり自分のこと言わないのに」
 青海も加わったらしい。
 少し間をおいて、森本の声がした。
「なんでって…舟木さんから聞いたから」
 ふーん。そういや森本わりと舟木と仲いいしな。
「……そういえば森本君、最近良く透子ちゃんの髪結ってるよね」
 ああそういやそうだ。森本が舟木専属になりつつあるおかげで青海と離れてくれて俺としてはラッキーで。
 …ってなんの話してんだ?
 振り返ってみると、森本は女三人に完全に包囲囲されてしまっていた。背には机、前には女三人。
「他の人が触らせてくれないから結果的にそうなってしまってるだけだけど。…さっきからなに?」
「別にぃ。あたしはいつでもいじらせてあげるけど」
「あ、西岡さんは別に」
 うわさりげなくかなり失礼。
「いつトーコから聞いたの?」
 森本は瞬きすると、視線を斜め上に移した。
「…去年の冬頃だったと思う」
「………ふーん」
 なんか微妙な感じの「ふーん」だな。
「…そういうことにしとこうか」
 青海のその一言が終りだったらしい。納得したのかは知らんけども、女三人は顔を見合わせたかとおもうとあっさり森本に背を向けた。
 なんだったんだ一体。
 みんながそれぞれ作業に戻ると一気に静かになった。今度は愚痴愚痴うっとうしい奴もいない。
 ようやく机がきれいになったので腰を伸ばした。その時。
「あ」
 どことなく間の抜けた声が教室に落ちた。
 森本が顔を上げて宙を見つめていた。どうやら今のはこいつだったらしい。
 森本はじっと宙を眺めたかと思うと、おもむろに振り返った。
「もしかして、なにか誤解してる?」
 とたん、女たちの目が輝いた――ように、見えた。
「誤解?」
 西岡が言う。
「どんな?」
 まっすぐな青の視線に、森本はうろたえたように見えた。見間違いか。いや違う。
 森本。お前もしかして困ってる?
「あの、たぶんそれ違うから」
「答えになってないよ。どんな誤解かって聞いてるの」
 すかさず青海が追求する。
「どんなって言われても」
 いつものあっさり淡白じゃない、狼狽がにじんだ声。
 珍しいなんてもんじゃないぞ!
「森本、ちゃんと答えてよ」
 西岡がなおも詰め寄る。
 森本が口を開いた。
「だから――」
「どうだ進んでるか?」
 …………でたよ。
 多分今森本以外の全員が同じ表情をしただろう。その証拠に大城が訝しげな表情になっている。
「進んだか? ――ああ、随分落ちたな」
「そりゃオレサマががんばったから」
 嘘つけこのナルシスト。
 大城の出現に西岡があからさまに顔をしかめていた。森本の表情がどことなく安堵しているように見えるのは気のせいだろうか。
「先生」
 その森本が唐突に言った。
「この洗剤、食器磨き用って書いてあるんですが」
 落書き落としようにと渡された洗剤の缶をさして森本。
 きっと今俺たちは同じことを考えただろう。
 …森本。逃げたな。
「ああ、大丈夫大丈夫。問題ない。落ちただろ?」
 相変わらず大城は無責任だ。
 と、いきなり横から水音が聞こえてきた。西岡だ。ものすごい勢いで雑巾を洗っている。
 盛大に水を飛び散らしながら洗い終え、乱暴に水を止めると、足音も荒く大城の元へと向かう。
 そして俺たちの目の前で大城の胸に雑巾をたたきつけた。
「あんたが来たから帰るわ、クソ教師」
 ………。
 まっすぐ背を伸ばして教室を出て行く西岡をただ見送るしかできなかった。気迫に押された。
 西岡の姿が視界から消える。七尾が大きく息を吐き出した。
「こわ」
 いやまったく。怖いねぇ。
 固く絞った雑巾を広げながら野島が大城を見やった。
「てゆーかあんた、あれだけ言わせといてもいいの? 教師としてさ」
「ああ、俺オトナだから」
 …いや、自分でそういうことを言うところは決してオトナじゃないっつーか。
 洗い終えた雑巾を黒板の前の机におく。
「腹たたねえの?」
 野島の問いかけに大城は首を撫でた。
「でもなぁ。あいつ見てたらちょっかいかけたくなるんだよな」
 待て。
「逃げられたら追いたくなるのが人間の本能だろ」
 ……引いた。
 本気で引いた。
 ヤバイって。あんたヤバイって!
「………鬼畜」
 呟いた野島は見返してきた大城から眼をそらして窓の外なんかを眺めていた。わざとらしすぎ。
「……先生」
 住吉だ。なんだか激しく肩を落としている。
「そういうことは、心で思っても口には出さないで下さい」
「いや、すまん。お前たちにはつい口が軽くなってしまって本音が」
「いいから絶対に声に出さないで下さい」
 住吉の声が怖い。低すぎて怖い。
 大城は住吉を見て軽く身体を引いたあと、「わかった」と頷いた。
 手を念入りに洗っていた青海が、困ったような表情で大城を見た。
「先生、そういう発言って教師として問題アリだと思う」
「聞かなかったことにしてくれ」
 おっさん。
 俺たちの表情からなにか感じたのだろう、大城は軽く苦笑してみせた。
「心配しなくても生徒に手を出したりはしないぞ」
「明言されると余計に不安になってくるんですけど」
 思わず、というようにはいった青海の突っ込みに、大城は鷹揚に笑った。
「大丈夫。これでも教師だからな」
 さわやかな笑顔を見ても全然安心できないのはなんでだろうな。
 やっぱりあれか。こいつが腐れ教師だからか。
 ……こんな男が教師で俺の担任だなんて本気でいやだ。
 なにがおかしいのかにこにこ笑う大城の前に雑巾を叩きつけて、
「終わった。帰る」
 とだけ言い捨てて背を向けた。ぞろぞろと他のやつらがついてくる気配がした。
「お疲れさん」
 ハイ疲れましたよ。二度とごめんだ。
 心の中で吐き捨てで、教室を出ようとしたときだった。
「次ぎサボったら今度は校長室の掃除だから」
 思わず足が止まったじゃねえか。
 タヌキの部屋だ?
「向こうから拒否されるに決まってる」
 俺らの顔を見るのもいやだって避けまくってるタヌキだぞ。掃除させる? ありえねえ。
 校長室に入れるどころか近づくことすら拒否するはずだ。
 言ったら、大城は否定もせずに笑っていた。
 はったりかよ。
 野島が軽く背中を叩いてきた。大丈夫俺は落ち着いているとも。住吉に比べたらはるかにな。
 今度こそ立ち去ろうとした。が。
「もうサボるなよ」
 背後から飛んできた深い美声を聞いて――湧き上がったのは殺意じゃない。ああ違うとも。
 とりあえず、拳を握り締めて。
 こみあげてきた罵詈雑言を胸のうちに吐き捨てるにとどめておいた俺はえらかったと思う。

 逆切れ? 逆恨み?

 うるせえや。


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