こりないやつら 4
//住吉数実//
めにあおば、やまホトトギス……なんだっけ。
日に日に新緑が深くなる。
だんだんと日も長くなってきて、南風が自己主張をし始める。
四月も後半に入ると、浮ついていた校内もだんだん落ち着いてきたようだ。
そして俺たちは――受験戦争へと足を踏み入れる。
四月に入ってからもう何回来たかもわからない。二日に一回は来ているような気がする。ひどいときなんか一日に2・3回は足を踏み入れているここは、不良も黙る職員室。…いや、奴らは黙らんか。むしろ教師とだべってるな。
一時期、いまだにこの地域には根強く生息しているいわゆる不良連中よりも問題視されていたこの俺が、クラス委員になろうとは。
そして教師と和やかに会話することになろうとは。
……半年前には、夢にも思わなかっただろう。
「…で、土曜に進路のガイダンスがあるから、全員に忘れずに出てこいと伝えてくれ。あとこれ受験資料。リクルートからの奴。それとこの前配った進路調査票。月曜提出厳守だから、念を押しといてくれ。あと修学旅行委員に、放課後の召集のこと忘れないように念押し頼む」
なにやら書き物をしながら声だけで指示してきたのはうちの担任だ。女子への人気は絶大で、一ヶ月足らずの間になにやらファンクラブまで結成されたとか、そんなことを舟木が言っていた。あいつの話は当てになるようなならんようなビミョーなところがあるから、割り引いて聞いておいたけれど。
だけど、冗談でなく、本当に大城の人気はものすごい。剣道部の副顧問だと渡会に聞いた次の日にはもう全校中にそのことが広まってたし、クラスの女子が剣道着姿の大城の写真を持っているのを実際に目撃したことも一度ではない。
……正直、勘弁してくれ、と思う。
立場上俺はこの人と他の奴らよりも多く接しているが、「住吉君、大城先生と一緒にいられていいなぁ〜」なんて言ってくる女子たちに喜んでこの職を差し上げたいぐらいだ。……ちなみに、なぜか大城は女子の委員の矢沢ではなく一々俺を指名する。なぜかは知らないし、知りたくもないが。
内心の苦々しさを押し隠して、机の横においてあるダンボールに手をかける。中は、たぶん大学案内とかの分厚い冊子だろう。……こんなことなら渡会でも捕まえてくればよかった。
腰を入れて持ち上げようとしたとき、唐突に上から声が降ってきた。
「ああ、そうだ住吉」
「……なんですか?」
力が抜けてしまった。しゃがみこんだまま上を見上げると、大城の涼しい目がこっちを見下ろしていた。
……確かに、女子が騒ぐのも頷ける。
なんてことを考えていると。
「これはクラス委員兼問題児軍団元締めの君にぜひ言っておきたいことなんだけど」
「誰が元締めですか誰が」
いきなりなにを言い腐るかこの教師は。
思わず睨みつけたが、しかしそんなものはこの男には通用しない。
「いいかげん教室の雰囲気をなんとかしてくれないか?」
……きた。
大城の口元には薄い笑み。だが、見下ろしてくる目には笑いの欠片も無く、視線は俺から揺るがない。
「気づかないとでも思っていたのか? だったら俺も甘く見られたものだな」
「……問題は起こしてませんよ」
そう。一応、表面上はなにもないフリをしている。あの西岡でさえ、井名里に対しては一応なにも言っていないし言われてもいない。……一応は。
「表面上はな。だけどおまえら、俺の見てないところで井名里と結構やりあってるだろ」
……まさか、見てたのか?
