高校騒動記〜三年生編〜


 ケンカの行方 3

//青海詩織(おうみしおり)//

 渡会の声が、言葉が、表情が、頭から離れない。
 目の前には広がる青空。気持ちよさそうに木々がざわめいていて。
 教師の声は耳を通り過ぎ、代わりに流れ込んでくるのは鳥の鳴き声だ。
 だけど、それすらも、脳には到達せずに反対側から流れ出ていく。

 ため息がこぼれた。

 はっきり言ってケンカなんか何度もしてきた。数えるのがバカらしくなるくらい、何度も。
 そのたびに落ち込んではきたけれど――今回のは、それの比じゃない。
 冷たい眼、冷たい表情で、見てきたあいつ。
 あんな表情をされたのは初めてだ。
 あんな――あんな、表情。
 景色がかすむ。
 山も緑と空の青と、そして畑の茶色がぼんやりと混ざり始める。
 やばい。
 泣きそうだ。
 鼻の奥がつんとしてきて、胸の奥から熱いものがこみ上げてきて――思わず、顔を伏せた。
 ……なんで泣けてくるかなぁ。
 こんなのただのケンカじゃないか。
 いつものケンカ。
 ………いつものこと、なのに。
 すう、と息を吸い込む。空気で胸に詰まるものを押し戻して。
 いつものことなのに、いつものケンカじゃなくて。
 多分それより、深いところに根ざしている。
 だって、いつものケンカなら、翌日になったら渡会は気まずそうな顔していても普通に声をかけてきてくれた。…あたしだって、それができた。
 でも、できない。
 今回だけは、声をかけられない。顔を見ることすら、ダメだ。
 あっちからも、声をかけてくることはないし――視線すら、よこさない。
 開け放たれた窓から吹き込んでくる風は冷たく頬に触れてくる。
 暖かいはずの風が冷たく感じられるその原因を手の甲で拭い取って、息を一つ吸うと黒板に目を向けた。
 いつの間にか板書の内容が変わっている。
 ノートを取る気力もなく、またため息をつくと窓の外に目を向けた。
 青々とした山と、そして少しかすんだ空の青が、なぜか胸に痛かった。




「しおりーん。お昼食べよ」
 チャイムが鳴ったとたんにざわめきだした教室の中、喧騒を切り取るような明るい声が耳に届く。
 いつのまにか傍らに立っていた声の持ち主の顔を確認してから、真っ白なノートを閉じた。…またあとで、詠理にでもノートを借りよう。
 がたがたと前の席の椅子を引き寄せた透子が、いきなり顔を覗き込んできた。
「しおりん、生きてる?」
「……生きてます」
 答えたとたん。
「どうだか」
 と、冷たい声が降ってきた。
 のぞみは机の上に小さいお弁当箱を置くと、隣の席から椅子を引き寄せてどっかと座り込む。
「さー食べよ食べよ」
 どこか冷たい態度で巾着の紐を解き始めたのぞみを見てから、「エーリは?」と尋ねた。
「ダンナと愛を語らい中」
 のぞみの声に、詠理の席を見る。と、ちょうど住吉が詠理から離れたところだった。
 だけど、住吉の表情が少し険しかったような気がする。睦言をささやいていたっていう雰囲気じゃないような…。
 住吉はさっさと教室を出て行く。購買組みの姿はすでにない。
 ……まぁ、いいけどね。購買組みのことなんか、どうでも。
 すぐに詠理がやってきた。
 すでに食べ始めているあたしたちにはなにも言わず、ちんまりとしたお弁当を広げて「いただきます」と手を合わせる。
「…住吉は?」
 飲み物でも買いにいったのかな、と思いながら訊くと、なんともいえない笑みが返ってきた。
 …なにさその不思議な微笑。
 かちゃ、と、詠理はお箸を置いた。
 そして軽く小首を傾げて、にっこり笑いながらこっちを見て。
 そして言った。
「今日は女の子だけでお昼を食べようよ」
 ………は?
「男は男同士の話があるんだってさ。だからこっちはこっちで男がいたらできない話をしようよ」
 ね?
 と笑ったのは透子で。
 卵焼きを口に運びながら、のぞみが言った。
「どーせ議題は一つしかないけど」
 …議題って。
 三つの顔がこちらを見つめてくる。
 トン、と行儀悪く透子が机に肘を付いた。

