***Silent Xmas***

 たとえば、とてもとても好きな人がいたとして。

 でも彼にはとてもとても好きな人がいて。

 私と彼は非常に良い友人関係にあった場合。


 考えるまでもなく、私はこの関係を維持するほうを選びました。


◆◆◆◆


 またこの季節がやってきた。
 世間は浮かれ、街を歩けばカップルにぶつかる。
 どこもかしこもきらきらしく飾り立てられ、流れるのはおなじみのメロディー。

 そう。独り者には優しくない季節。恋人たちのためのイベント。

 クリスマスである。



 なんだかカップルが増えたなあ、と千奈美は溜息混じりに食堂を見渡した。大学の食堂で遅めの昼食をとっている学生はその半数がカップルだ。先月まではそれほど多くなかったはずなのに、とぼんやりと思う。
 いや、もしかしたらあたしたちも「カップル」に見えているのかもしれない。
 皮肉な思いで目の前でうどんをすすっている男を眺めた。
 こいつとあたしも、傍目にはカップルに見えているのかも。

 胸の奥に走った痛みには気づかないふりをして温かいお茶をすすった。
「…どうした?」
 千奈美の表情に気づいて、うどんの椀から顔を上げて男はそう訊いてきた。
「んー? カップルが増えたなーって」
 ああ、と周囲を見回し、彼は再びうどんをすすりだした。

 去年のクリスマスは、この男と一緒に過ごした。もちろん二人きりではなく、他の友人とともにだ。
 相手のいないもの同士、淋しいクリスマスを送った。
 だが、去年、彼にはとても好きな人がいた。確かクリスマス前に告白してふられて、そんな彼を慰める意図を込めてのクリスマスパーティーだったように記憶している。
 そして、千奈美は、そんな彼のことが好きだった。

 たん、と音を立てて彼がどんぶりをおいた。ふと疑問に思って千奈美は彼を見た。
「最近うどん多いよね。栄養足りてる?」
「んー。ちょっと金貯めてて」
 つきん、と痛んだのは、胸の奥。
 この時期に、金を貯める。
 その意味するところに一瞬で行き着いてしまった。
「…そっか」
 そうか、今年は一人じゃないんだ。
 すぅ…と指先が冷えていく。
「立野は、クリスマスどうするんだ?」
 何気無い問い。その何気無さが胸に痛い。
 ふと、昨夜遅くにかかってきた電話を思い出した。
 そうだ、今年のクリスマスは、珍しく予定が入っていた。
「あー…今年は、ちょっと」
 曖昧に言うと、とても驚かれた。
「え、なに。予定入ってんの?」
 そんなに驚かなくても、というくらい眼を丸くされてムッとした。
「入ってるけど、そんなに意外?」
「バイトとか」
「違います」
 そんなにあたしを独り者にしたいの?
 ムッとして冷たく言う。
「えー。俺も知ってる奴? この大学?」
 あ、やっぱり誤解してる。
 誤解するように話したのだから当然だ。それがおかしくて、千奈美は軽く笑った。
 とたん、目の前の男は奇妙な顔になった。
「なんだよ、そんなに好い男なわけ?」
「イイオトコ…といえば、そうかなあ」
 少なくとも、あんたよりは勝ってるわ。性格も、外見も、そして収入も。
 心の中でそう呟き、席を立つ。
 こいつとは違い、千奈美は次の時間講義が入っていた。鞄を肩にかけ、椅子を戻す。
 まだ驚いた顔をしている男に軽く笑いかけた。
「じゃあ。ちゃんと栄養のあるもの食べなよ」
「…じゃあ、おまえ夕飯作ってくれよ」
 笑顔が固まりそうになった。
 なに言ってんの!?
 心の中で絶叫し、表面上は笑顔を保って返答した。
「冗談。いやよそんなの、面倒くさい」
「おまえ、前はよく作ってくれたじゃねえか」
 同じマンションに住んでいるよしみで、以前はちょくちょくお互いの部屋を行き来していた。もちろん夕飯を作ってやったことも何度かあった。
 だけど、それはできない。
「やだ。彼女に頼めば?」
 こちらを振り向いてくれないとわかっている相手のそばにい続けるのは、しんどいから。つらいから。
 それに、クリスマスを一緒に過ごす相手がいるのに、そんなことを言ってくる神経が理解できない。
 じゃあ、と言って背を向けて、相手に知られないようにそっと溜息をついた。