今朝のげた箱前での詩織とのバトルだろうか。それとも購買前でのあの七尾とのバトルだろうか。いや、西岡かもしれない。大穴なところで野島とか。
――心当たりが多すぎる。
顔に出ていたのだろうか。
いきなり注がれる視線が弱くなったと思ったら、ため息まじりの声が降ってきた。
「…教室の雰囲気で丸わかりなんだよ。これでも担任だからな」
「………はあ」
なんだ。目撃されていたわけではないらしい。
とか思ったのもつかの間。
「目撃証言もたくさんあるしな」
――そうか。チクるって手があったのか。
うかつだった、と舌打ちすると、なぜかため息をつかれた。
「おまえもやっぱり奴らの仲間なんだな。今まで中立だと思っていたけど、俺の勘違いだったようだ」
「一応立場上中立を保とうとは努力しますが。でも井名里とあいつらで対立したら最終的にはあいつらにつくし」
それに。
「先生とあいつらで対立したら、そのときは」
「中立なんて半端なこと言わずに真っ先にあいつら側に立ちますから」
大城の目を真っ直ぐに見て言い切ると、一息にダンボールを持ち上げる。ずし、と腕に負荷がかかったが、なんでもない顔をして腰を伸ばした。
「じゃ、失礼します」
おざなりに頭を下げて、背を向ける。
そしてそのまま職員室を出た。
大城はなにも言ってこなかった。
“教室の雰囲気をなんとかしてくれ。”
そう言ってきたのはなにも大城だけじゃない。
まず、女子の委員の矢沢に言われた。
次に、クラスメイトたちに口をそろえて言われた。
でも、そんなこと、俺に言われても困る。
確かに中立であろうとはしているが、でも、まだ俺の中には井名里に対する不満が残っていて。それがすべて消化されるには、もう少し時間が必要だ。
それに。
詩織にしても西岡にしても、あるいは井名里にしても。ああやって衝突するにはそれなりの理由があるわけで、お互いにぶつかることでストレスなりなんなりを発散させているところもあるのだから、それをむやみに禁止するのもどうかと思う。
だいたい、「やめろ」と言ってやめられるものでもないだろうし。
だけど。
――なんとなく、お互い、引くに引けなくなっているのかもしれないと、ふとそう思うときもある。
委員になって、初めて自分たちを客観的に見るすべを覚えて。そして自分の気持ちとか、そういうものを省みて――そう、思った。
誰かが、引き際を示してやらないと、止められないのかもしれない。
そして――。
勝手な推測でしかないが、もしかして、大城はその役目を俺にやらせようとしているんじゃないだろうか。
「……それもある意味、迷惑な話だな…」
思わずぼやいたところで階段を上りきった。そして長い廊下を突っ切って、その奥の、自分の教室にたどり着く。
ダンボールを膝で支えてドアに手をかけようとして――教室の中の雰囲気に、気づいた。
静まり返った教室。
なんとなく冷気すら感じられるような、そんな不穏さ。
……またか。
ため息を落として、腹に力を入れてドアを開けた。
予想通り、昼休みの教室の中では二極分化が起こっていた。いや、正確には三極か。
井名里。詩織たち一同。そしてそれ以外の一般人の皆様で、きっぱりと、笑えてしまうほどはっきり線が引かれている。
そして火花が散るのは井名里と――今日は、舟木か? の間だ。
クラスメイトが俺を見る。救いを求める目で。
………ハイハイわかった。わかったから。
ダンボールを黒板の脇において、依然として睨みあったままでいる詩織たちに歩み寄る。そして、金色の頭を軽く叩いた。
「あいたっ」
小さく叫んで、青い眼が俺を見る。
そして気まずそうな表情になった。
「今度はなんだ?」
「なんだ……って言うか、ねぇ」
ねぇ、の先は、渡会。渡会は軽く首を傾げて肩をすくめて見せた。
「なぁ」
…このパターンはもういい。
そう言うと、渡会はがりがりと頭をかいた。そして突っ立ったまま井名里を睨みつけている舟木を見やる。普段の舟木からは想像もつかないような、険のある表情だ。
「あー…いつものように無駄話をしていたらだな。どうやら井名里の癇に障ったみたいで」