「…しおりん、このままでいいの?」

「…このままって」
 なにが。
 言ったとたん、のぞみにぴしゃりと言われてしまった。
「あんたがそれを訊くの? それともあたしの口から言わせたい? このあたしから?」
 刺のある言葉に、言葉をなくす。
 じっと見つめてくる三対の視線に、しかたなく声を落とした。
「…よくない、ケド」
「ケドじゃない。ケドはいらない」
「………よくない、です」
 よし、と、そう言ってのぞみはブロッコリーにフォークを突き刺した。
「あんたちケンカなんかしょっちゅうやってるけど、今度のはちょっと違うわね。あんたもだけど、渡会君も、結構鬱屈してるみたいだし………なにしたのよ」
「あたしはなにもしてない」
 いつものように、練習を見に行っただけ。
 のぞみはちらりとあたしを見た。
「どうだか。気づいてないだけで、なにかやっちゃってるのかもよ」
 ……それはあたしも考えたけど、でも、どう考えても心当たりはない。あいつがあんなに怒るようなことをした覚えは、ない。
「うーん……昨日、学校終わるまでは、いつも通りだったよね? 放課後なにかあった?」
 詠理が遠慮がちに訊いてくる。
「…住吉から聞いてない?」
 詠理は静かに首を振った。
 そっか。聞いてないのか。
「……昨日、放課後、剣道部の練習見に行ってさぁ」
 うん。と、頷く三人。
「そしたら『邪魔だ』って言われて思い切りドア閉められた」
 三人は奇妙な顔になった。
「………それだけ?」
 拍子抜け、という表情で透子が訊いてくる。
 それだけって。
 それだけってなぁ。
「すんごく冷たい態度とられて、めちゃくちゃショックだったんだけど。今まで何度も練習見に行ってるけど、追い払われたことなんかなかったし」
 うーん、と、三人は首をひねった。
 くるくるとフォークを回しながらのぞみが口を開く。
「ちょっと機嫌が悪かったんじゃないの?」
「授業中は普通だったのに?」
「部活でなにかあったとか」
「…八つ当たりされたってこと? あたし、あいつはそこまで人間小さくないと思ってたんだけど」
「でも渡会君って結構心狭かったり……なんでもない」
 あたしの顔を見てのぞみは言葉を途中で切った。……そりゃね、あたしはあいつと同じクラスになったのは今年初めてだし、のぞみよりもあいつのこと理解してないかもしれないけど。
 ……なんとなく、面白くない。
 あたしとのぞみの間になんとなく不穏な空気が漂ったことに気づいたのだろう、透子が慌てた声を出した。
「あーッと……もしかして、部活に大城センセっていたりした?」
 大城?
 またその名前。
 昨日の住吉の言葉をなんとなく思い出しながら、頷く。
「いたよ」
 あの黒い剣道着は見間違えようがない。
 すると、なぜか透子はため息をついて苦笑した。
「それだー」
「どれ」
「だから、大城センセ」
 はい?
 わけがわからなくて眼を丸くしていると、なぜか詠理とのぞみが「あ」と声をあげた。
「そっかぁ」
「なるほどね、大城か」
 なにやら二人には思い当たることがあるようだ。
 でも、あたしはわからない。
「大城がなに」
 だから、と、透子は苦笑しながら口を開いた。
「しおりんがセンセを見にきたと思っちゃったんだよ」
「…渡会が? なんで?」
「だってあんた、この前大城のことカッコイイって言ったじゃない」
「あー……言った、けど」
 でもべつに大城本人を指してそう言ったわけでは……。
