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桜が舞い落ちる。
はらはらと、はかなげに。
ほんの数日前までは誇らしげに咲き誇っていた薄紅色の花弁はもうほとんどなくなっていて、代わりに萌黄色の若芽が顔をのぞかせている。
もう、桜も終わりだなあ…。
四月の第二週は午後からは放課になるため校内にはほとんど人がいない。だから、校門のすぐ横でぼんやりとひとり桜を見上げていても誰も気にしない。
「みーおー!」
ほえ?
遠くから呼ぶ声がしたので振り返ると、校舎の三階から勢いよく両手を振っている少女が見えた。
「なにやってんのさー。ミーティング始まるぞー!」
え!
慌てて時計を見る。
まずい。
ミーティングの時間まで一分しかない。
「ひーちゃん時間かせいでてー!」
鍛えた声を張り上げるや否や昇降口に向かって走り出す。
昇降口に飛び込んでもどかしく靴を履き替える。
そしてスリッパを鳴らしながら階段を駆け上がろうとして――。
「うきゃ!?」
「え?」
全身に衝撃が来て、間の抜けた声とともにころりと廊下に転がった。
なにが起きたのかわからなかった。
ほけっとしていたら慌てたような声とともにずいぶんと高い位置から顔が覗き込んでくる。
「ごめん。大丈夫? 頭打たなかった?」
どうやらあたしはこの人にぶつかってしまったようだった。
慌てて立ち上がろうとしたら、その人が手を貸してくれた。
「湊おまえなにやってんだよー」
「うるせーよ。ごめん、俺ちょっとよそ見してて。保健室行くか?」
あたしに向けられた言葉に慌てて首を振る。
頭二つ三つ分高い位置にある心底申し訳なさそうな顔には、どこか見覚えがあるような気がした。
「大丈夫です。丈夫な身体だけが取り得ですんで」
胸を張ってそう言うと、その人はくしゃっと笑った。
「ほんとごめんな。どっか痛くなったら保健室行けよ」
「いえあたしも急いでいたもんですから」
なかなか好感の持てる笑顔だ。
と思ったら。
ネクタイの色から判断するに三年生らしいその人は、にっこり笑ってこう言ったのだ。
「ほんと悪い。小さくって見えなかったんだ」
愛想笑いが固まってしまった。
(小さくて見えなかった…?)
思わず反芻する。
怒りがふつふつと湧いてきたときには、その先輩はすでに廊下の向こうへと歩き去っていた。
「おまえ今のはひでーよ」
と、そんなことを言う声がかすかに聞こえた。
◇◆◇◆◇
「小さいってなによそれ!」
窓を全開に開け放ち外に向かって絶叫しても構うものはいない。
それは校舎に人がいないからじゃない。
みんな、こんなあたしの行動には慣れっこになってしまっているのだ。
少なくとも、ここにいる人たちは。
「しょうがないじゃない牛乳飲んでも一日十二時間寝ても全然伸びてくれないんだから! 好きでちっちゃいわけじゃないわよー!」
「ついでにあんたは胸も小さいしねー」
「それこそ余計なお世話よひーちゃん!」
耳元でボソリと言われて豪速で振り向き、怒鳴る。
しかし友人博美はびくともせず、真顔で言い切ってくれる。
「あのさー。あんた練習の邪魔。遅刻してきて謝りもせずいきなり絶叫するなって」
むう…。
博美にスコアで頭を叩かれながら、そろそろと教室の様子をうかがう。
笑顔の部長と眼が合い、反射的に背筋を伸ばした。
「……気が済んだ? じゃあ、練習しましょうね、美央ちゃん」
「…ハイ。すみません」
合唱部は新三年生が十二人、新二年生が九人の、計二十一人いるが、その全員が女子だった。男子部員もかつてはいたが、全員卒業してしまい、今では男子部員はひとりもいない。
ゆえに、合唱部はひそかに「女の花園」と呼ばれている。
練習が終わり、不機嫌さ丸出しでスコアを丸めて机を叩いていると、ひとりの少女がやってきた。
合唱部の誇るソリスト、瞳先輩だ。
ふわふわの長い髪をかきあげて、先輩は優しく笑う。
「なに荒れてるの?」
優しい声、優しい言葉。
ああ…やっぱり瞳先輩っていいなあ…。
優しいもん。
薄情なひーちゃんとは全然違う。
名前は似てても、断固違う。
「……せんぱい」
落ち込んだ声で呟いたら、かぶさるようにひーちゃんがしゃべりだした。
「そーれが聞いてくださいよ先輩! なんか美央ってば、さっき「ちび」って言われたんだって」
「ちびじゃなくて小さいって言われたの!」
「大して違わないじゃん」
「全然違う!」
噛み付いたあたしを煩げに手で払う素振りをして、ひーちゃんは先輩に眼を向けた。
先輩は小さく震えていた。
「せんぱい。笑わないでくださいよ」
「あ、ごめん。美央ちゃんあんまりかわいいからさあ。それでさっき絶叫してたの? 下手したら全校中に響くよ、美央ちゃんの声」
「う」
「それにー」
押し黙ったとたん、いきなり先輩が抱きしめてきた。反応できずに固まってしまう。
「いいじゃん美央ちゃんはこのままでー。このコンパクトサイズがいいんだから。ねえ」
ねえ、とは、クラブのみんなに向けられたもので、全員にこっくりと頷かれる。
なんでそこで頷く?