「確かにね、あたしたちの声も大概大きかったと思うよ。でも、あれはないだろー」
あれ、ってなんだ。
机に腰掛けて、大胆に足を組んだ西岡が、井名里を睨みつけたまま声だけ投げてきた。
「あいつ透子に“バカ声”って言ったのよ」
………それは、さすがに。
俺には、フォローできないな。
同情の視線を舟木に向ける。
確かに舟木の声は大きいが、「バカ声」とか言われる類のものではないと思う。それなら他の女子の声のほうがよっぽど不快だ。……俺にとっては、だけど。
最近、自分に害が及ばない限り傍観者に回ることが多くなってきた七尾や野島も、今回のことにはさすがにむかついたのか、険しい顔で井名里を見ている。渡会はともかく、詩織も当然舟木派だろう。
――さて。
ジーッと見つめてくるクラスの皆さん。俺に期待されても困るんですが。
一体俺にどうしろって言うんだ。
舟木たちは舟木たちで俺に妙な期待をかけているし、クラスメイトは言わずもがな。大城に至っては過大評価としか思えない。
もう、勝手にやってくれ。
思わずそんなことを考えてしまったとき――。
救いの主が、現れた。
救世主は、ドアを開けて教室の様子を見るなり、メガネの奥の瞳を細めてため息をついた。
うん。気持ちはわかるぞ。
森本はいつもの無愛想な顔のまま歩み寄ると、手にしていた文庫本でおもむろに舟木の頭を叩く。
すこん、と、間の抜けた音が教室に響いた。
「な……痛いよレオッ! いきなりなに?」
しかし、舟木の滅多にない怒りようにも、怒れる井名里の能面顔にも動じないのが森本って男だ。
メガネの奥の涼しい目で相対する両者を見据えて。そして、力のある声音で言った。
「一般人に迷惑をかけるなって俺前に言ったよね? 井名里にも。なんだか皆さんずいぶん怯えているようだけど、俺の気のせい?」
気のせいなんかじゃない。軽く首を振った俺をちらりと見て、森本はまるで正義の女神のようにきっぱりと言い落とした。
「人に迷惑をかけるな。これ社会の常識」
森本の言葉には説得力がある。そして、こういうときの森本は――ヒジョーに怖かったりする。
さすがの舟木も、そして井名里も、森本の言葉にふいと視線を外した。クラスの中に安堵の空気が満ちた。
「ケンカがしたかったら、人のいないところでするんだね。体育館の裏だったら誰もこないよ。進路資料室も今の時期ならまだ人は少ないし。なんだったら屋上の鍵を壊してまた侵入してもいい」
「……去年立ち入り禁止だったはずの屋上になんでおまえらが入り浸っていたのか謎だったんだが……壊したんだな」
井名里が眉間に皺を寄せて突っ込んだ。
言わせてもらえば、それは違う。
あの鍵はいつのまにか開いてたんだ。だから、そんなに非難がましい目で見られる筋合いはないはずだ。
……まぁ、今思えば、たぶんそれはうちの鍵師の仕業だったんだろうが。野島め、油断も隙もない。今度女子更衣室の鍵が壊れたりする事件があったら、真っ先に疑われるのは間違いなくあいつだ。
それはともかく。
先に森本の眼光に負けたのは、舟木だった。
ふいと顔をそらし、自分の席に戻っていく。
舟木を見送ってから、森本はまだ立ったままでいる井名里に視線を向けた。
向き合う、メガネ。
「うわ、メガネ対決」
ぼそっと呟いたのは七尾だ。ぎろり、と、森本に睨まれて慌てて口を抑えている。……大失言。後が怖いぞ。
森本が、軽く息をついた。落とされた言葉は先程よりもずいぶん柔らかくなっていて。
「……井名里も。もう少し、素直になれよ」
とたん、井名里の眉が跳ね上がった。
怒りのためか、頬が一瞬で赤くなる。
そしてそのまま豪速で顔をそむけ、荒々しく自分の席へと戻っていってしまった。
思わず見送ってしまった俺の耳に、またもや七尾の発言が飛び込んでくる。
「メガネ対決第一戦は森本の勝ちかぁ…」
命知らずな奴だ。
「…七尾」
思った通り。いきなり落とされた低い低い声に七尾の背筋がビシッと延びる。
「ハイッ!?」