 なんとなく居心地が悪くて頬を掻く。その仕草をどう取ったのか、のぞみがフォークであたしを指してきた。
「それよそれ」
「行儀悪いよ、西岡」
「そうじゃなくて」
 のぞみはフォークをくるりと回して、今度は柄を向けてきた。イヤ、それこそ違うだろ。
 のぞみは気にしない。
 フォークの柄をつきつけたまま、言った。
「あんたが大城のこと好きだって、渡会君そう思い込んでるのよ」
 一瞬。
 のぞみの言葉を理解することを頭が拒否した。
「………なぜに?」
「だから、しおりんがセンセのことカッコイイって」
「………ちょっと待ってよ」
 ちょっと考えさせて。頭がぐちゃぐちゃで、わけがわかんない。
 「カッコイイ」発言をしたときのあたしの心境はちょっと置いといて。
 かっこいい=好きなんて直結するんだったら、ゲーノー人はどうなるんだ。
 イヤそれも置いといて。
「……渡会って、そこまで単純?」
 というか、短絡的というか。
 そんなふうには思えないんだけど。
「まあ、普段は結構冷静…というか、ひねくれてるし、そんなに短絡的でもないんだろうけどねぇ」
 なにやら含みのある声音でのぞみが言う。
「わっかんないかなー。誰かさんが絡むと、彼氏、とたんに冷静じゃなくなるんだよね」
 食事を終え、巾着の紐を結びながら、のぞみ。
 同じようにお弁当箱を片付けてしまった透子が、机に頬杖をつきながらあたしを見てきた。
「しおりんはさ、変だと思わなかった? わたーがいきなり「反大城同盟」入りしたとき」
「そりゃ、思ったけど」
 あたしはその場にいなかったからよくわからないけど、渡会らしくないなぁ、とは、思ったよ。
「でも、ただの大城へのライバル意識だと思ったんだけど……違うの?」
「違うんだなぁそれが」
「まあ、ライバル心は燃やしてるけど、青海が言ってるのとはちょっと違うと思うわ」
 ?
 くすり、と詠理が笑う。
「詩織ちゃん、早く仲直りしようよ。じゃないと誰かにとられちゃうよ?」
 その言葉に思わずのぞみを見た。
 のぞみはわずかに眉を寄せる。
「…あのね。あたしにとって渡会君はとっくに過去の人。いつまでもあたしに気を使ってんじゃないわよ」
「あ、ごめ」
「あやまらない」
「ごめん――あ。」
 慌てて口を抑えたけれど、すでにのぞみの眉は2時50分。
 バン、と、軽く手で机を叩いて。
「だからあたしに遠慮するなって。言っとくけど、渡会君って去年のアレ以来じつは人気高いのよ? 剣道着姿がニジュウマルなんて言われて、萌えるとか言われて!」
 ……もえる?
 ちょっと日本語の意味がわからなかったけれど、のぞみは止まらない。ずい、と顔が近づいてきた。
「……のろのろしてると、ほんっとに、横からかっさらわれるわよ」
 ………そんなこと言われても。
「ぐずぐずしないでさっさと落とせって言ってんの! あーもうあんたは! こういうときにこそ普段のあの無駄なバイタリティを活用しないでどうするの!」
「無駄な…って」
 のぞみは聞かない。ドン、と、今度は握りこぶしで机を叩く。
「暴れ豚を蹴り飛ばすあの勢いはどこに置いてきたのよ! 四の五の言わずにさっさとくっつきなさい!」
「の、のぞみん声大きいよッ」
 周囲を気にして透子がのぞみをなだめにかかる。
「なんであんたにそんなこと言われなきゃならんのさ」
「詩織ちゃんっ」
 詠理がなんか言ってきたが、聞こえない。
 さすがにのぞみの言い方に腹が立ってきた。
「西岡には関係ないだろ」
「関係あるわよ!」
「ないだろ!」