 私の心のベクトルは真っ直ぐにあいつを指しているのに、あいつのベクトルは全然別の方向を向いている。

 なんて、無駄な恋をしているのだろう。
 実ることはないとわかっている、見つめるだけの恋。

 忘れることができれば、楽なのに。
 他の人を好きになれたらいいのに。

 でも、私のベクトルは、彼しか示さない。


◆◆◆◆


 クリスマスが、駆け足で近づいてきている。
 去年は彼と一緒に過ごした。
 恋人同士ではなく、友人としてだったけれど、それでもよかった。


「立野」
 名前を呼ばれて振り返ると、そこにはいつも笑顔があったように思う。
 振り返り、笑顔を見る、その瞬間が好きだった。

 だけど、それも、最近見てない。

「最近、石塚と一緒にいないね」
 講義が始まる前、なかなか来ない教授を待っているとき、いきなり言われた。
「え?」
「ちょっと前まではいつも一緒にいたくせに。けんかでもしたの?」
 少しだけ返答に困り、千奈美は苦く笑う。
 彼女の言うとおり、11月に入ってからはなにかと彼とつるんでいた。空き時間は大抵彼と一緒にいたし、昼食も、彼――もちろんほかの友人も一緒にいたが――と食べていたような気がする。いつも一緒にいたと言われるのも仕方がないことなのかもしれない。
「さあ、忙しいんじゃないの。別にけんかはしてないけど」
 そう? と首を傾げた友人は、教授が教室に入ってきたのに気づいて口を閉ざした。
 結構なお年の教授が不明瞭な声で喋り始めた。
 それを聞き流しつつ、千奈美はカチカチとシャーペンの芯を出したり戻したりを繰り返していた。
 “最近、石塚と一緒にいないね”
 友人の言葉が何度も蘇る。
 12月の始め、あの食堂での会話のあと、石塚はぱったりと千奈美に声をかけなくなった。今までは用事がなくてもなにかと話し掛けてきたというのに。
 同じ講義を取っていても、座る席も離れ、話し掛けることすらままならない。
 …もしかしたら、千奈美に遠慮しているのかもしれない。
 彼が、千奈美が同じ大学の学生と付き合っていると誤解していてもおかしくはなかった。誤解するように話したのは千奈美なのだから。
 だから、千奈美に、そしてその彼に遠慮して、距離をおいているのかもしれない。
 そう思うと、軽い自己嫌悪に陥った。
(…冗談だったのに)
 いや、冗談ではないのだが、こんな風に距離を置かれることがわかっていたのなら、あんな言い方をしなかった。
 あの時多少頭にきていたのは確かだが、それでもちゃんと本当のことを話したのに。
 知らず、溜息が漏れた。
(……バカだ、あたし)
 去年、恋愛相談を持ちかけられたときは、ちゃんと笑顔で対応できていたと言うのに。
 ぐちぐちと、ルーズリーフに意味をなさない線を書いていく。
 ぐるぐると円を何度も書いて。書くたびに消して。
 何度溜息をついただろうか。
 気がついたら講義が終わっていて、隣の友人が気遣わしげにこちらを見つめていた。
「大丈夫? 調子悪そうだけど」
「あー…いろいろとね、考えることがあってさ」
 考えなければならないことはたくさんある。24日のこととか。…あいつのこととか。
「そっか…まあ、考えすぎないようにね」
 ぽんぽん、と頭を叩かれる。
 ありがとう、と小さく呟くと、優しい笑顔が返ってきた。
「それにしても、クリスマス間近だってのに最近ぱっとしない奴多いなあ」
 テキストを片付けながら突然言われて面食らった。
「なに、ぱっとしないって、あたしのこと?」
「それもあるけど。ていうかあんたはその筆頭だけど。石塚もねえ」
 石塚?
 突然出てきた名前に心臓が躍り上がる。
 ダメだ。まだ、ベクトルはあいつに向いている。
「なんかバイトバイトでがんばってるらしいよ。なんでも、今年はどうしても落としたい女がいる、とか言って」
 …落としたい、ってことは、まだ落とせてないってことなのだろうか。
 一瞬浮かんだ希望にすがりつきそうになった自分を慌てて戒める。
 ダメだ。甘いこと考えたら、また去年の繰り返しになる。
「去年もおんなじこと言ってたけどね」
 そしてふられて落ち込んで酒飲んで思い切り愚痴ってたけど。
 心の中でだけそう呟く。
 なぜかは知らないがこちらを見つめてくる友人の視線を交わすように、鞄の中から次の講義のテキストを取り出した。教室移動はない。このままここに座って、次の教授が来るのを待つだけだ。
「でもねー。最近、石塚の様子が変なのよねえ」
 変?
「どうせ浮かれてるんでしょ?」
 そう言うと、奇妙な表情をされた。
「どうだろうね」
 なにかを含んだ響きに眉をひそめたとき、教室の入り口に件の人物が姿を現した。
 石塚は、千奈美に気づくと軽く片手を上げてよこす。だが、その顔にはいつもの笑顔はない。
 千奈美が軽く手を振ると、彼はそれきり千奈美を見ることなく教室の隅のほうの席についた。
 様子が変と言われれば、彼が千奈美に笑顔を見せなくなったのが一番変なことだ、と思う。
 なにが原因かはわからない。
 だけど、今まで親密だった関係が急によそよそしくなったそのことが、酷く悲しかった。


 友達。
 その関係を続けるのは、もちろんいやだ。
 だけど。
 相手の気持ちが自分を向いていないとわかっている以上、他になにを望めばいい?
 恋人になれないのなら、せめて友人であり続ける。
 そうすれば、彼のそばにいられるから。
 恋人になれない、今の関係も壊れてしまう。
 そんなのは、耐えられない。

 だから、だからこの道を選んだのに。

 なんで、友人関係までが、壊れてしまうの?


 もう、どうしていいのか、わからない。


◆◆◆◆


 結局クリスマスの日まで、石塚との関係はそのままだった。
 以前は毎日のようにやり取りしていたメールもぱったりとやんだ。
 こちらから声をかけるのもはばかられ、メールすることもためらわれ、気がつけばもうクリスマス。

 今ごろ彼は、恋人と楽しく過ごしているのだろうか。


「ちな? どうしかしたのか?」
 声をかけられて、千奈美は慌てて意識を現実に戻した。
 目の前にはスーツを着た青年と、もうひとり、壮年の男がいる。そして千奈美の隣には綺麗にドレスアップした中年の婦人。
 三人の視線を受けて、千奈美は慌てて笑みを浮かべた。
「んーん。カップルばっかりだなーって」
 とたんに三人は一様に苦笑した。
「しょうがないだろ、クリスマスイブなんだから」
 目の前の青年がそう言えば、隣の女性がとてもとても哀しそうな顔をする。
「なによ、千奈美は家族の語らいよりも彼氏を取るの?」
 とたんに壮年の男性も顔色を変えて千奈美に詰め寄ってきた。
「なに、千奈美、付き合っている相手がいるのか?」
「いないよそんなの」
 苦笑してそう答えた。
 まったく、この人たちはいつまでたっても変わらない。

 千奈美がいるのは、とある高級ホテルのレストランだった。時期が時期なため、客の九割がカップルである。そんなカップルだらけの中で一際浮いているのが、和やかな家族の団欒と言った様相を呈している窓際のテーブル。
 そう、千奈美たちだ。