授業中でもこうはいかないほどしゃきっと答えたのは、きっと条件反射だろう。引きつった秀麗な顔から想像するに、きっと奴の脳裏には去年の忌まわしい記憶が走馬灯のように駆け巡っているはずだ。
トン、と、文庫本の角が七尾のつむじの上に置かれた。
「今度の学内模試、楽しみにしているよ」
面白いほど顔色を変えた七尾を一瞥して、森本は涼しい顔で教室の反対側へと戻っていく。
七尾がへろへろと机の上に身を投げ出した。そして、情けない声で、言った。
「だめだ。俺、明日下痢だ」
「いきなりなにさ」
唐突な言葉に詩織が眼を丸くする。だらしない格好のまま、腑抜けた声で七尾が答えた。
「つむじ押された」
「ああ…ナルホド。……“青葉の王子サマ”が下痢なんて言うなよ」
苦笑して突っ込む詩織。おまえもそういう単語を平気な顔で口に出すな。
が、そんな二人の会話にさらに口をはさんでややこしくする男がここにいる。
「え? つむじ押されたら便秘だろ?」
野島だ。
向井と西岡がそそくさと席を離れて他人のフリをするのが見えた。
渡会が呆れた顔で息を吐き出した。
奴らはつまるつまらないで論争している。
渡会を見た。
渡会は首を振って、肩をすくめる。
俺も同じ仕草をして、低次元な口論を続けている連中に背を向けた。
今回のゴングは、チャイムに任せよう。
そんなことがあった放課後。
俺と、そして女連中は、進路資料室にいた。
三年の校舎の二階、東側の突き当たり。
すこしほこりっぽい教室には、赤本や、各教科、国立・私立別の二次の問題集などがおかれている。そして、忘れてはならないのが全国の国公立・私立大学のパンフレットを県別にまとめたファイル集。
詩織が真っ先にうちの県のファイルを取り出し、開いた。
舟木と西岡、そして向井はパソコンの前に陣取ってネット検索中だ。
「しおりんはさあ、どこ目指すの?」
「ん〜……考え中」
詩織の返事は曖昧だ。ぱらぱらとパンフレットをめくっている。
そんな詩織の横顔を、眺めた。
普段通りの、どこか凛とした表情。
でも、こいつが、こと進路に関しては結構悩んでいるらしいということを、おふくろやフミさんから聞いていた。
曖昧な答えしか返さないってことは、まだ固まってないんだろう。
ファイルに目を落としたまま、詩織が言う。
「トーコは、保育士の資格が取れるとこだっけ? 県内にある?」
「うん、いくつかあるよ。……悩むなぁ」
「なにあんた、進路はっきり決まってるの?」
西岡が驚いたような声をあげた。
俺も驚いた。ふらふらしてる(ように見える)舟木が、そこまで考えていたなんて。
「透子、保育士目指すの?」
「うん。前からの夢だったんだー」
へー、と、西岡があからさまに驚きの表情になった。
「ちゃんと考えてたんだ。ごめん、結構意外だったわ」
「あー、よく言われるんだよね、それ。なんでだろ」
へらへらと舟木は笑った。そして傍らに立つ向井を見上げる。
「詠理、これ印刷ってどうやんの?」
「あ、わたしやろうか?」
「ううん、やってみる。やり方だけ教えて」
舟木の言葉に向井は笑って、口で説明し始めた。
これは、あまり知られていないが。向井は、かなりPCが使える。正直俺よりも詳しい。パソコンだけじゃなくて、機械全般に強いようだ。実際、放送局員よりも放送機材をうまく使うものだから、時々放送局員に呼び出されているぐらい。
ガー、と、低い音を立ててプリンターが紙を吐き出す。
その音を聞きながら、俺も近隣県のファイルを引っ張り出して、開いた。埃のにおいが鼻につく。
しばらくそうやって、思い思いのことにふける。
いいな、と思った大学を見つけたら、パンフレットに眼を通して。そして次には赤本をめくってみて、そのわけのわからなさに目を回したり。
そんなことを何度も何度も繰り返しているうちに、いつのまにか窓の外が薄暗くなっていた。
六時過ぎだ。
教室を見回してみると、最初のうちこそにぎやかになにか話していた西岡や舟木も真剣に資料を読んでいる。詩織は今はパソコンを真剣な顔で見つめていた。
ぐる、と、首を回してみる。肩がこった。
「……そろそろ、帰るか?」
静かに言うと、とたんに詩織が顔をあげ、時計を見た。