「大有りよ! あんたたちがさっさとくっついてくれないと、あたしが先に進めないの!!」

 一瞬。
 気をのまれて、思わずのぞみの瞳を見つめてしまった。
 のぞみは乱暴に背を椅子の背に預けると、ペットボトルのお茶を飲む。
 そして、打って変わって静かな声で言った。
「あたしはさ、とっくにふられてるのよ。だから、変に遠慮なんかしないで。腹立つから」
 静かな声、言葉に、なにも言えずただのぞみを見つめる。
「もうさっさとくっつけバカ。そしたら、あたしも安心して次の恋に進めるからさ」
「のぞみん…」
 透子がなんだか潤んだ目をのぞみに向けている。
「とりあえず仲直りしなさいよ。変な女に渡会君取られたらあんた、絶対許さないからね」
 のぞみがあんまり真剣なものだから。
 気がついたときには、なぜか、すんなりと頷いてしまっていた。
「〜〜〜〜のぞみん大好きだ――ッッ!!」
「きゃあぁッ」
 そっぽを向いたとたん透子に抱きつかれて叫んだのぞみにはもう一瞬前の真剣な表情は欠片もなく、そのことに少しだけ安堵する。
 なんとなく、この手の会話は、居心地が悪い。のぞみの気持ちを知っていたから、よけいに。
 同情はやめろ、遠慮はするなと、いくら怒られても――気にしないではいられない。
 ふ、とため息を落とすと、詠理と眼が合った。
 励ますような詠理の笑顔を見ると、少しだけ心が和む。
 ……うん。
 もう少し、頑張ってみようかな。



 なんてことを考えていると男子たちがどやどやと戻ってきた。
 なにやら渡会と野島がじゃれあっている。野島がうらやましい……とは、口が裂けても言えないけどさ。
 なんとなく見ていると、渡会と眼が合った。
 気まずい雰囲気が一瞬流れて、そして耐え切れず眼をそらす。
「青海」
 のぞみの声が飛んできたけど、いやでも、やっぱりあいつの顔見れません。
 のぞみのため息が聞こえた。
 がたがたと椅子を動かす音。
 なかなか気まずさを忘れることはできなくて、結局昼休みが終わるまでずっと窓の外を見ていた。

 ……頑張れるんだろうか、あたし。





 渡会の顔を見る勇気が出ないまま、放課後になってしまった。
 いつものように、家に帰る気もなく教室に残って問題集を解く。文法に重点を置いた問題集は、あたしのレベルには少し難しいけれど、それでも理解できないほどじゃない。
 今日は住吉はいない。
 クラス委員の仕事もなく(大城に押し付けられず)、晴れ晴れとした顔で詠理とともに帰っていった。薄情な奴だ。
 …進路とか。
 悩みはイロイロあるけれど、でも、とにかく今の渡会との関係をなんとかしないことには、のぞみじゃないけれど次には進めないような気がした。
 問題集から顔をあげ、窓の外を見る。
 日が沈むまでまだ時間はある。
 ……もう一度、道場を見に行ってみようかな。
 少しは機嫌直ってるかもしれないし。
 …顔を見るだけでもいいから、ちょっと、寄ってみようか。
 拒絶されたらそれはそれで。
 怖がっていたら、それこそ前に進めない。
 あまり進んでいない問題集を閉じる。シャーペン消しゴムを片付けて。
 ――行ってみようか。