 目の前にいる二人は、千奈美の父親と、兄。
 その父親が、相好を崩してワインのグラスを傾けた。
「それにしても何年ぶりかな、こうして家族四人が揃うのは」
「ざっと五年ぶりだな」
 先ほどからかなりの早さでグラスを干しながら兄智博が答える。
「それにしても母さん変わらないね。若作り?」
「なに言ってるのよ智博ったら。これでもそれなりに老けたわよ」
 笑いながら会話しながら、智博が手付かずの千奈美のワイングラスを見た。
「せっかくだし、飲めよ。もう20なんだろ?」
「そうそう。いやあ、千奈美と一緒にこうやって酒を飲みながら話すのが夢だったんだよなあ」
 そういう父親の瞳がなぜか潤んでいるような気がして、千奈美は「うん」と頷くと慌ててワインを一口飲んだ。
 飲みなれていない千奈美の口にもさらりと感じられるワインだった。
 もしかして、高いのだろうか。

 千奈美の両親は、五年前に離婚していた。千奈美が高校に入る前のことだ。
 それから今まで、二人は一度も会っていない……はずだ。表向きは、そうなっている。
 だから、今日が、五年ぶりの親子の再開と相成っているはずだ。
 勝手がつかめないのか、緊張しているのか、父親はやたらとワインを干し、とつとつとぎこちなく会話をしている。
 母親も、ぎこちないながらも笑顔で父親の話に相槌を打っていた。

 11月の終わりにいきなり母親から電話がきた。
 クリスマスイブは、絶対に空けろ、という内容だった。
 なんで?
 そう問うと、さらりと一言。
「お父さんと会うから」
 千奈美は一瞬「新しいお父さん」かと思った。
 そう言うと、母親は怒った声で「あんたの父親は一人だけでしょう」とそう返してきた。
 驚いたなんてものじゃない。
 離婚してからこちらその存在すら忘れているような素振りをしてきた彼女が、今になって「父親に逢う」という。
 慌てて兄に連絡を取ると、彼も父親から同じことを言われたのだそうだ。
 そこまできて、ようやく千奈美にも、これが両親が示し合わせての行動だということが理解できた。


 五年の歳月も、ワインと食事、そしてクリスマス独特の雰囲気に、徐々に溶けていくようだった。
 両親が二人の会話に没頭し始めたのを見て、子ども二人は顔を見合わせる。
 智博が何度も携帯電話を取り出すのを見て、千奈美は声をひそめて尋ねた。
「…美恵子さんはよかったの?」
 美恵子とは、智博の恋人の名前だ。千奈美も何度か顔をあわせたことがある。
 智博は携帯電話をしまって軽く肩をすくめた。
「一応理由は言ってあるから。その代わり、冬休みはなんでも言うこと聞くことになってるけど」
「うわ、こわーい」
「この」
 軽くこぶしが飛んできて、笑いながらそれを交わす。
「それより、ちなのほうはよかったのか?」
「ああ、大丈夫もなにも、なんにもないから。相手もいないしね」
 一瞬頭に浮かんだ顔は、なかったことにする。
「そうか? それにしちゃさっきから心ここにあらずって感じだけどな」
「気のせいよ」
 相変わらず鋭い兄に笑って答える。
 いつのまにか両親はしんみりと話し込んでいた。
 二人は放っておいて、千奈美も兄といろんな話をした。
 別々に暮らした五年間の間に起こったいろいろなことを。
 一年に二三度兄とは逢っていたし、それなりに報告もしていたのだが、こうして両親に隠れずに顔をあわせて話ができるということだけでも心構えが全然違う。
 高校のことや、大学生活。
 現在のこと、将来のこと。
 そして、兄の仕事の話や職場でのあれこれ。
 話すことは多すぎて、言いたいことがたくさんありすぎて、尽きることがない。

 気がつけば、時刻は十二時近かった。

 時間に慌てて智博が両親を見ると、二人はすっかり独自の世界を築いてしまっていた。
 苦笑して、智博が声をかける。
「親父、こんな時間だけど、どうする?」
 父親は智博をとても邪魔臭そうに見やった。
「お前らはさっさと帰れ」
「帰れって、親父はどうするんだよ」
 すると、両親はにっこりと微笑みあいながら互いの腕を取った。そして、父親が笑顔で頭上を指差す。
 頭上。
 つまりは、ホテル。
 呆れた声で兄が言った。
「なに。もしかして自分らの分だけ部屋とってあるとか?」
 頷く両親。
「なんだよそれ。俺に一人で東京まで帰れって? もう終電もねえよ」
「あら、千奈美のところに泊まっていけばいいじゃない。ねえ」
「そうそう。明日の朝には迎えにこい」
「はあ〜〜?」
 呆れたのはなにも智博だけではない。
 千奈美もあきれ返っていた。
「もしかして、確信犯?」
 娘の言葉ににっこりと微笑むのは母親。
「あら、人聞きの悪い。いいじゃないのたまには恋人気分でいても。せっかくのクリスマスなんだから」
「そうだぞ少しは気を利かせろ」
 ワインの酔いが回ってきたのかほろ酔いかげんで父親がそう言う。
「………俺はあんたたちのためにわざわざ彼女との予定キャンセルして」
「あら、クリスマスは本来家族と過ごすためのものよ? いいじゃないの本来の意義をまっとうできたんだから」
 ねえ、とにっこり微笑みあう両親を前に、智博の表情が音を立てて凍りついた。
 五年たっても変わらない、これは怒りの兆候だ。
 千奈美は慌てて智博の腕をひいた。
「お兄ちゃん、いいから行こうよ。これ以上ここにいてもバカを見るだけだって」
 千奈美の言葉に智博はゆっくりと息を吐き出す。
 そして、据わった目で再び自分たちの世界に入ってしまっている両親をにらみつけ、毒づいた。
「……あとで覚えてろよあのバカ夫婦」
 いいから行け、と父親がひらひらと片手を振る。
 まるで追い立てられるようにホテルを出て、二人は顔を見合わせた。
「…まったく、とんだクリスマスだな」
「人騒がせなんだから」
「なあ」
 どちらからともなく苦笑した。
 智博が停車しているタクシーを見やり、言った。
「タクシーでいいよな?」
「え?」
 なんのことかわからずに問い返すと、兄はにやりと笑う。
「ちなのマンション。お兄様が、妹がどんなところに住んでいるのかじっくりと拝見いたしましょう」
「えー? ホントに来るの?」
「いくさ。どうせホテルもあいてないし、帰ろうにも電車も金もない」
 クリスマスをこの兄と二人で過ごすのはなんだか変な気分だが、それはおそらく相手も同じ気持ちなようで、言ってから困ったように頭をかいた。
「彼女に連絡しなくてもいいの?」
「後でするよ。…ほら」
 目の前でタクシーのドアが開く。後部座席に二人並んで乗り込んだ。
「ビールでも買って飲みなおすか」
「あれだけ飲んだのにまだ飲むの?」
「あんな高そうな酒で酔えるかよ。値段が気になって仕方がなかったぞ俺は」
 変なところで貧乏性だなあ、と声を上げて笑った。
 窓の外を明るい光が流れていく。車のテールランプが赤い線を描く。
 不意に車内に落ちた沈黙。
 窓の外を眺めながら、自然と彼のことを考えていた。

