NIGHT GAME 一章十三話 5日前
 その日以来、日向剛志はクラスメイトをよく観察するようになった。
 成一に言われたということもあるが、それ以前に、ゲームセンターで見た彼女の生き生 きとした表情と学校で見る彼女の表情が余りに違っていることに少なからず興味を抱いたのだ。
 伊織万真は、毎日決まった時間――八時二十三分――に教室に入り、椅子に座ったと同 時に眠り始める。教室に入ってから席につくまでのあいだ、誰とも口を利かない。
 クラスの人間も、彼女に注意を払わない。ほとんどまったく、と言ってもいい。
 授業中も、もはや教師でさえ彼女を見ようとしない。時折彼女の周囲の席のものが眠る 彼女の背中を見ることもあるが、それは友好的とはお世辞にも言えないものだ。
 昼食もひとりで取っている。他の女子が友人同士で固まって昼食を取っているあいだ、 伊織万真はひとりでさっさと食事を終えて一秒でも惜しいようにさっさと眠る。
 やはり、誰ともしゃべらない。彼女に話し掛けるものもいない。
 そして終業のチャイムが鳴ると同時に起きて、やはり誰とも口を利くこともなくさっさ と帰宅する。彼女に注意を向けるものは、やはりいない。
 いじめられているというわけではない。
 おそらく、この変わりものをどう扱っていいのかわからないでいるのだろう。
 だから距離を置く。
 結果、彼女の周囲には人がいなくなる。
 水城成一は、彼女に友人がいるのかどうか、非常に気にしていた。
 だが、日向が見る限り、彼女が友と呼べる存在は、少なくともこの学校にはいないよう だ。もし友人がひとりでもいたら、彼女が置かれている境遇も少しは変わっただろう。
 だが、彼女に友はいない。彼女をフォローし、他の人間との溝を埋めてくれるものはい ないのだ。
 本来なら、自分でする行為なのだろう。だが、彼女に溝を埋める気がないのか、それと もできないのか、またはその余裕がないほどに追い詰められているのか。ともかく、溝は 埋まらない。
 変わり種は集団から浮く。異端者は集団から排斥される。
 彼女はなんのために学校に来ているのだろう。
 勉強するため? だが、いつも眠っている。
 人との出会いを望んで? だが、いつもひとりだ。
 こんな状態におかれて、つらくはないのだろうか。
 いくら痛みに鈍感だからといって、つらく思わないはずはないのに。
 小学校からこんな様子だと、いつか女子がそう言っていた。
 ならば、その頃からすでにひとりだったのだろうか。
 小学生は、残酷なほどに真っ直ぐだ。集団から浮いた存在を見つけ出し、なんの罪悪感 もなくそれを排斥する。彼女は、大丈夫だったのだろうか。
「なんのために学校に来てるんだ?」
 ある日、たまたま帰り道に行き会ったので、そう聞いてみた。
 すると伊織万真は小首を傾げてこう答えた。
「家で寝ててもいいんだけどね、そうすると心配する人がいるから。それに、家にこもり っきりだと世界がせまくなっちゃうし。
 学校っていう空間も、嫌いじゃない。いろんな性格の人がいて、でもみんなあくせく勉 強して。あたしはひたすら眠って。居心地は悪くないよー」
 嘘だ、と思う。
 居心地がいいはずがない。
 だが、それでも彼女は笑う。
 なんでもない顔をして、笑う。
「みんな、干渉しないからね。ほっといてくれるから、好きなだけ寝れる。ありがたいで すね」
 痛みに気づいていないのか、それとも気づかない振りをしているのか。
