高校騒動記〜三年生編〜


 こりないやつら 2

//渡会直哉(わたらいなおや)//

 正直、笑わせてもらった。
 なににって、住吉のやつに。
 いい気味だ、とは言わないけれど、まあ人徳だとおもって諦めなさい。
 そう言うと、思い切り頭をはたかれそうになった。
「ふざけんな」
「いやいやいやいや、ふざけてませんよ」
「どこが。思い切り笑ってただろお前」
 いや笑ったのって俺だけじゃねーし。ていうかお前、これって思い切り八つ当たりだろ。
 ぶんぶん飛んでくる住吉のこぶしをすばやくよける。自慢じゃねーが、俺は反射神経も動体視力もそこらのやつよりよろしい。
 俺たちをのんきに笑って眺めていた青海が、やっぱり笑いながら口を開いた。
「諦めなよ、スミ君。あんた適任だよ」
「そうそう、せっかく会長が推薦してくれたんだしさあ、文句言ったら会長に呪われるよ!」
 ……おいおい舟木。
 HRが、つまりは本日の授業が終わったばかりの教室。周囲にはまだまだ人がいる。
 ――そして、あいつも。
「…頼まれても誰が呪うか」
 周囲を凍りつかせるような冷たい声に、思わず背筋がのびた。うわっちゃあ、と青海女史が顔を覆い、森本が本に顔を隠すようにしてため息をつくのが見えた。
 面白いぐらいに舟木の顔色が変わった。
 ぴくん、と背筋を伸ばして、硬直して。
 見つめる先には、メガネをかけた痩せた男。
「いいいい井名里クン、今帰り?」
 あーあ、舟木、声裏返ってるし。
 井名里は、あのメガネの奥の細い眼で舟木を一瞥すると、無言で背を向けて教室から出て行った。
 音を立ててドアが閉まり、それで教室内の硬直が解ける。ざわめきが再び戻ってきた教室の中、舟木の大げさなため息が響いた。
「うは――ッ、こわかったぁ」
「トーコあんた口軽すぎ」
 うん、女史、その通り。舟木をのぞいた全員が頷く。
「透子ちゃんは、もうちょーっと言動に気を使った方がいいかも…」
 控えめながらも結構ツボを抑えてるのは向井だ。
「ひどいよ詠理ッ! それじゃまるであたしが考えなしにべらべらしゃべりまくるおばさんみたいに聞こえるじゃん!」
「あれ、違うの?」
 ……時々向井は俺でもギョッとするような発言をかますことがある。それが故意なのか無意識なのかは俺にはわからんけども。
 まあ、無意識だろーと故意だろーと、どっちにしてもオソロシイことには変わらんのか。
 舟木と向井の掛け合いに、女史と西岡が爆笑している。相変わらず、女史は豪快に笑う。まあ、そんなところがあいつのいいところなんだけども。
 机に腰掛けて、トランプの入ったケースを机に打ち付けながら、野島が言った。
「お前らもう帰るん?」
 なんとなく顔を見合わせる。現在時刻は午前11時半。
「俺このあと部活あるし、残るけど」
 剣道部の初練習。現部長といたしましては、サボるはずがありません。
「あたし別に残ってもいいけど」
 さらっと言ったのは青海女史だ。そうか、女史も残るんか。
 はーい、とのんきに手を挙げて、西岡。
「あたし、これから帰ると半端な時間になっちゃうし、こっちでお昼食べちゃおうと思って実はオベントとかもってきてます」
 西岡は、メンバーの中では一番家が遠い。電車で……一時間半? プラス自転車で二十分とかなんとか。
「俺もこっちでメシ食ってく気まんまん」
 とは七尾だ。
 住吉と向井は、顔を見合わせて「どっちでも別に」という意思表示をする。
 困惑顔で口を開いた森本を、野島が遮った。
「森本は残るよなさっきのリベンジするよなもちろん」
「――――――わかった」
 しっかりと頷く森本。こいつは、実は結構プライドが高かったりする。
 んでは、と、野島がトランプを高々と掲げて宣言した。
「朝のあれはほんの前哨戦。こっからが本番、パシリの座を賭けた一大ゲームもちろん女だからって手加減しません!」
 野島の手が高速でカードを組む。そして見事な手つきでカードを配り始める。
「ちょっ、あたしやるなんて」
 声をあげた女史を見ることなく、カードを配りながらきっぱりと。
「離脱者はその時点でパシリ決定!」
「………本気?」
 青海ががっくりとうなだれる。力ない呟きには、しっかりとした肯定の返事。
 カードを配り終えた野島が、一堂を見渡してパン! と自分の膝を叩いた。
「さあさあ好きな手札を取りなさい早い者勝ちですよーていうか別にどれとってもたいして変わらんからさっさと取れやこんちくしょう」
 うわあノッチーキャラ濃ーい、ととぼけた声で舟木が呟く。
 まったく同感だぜ、舟木。ていうか要所要所でキャラ変えんなやこのお調子者。
 仕方なく、手近な手札を取る。
 いったいなにをする気だろうかこのお祭り男は。
 自分に集中する不審の視線なんか気づいていないのか、野島は残った手札を自分の前に引き寄せると、またもや膝を叩いた。
 そして言った。
「んでは! 元反生徒会同盟・パシリ争い決定戦! 大ババ抜き大会ぃースタート!!」

