こ こ ろ も よ う

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1  ひめみやきょうこ

「頼むッ!」
「お願い香子さん!」
 2−Aの誇る演劇部の花形役者と合唱部のソリストに拝まれ、姫宮香子は弱りきってずり落ちてきたメガネを押し上げた。
 場所は教室。
 朝登校し、教室のドアをあけたとたんにかまされ香子は重い溜息をつく。
「…ムリだって言ったでしょー。これでも結構忙しいんだから。ほかを当たってよね」
「そう言わずに、是非ッ」
 新見昇太は拝んだままでちらりと眼を上げる。その隣の紀本瞳が香子の手を取ってまくし立てた。
「香子しかいないのよう。お願い、2−Aのために!」
「…あのねえ。だいたいなんであたしなのよ。ほかにも歌歌えて演技もできてって人ぐらいうちのクラスにはいっぱいいるじゃん」
「だっからさあ。言ってるだろ? 主役は歌が歌えて演技ができて、しかも話題性のある人って! 該当者はねーさんしかいない!」
「大丈夫よ、香子なら立派にマリアがやれるって!」
「演技指導なら俺がするし!」
「歌の指導はあたしがやるから!」
 香子は細い眉を下げた。困りきったときによくやる仕草だ。
「でも、あたし委員会のほうが…」
 二人は続きを言わせない。
「マリアのセリフを全部覚えられるのはねーさんぐらいなんだってばマジで!」
「香子なら音程も確かだし、歌もうまいし」
「でもクラブも忙しいし…」
 香子は一歩下がった。
 これほどに頼み込まれて断ることなどできるわけがない。香子の性格上、ここら辺が限度だ。
 だが、どうしても承諾できない理由が、あるのだ。
「本当に、悪いんだけど…」
「無理を承知でお願い! お願いします香子!」
 答えあぐねていた香子は、
「またやってんのか。おまえも強情だよなあ」
 いきなり背後から声をかけられて思わずびくりとした。昇太と瞳が同時に声を上げる。
「湊!」
 倉湊は人好きのする顔を盛大に呆れ顔にして香子を見下ろしていた。
 ひょい、と香子を覗き込むように腰をかがめて、言う。
「いいかげん諦めたら? 俺もおまえが相手役になるんだったら真面目にやるよ? なあ、姫」
 とたん、香子の表情が変わった。
 メガネがきらりと光る。
 そして右手を振り上げた。
「ぐっ!?」
 表情も変えずに湊の顎を掴み、上に持ち上げる。
 青くなった二人が小さく声を上げた。
「ね、ねーさん…?」
 香子はにっこりと微笑んだ。
「二度とあたしを姫って呼ばないで」
「…ハイ。」
 再びにっこりと笑い手を放す。顎をさすりながら、湊は怯えた顔で一歩退いた。昇太と瞳も引きつった顔で香子を見つめている。
 香子は溜息をつくと、三人を押しのけるようにして教室に入った。今までずっと戸口のところで言い合っていたのだ。
 自分の席に重いかばんを音を立てて放り投げる。
 そしておどおどとついてきた三人に向かって、溜息交じりに言った。
「…本当に悪いけど。できない。クラスのことはちゃんとやるし、端役ぐらいならできるけど、主役はムリ」
 昇太と瞳は目に見えてしぼんだ。四人のやり取りをはらはらしながら見守っていたクラスメイトたちもがっくりと肩を落とす。
 みんなのあまりの落胆のしようにさすがに罪悪感を覚えて香子が再び謝ろうと口を開いたとき、廊下を走るけたたましい音が近づいてきたかと思うとものすごい音を立ててドアが開け放たれた。
「委員長委員長姫宮評議委員長はいますか!?」
 せわしなく怒鳴ったのはまだ幼い顔立ちをした少年だった。
 香子は諦め顔で振り向き、声を投げる。
「いるけど、どうしたの?」
 少年は香子の顔を見とめたとたん泣き顔になってせわしなく両手を動かした。
「1−Dですっ。助けてくださいっ」
 溜息をつきたい衝動をこらえて少年の肩に手を置き、若干高い位置にある眼を見る。
「落ち着いて、用件を明確に述べよ」
 少年はあうあうと口を動かすと、涙声で言った。
「生徒会長が、うちのクラスの企画が認められないとかで…ッ。このままじゃ俺のクラス文化祭参加できません〜」
 ぴくりと香子の眉が震えた。
「生徒会長が?」
 香子の声に冷気が混じっているのに、哀れな少年は気づかない。2−Aの人々が皆一様に青くなって沈黙していることにも気づかない。
「助けてくださいいいんちょー」
 少年の声が終わらないうちに、香子は小さく息を吸うと腹筋に力をいれた。
 メガネをついと押し上げる。
 そして少年を押しのけるようにして教室を飛び出した。
「い、いいんちょー?」
「ついてきなっ!」
「え? い、いいんちょ、ちょっと!?」
 騒々しい音を立てて駆け去った香子とその部下を見送って、湊は小さく溜息をついた。同じようにほかのクラスメイトたちも諦め顔で溜息をつく。
「相変わらずだなー、香子のやつ」
 湊の呟きに、昇太と瞳は重たい溜息で答えた。
「やっぱ、ダメかあ…」
 溜息の合唱が教室に落ちた。