 どちらにしろ、それはとても悲しいことだろう。
 それは彼女の強さなのか、それとも弱さなのか。
 血を流しながらも、彼女は笑う。
 ほがらかに。

 それが、伊織万真という人間なのだろう。


 夏休みまであと五日のある日、「庵」にひとりの少年がやってきた。学校帰りだろう、制服姿の少年は、葉介の姿を見るとメガネを押し上げるようにして会釈した。
 万真はまだ学校から帰宅していない。
 葉介は少年を見て顔色を変えた。だがそれは一瞬のことで、ちょうどカウンターの中に いた弘行に「カウンターを頼むよ」と言い残して少年を店の隅、観葉植物の陰にあるテー ブルへ案内する。
 少年が椅子に腰掛けると、葉介は真面目な顔でこう言った。
「…マモルくん、だね?」
 少年は律儀に頭を下げた。
「お久しぶりです、伊織さん」
 葉介の表情には戸惑い、そしてあせり。少年――柳谷衛は、それには気づかずに続ける。
「万真について、ちょっと――」
「ごめん、マモルくん」
 いきなり言われて、衛は眼を瞬いた。
「伊織さん?」
「あの子のことを今まで忘れずにいてくれたことは嬉しい。でも、もう、忘れてくれ」
 衛は絶句した。
 葉介の顔は苦しげに歪んでいる。
「あの子にこれ以上つらい思いをさせたくないんだ。君たちに逢うと、どうしても昔のこ とを思い出してしまう。楽しい記憶と、君たちは思うかもしれない。でも、万真には、逆 なんだ。両親のことを思い出してしまう。利己的な人間だと思われてもいい。僕はもう、 あの子を悲しませたくないんだ」
 衛はなにも言えなかった。食い入るように葉介の顔をみつめ、彼の言葉を聞いていた。
 信じられなかった。
 ここまではっきりと拒絶の言葉を聞くことになるとは。
 ただ、万真が今どうしているのか知ろうとしただけだった。
 自分たちのことをおぼえているかどうか、確かめようとしただけだった。
 それがこんな形で、万真ではなくその叔父によって拒絶されるなんて。
「……忘れるのは、万真だけですか? 千里のことも?」
 葉介はなにも言わない。だが、その表情はどんな言葉よりも雄弁に、衛の言葉を肯定し ている。
 衛はテーブルの上に乗せた両手を強く握り締めた。
「あいつらが、俺たちのことを忘れてしまっているわけではないんですね?」
「忘れてしまった、と思ってくれてもいい」
 葉介の言葉は残酷だった。容赦なく、衛の心臓を突き刺した。
 心臓の音が聞こえる。
 傷つき、引き裂かれた心が、激しく泣き叫んでいる。
 衛は組み合わせた両手を強く握る。かなり強い力を入れているはずなのに、痛みはまっ たく感じない。
「……それが、あいつらのためなんですね?」
「僕はそう思ってる」
 残酷な言葉。
 それは、死刑執行と同義に、衛の心の中に落ちる。カシャン、と、心の中でなにかが壊 れる音がした。
 大切な、大切ななにか。十年ものあいだ、大切に守り通してきたものが、今、無残に打 ち砕かれたのだ。
 震える声を励まして、なんとか衛は声を絞り出した。
「……ワカリマシタ」
「済まない」
 葉介の言葉もそこそこに、衛は上の空で挨拶する。
 出る間際、衛は振り向き、言った。
「でもね、伊織さん。俺たちはまた逢いますよ。万真たちが、あの王国にやってくる限り、 いつか必ず、俺たちは出逢う」
 葉介が目を見張り、その場に立ち尽くしているあいだに、ドアは閉じられ、少年の姿は 消えた。
 ドアベルが空虚な音を立てて鳴る。