 校舎を出て、剣道場へ向かう。遠く聞こえる野球部の掛け声が耳に心地いい。
 夕方、日陰はまだ少し肌寒い。
 雑草を踏みしだく。
 剣道場の周りには珍しく女のこの姿がない。
 …大城、いないのかな?
 なんとなく、いないほうがいい。
 もしも、透子達の言うように、このケンカの要因があいつにあるのなら――ちょっと、あの癖のある笑顔は見たくない。
 そっと、正面に回りこむ。
 とたん、道場から誰か出てきた。
「あ」
「――あ」
 渡会だった。
 休憩なのか、中からぞろぞろと部員が出てくる。
 渡会はちらりとそれを見てから、目であたしを促した。
「あっち」
 低い声とともに腕をつかまれる。
「ブチョー、彼女ですかぁ?」
 背後からからかうような声が飛んできた。渡会は振り向いて、声を投げ返す。
「バーカ」
 短い言葉。
 否定のセリフじゃないことに、なぜか動揺する。
 つかまれた部分が、ひどく熱かった。
 剣道場から死角になる校舎の横までくると、ようやく渡会は手を離した。
 …えーと。
「…今日は大城、いねえけど?」
 ぼそりと、渡会が呟くように声を落とした。その内容にムッとする。
「大城はどうでもいいよ」
 ふーん、と、それこそどうでもよさそうな調子で、渡会。
「じゃあなにがどうでもよくねえわけ?」
 ……そうくるか。
 とっさに答えられるわけもなく、ただ無意味に視線をさまよわせる。
 頭上の緑が眼に映る。
 渡会は特に追及してこなかった。
 気まずい沈黙ののち、かすれたような声が耳に届く。
「あー、昨日、な」
 昨日。
 渡会を見やると、首のあたりに手をやりながらあさっての方向を見ていた。
「昨日のあれ、忘れてくれ。キレイさっぱり」
「あ。え……ッと」
 忘れろ、たって。
「や、その。昨日ちょっと気がたってて……俺の言ったことは忘れてくれると嬉しいデス」
「はあ…」
 じゃあ、また、見にくるよ。
 言ったとたん、なぜか渡会はちらっとこっちに視線を投げてきた。
「…大城を見に?」
「だから大城はどうでもいいって」
 反射的に言い返す。大城大城って、なんなんだよ一体。
 じゃあ、と、渡会はさらに低い声を出した。
「……誰を見に?」
 ………。
 ……………。
 言えるかそんなこと――!
 思わず怒鳴りそうになって、思いとどまる。
 ここでなんか変なことを口走ったりしたら、それこそ今までの繰り返し。
 前進。
 前進、しないと。
 胸の中でそれだけをお経のように唱えて、そしてざわつく胸を息で静めて。
 そして、グラウンドの方を見やって、言った。
「……あたし、剣道部に知り合いなんて、一人しかいないよ」
 どうしても、直截的な言い方はできなくて。
 こんなセリフになってしまう。
 渡会はなにも言わない。沈黙したまま。
 ……聞こえてたよ、な?
 恐る恐る振り向いて――心臓が、止まるかと思った。
「うわ、ちょ、こっち見んなッ」
 渡会の顔は、耳まで真っ赤で。そしてそのままずるずるとしゃがみこむ。
 ザアアッと音を立てて血液と熱が顔に集中するのが自分でもわかった。
 なんか。
 形容しがたい雰囲気が、周囲を包み込んでしまったような、そんな錯覚。
 身の置き所がないような。
 くすぐったくて、居心地が悪いような、いいような、わけがわからない空気。
 今すぐ逃げ出したけど、でももうちょっとその空気の中に身をおいていたいような。
 えっと。
 えーっと。
 なにを言えばいいのか、どうすればいいのか、なにもわからずにその場に突っ立っていると、うめくような声が聞こえてきた。
「……ビビった…マジでビビった」
 あたしもビビリましたですよ。
 いまだに心臓バクバク言ってますよ。
「だって俺、おまえ大城を見にきてるとばかり…」
 また大城。
 ようやく渡会が顔をあげた。まだちょっと赤みの残った顔で、どうしようもないって感じで顔をくしゃくしゃにして、笑うんだ。
「俺、バッカみてー…」
 くしゃ、と、前髪を握りつぶして。
 そして、爆弾投下。