「わ、もうこんな時間!?」
「ふえ?」
舟木も驚いたように外を見る。そして慌てて赤本を閉じた。
一番慌てたのは西岡だ。
「え、やだ、もうこんな時間じゃない!」
…西岡の家は遠かったっけ。確か都会の方だ。羨ましい。…通学時間は、羨ましくないが。
がたがたと慌しく全員が動き始める。もうそろそろ運動部も終わる頃だろう。
資料をもとの場所に戻して、資料室を出る間際、ふと思いついて詩織に訊いてみた。
「剣道部のぞいてくか?」
「…は?」
青い眼が丸く見開かれる。
ついで、日に焼けにくい肌が赤く染まった。
「は? え? なんで?」
なんでって。
「渡会ももうそろそろ終わる頃だろうし、せっかくだから」
それに、ここら辺は暗くなるのも早い。駅まで十分とは言っても、変な奴がいないとは言い切れないし、西岡や舟木のボディーガードにはなるだろ。
そう言うと、詩織は急にあさっての方向を向いて、言った。
「あ、そう。それなら……別に、いいんじゃない?」
相変わらず、素直じゃねえな。
西岡が呆れたように鼻を鳴らして、きれいな眉をあげて俺を見る。向井がクスリと笑い、舟木がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。
詩織は、耳をほんの少し赤くしたまま、ひたすら壁を眺めていた。
剣道場は、校舎の裏にひっそりと立っている。部活が始まる頃は女子のギャラリーがたくさんいるってウワサだが、さすがにもう帰ったようだ。いつものように、閑散としている。だが、数日前までは思いのままに生い茂っていた雑草が踏み潰されているところを見ると、ウワサはかなり真実に近いようだ。
風を通すためだろう、開け放たれている道場の入り口から中を覗き込む。もう練習は終わったのか、袴姿の部員が床に雑巾をかけていた。
モップじゃなくて、イマドキ雑巾ってのは……古いのかはたまた伝統なのか、それともそれも稽古の一環なのか。
首を傾げながら見ていると、ひときわ目立つ長身が目に止まった。見慣れた、真っ直ぐに伸びた背中。がっしりとした肩。
渡会だ。
声をかけようかどうしようかと迷っていると、渡会がこちらに気づいた。引き締まっていた表情を緩めて、笑顔になる。そして雑巾を片手にぶら下げたままこっちにきた。
「なんだおまえら、まだ帰ってなかったんか?」
「資料室で色々調べてた」
いつも以上にぶっきらぼうに詩織が答える。こいつのこの性格は、全然直らんな。
「資料室? …ああ、進路か」
去年まであまりなじみがなかった単語にきょとんとした渡会だが、すぐに思い当たったようだ。納得した顔で頷く。
「主将自ら雑巾がけか?」
だらんとぶら下がっている汚れた雑巾を指差す。ああ、と、渡会は雑巾を持ち上げて振って見せた。
「部活の一環だし。それに俺、これ結構好きなんだ。なんか無心でできて」
「…わたーって、意外ときれい好き?」
「………さあ?」
真顔で首を傾げる渡会。話を振った舟木のほうが困った顔になった。
「で、部活はもう終わりか?」
「ん? ああ、これ終わったらもう終わりだけど。なんか用か?」
「用っていうか……ついでだから、一緒に帰らんかと思って」
「俺はついでか」
顔をしかめて不満げに言う渡会。だけど、一瞬、詩織を見て口元を緩めたのを、俺は見逃さなかった。
あーあー、勝手にしろよおまえらはもう。
「じゃあ、もうすぐ終わるからそこら辺で待ってろよ」
一つ前のセリフとはずいぶん口調が変わった。どこか嬉しそうに、弾んだ声で、言う。
つくづくわかりやすい男だよ、おまえって奴は。
そんなことを心の中で吐き捨てたときだった。
紺色の剣道着の中、一人だけ浮いていた全身黒の男が、やはり雑巾片手にこっちにやってきた。顔を見て、「ゲッ」と西岡が一声唸る。
大城だった。
「なんだ、まだ残ってたのか」
西岡の眉間に皺がよっている。変な顔になったまま、ふい、とあからさまに無視を決め込む西岡。
…こいつもなー。
「進路の資料を見てたんですよ」