 あいつは今誰と一緒にいるのだろう。

 結局、このまま友達にも戻れずに終わってしまうのだろうか。

 深夜の街は若者で溢れていた。
 そのほとんどはカップルだ。

 仲睦まじく、幸せそうに寄り添う恋人たち。
 あいつも、あの中にいるのだろうか。
 知らない女と一緒に、幸せそうに笑っているのだろうか。

 苦い溜息が漏れた。
 窓ガラスが一瞬白く曇り、恋人たちの姿をかき消した。


◆◆◆◆


 マンションの近くの酒屋でビールやチュウハイ、そしておつまみを少々買い込んで、寒さに身を縮めながらマンションへと急いだ。カップル目当てなのだろう、深夜だというのに開いていた酒屋には他にも一組カップルがいて、それを見て智博がおかしそうに「俺たちもカップルに見えてるのかな」と囁いていた。
 その言葉に以前の自分の思考が重なり胸が痛んだが、笑顔を保ち続けた。

 あまりの寒さに頭上を見上げる。夜空は微妙に明るくて、白っぽい雲で覆われていることを知った。
 星はない。
「…雪、降るかなあ」
「あー、どうだろうなあ。明日の朝にはうっすらと積もってたりして」
 千奈美に倣って空を仰ぎながら智博もそう呟く。
「そういや、ガキのころ一度だけホワイトクリスマスがあったよな」
 懐かしそうに眼を細めて、智博がそう言った。
 千奈美は軽く首を傾げた。
 覚えていない。
「お前まだ小さかったしなあ、覚えてないか…。朝起きたら外が真っ白でさあ、それ見ておまえものすごくはしゃいで、おふくろが止めるのも聞かないで外駆け回って、風邪ひいて熱だしたんだよなあ」
 懐かしいなあ、という言葉に、千奈美はなんとも言えない気恥ずかしさを感じて苦笑した。
「覚えてないよ」
「親父と俺とお前で雪だるまも作ったぞ。でっかいの。ちなは小さい雪だるま作ってさ、どうしても冷凍庫に入れろってうるさかったんだ。熱出してしんどそうにしてても「雪だるま」「雪だるま」って何度もせがんでさ。結局雪だるまはお前の氷嚢に全部回されたけど」
「えー?」
 智博は目を細めた。
「あのころは、家があんなんなるなんて想像もしてなかったんだよな」
 そう言った彼は、優しい笑顔を浮かべていた。

 冷たい風に身をすくめる。ガサガサと智博が下げたビニール袋が音を立てている。
 千奈美のマンションが見えてきた。
 学生マンションで、家賃も割安だ。千奈美のほかにも何人か学生が住んでいる。そして、彼も。
 瀟洒なマンションを見上げて、智博が軽く笑った。
「いい感じじゃないか。防犯は?」
「それなりにしっかりしてるんじゃないかな。よく知らないけど」
 泥棒に入られた、という話は聞かない。数年前は下着泥棒がでたらしいけれど、千奈美が住んでからはその手の話も聞かなかった。
「さむ〜い」
 言いながらエントランスを上がった。
 安いマンションなものだから、エントランスはいたって開放的だ。セキュリティもなにもない。
 それでも一応エレベーターはついている。
 智博の先に立って奥のエレベーターへと向かった千奈美は、エレベーターの前の人影に気づいてぎくりとした。
 顔を寄せ合ってなにやら語り合っている一組のカップル。
 その片割れを、知っていた。
 いやというほど。


「あ…」
 思わず足がすくんでしまった。
 カップルが千奈美に気づいた。千奈美を見て、男性が眼を瞠る。
「…立野」
 石塚。
 カタン、と心のどこかで音がした。
 それは、おそらく、千奈美の心が凍りついた音。
 男の視線が千奈美からその背後へと動いた。見開かれていた瞳がつと細められる。
 がさり、と背後でビニール袋がこすれる音がした。
「なにしてんだ?」
 低い声。
 追いついた智博が不思議そうに妹とカップルを見比べる。
 慌てて男の隣をすり抜けエレベーターのボタンを押した妹を訝しげに見やり、智博は、こちらも同じように視線をそらした見知らぬ男に眼をやった。
 男はもうこちらを見ない。代わりに、女が奇妙な表情でこちらを見ていた。そう、まるで挑むような、そんな表情。
 チン、と場違いなほど明るい音がし、エレベーターのドアが開いた。
 千奈美は逃げるようにエレベーターに乗り込むと、智博が乗り込むのも待たずに「閉」のボタンを押す。
 ドアが閉まり、エレベーター独特の重力を身体に感じたときにはじめて息を吐き出した。それまで息を止めていたのだ。