 ……ババ抜きかい。

 野島の高らかな叫びに一瞬遅れて、俺たち全員の突っ込みが見事にはもった。



 たかがババ抜きと侮ってはいけない。ババ抜きは、人数が多ければ多いほど燃える。ていうか、むしろだるくなる。
 なにしろ手札は少ないくせにカードの回りが異常に遅いのでなかなか上がらん。と思えば、運さえよければあっさり上がってしまうやつもいる。そう、そこの向井とか。
 開始三分であっさりラスト一枚になった向井は、申し訳なさそうに微笑みながら、七尾にその最後の一枚を引かせた。
「……くぅ。」
 がっくりとうなだれる七尾。
 「お前が1位になったら同盟に入ってやろうじゃねえか」約束はまだ有効だったのか、燃える七尾の野望は向井によってあっさりと砕かれた。
 七尾の手札から一枚抜いて、女史が首をかしげる。
「わかんないなーあんたら。あの先生のなにがそんなに気に食わんのさ」
 合うカードがあったらしく、自分の手札から二枚抜いて場に捨てる。
「なにってそんなの決まってるじゃない」
「ああ決まってる」
 鼻息も荒く、二人はなぜか怒ったような表情で言い切った。

「「あの顔がイヤ」」

 ピ―――――ヒョロロロ……。
 鳶が空高く輪を描いている。
 机に突っ伏したまま住吉がうめいた。
「……お前ら、そんな安直な…」
 青海は顔を覆ってうつむき、向井はため息をついている。野島と舟木は呆れた顔を隠しもしない。ため息まじりに森本が言った。
「…そんなわけのわからない理由で嫌われるとは、先生もまさか夢にも思ってないだろうね」
「うわっ、夢になんか見られたらあたし吐くわよ」
 そこまで言いますか、西岡。
「勝手に吐けば? …終わり」
 ばら、と森本が残った二枚の手札を捨てて、両手を開いて見せた。
 あれま、珍しい。
 焦った声を上げたのは舟木と青海だ。
「えーッ、レオまで上がっちゃったの!? やだよあたしパシリなんか!」
「誰だってイヤだろパシリは――あ。」
 七尾から手札をひいた女史の手が一瞬とまった。固まる女史の表情とは対照的に、七尾がものすごい笑顔になる。
 ―――うーわー、わかりやす。
 がっくりうなだれる女史。その手札をおっかなびっくり引いた住吉が、次の瞬間ほっと息をつく。
「…ババ抜きってもっと腹の探りあいするゲームだと思ってたけどな。俺」
「探りあい以前の問題だぁな」
 俺のぼやきにあっさり同意して、野島が最後の一枚を突き出してきた。……お前もか。
 カードを引くと、野島がニヤリと嬉しそうに笑う。空になった両手で膝を押して、ニヤニヤと笑いながら言った。
「ま、一人に全部押し付けるのはやっぱあれだから、パシリは最後に残った二人ってことで」
 ――二人。
 残った人間が顔を見合わせる。
 残ってるのは、俺、青海、西岡、舟木、七尾。住吉はいつのまにか上がっていやがった。
 む、と舟木が気合を入れた。
「絶対! 勝つからね」
「あたしだって!」
 気合を入れまくる西岡と舟木を眺めながら、青海も眉間に皺を寄せて「パシリはイヤだなぁ」とか呟いている。そして、七尾。
「……負けた二人は、強制的に同盟入り! 決定!」
「あほか」
 握りこぶしでしょうこりもなくそんなことを叫んだ奴の頭を思い切りはたいてやった。ほぼ同時に腰に野島の蹴りが入り、住吉が森本の本を奪って七尾の後頭部をはたく。