昼間のあれがあって、俺の物言いもついつい無愛想になる。が、大城はそんなことはもう忘れたかのような笑顔を俺たちに向けていた。
「感心じゃないか。その調子で調査票の提出期限も守ってくれよ」
「言われなくてもちゃんと出すわよ! しつこいわね」
こういう声を、ハリセンボンのような声、とか言うんだろうか。とげとげとげとげ。
「えーっと、そうそう、顧問なのにセンセも掃除するんだ」
大城の手にぶら下がっている汚れた雑巾を指差して、舟木が慌てて言った。ん、と眉を上げて雑巾を持ち上げると、大城は軽く笑った。
「俺、基本的に汚れを放置できない性格なんだな。物理準備室なんかきれいなもんだぞ? マメに掃除してるから」
………はたきがけする大城。
想像できん。
やっぱりあれだろうか。お掃除スタイルは割烹着に三角巾。埃よけにマスクとかしたりして。
……変な妄想は、やめておこう。なんか大城を見る目が変になりそうだ。
「きれい好きな男の人ってさー、彼女さん大変そう」
考えながら、舟木が言う。
「ほー、なぜ?」
大城が、面白そうに舟木を見た。あれは、完全に面白がっている眼だ。渡会はいつのまにか掃除に戻ってしまっている。さっさと終わらせてしまおうって腹だな、あれは。
「だってさー、部屋の掃除とか気が抜けなさそうだし。カレシが自分よりきれい好きって言うのは、どうなんだろ、女としてはオッケーなのかなあ」
首をひねりながら、舟木は言う。そしておもむろに人差し指を立てて、ふらふらと動かした。
「そー考えると。どうだろ、センセってホントに今フリー?」
大城は舟木をまじまじと見た後、にっこりと微笑んだ。
「嘘は言ってないぞ。そうだな、あたらずとも遠からず、ってところかな。…誰にも言うなよ? オフレコだからな、今の」
ヒミツめかしてそう言うと、くるりと身を翻して道場の中に戻っていく。
その姿を眺めて、舟木はポツリと声を落とした。
「……もしかして、あたし、余計なこと言った?」
「かもね」
詩織が曖昧な口調で言う。
俺の口からはなんとも言えんが……でも、あいつ、今の会話を結構楽しんでたっぽかったぞ。だからそんなに心配しなくてもいいんじゃないか?
そう舟木に言おうとしたら。
向井が突然いつものおっとりした口調で言った。
「それにしても、大城先生、かっこいいねぇ」
なに?
「お、詠理もそう思う? いいよねあの袴姿。黒もいいけど、センセだったら紺も似合うっしょ。着てみて欲しいねぇ。写真が売れるのもわかるよ」
売られてたのか。売れるのか。
じゃなくて。
……向井、今、なんつった?
詩織が困った顔で俺を見ているが、その目が愉しそうに輝いているのを、俺は確かに見た。
「…向井。今、なんて?」
向井が俺を見る。優しい、微笑。
「え? 大城先生ってかっこいいなぁって。住吉君もそう思わない?」
そりゃ確かに客観的に見たらそれなりに整った顔してるとは思うが。
だけど今のはカレシに言うセリフじゃないだろ!? ちがうだろ!?
「…あんたたち眼ェ腐ってるわ」
西岡がボソッと吐き捨てる。
「えー、かっこいいよねぇ」
「うん」
舟木は完全に面白がっている。面白がってるに違いない。俺を見る眼がしっかり三日月だ。
ちょっと待てよ。
一人パニックに陥っているところに、ようやく渡会がやってきた。制服の白のシャツが涼しげだ。
でっかい荷物を下に降ろして、靴紐を結びながら変な目で俺たちを眺める。
「…なに騒いでんだ?」
「んー? ちょっとね」
嬉しそうに舟木が答える。
渡会は変な顔で俺たちを見ていたが、荷物を担いで歩き出した。
「ま、いいや。お待たせしました、帰るべ帰るべ」
ざくざくと、渡会の足が草を踏んでいく。その後に続きながら、舟木が愉しそうな口調でまた言った。
「大城センセってかっこいいよねーって話をしてたのさ!」
「…あぁ?」
ものすごく胡乱げな顔で渡会が振り向いた。
まだ言うか。俺もいいかげん頭にきて後ろの女どもを振り返り、睨みつける。西岡も忌々しそうに舟木を見ている。
三種類の視線が注がれても、舟木はまったく動じない。それどころか、さらに話を振りやがった。
「ねぇ、そう思うよね、詠理。しおりんも」