「他人事だと思って」
「だって他人事だしー。美央ちゃんは合唱部のマスコットなんだから、おっきくなったら台無しよ」
「せんぱーい。ひーちゃんもなに頷いてるのよ!」
低い声でそう抗議するが、まったく取り合ってもらえない。先輩は抱きしめたまま放すそぶりを見せなし、ひーちゃんはひーちゃんで頭をぐりぐりと撫でてくる。
あたしはぬいぐるみじゃないわよ!
「まあまあ。それよりさあ、あんたさっきなにボーっと桜見てたの? まさか散り行く桜に哀愁を感じて…なーんて柄にもないことしてたんじゃないでしょうね?」
「ああ、あれ? ただ、葉桜になると毛虫が増えて嫌だなーって思ってたんだけど」
言ったとたん、教室は爆笑に包まれた。
「な、なんでみんな笑うのよぅ」
憤慨して抗議するが、当然のごとく相手にするものはいない。
「もーう美央ちゃん最高!」
いいなあこれ欲しいなあ、と頭をぐりぐりなでられながら、そんなことを言われる。
「ダメですよ先輩。美央はあたしのなんですから」
「ひーちゃん…」
ひーちゃんの言葉に脱力して呟いたとき、なんの前触れもなく教室のドアが開き、
「合唱部部長いるかー?」
と男性の声がした。
あたしを抱きしめたまま先輩が振り返り、破顔するのが見えた。
「あーらはじめちゃんいらっしゃい」
みると、そこには生徒会長が呆れた表情で立っていた。
「なにやってんだ瞳。そんなんだから合唱部は「女の花園」って呼ばれるんだぜ」
「あら? 「男の花園」よりは断然ましだと思うけど?」
にっこり笑って先輩が言えば、
「それはいったいなんのことかな瞳さん」
これまたにっこりと笑いながら生徒会長が訊いてくる。
……なんか、オーラがでてません?
「まあ、ご存じないの? 巷で男バスがなんて言われているか。べつにあたしはあんたがなんて言われようとホモに見なされようとぜんっぜん気にしないんだけどー。でも香子を傷つけるようなことだけはしないでね? 彼氏をオトコに取られましたーなんてシャレにならないから」
「…男子バスケ部はただ単に仲がいいだけなんですけれどね。合唱部副部長さん」
「その仲の良さを危ぶむ人もいるってことよ。男バス副部長さん」
再びにっこりと微笑むあう二人。
怖い。
会長も怖いけど、瞳先輩も、ものすごく怖い。
「ちょっと会長。そうやって威嚇しないでくれる? みんな怯えてるじゃないの。瞳もやめなさい」
そんなふたりに割り込んだのは部長だった。思わず安堵の溜息が漏れた。
瞳先輩も、さっきまでの怖い笑顔はきれいになくなっている。
「で、なんの用?」
「ああ。ステージの使用許可取れたから、その連絡。時間もほぼ希望通りだから」
「あらま。わざわざありがとうね会長自ら。他の子に来させればいいのに」
「みんなそれなりに忙しくてね。俺が一番暇なんですよ、なぜか」
だからお気になさらず、とそう言って、生徒会長は去って行った。
どうやら一週間後に控えた新歓祭の連絡だったようだ。
あれ。そういえば生徒会長って…。
「会長と姫宮先輩、ラブラブなんですよねー」
「あ、あたしこのあいだデートしてるとこ見たよ」
ひーちゃんがそう言って、そういえば、と首を傾げた。
「ちょっと前、三角関係の噂が立ってたよね。男バスのキャプテンと」
「あー!!」
全員が驚いて注視してくるけど、そんなの構っていられない。
そう、忘れもしない、あの顔!
「そのひと!」
「…は?」
怪訝な顔でひーちゃんが聞き返してきたが、もう構わなかった。
見覚えがあるのも当然だ。
文化祭のとき、尊敬する姫宮先輩に本番中にキスをした無礼者・倉湊。
忘れるわけがない。
あの時は怒りに我を忘れそうになったものだ。
その無礼者が、自分のことを「小さい」などと称しやがった。
「……許すまじ、倉湊」
この瞬間、あたしの中での倉湊の位置付けが決まったのだった。
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