 ショックだった。
 なんで、こんなところで逢ってしまうのか。

 見たくなかった。
 女と一緒にいるあいつなんか、見たくなかった。

 心はもう、痛みすら感じない。
 ただもう重く凍りつくだけ。

 ただただ、冷たく凍りつくだけ。


◆◆◆◆


 部屋の明かりをつけ、千奈美は智博に「適当に座って」と言い置いて風呂場へと向かった。
「お兄ちゃん、お風呂はいる?」
 身体は冷えてしまっている。きっと智博もそうだろう。
「おー。ありがたい…と言いたいところだけど、着替えないから、いいよ」
「あ、そっか」
 恋人などいない千奈美には、当然のことながら男物の着替えの用意などない。バスローブなどという代物も当然ない。
 とりあえず風呂に湯を張り、部屋に戻ると智博は立ったまま部屋を見回していた。
 1DKの小さな部屋だ。
 それでもバスとトイレ付(しかも別々)で一人で暮らすには十分すぎる空間。
「わりと綺麗にしてるんだな」
 感心したような口調に苦笑した。
「失礼な。これでもお母さんよりも家事上手いんだからね」
 離婚してから、家事は主に千奈美の分担になっていた。そのため、一人暮らしにも特に不便は感じていない。
「ちな。さっきの奴知り合いか?」
 不意に訊かれて心臓が跳ね上がった。
 さっきのやつ――…該当者は一人しかいない。
「ああ、うん。大学の友達」
 努めてさりげなく答えた。語尾が震えたような気がして、ごまかすように、それ以上の追及をされないように、着替えを掴んで風呂場へと向かう。
「あたしお風呂はいるから。お兄ちゃん、楽にしててね」
 おー。という声を背に受けて、逃げるように風呂場に入った。


 冷え切った身体を浴槽に沈める。湯の熱さに手足の先がじんじんと痛んだ。どうやらかじかんでいたらしい。
 湯に溶けるように、溜息をつく。
 石塚。
 女と一緒に、いた。
 「落としたい女」とやらを落とせたのだろう。
 あの女には見覚えがあった。同じ大学の、別の学科の子だ。何度か講義で一緒になったことがあったはずだ。当然、彼とも。

(…なんか、バカみたい)
 友達でいたいわけじゃない。
 でも、この関係が壊れることを恐れて臆病になって――その揚句がこのざまだ。
 胸の奥のもの全部を吐き出すかのような、長い溜息が水面を揺らした。
「……もう、忘れちゃおうかなあ…」
 あいつのことなんか、忘れて。
 友達に戻れないのなら、もう全部、この気持ちもなにもかも全部忘れてしまって。
 そして、新しい恋ができればいいのに。

 今日はクリスマスイブ。
 恋人たちの夜。

 千奈美は、同じ相手に二度目の失恋をした。


◆◆◆◆


 風呂から上がると、なにやら良い匂いが部屋中に漂っていた。
 台所に立ってなにかしている智博の姿に眼を丸くする。
「お兄ちゃん?」
「おお、いいところに。そこの醤油とってくれ」
 言われて、上の棚から醤油差しを取り出し、兄に手渡した。兄はフライパンで青い野菜をいためているところだった。
 醤油をさっとふりいれながら、上機嫌で言う。
「なにしてんの? って訊いてくれよ。“料理”って答えるから」
「いやそれ見たらわかるけど。……それもしかして大根の葉っぱ?」
 ザッザッと軽快にいためられている青菜に見覚えがある。確か冷蔵庫の奥に眠っていた大根の…葉っぱの部分。あまりの安さについ買ったはいいけれど使い切れなかった分だ。
「とじゃことピーマン。…ほい、皿くれ皿」
 言われるままに皿を取り出し、盛り付けられるのをただ見る。湯気とともにあまじょっぱい匂いが立ち昇る。
 とりあえずテーブルに皿を置いている千奈美を尻目に、智弘はフライパンをさっと洗うと再び火にかけはじめた。
 そして冷蔵庫を覗き込みながら声を投げてくる。
「この豚肉使ってもいいか?」
「え、いいけど」
 出来上がった野菜炒めと智博の後ろ姿を見比べながら千奈美はただ瞬くことしかできない。
 智博は豚ばら肉を手際よく炒めると、先ほど買ってきたばかりのキムチを加えて軽く炒めた。
「ほい、豚キムチ」
「ええ!?」
 声とともに目の前に差し出されたものをまじまじと見つめる。
「お兄ちゃん、料理できたんだ」
「そりゃ、五年も男所帯やってりゃな。いやでも覚えるよ。ていうかこんなの料理じゃねえって」
 いやいや立派な料理ですよ。
 心の中で呟いて、そうかさっきのキムチはこのためだったのか、と頷く。
 智博はさっさと千奈美の前に腰をおろすと、買ってきた酒をテーブルの上に並べた。なにやら鼻歌を歌いながらビールを開ける。千奈美も慌ててチュウハイを手に取り、プルをひきあけた。
「じゃあ、兄妹の再会を祝して、乾杯」
 にやりと笑い、冗談めかした声で智博がそう言ったので、千奈美は思わず微笑んだ。
「乾杯」
 炭酸がお風呂上りに気持ちいい。ビールを勢いよく傾けた智博が、大きく息をついてニヤリと笑った。
「やっぱり俺はこっちのほうがいいね」
「あたしも」
 さっきのワインなんかよりもよっぽど飲みやすい。
 風呂場での張り詰めていた気持ちが和んでいくようだった。
 兄手製のつまみに箸を伸ばしながら、悪戯っぽく兄を見上げる。
「彼女に連絡はしたの?」
「おおしたよ。明日の夜はデートだ」
「仕事は? ないの?」
「休みとってある」
 いいのかなあ、と首を傾げながらも、学生の千奈美にはよくわからない世界なのでコメントは控えた。
 早くも一本目を空にして、それにしても、と智博が呟いた。
「こうしてちなとゆっくり話せる日がくるとはなあ」
 千奈美も、思わず頷く。
「なんか、うそみたい」
 キムチをつまんで、ビールを一口飲んで。智博はぽつぽつと語りだす。
「ちなとは何回も逢ってたし、手紙とかメールとかしてたけど……親父たちには内緒だったもんな。やっぱり後ろめたい気持ちがあったんだよ」
「うん」
 そう。母親に対し、いつも千奈美は後ろめたく思っていた。
「…あの二人、もう大丈夫かな」
 再婚しろ、とは言わない。お互い仕事があるし、それぞれの生活がある。
 それでも、以前までとこれからとは、全然違ったものになるはずだ。
「大丈夫だろ。親父は、今日は絶対に決めてやるって、ずいぶん力入れてたから」
 智弘の言葉に軽く笑った。
「まあ、今夜の感じじゃより戻しそうだったけどな」
「だよね」
 まさに、恋人同士、という雰囲気だったあの二人。
 あれなら大丈夫だろう。そう思った。
 と、突然智博がにやりと笑った。
「それに、親父にはどうしてもおふくろと仲直りしたい理由があったんだよ」
「え、なに?」
 訊き返した千奈美に、智博は笑顔を向けた。
「お前、今年成人だろ? 成人式には、絶対に二人並んで写真を撮りたいって、前にもらしてたから」
「えー?」
 驚いた。
 あの父親が、そんなことを?
 眼を丸くする千奈美の様子に軽く笑い、智博はまたビールの缶を傾ける。
「それには、おふくろとけんかしたままじゃ不可能だろ? だから仲直り」
「それだけの理由で?」
「それだけとか言うけどな、父親にとって娘の成人式ってのは、やっぱり格別なものらしいぜ? 俺だってできたらそばにいたいしなあ」
「えええ?」
「まあでも親父のあれはかなり本気だよ。このあいだも振袖のカタログとか熱心に見てたから」