「……住吉」
「や、すまん。ちょーどいいところにあったから、つい、な」
 飄々と言いながら、本を持った姿勢のまま固まっている森本に本を返す。息をひとつついて、何事もなかったかのように本を読み始める森本。……なんなんだ、お前ら。
 そして五分後。
 まず俺が上がり、そして舟木がなんとか上がり、そして西岡と青海と七尾の熾烈な争いの結果――。
「結局パシリはしおりんとセブンに決定!」
 きゃっほー、とか言いながらはしゃぐ舟木の前では、女史と七尾が机に突っ伏して死んでいた。
 しかし、あんだけ見事にジョーカーの押し付け合いするかね、普通。
「女史お前って弱いのなー」
「ほっとけよ、普段トランプする習慣ないんだよあたしは!」
「おやじさんポーカーオンリーだしな」
 ニヤニヤと笑いながら住吉が同意する。机に突っ伏したまま、七尾がくぐもった声で言った。
「そんな青海には同盟入りの栄誉をプレゼント」
「だから、いらんて」
 しつこいな、と青海にまでも頭を叩かれて七尾は完全に沈黙する。
 弁当を広げながら、西岡が言った。
「ねえ、マジで誰か同盟に入ってよ! 二人じゃなんにも出来ないし」
「なんにもって、なにする気なのさのぞみん」
「それはこれから考える」
 おいおい、穏やかじゃねえな。
 ようやく浮上した七尾が、叩かれた頭を抑えながら住吉を見やった。
「まあ、住吉は勘弁してやるよ。なんたってクラス委員サマだから」
 ぴく、と、住吉の太い眉が跳ね上がった。
 ぐ、と、大きな手が膝を押す。
 見ると、その顔に浮かんでいるのは―――直視できないような、凶悪な笑顔。
「……スミ君あんたその顔やめなよ本気で怖いって」
「――ああ、お前らのせいで俺は委員なんてくそめんどくさいものになっちまった」
 じろり、と、口元とは対照的に全然まったく笑ってない眼が俺たちを見渡して。
 そして、言った。

「きっちり責任とってもらうからな」

「イヤお前オトメのような科白をはくなよそんなツラで!」
 思わず突っ込んだとたん、奴の眼が俺に向けられる。
 思わず身構えた。
「…そういえば渡会、お前、なんか余計なこと言ってくれたよなぁ」
「いやいや待て待て! 俺だけじゃねえだろ!」
 住吉は聞かない。ずい、と、ごつい身体を乗り出してきて。
「とりあえず、お前、美化委員決定な」
 だから、またんかいッ!
「冗談じゃねえってマジで! なんで俺!? しかもなんで美化!?」
「掃除なら道場掃除で慣れてるだろ」
「慣れてるとかそういう問題じゃねえだろオイていうか掃除かよ俺の仕事!」
「じゃ、美化委員渡会で」
「聞けよ人の話を!!」
 奴は聞いちゃいねえ。
 さくさく後ろの黒板まで行って、チョークを片手に「美化委員・渡会」とか書こうとしてるし!
「だから、待てって! ホントに冗談じゃねえよ美化なんて! 体育ならまだしも!」
 怒鳴ってから、はっとした。
 さんずい偏を書きかけた住吉の手がぴたりと止まる。そしてゆっくりと振り返った奴の眼は――。
 しっかり、三日月形になっていやがった。
「そうか、わかった、渡会は体育委員だな」
 カツカツと、チョークの音が響く。