「俺、本気で大城に嫉妬してたのに」

 今のなに。
 今のなに!?
 渡会はグラウンドの方を眺めてる。でもその耳はほんのり桜色で。
 でも、こっちの顔も、負けず劣らず――いや、むしろ渡会以上に、赤くなってるって断言できる。
「…えっ……」
 えっと。
 え。
 ええ?
 真っ白な頭で。
 言われた言葉のその意味も、なにも考えられなくて、ただその音だけがぐるぐる回ってる。
 ちらりと、渡会がこちらを見た。
 ばっちり眼が合って、反射的に顎をひく。
 なにか。
 なにか、言わないと。
 いつも以上に動きが鈍い頭を必死に動かそうとしたそのとき。

「住吉先輩!!」

 場違いなほど明るく元気な声が、予想外の名前を呼んだ。



 反射的に振り向く。
 すると。
 背後の、つつじの植え込みが、がさがさと動いていた。
 慌てたような気配、慌てたような声。
 さ――ッと、音を立てて、顔の熱も、今まで漂っていたなんとも言えない雰囲気も、みな急激に冷めていく。
 渡会が立ち上がった。
 植え込みの向こうには、背の低い男子生徒がいて、上気した顔で植え込みを見つめている。
「住吉先輩」
 さらに、駄目押し。
 渡会が無言で動いた。真っ直ぐに植え込みに向かって歩いていく。あたしも無言でその後に続いた。
 少年があたしたちに気づいて、ぱっと顔を輝かせた。
「渡会先輩、青海先輩も」
 ゲッと、植え込みから低い声が聞こえた。
「……なにやってんだ、おまえら」
 植え込みの影から、見知った顔が仰いでくる。
「…よう」
 と、住吉が引きつった顔で手を挙げた。その隣りからは、のぞみに詠理、透子が、やはり引きつった顔で笑みを向けてくる。
 七尾と野島、森本はすでに逃げの姿勢だ。
 帰ったんじゃなかったのか。ちょっと。
「…ずっと、そこに、いたの? ずーっと?」
「え、え――っとぉ…」
 透子がずるずると逃げ腰になりながら視線を泳がせる。
 そうか。ずっと見てたのか。
 そうかそうか。
 パキッと硬質な音がした。見なくてもわかる。渡会が指を鳴らした音。
 あたしたちの間に漂う空気に気づいていないのか、少年はニコニコと人懐っこい笑みを絶やさない。場違いに明るい声を投げてきた。
「うわー、嬉しいなぁ、先輩方全員にお会いできるなんて!」
 思わず全員が少年を見る。
「あ、すみません名乗りもしないで。僕、2-3の塩見です。以後お見知りおきを」
 …シオミ? 知らないなぁ。
 みんな怪訝そうな顔で少年を見ている。
「僕、先輩たちに憧れてて。それで、先輩たちの意志を継ぐために、このたび生徒会長に立候補しまして!」
 その言葉で思い出した。
 ああ。ポスターの子だ。
 頬を軽く上気させて、少年はまだしゃべる。
「生徒会長に無事当選したアカツキには、先輩たちが目指した青葉を作るのに全力を注ぎますので!」
 一方的にまくし立てて、少年は「お邪魔しました」というとぺこりと頭を下げてその場を駆け去った。
 主に少年の視線が向けられていた住吉は、しばらくぽかんとしてその後姿を見送っていたが、ややあって。
「…なんだろな、アレ」
「なんだろなじゃねえ」
 言ったとたん渡会の手が住吉の肩にかかり、直後。
 ―――ズン。
 鈍い音を立てて、渡会のコブシが住吉の腹にめり込んだ。
「わ、わたー!?」
 ごふっとうめいて住吉が腹を押さえて背を丸める。
「わ、悪い! すまん俺らが悪かった!」
「のぞく気はなかったのよ!」
 なんて言いながら脱兎のごとく駆け出したのは野島と七尾、それにのぞみだ。森本はさりげなく文庫本など取り出して「自分は関係ない」ポーズをとっている。
 のぞかれた恥ずかしさよりなにより、怒りの方が勝っているのは渡会も同じらしく、一通り奴らを睨みつけると荒々しく背を向けた。
 部活に戻るのだろう。
 そういえばだいぶ時間が経ってしまっている。
 住吉たちを睨みつけながら、渡会が立ち去るのを待っていると、ふと、真横で空気が動いた。
 耳元を、熱が掠めて。