 そんな会話に始まって、二人は夜更けまで話しこんだ。
 酒に強い智博につられてついつい千奈美も杯を重ねる。


「それでね。お兄ちゃん聞いてよ」
 気がつけば、千奈美は眉間にしわを寄せながら智博相手に語り始めていた。
 酒の力も手伝って、ここ数日間の鬱屈が全て噴出したのだ。
「ずーっとずーっと好きだったのにさあ。そばにいるのにさあ。あいつの心は絶対にあたしに向かないの」
「…うん」
 智博は静かに頷きながらビールの缶を傾けている。すでに三本目に突入している。
「今年は彼女と一緒に過ごすんだ、って。……わかってるけど。覚悟してたけど。でも、なんで逢っちゃうのかなぁ」
 智博が千奈美を見た。千奈美は気づかず、テーブルに突っ伏すようにして水の入ったグラスを見つめている。
「普通さ、誰が通るかもわかんないようなエントランスで話し込む? この寒いのに? 信じられない」
 飲みすぎたためか目はとろんとして顔も真赤だ。
「なんであんな奴のこと好きになっちゃったのかなあ。別に特別顔がいいわけでもないし、性格がいいわけでもないし、頭も特にいいわけじゃないし。
 女心なんかちっとも理解してくれないし。あー、なんであんな奴のこと好きなんだろ」
 千奈美はろれつの回らない口調で放し続けた。
「クリスマスなんて言ってもねー、いいことなんか一つもない。むしろ悪いことしか起こらない」
「今年はひとつあっただろ、いいこと」
 智博の合いの手にかすかに考え、そして口を尖らせた。
「あったけどー」
 確かに、両親のことは今年最大の「良いこと」に挙げられるだろうが。
 そんな千奈美の頭を軽く叩いて、智博は目を細めて笑った。
「はいはい。言いたいこと全部吐いてしまえよ。今までの分も、今日はそばにいてやるから」
 その手の暖かさに、千奈美の瞳が潤んだ。
「……一緒にいたいの。友達なんか、いや。友達なんかじゃない」
 頬を伝った涙を拭いもせず、俯いて、握り締めた自分の手を見つめる。
「でも、石塚が好きなのはあたしじゃないの。一緒にいるのは、あたしじゃないの」
 ぱた、と手の甲にしずくが落ちた。
「…もう、いや。もうやめたい」
 呟き、顔を伏せて静かに泣き出した妹の頭を、智博はやさしく撫でた。
 やがて、しゃくりあげていた肩が規則的に上下し始める。嗚咽の代わりに静かな呼吸が。
 妹が眠ったことを確認すると、智博は押入れから布団を出して千奈美にかけてやった。
 もう一度頭を撫でて、うん、と腰を伸ばしたそのとき。
 テーブルの上に置かれた千奈美の携帯電話が震動し始めた。
 独特の音が響く。
 携帯電話はちょうど五回震えるとぴたりと動きを止めた。明るく光っていたサブディスプレイも元の表示に戻る。
 時刻は午前二時を過ぎている。
 智博は千奈美が眠っていることを確かめてから、携帯に手を伸ばし、ディスプレイを見た。メールだ。
 そこに表示された名前を見て軽く目を瞠る。
『石塚遼平』
 先ほど千奈美がポツリと漏らした名前。
 智博は眼を細めてその名前をしばし見つめた。
 千奈美に視線をやる。よく眠っている。
 智博はボタンを操作し、メールを開いた。
 そして、その内容を見て再び目を瞠った。
 短いメールを何度も読み返す。
 そこに書かれているのはただ一文。
 思案するように眉間にしわを寄せて、智博はメールを閉じた。元のように携帯電話をテーブルの上において、頭を掻く。
「…どうしたもんかな」
 無意識の内にタバコを取り出していた。
 さすがに部屋で吸うのはまずいと思い、ベランダを静かに開ける。とたんに全身を襲った冷気に慌ててコートをつかみ、それを着込んでベランダに出た。
 タバコに火をつけ、手すりにもたれて流れる煙を目で追う。
 千奈美の話の内容から判断するに、妹の思い人はさっきエントランスで逢ったあの男。彼と、今のメールの送り主が同一人物だとした場合、どうしても不可思議なことがでてくる。
「…どうしたもんかな」
 呟いた時、ふ、と目の前をよぎったものに気づいて智博は顔をあげた。
 天から舞い落ちてきたのは白いかけら。
 ふわり、ふわりと舞い降りたそれを手の平に受け止める。体温ですぐに水滴となってしまったそれは、雪の欠片。
 千奈美を起こそうか、と背後を振り向いたが、智博は考えを改めて再び手すりに身を預けた。
 タバコをくわえたまま携帯電話を取り出し、数度ボタンを押す。
 長い呼び出し音のあと、寝ぼけたような声が聞こえた。
「メリークリスマス」
 怒ったような声。それには軽く笑って、空を見上げた。
 白っぽい、曇り空。
「悪いって。今夜ちゃんと埋め合わせはします。――え? ああ、今寝てる」
 そう、と返ってきた声にかぶせるようにして続けた。
「それより外見たか? こっちは雪が降ってるぞ」
 驚いたような声。それはすぐに小さな歓声に変わる。東京でも雪は降っているようだ。
「…おお、ホワイトクリスマスだな」
 それから、しばらくたわいない話をした。
 風が吹き抜けるベランダで、寒さに震えながらもそれをおくびにも出さない。三本目のタバコをもみ消して、思い出したように言った。
「…なあ、ちょっと訊いていいか?」
 なに? という返答を待って、考えながら口を開いた。
「まあ、友人同士の男女がいたと仮定して……相手が恋人と一緒にいるのを知ってるのに、あえて真夜中に『メリークリスマス』ってメールする時の心境ってどんなんだ?」
 戸惑ったような声。返ってきた言葉に、思わず白い息を吐き出す。
「……だよなぁ。そうとしか考えられないよな。…え? ああ、ちななんだけど」
 この場合、あのときの男の表情や状況からして、智博を千奈美の恋人と考えたとみるのが普通だろう。そう考えると、智博が男に睨まれた意味、あの女の表情の意味などが見えてくる気がする。
「…変なこと訊いて悪かったな。ああ、じゃあ。おやすみ」
 静かな声とともに通話を終える。
 そのまま智博は空を見上げてタバコをふかしていたが、やがて寒さに身を震わせると持ってきたビールの缶にタバコを落として部屋に戻った。