 ――――やられた……。

 もういい。
 去年もやった仕事だし。
 どうせ三年の体育は選択だし。
 たいした仕事なんてねえさ。
 ……くそう。
「まあそう落ち込むなよ。セットで詩織もつけるから」
「…は!?」
 他人事みたいにニヤニヤ笑ってこっちを見ていた青海の頬杖がすっぽ抜けた。がくん、と姿勢を崩して眼を丸くして振り向く。
「ちょっと待てスミ君今なんて」
「詩織お前女子の体育委員決定な」
「なんで!?」
 よし決定ー、とか言いながら、住吉は俺の名前の横に青海の名前を書く。でかくて角張った、豪快な字だ。
「あたしやるなんて言ってな――」
「真っ先にじゃんけんとか言い出して担任にケチつけたのは誰だ? 誰だろうなぁ言ってみろ」
「あ……ッ…ッ」
 女史、口をパクパクさせるが、どうやら言葉が出ない様子。住吉を指差したまま固まってる。
「言い訳なんて出来ねえよな、お前の声を聞き間違えるわけなんてないからなー十年以上聞かされ続けてきたんだから」
 …住吉、お前、演劇部に出入りするようになって性格変わったんじゃねえか?
 しばらく硬直していた青海は、諦めろ、というふうに野島に肩を叩かれてがくりとうなだれる。
 住吉、と、森本が本から顔を上げて声を投げた。
「そんなに困ってるんだったら、俺、やってもいいけど。図書委員限定で」
「その言葉を待ってたんだ実は」
 これ以上はないってほど嬉しそうに住吉が森本の名前を書く。…まあ、森本が体育委員なんて絶対にありえないし。図書委員ははまり役だと思うけど。だって奴、図書室の主になりつつあるし。
 さて、と住吉が振り返った。
 そして、眼を見開いたまま固まった。
「……舟木と、西岡は?」
 言われて、気がついた。
 俺よりもよっぽど先生にケンカ売ってさらに決定打を作った奴の姿が、ない。
「……逃げたな」
 悔しそうに女史が呟いた。
 ビミョーな沈黙が降りる。普段はとろとろしてるくせに、どうしてこういうときだけ行動が早いんだか、あの二人は。舟木に連れ去られたのか、向井の姿まで、ない。
「…まあ、今日はこの辺でいいか」
 チョークを置いて、手を払って住吉がこっちに戻ってくる。
 そのときだった。