 葉介は溜息をついて、カウンターに足を向けた。
 カップを洗っていた弘行が葉介を見やる。
「知り合いッスか?」
「いや――ああ、そうかな」
 曖昧な言葉に、弘行は怪訝な顔をしたが、なにも言わずに水道の水を止めると手を拭い た。カップをふきんで拭きながら何気なく話し掛ける。
「カズ坊、やっぱりそっちの才能があったみたいスね」
 葉介は答えない。難しい顔をして、手渡されたカップを後ろの棚にしまっている。
「止めなくていいんスか? なにかあったとき、後悔するのはマスターですよ」
 葉介は無言だ。
 最後のカップの水気を切り、拭きながら、新たにやってきた客に「いらっしゃいませー」 と声を投げる。
「予想はしていたんだ。いつか、あの子も目覚めるだろうと…」
 パン、とふきんをのばしてハンガーにかけながら、何気ない口調で弘行が言った。
「血は争えないってことスかね」
 葉介の表情を見て、「すみません」と小声で言う。
 葉介は表情を改めて、苦い笑みを浮かべた。
「確かに、そうかもしれないね。……血か」
「……止めなくていいんスか?」
 葉介はゆっくりと首を振る。自嘲気味に。
「誰が止められる? 誰もそんなことはできないって、君もよくわかっているだろう?」
「……そうッスね」
 弘行はぺこりと頭を下げると、注文を取るためにカウンターを出て行った。
 ひとり残され、葉介は視線を床に落とす。長めの前髪が、哀しみに曇った表情を覆い隠 している。
「……そう、予想はしていたんだ」
 光にひきよせられるように、いつか、万真があの世界に入っていくことはわかっていた。 だが、できることなら――できることなら、そんな日がこないようにと、そう祈っていた。
 だが、それははかない夢。
 万真に諭して、夜の外出を禁止するぐらい、わけはない。
 だが、それではなんの解決にもならない。
 あの世界のことは、誰よりもよくわかっているから。
 いつのまにか戻ってきていた弘行が、慰めるように葉介の肩を叩いた。
「大丈夫ッスよ、カズ坊なら。正樹さんと多希さんの子供なんだから」
 その言葉に、ようやく葉介は笑顔を浮かべた。
「だめだね、どうも過保護になっちゃって」
 そうだ。
 万真たちなら、大丈夫だ。
 顔を上げ、葉介はおどけたように、だがまぎれもない本心から、こう言った。
「怪我をしないことを祈るよ」


 衛はひとり、歩いていた。
 頭の中で、葉介の言葉がぐるぐる廻っている。
 なぜだ。
 なぜ、あんなことを言われなくてはならない。
 確かに、万真の気持ちは大切だ。万真があの時、ぼろぼろに傷ついていたことは衛もよ く知っている。その万真を守りたいと思う葉介の気持ちもわからなくはない。
 だが、衛たちの気持ちは?
 衛たちの気持ちは、どこに向ければいい?
 苦い気持ちで、衛は足元の石を蹴飛ばした。
 胸に刺さった大きな棘は、まだ取れない。ずきずきと、心を突き刺している。
 やるせない気持ちで大きく溜息をついたとき、道の向こうから歩いてくるひとりの少女 に気づいた。
 なにかいいことでもあったのか、嬉しそうに口元を緩めて歩いてくる。
 短い髪が風に揺れ、少女の眼が心地よさそうに細められる。
(万真――!)
 衛は少女をみつめた。
 祈りを込めて。
 だが、少女は衛を見ることもなく、すれ違い、通り過ぎていく。
 衛は握り締めていた拳から、ゆっくりと力を抜いた。
(忘れてしまったのか…?)