◆◆◆◆


 カーテンから差し込む白い光に、智博は目をあけた。時計を見るとまだ八時だ。千奈美は、と見ると、智博がかけてやった布団に包まって眠っている。
 あくびを噛み殺して、起き上がった。
 昼までには東京に戻りたい。
「親父、何時に迎えに来いって言ってたっけな…」
 なにか言われていたような気がするが、よく覚えていない。
 まあいざとなれば置いて帰ればいいのだし、とあっさりとまとめてあごをさすった。
 昨夜散々飲み食いしたためか、空腹感はなかった。
 千奈美は良く寝ている。
 それにしても、と智博は知らず苦笑した。
 子どもだ、子どもだ、とばかり思っていたら、いつのまにか一人前に恋愛をするようになっていた。
 それが少しだけ淋しくもある。
 なでたあごがざらざらする。
 髭をそりたいのだが、シェーバーなどないだろう。剃刀ぐらいはあるかもしれないが……。
 どうしたものか、と頭を掻いたとき。

 突然チャイムが鳴った。

 こんな朝っぱらから客か。
 訝しげに思いつつ、千奈美が起きないように足音を殺して玄関へと向かう。念のためドアスコープから外を見た智博の目が見開かれた。
 見開いた眼を次の瞬間つと細め、静かに鍵を開けてドアを押し開けた。

 そこにいたのは、一人の青年だった。

 染めた明るい色の髪の下、意志の強そうな瞳が智博の姿を認めたとたんに細められた。
一瞬強張った口元が動く。
「……立野は?」
 低い、深みのある声だ。
 智博は相手を観察していた目を笑みの形の細めた。
「寝てるけど?」
 拒絶の響きを込めてそう言う。
 青年の目は、智博の奥の部屋を認めたようだった。1DKのこの部屋は玄関から部屋の中が丸見えだ。人が寝ている様子がわかったのだろう、青年の頬が若干青ざめた。
 それには気づかなかったふりをして、智博はさらに問い掛けた。
「なにか用? 起こそうか?」
 それには固い頷きが返ってきた。
 智博はドアを片手で支え、部屋に向かって声を投げる。
「ちな! お客!」
 もぞもぞと布団が動いたが、起きる気配はない。
「入って待ってて」
 玄関に青年を入れ、ドアを閉めると青年をその場に立たせたまま千奈美の元へと向かった。


◆◆◆◆


「起きろ、ちな!」
 ゆさゆさと身体をゆすられている。
 誰?
 お母さん?
「ちな、おふくろ呼ぶぞ!」
 ううん、違う、男の人の声。
「こら、ちな! 起きなさい、お客さんだぞ!」
 お客さん?

 ようやく意識が浮上した。
 眼をあけると、真っ先に映ったのは真っ白い光。そして、すぐそばにある男の人の顔。
 それが誰かを理解するのに少しだけ時間がかかった。
「……なんだ、お兄ちゃん」
 そうだった。お兄ちゃん、泊まっていったんだ。
 思い出しながら身を起こす。そして手元の携帯電話を引き寄せた。
「…まだ八時じゃない。もうちょっと寝かせて…」
「甘ったれるな、お前もう20なんだろ。いいかげん起きろよ」
「頼むわよおにいちゃん〜〜」
「お兄ちゃんじゃなくて起きる! 客が来てるんだよ」
 とたんに目が開いた。
 反射的に身体を起こして、智博の顔を見上げる。
「お客? …って」
 玄関に目を向け、そこに佇む男の姿を見たとたん、千奈美の顔から血の気が引いた。
 そう、そこにいるのは、紛れもなく。
「………い、石塚…?」
 昨夜酔いにまかせて散々けなしまくった相手だったのだ。
「なんでいるのよ!?」
「俺が入れた」
 智博の言葉に目を剥く。
「なんでっ!?」
 千奈美の顔を見て智博はしれっと肩をすくめる。
「お前に用があるみたいだから」
「だからって普通入れる!? 妹が寝てるところに見知らぬ男を!!」
「見知らぬってわけじゃないだろ、昨夜一度逢ってるし」
「逢ったって言えるのあれを!?」
「うるさい、ギャーギャーわめいてないでさっさと起きろ」
 妹が固く握り締めていた布団を力任せに引き剥がす。とたんに悲鳴が上がったが綺麗に無視し、さっさと布団を押入れに片付けると智博はスーツを身につけてコートと鞄を手にとった。
「お、おにいちゃん?」
 目を丸くしている千奈美に背を向け、智博は玄関に立ち尽くしている青年を見やった。
「えーと、君。俺、もう出かけますから、どうぞ遠慮なく話するなりなんなりしてください」
「なに言ってんのよちょっと!」
 慌てる千奈美に「じゃあな、正月には親父ンとこに顔出せよ」と声を投げ、智博は石塚に軽く会釈するとドアをあけて部屋を出ていってしまった。