◇◆◇◆◇

 かばんを肩に背負うようにして歩いていた篠井春は、近づいてくる騒音につと顔を上げて振り向いた。そして破顔した。
「よう、姫。朝もはよから元気だな」
 廊下をダッシュしてきた少女は春の眼の前で急ブレーキをかけて停まり、こちらを睨み上げてくる。いつものことなので春は特に動じない。どうした? とばかりに小首を傾げ、射るような香子の視線を受け止める。
「い、いいんちょ〜…あっ!」
 情けない声がした。みると、見覚えのある少年がこちらを見て固まっている。確か、一年の評議委員だ。
 事態を察し、春はにやりと笑った。
「で? 評議委員長様が俺になんの用?」
 香子の瞳がさらに険しくなった。
「シノイハジメじゃなくて生徒会長に用があるのよ」
 にこりともせずに言い切り、後ろでおろおろしている少年を指差す。
「1−Dの企画をはねつけた理由は?」
 春は笑顔のまま少年を見やる。つと切れ上がり気味の瞳が細められる。
「企画が曖昧。喫茶店をやりたい、だけじゃわからん。どの程度の軽食を出すのか、材料調達経路は固められているのか、費用の見積もり、責任者、代表者は誰なのか。以上の点を明確にして今日中に提出しなおせと言ったはずだけど? なんで評議委員長が怒鳴り込んでくるんだ?」
「あ…」
 鋭く言われて少年はうなだれる。香子の視線が揺らいだ。その些細な隙を見逃すような春ではない。笑顔のまま切り込む。
「委員長に訴え出てそれで済むと思った? 言われたところをきっちり直して、委員長に確認してもらうって言うのなら話もわかるけど。委員長も委員長だ。話も聞かずに怒鳴り込むなんてずいぶんと短絡的な思考だな」
 唇を噛み締めている少女を笑顔で見下ろす。とたん、少女の頬が屈辱に赤く染まった。
「あ、あの…。スミマセンでした。委員長。俺、自分でがんばってみます」
 少年が小さな声で囁くように言い、逃げるように走り去る。
 それを複雑な表情で見送ったあと、香子は抑えた声で吐き捨てるように言った。
「…悪かったわね」
「全然悪いと思ってないだろ」
 苦い表情の春の言葉には沈黙で応える。
 胸の中が屈辱で燃えていた。
 今回のことは明らかに春に理があった。それは認める。
 だが、勝ち誇ったような笑みを向けられて、どうして素直に謝れようか。
 拳を握り締めて腹立たしい相手に背を向けようとしたとたん、当の本人が絶妙のタイミングで口を開いた。
「A組って劇だろ? なにやるかもう決まった?」
 仕方なく足を止め、振り向きざま答える。
「H組には関係ないでしょ」
 春はにっこりと微笑みかける。
「それが関係あるんだな。俺んとこも劇やるって知らなかった? 悪いけど今年は優勝狙ってるから、ライバル情報はしっかり握っておかないと」
 ライバル。
 ぴくりと香子の眉が持ち上がる。
「姫は出ないんだろ? 委員会もあるしな。ま、姫のいないAなんて相手にならねーか」
 きりきりと眉が上がった。
 香子は勝ち誇った笑みを浮かべる春を睨みつけると、口を開いた。
「お生憎様。出るわよ」
「え?」
 初めて春の顔に笑顔以外の表情が浮かんだ。驚愕。それを胸のすく気持ちで見やりながら、香子はなおも続ける。
「しかも主役でね」
「ええ? でも、Aって確かミュージカルだって聞いたぜ?」
「サウンド・オブ・ミュージック」
 短く言う。春の顔にはいまや隠しようもない当惑が浮かんでいる。
「主役って…ええ?」
 眼を見開き、あいた片手で額を抑える。
 予鈴が響いた。
 香子はくるりと踵を返す。春は我に返り、慌てて口を開いた。
「おまえが主役? 相手は?」
 なぜそんなことを聞くのか。
 怪訝に思いながらも、すでに走り出していた香子は足を止めずに振り向き、一言言った。
「湊」
 春の顔から表情が抜け落ちた。
「な、なにィ!?」
 春の叫び声は香子の耳には届かなかった。
 階段を駆け下りて長い廊下を駆け抜ける。
 一番端のAの教室に着いたときには本鈴が鳴り響いていた。
 飛び込んできた香子を見て、すでに教室にきていた担任が小さく笑った。
「なにやってんだ姫宮。早く席に着け。ホームルーム始めるぞー」
 担任の言葉も聞かずに軽く息を整え、教室を見渡す。
 そして言った。
「主役、もう決まった?」
 一瞬沈黙が降り、次いでおずおずと瞳が答える。
「ま、まだだけど…?」
 四十組の視線が見つめる中、香子はいたって真剣に口を開いた。
「主役、あたしにやらせてもらってもいいかな」
 今度の沈黙は長かった。
 真っ先に口を開いたのは担任だった。
「おお。おまえが主役か! いいじゃないか今年はイイ線行くんじゃないか?」
「優勝を目指しましょう」
 表情も変えずにあくまで真顔で香子は言う。
 がたん、と音を立てて数人が立ち上がった。
「いいの? ほんとに? あとでやっぱりやめるとかナシだよ?」
 喜びと不安が見え隠れする瞳にしっかりと頷いて、
「女に二言はありやせん」
 とたん、全員が笑顔になった。
「やっぱねーさん! そうこなくっちゃ!」
 ガッツポーズで昇太が叫ぶ。
 大騒ぎになった教室の中、湊だけが一人複雑な表情で香子を見ていた。
 あれだけ嫌がっていたのに、いったいどういう心境の変化か。
 脳裡に浮かぶのはくせのある笑顔を浮かべた一人の少年。
 なんとなくおもしろくなくて小さく溜息をついたとき、件の少女が彼に向かって手を振っているのに気づいた。
「?」
 顔を上げ、表情だけで問い掛ける。
 すると彼女はにっこりと微笑んだ。
「よろしく、トラップ大佐」
 思わず苦笑する。そして、笑顔で答えた。
「こちらこそ。フロイライン・マリア」

 かくして、文化祭に向けての2−Aの奮闘が始まった。
 

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