 ドアが、開く音。そして。

「―――詩織さん」

 そんな控えめな声が聞こえた。



 聞こえた言葉が信じられなくて、思わず振り向く。ドアのところに立っているのは、パリっとした制服を着た小柄な男。
 茶色い髪の下はまだ子供っぽさが抜けないのか童顔なのか。涼しい目元にまつげが影を落としている。
 …なんとなく、どこかで見たことがある、顔。
 いや、そんなことより。
 ――今、誰の名を呼んだ?
 目の端で金色が動いた。
 ひょい、と上体を倒して戸口を見た青海が破顔する。
「あれえ? ユーリ君じゃん」
 なに?
 笑いながら、青海が立ち上がる。親しげな――俺でも、あまり見ることがない、懐っこい表情。
「どうかした?」
 親しげな口調。
 歩き出した青海の後に住吉が続く。住吉に軽く頭を下げて、そいつは言った。
「あの、俺、いろいろ部活見て回ってから帰ろうと思ってて。……姉は?」
 姉?
 聞こえてきた単語に思わず残った四人は顔を見合わせた。あの森本も、さすがに興味を引かれたのか本から顔を上げて青海たちの背中を見ている。
「あー。さっきまでいたんだけどね」
「いきなり消えやがった」
 二人の会話。
 ……さっきまで、いた?
 二人の間からユーリクンとやらが首をかしげるのが見えた。
「消えた…って、アイツがですか? 住吉さん置いて?」
 住吉?
 はてなマークが頭上を飛び交う。そんな時。
「勇理? なにしてるの、こんなところで」
 聞き覚えのある声が割り込んできた。
 視線を向けると、女史たちがいるのとは反対側のドアから、逃亡組みが顔をのぞかせている。
 西岡の眼が真ん丸に見開かれ、そして同じように眼を見開いて突っ立っていた舟木が、いきなりはじけるように飛び出した。ユーリクンとやらの片手をいきなり掴んで。
「…あっ! もしかして、ウワサの詠理の弟君!?」
 ……なに?
 向井の、弟?
 西岡が口を開いたまま絶句しているのが見えた。
 思わず身を乗り出して弟とやらを見る。
「えーと。もしかして、トウコさん?」
「もしかしなくてもそうだよーッ。うわあ、詠理あたしの話するんだ」
「あ、まあ、いろいろ聞いてるけど。……それより、ウワサってなんですか?」
 向井の弟の声は少し高めだ。まだ、喉が落ち着いてねえって感じ。成長期って感じがする。もちろん見た目も。
「んー、どんなウワサかは、あたしの口からじゃ言えないなー」
「透子ちゃん!」
 もったいぶる舟木を向井がいさめる。そして、弟とやらに向き直った向井は、普段とはちょっと違った表情をしていた。
「それで、どうかしたの?」
 オネエサン、な表情。
 ふーん。向井ってあんな表情もするんだ。いつものほえほえとした感じじゃなくて、もう少しなんつーか、しっかりした? そんな感じ。
「あ、俺、クラブいろいろ見て回ってから帰るし。昼飯いらないって、言っといて」
「うん、わかった。遅くならないようにね」
 うん、と頷いて、いったん帰ろうとしたユーリクン。ふと上半身だけ戻して、言った。
「…詩織さん。またうちに遊びに来てくださいよ。住吉さんも。母さん二人のファンだから」
「ファンてなにさ。うん、また、お邪魔するよ」
「そのうちな」
 ユーリクンは、その返事を聞いてにっこり笑うと、ひょい、と首を引っ込めた。遠ざかる足音。
 舟木が「うは――ッ」と大声を出した。
「はじめてみたよウワサのユーリ君! そっくり! カワイイ!」
「ホントに詠理にそっくりね。いいなあ、かわいい弟」
 舟木と西岡が口々に言う。そんな二人に、向井がいつものおっとりとした表情を向けた。
「全然、かわいくなんかないよ。生意気でね、あたし、いつも馬鹿にされてる」
「なに言ってんのよあれだけかわいけりゃそれで充分! うちの弟なんかさぁ、あたしに似ずにかわいくないったら。もう生意気だし口うるさいし口汚いし」
 ぶつぶつとぼやきモードに入る西岡。そういや、ずいぶん前に弟がいるって聞いたことあったような気がする。
「ねえ、交換しない? うちのと、あの子」
 ………真顔で言うなや、西岡さんよ。
「なに言ってんの西岡。それより、ウワサってなに? エーリそんなにユーリ君の話してるんだ」
 西岡を苦笑しながら諌めて、青海が訊く。それには、舟木と向井、二人とも曖昧に笑ってごまかした。
「んー、ちょっとね」
 ふうん? と女史が首をかしげる。金髪がさらさらと肩を流れた。
 ふ、と時計を見る。
 おう、いつのまにか12時半回ってるじゃねえか。
 ユーリ君とやらについてなごやかーに会話している奴らは置いといて、パンの袋を開けてパンを頬張る。同じく弁当組みの西岡がそれに気づいて椅子を寄せてきた。
「部活?」
「おう」
「新入部員入るといいわね」
「ほんほ(ホント)にな」
 パンを飲み込みながら答える。ペットのお茶で流し込み、パンの袋を手の中で丸めると、勢いよく立ち上がる。
「ほんじゃ、俺、部活行ってくるわ」
 カバンと防具入れと竹刀を引っ掛ける。
 頑張れ、とか言う声にひらりと片手を振って、教室を出ようとした。
「渡会君」
 ……珍しいことに、向井が声をかけてきた。
「あん?」
 振り返ると、そこに待っていたのはほえほえとした微笑。
 にっこりと笑いながら、向井は言った。
「頑張ってね」
 ………?
「あ、おう」
 教室を出て、廊下を歩きながら首を傾げる。
 珍しいこともあるもんだ、とか思っていた俺が、向井の言葉の本当の意味を知るのは、もう少しあとのことだったり…。