 後に残されたのはパジャマ姿で青くなっている千奈美と、閉じられたドアを呆然と見つめている石塚。
 石塚がゆっくりと振り返り、こちらを見てきたので、千奈美は慌てて視線を落とした。
 畳の上に正座したまま膝の上で両手を握り締める。
 顔を上げることができない。
 お互いに話を切り出せず、長い沈黙が落ちた。
「………あのさ」
 かけられた低い声に、千奈美はびくりと肩を揺らした。
「………用って、なに…?」
 相手の顔を見ずに、固い声でそれだけ尋ねる。
 再び、沈黙。
「あー…とりあえず、あがってもいいか?」
 ためらいがちに落とされた言葉に、千奈美は長い逡巡のあとかすかに頷いた。


◆◆◆◆


 急いで引き出したストールを身体に巻きつけ、千奈美は怯えたように目の前の男を見た。テーブル越しに向かい合っているだけでも、もうここから逃げ出したいぐらいだ。しかもパジャマだし。
「……で、用って?」
「そう怯えなくても……」
 男は苦笑した。そのまま、世間話でもするかのように、ポツリと呟いた。
「さっきの人、兄貴?」
「え? ああ、うん。そうだけど」
「昨夜も一緒にいたよな」
 昨夜。
 昨夜の出来事がまざまざと思い出されて、一瞬顔に力が入った。
 そう言えば、なんでこんな朝っぱらからこいつはこんなところにいるのだろう。あの彼女はどうしたのか。
「一緒に過ごす奴って、兄貴だったんだ」
 胸がざわめいているときに落とされた科白に、千奈美は反射的に目の前の男を睨んでいた。
「悪い? いいじゃない別にお兄ちゃんと一緒にいても。そもそも昨日は五年ぶりの親子の再会だったんだから」
 目の前の男が軽く眼を見開き、問い掛けるように見てきたので、いったん口をつぐんだ。零れ落ちてきた前髪をかきあげ、溜息とともに吐き出す。
「……あたしの両親、離婚してるのよ。それで、ヨリ戻すみたいで。昨日は両親と五年ぶりに過ごしたの」
 そうか、と。静かな声が返ってくる。
「……相変わらず淋しい奴とか思ってんでしょ。どうせあたしにはクリスマスを一緒に過ごす相手なんかいないし。誰かさんとは違ってね」
 最後の一言はどうしようもないほどぐちゃぐちゃになった心の奥底からこぼれたものだった。
 自分の卑屈さに涙が出る。
 だめだ。もう、こいつの前にはいられない。これ以上ここにいたくない。
「…ごめん。ちょっと、しんどいから。話ならまた今度聞くから、もう帰って」
 顔を背けてそう言いきった。相手の顔が見れない。
 立ち上がろうとしたとたん、力強い手で腕をつかまれた。そのまま強制的に座りなおさせられる。
「なに…」
「俺さあ、結構ショックだったんだよな」
 唐突な言葉に思わず相手の顔を見てしまった。
 思いがけず真剣な瞳を見て声を失う。
 常に強い意志を宿す瞳が、真っ直ぐに千奈美を射ていた。
「お前に今年は一緒に過ごす男がいるって知って、ショックだった」

 落とされた言葉は、千奈美の頭を真っ白にするには十分すぎる威力を持っていた。
「………え?」
「家族と過ごすんならそう言ってくれよ。イイオトコだとか思わせぶりなこと言うし。おかげで幸せになるはずだったクリスマスが真っ暗になった」
 なにを言われているのか、全然わからない。
「もうメシ作ってくれないとか言うし、そんなに本気なのかって、大学どころじゃなくなって。バイトもやる気でなくて」
「待ってよ。だって、お金貯めてたんでしょ? クリスマスプレゼントを買うためだったんじゃないの?」
「そうだよ」
「じゃあ…」
「“じゃあ”、なに」
 千奈美はただうろたえて目の前の男を眺めることしかできない。言われている言葉は一つも理解できないままだ。
「でも、落としたい女がいるって」
「おおいたよ。でも、口説き落とす前に『男がいます』的な態度とられてみろ。どうしようもねえだろうが」
 男の口調が荒くなった。
「いきなりメールこなくなったし、学校でも」
「好きな女に男がいるってわかって普通に接することが出来るほど人間出来てねえよ!」

 スキナオンナ

 なにひとつ理解できなかった頭の中で、その言葉だけが色を放ち、輝き始める。その瞬間、それまでの言葉が洪水のように「文字」となって押し寄せてきた。
 ストールを握り締めていた両手が無意識に口元へ移動した。
「…でも。昨夜の子は…?」
 がしがしと男は頭をかいた。染められた明るい色の髪が揺れる。
「なんかしらねーけど、クリスマスパーティーに来ないかってしつこく誘ってきて。断ってたところだったんだよ。誓ってなんでもねえからな」
 なんでもない。
 その言葉が、胸に落ちる。
 冷え切っていた心にじわりと暖かいものが広がり始めた。
 凍りついていた感情が溶け始める。
 溢れた思いは涙となって零れ落ちた。
「……立野」
 低い声が流れ込んでくる。
 暖かな声。
「もし、あの時『クリスマスは一緒に過ごしてくれ』って言ったら、お前、頷いてくれたか?」
 もう、溢れ出した感情を言葉にすることができない。
 彼の言葉が嬉しすぎて。もう死ぬほど嬉しくて。
 千奈美はただただ、何度も何度も頷いた。

 涙で曇った視界の中で、石塚が柔らかく笑ったような気がしたけれど、それはすぐに見えなくなる。

 濡れた頬に、暖かな感触。そして、唇に。

 至近距離で見つめた石塚の瞳は優しく微笑んでいた。耳元で声が掠める。

「今日が本当のクリスマスだよな」

 千奈美の髪を指ですいて、眼を細めて。

「仕切りなおし、してもいいか?」

 声もなく、千奈美は頷いた。また泣き出した千奈美を見て石塚は軽く笑う。

 そして、囁いた。



「メリークリスマス」

end...
02.12.06



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