「――また見にこいよ」



 ―――腰が、抜けた。
 遠ざかる足音を聞きながら、動けず呆けたように地面を眺める。
「し、詩織?」
 遠慮がちな、怯えたような住吉の声も遠く感じた。

 これしきのことで腰抜かすなんて。
 たったこれだけのことで動揺するなんて。
 この展開は嬉しいことは嬉しいんだけど。
 でも。
 ――なんか、負けたみたいで、ちょっと悔しかった。


おまけへGO?
目次へ








 …おまけ。


 どしん、と、地響きとともに天井から吊り下げられた蛍光灯が揺れた。
 遅い夕飯を取っていた住吉家の長は新聞から顔を上げて天井を見上げた。ぱらぱらと細かな埃が舞ってくる。
「……蛍光灯の裏もそろそろ掃除せんといかんなあ」
「じゃあ次の日曜日にお願いしますよ」
 茶を入れながら、冷たく妻が切り返してくる。
 食卓が片付いていてよかったと思いながら無言で差し出された湯飲みを受け取り、住吉氏は熱い茶をすすった。
 ふすま越しに怒鳴り声が聞こえてくる。
「だからっ、そんなに怒るほどのことじゃねえだろ」
「怒るに決まってるだろ、先に帰るって言ったのは誰だ!」
「そりゃ俺だけど――って、うわぁッ!」
 バン、と、ふすまが大きな音を立ててしなった。
 ず、と夫婦は茶をすする。
「数実かな」
「あの子ならふすまが破れますよ。おおかた布団でしょ」
 騒ぎはおさまらない。
「だいたいッ、なんでみんなしてのぞいてるんだよ! エーリや森本君までっ!」
「そりゃ面白そうだからイテッ」
 ドカッとなにやら音がした。
「詩織おまえ蹴りはやめろ! おまえのアシ凶器なんだから――だからヤメロって!」
 イタッ、イタッ、と断続的に聞こえてくる息子の悲鳴にも、夫婦は顔色一つ変えない。眉一つ動かさない。
「今日はバート君は帰りが遅いんだったかな」
「もう帰ってるでしょ。どうせ邪魔な娘追い出して新婚気分を満喫してるんでしょうよ」
「詩織も不憫だなぁ」
「まったくね」
 おそらく現在進行形で虐げられているであろう息子をまったく無視した感慨を漏らす二人には、息子の悲鳴はきっと届いていない。
「だからっ、別に好きとか告白したわけじゃないから、いいだろ!」
「どういう理屈だ! いいわけあるかバカ――ッ!!」
 バリッと。
 音を立てて、とうとうふすまが破れた。
 夫婦の視線が同時にふすまに――その破れ目から顔を出している息子に向けられる。彼は、珍しくも「しまった」という表情をしていた。
「あの、その、これは」
「数実」
 息子の言い訳を静かに遮り、住吉夫人は厳かに尋ねた。
「誰がそのふすまを直すんだい?」
 ず、と住吉氏は茶をすする。
 そして、やはり厳かに言った。
「私だね」
 夫人は夫を見る。軽く咳払いをすると、再び威厳を取り戻し、宣告した。
「数実がやりな」
「俺が? 詩織は!」
 息子の指の先の孫を見て、夫人は軽く鼻を鳴らす。
「詩織、遅くなる前に早く帰りな。明日も学校あるんだろ」
「はーい」
「差別だ!」
 叫んだ息子を一瞥して「区別だよ」と一蹴する。
 そして湯のみを置いた夫を見た。
「ほら、あんた、早くお風呂に入ってくださいよ。片付かないんだから」
「ハイハイわかりましたよ」
 新聞をたたんで住吉氏は席を立つ。
 なにやら悔しげにぶつぶつ吐き捨てている息子の前を通り過ぎて、風呂場へ向かった。