 静まり返った職員室のドアを開けると、そこにはほとんど人がいなかった。みんな帰ったか出払っているんだろう。
 軽く見渡し、目当ての人物を見つける。
「小田やん」
 小柄な、白髪のじいさん先生が振り向いた。うちの顧問。
「はいはい、今行きます」
 のんびりと言いながら、鍵を持ってこっちに来る。
 鍵を渡されて、軽く礼を言ったら、いきなり言われた。
「なるべく早く着替えて道場においで。紹介したい人がいるから」
 ……?
「新しい師範とか?」
 小田やんが意味ありげに笑った。
「道場に行けばわかるよ。私もすぐに行くから、先に行ってなさい」

 なんだ?



 わっかんねーな。とか思いながら、さっさと剣道着に着替えて道場に向かう。
 まだ誰もいないらしく、しまったままの引き戸を開けると、そこには先客がいた。
 神棚の前に正座している、背の高い、男。真っ直ぐに伸びた背筋は微動だにしない。
 こちらに背を向けているから顔はわからないけど……部員じゃあ、ねえよな?
 新入部員ってわけでもなさそうだ。
 剣道着の色は、ここらではあまり見かけない黒。上下黒だ。
「……誰だ?」
 なんとなく動けず、突っ立ったままでいたらいきなり声をかけられた。
 こちらを振り返ることなく。ぴくりとも動かずに、声だけを投げてくる。
 いや、誰とか言われても、お前こそ誰? なんだけど。
 そう反論しようと開けた口が――次の瞬間、固まった。
 ゆっくりとこちらを振り返ったそいつの顔に浮かんだのは驚いたような表情。ついで、愉しげな、笑み。
「なんだ、渡会か。お前剣道部だったのか」
「…大城ッ!?」
 なんで!?
 思わず指差して叫んだら、すばやく移動した大城に頭をはたかれた。
「担任を呼び捨てにする奴があるか」
 痛ぇとか、そんなことよりも。
「なんであんたがここにいるんだよ」
 それにその格好。
 どこからどう見ても、これから剣道やるとしか思えない、格好。
 大城はニヤニヤ笑っている。
 うわ…ッ。
 やべえ。
 まじやべえ。
 どうしても、ある想像が頭からはなれねえ。
 想像っていうか、もうすでに予想に限りなく近いんだけど。
 硬直していると、背中からのんびりと声がかけられた。
「おや、大城先生、もういらしてたんですか」
「お、小田やん…ッ」
 どういうことだよ、これ。
 そう口にするより早く、大城のやろうが口を開いていた。
「いやあ、久しぶりに剣道が出来ると思うと、つい」
 待て。
「若い先生がきてくれて助かりました。最近腰の調子が悪くてねぇ。若者の相手をするのがつらくなってきたんですよ」
 待て待て。
「そんな、まだ充分お若いじゃないですか。こちらこそ、ご指導のほどよろしくお願いします」
「いえ、私の方こそ。部員は少ないですけれど、遠慮なくしごいてやってください」
 ――待て!!
 ちょっと待て。いいから待て。
 なんだこの会話は。理解することを脳が拒否してる。
 口をはさむことすらできず、突っ立っている俺の背中を、小田やんが叩いた。
「紹介します。この子は部長の、渡会」
「彼なら知ってます。うちのクラスの生徒で」
「おや、そうなんですか? それはそれは」
 それはそれは――なんだってんだよ、小田やん。
 目の前には、笑顔の大城。俺よりも五センチは高い長身に、黒の剣道着がよく映える。
 小田やんが俺の背中を軽く押して、今度は大城を手で示した。
 ………いや、聞きたくない。その先は聞きたくない。
「渡会、今年から、大城先生が稽古をつけてくれます。お前が待っていたちゃんとした先生ですよー。よかったなー」

 ……あ、めまい。

 思わず気が遠くなりかけた俺の目の前で、大城が、にっこり――ではなく、ニヤリと、笑って。
 そして、言った。

「お手柔らかに」


 ………マジで?


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