 一瞬胸をよぎったのは絶望。
 その痛みに、やはり一番彼らに逢いたがっていたのは他ならぬ自分だと、改めて気づく。
 亮には、なんと言おう。
 なにも言えない。こんなことは、とても言えない。
 誰にも言わずに来たことが、かえって幸いした。亮には――いや、まどかにも紗綾にも、 このことは隠しておこう。
 相談するとしたら慧だが、それ見たことかと、あのきれいな顔で言われそうで、やはり 相談する気を無くす。
 慧の顔とともに、彼の言葉が浮かんだ。
 万真は、過去の人間だ。
 ということは、万真たちにとっても、衛たちは過去の人間だということだ。
 衛は拳を握り締める。
 築けばいい。両者をつなぐ糸が切れたのなら、また新しく築き上げればいい。
 葉介の言葉を忘れたわけではない。だが、ここまで来て、過去の、あの思い出をすべて 忘れるというのは不可能だ。
 幸いにして、万真たちと衛たちは王国という糸で結ばれている。
 まだ細い糸だが、それを太い、確固たる物にするには、そう時間は要らないように思え た。
 胸を刺す棘はまだ抜けてはいない。痛みも、まだある。
 だが、それでも、新たに湧きあがった希望は、痛みを和らげるには十分なものだった。


 部屋でひとり本を読んでいた千里は、戸外から聞こえてきた物音に顔を上げた。
 時計を見ると、時刻は七時になろうとしている。窓の外はすでに暗い。カーテンを引く ことすら忘れていたようだ。
 部屋を出て階段を下りると、ちょうど靴を脱いでいた中年の夫婦に行き会った。
「お帰り」
「ただいま」
 おっとりと答えたのは、千里の伯母、相馬幸枝。幸枝はあわただしく上着を脱ぐと、 「今すぐ夕飯の支度するからね」
 と言い残してばたばたと台所に消えた。
 千里は残された幸枝の鞄と、難しい顔をして立っている伯父、相馬良樹の鞄を奪うよう にして受け取る。
「疲れてるみたいだね」
「……まあな」
 低い声で答えて、良樹は甥の顔を見る。
「手術はうまくいったんだろ? 今日はもう休めば」
「ああ。それより、千里」
 良樹は手招きして、千里を彼の書斎に招きいれた。
 重厚な皮のソファーに腰を下ろして、千里は伯父の顔を見やる。
 良樹は千里の顔を眺めると、口を開いた。
「最近、薬を飲まなくなったな」
 千里は答えない。
 眼をそらして、壁に備え付けられた棚の中の、本の背表紙を睨んでいる。
 千里はここのところカフェインを飲んでいない。以前は毎晩のように飲んでいたのだが、 最近はその必要がなくなったのだ。
「いい変化だ」
 千里は無言だ。
 良樹は溜息をつく代わりに、笑顔を浮かべた。
「なにかあったのか?」
「…なにもないよ」
 そっけない言葉。千里は伯父の顔を見ない。
 降りた沈黙を破ったのは良樹だった。
「一度、病院に行くか? 必要ないかもしれんが」
 千里は静かに、だがはっきりとそれを拒絶した。
「必要ない」
「……そうか」
 良樹はそれ以上言わなかった。
 無理強いをしても無駄だということをよく知っていたからだ。
 非常に気まずい夕食を済ませて、早々と千里は自室に引き上げた。
 眠るでもなしに、ベッドの上に横になる。
 初めてあの世界に足を踏み入れた日から、身体の中でなにかが変わった。
 夜になると、妙に心が昂揚するのだ。
 いつまでたっても眠気は訪れず、むしろ外へ外へと、心が要求する。
 外へ出たい。
 夜の空気を思い切り吸い込み、あの世界で、暴れまわりたい。
 その衝動をこらえるのは、難しかった。
 だが、この変化は千里にとってはかえってありがたいものだ。
 無理をして起きていなくてもいい。
 薬に頼らなくてもいいということで、精神的にも負担がかなり減った。いいことだ。
 この変化は、万真にも、成一にも訪れているらしい。
 万真はともかく、もともと夜型人間の成一も、特に困ってはいないようだ。時折「昼間 バイオリズムが低下して困るんだよなあ」ともらしたりしているが、口で言うほど困って いないのはすぐにわかる。
 千里は寝返りを打った。
 読みかけの本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
「ゲーム」に参加する。
 そのことが、どういう結果をもたらすのかはまだわからない。
 ただ、三人一緒なら、どんなことでも切り抜けられるような、そんな気がする。
 根拠のない自信だ。
 だが、どんな時も、どんなにつらいことがあっても、三人一緒にいることでそれを切り 抜けてきた。
 だから、今度も大丈夫だろう。
 千里は起き上がり、本に目を落とした。
 夏の夜は短い。
 本の三冊もあれば、十分時間をつぶすことができるだろう。
 千里はふと、壁にかかったカレンダーに眼をやった。
「あと五日、か……」


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