「うん」と、にっこり笑顔で向井が微笑む。俺の気持ちなんか知りもせず、微笑む。
そして、話を振られたもう一人の女は――なぜか、頬を染めていた。
渡会の歩みが止まった。
詩織は落ち着きなく金の髪をかきあげて、そしてはにかむように笑う。
「うん。今日の先生は、かっこよかったね。オトナって感じがした」
隣の渡会の気配が怖い。こわくて振り向けない。
舟木は含みのある眼で俺たちを見た。
そして、にぱっと笑うと、すたすたと歩き出す。
隣りをすり抜けざま、俺と渡会の腕を軽く叩いて。
そして、俺たちを見上げて、ニヤリと笑った。
山のほうからうぐいすの鳴き声が聞こえる。新緑の輝きが目にまぶしい。
そんな朝。教室に入るなり、真っ直ぐ七尾の席に向かう。机にうつぶせてだらだらしている奴の頭を引っつかんで強引に首を上げさせると、真っ直ぐに目を見据えて、言った。
「七尾」
「な、なにすんだよ住吉。首筋違えたらどうしてくれるんだ」
「どうもするか。……反大城、協力する」
七尾の、女子から「きれい」と評されている黒い目が丸く見開かれた。長いまつげが二三度上下する。
「………はい?」
言ったとたん、ドン、と、七尾の肘のすぐ横にこぶしが振り下ろされた。
「俺も入れろ」
渡会だった。
七尾の眼が零れ落ちそうなほど見開かれた。
「はあぁ? なんだよおまえら、どうしたんだよ」
どうしたもこうしたもねえよ。
「いやだっつっても協力するからな」
渡会が、脅しみたいに声を低める。眉間によるのは深い皺だ。
俺たちの迫力に押されたのか、七尾は何度も首を縦に振った。
「もちろんもちろん大歓迎」
「よし」
なにがヨシなのかはわからないが、渡会はこぶしを引くと自分の席に戻っていった。心なしか、動作が荒れている。
近くで話を聞いていた森本が、本を読みながらぼそりと声を投げてきた。
「……懲りないな、本当に」
やかましい。おまえに俺たちの気持ちがわかるか。
渡会は険しい顔でどこか遠くを睨みつけている。そんな渡会の心境を慮って内心ため息をついたとき――ふと、俺の眼に、後ろの黒板が飛び込んできた。
昨日俺が大城から言いつけられた連絡事項をつらつらと書いた黒板だ。
そこに、見覚えのない書き込みがある。
思わず眉をひそめた。
なんだか、とてもユニークな、コメント。
[進路調査票:月曜提出厳守]という俺の角張った字の横には、雑な殴り書きで[ざけんなバカヤロー]とのウツクシイ書き込みが。
[土曜:進路ガイダンス←全員出席のこと]の横には、[ヤシュミマシュ]とのステキなコメントが。
――それぞれ、強烈に自己主張している。
「やしゅみましゅ」って、なんだよそれ。しかもカタカナか。なに考えてんだ。
とりあえず、筆跡を見る。
字の汚さからおそらく男子だ。そして、あの字。
犯人は誰か、考えるまでもなかった。
「――七尾」
「なんですかー?」
また机に突っ伏した奴の頭を平手ではたいた。あんだよ、と身を起こした奴の顔を強制的に後ろの黒板に向けさせる。
そして、言った。
「消せ」
「……なんで俺?」
「いいから消せ。今すぐ消せ」
「俺じゃねえって。濡れ衣だって」
「“ツ”に酷似した“シ”や、“ア”に酷似した“マ”を書く奴がおまえ以外にいてたまるか」
「う……ッ」
七尾が大げさに身を引く。こいつの字は本当に汚い。小学校からやり直せ。
仕方なく、のろのろと席を立って黒板消しを手に取る。
まったく。カタカナで書いたりしなかったら、ばれなかったのに。
七尾はざっかざっかと勢いよく消していく。見る間にきれいになっていく黒板。端から消されていく、文字。
「――ほら、終わりましたよ住吉サマ」
……このやろう。
「全部消す奴があるか」
「俺は“消せ”って言われたから消しただけでーす」
ああそうかい。くそっ。
結局書き直すはめになり、がしがしと同じ言葉を書いていた俺の背中に向かって、七尾が舌を出していたとか、いなかったとか。
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