水銀灯が心細げに灯っている下に転がっている、誰かが置き忘れたサッカーボールがひどく場違いなものに思えた。風に押されてブランコがキィと心細い音を立てて鳴いた。
「いたた…」
顔面からダイブしたおかげで鼻を擦りむいてしまい、成一は情けない声でうめいた。すばやく身を起こしたナンが周囲を見回す。
「みんな無事――」
「ぅわぎゃあっ」
突然起こった奇妙な声にそちらを見ると、万真が一人で悶えていた。ばたばたと手を振り回して必死に立ち上がろうとしている。万真の足元にわだかまっている黒々としたものに目をやって、成一は喉から出かけた絶叫を慌ててかみ殺した。
「―――っ!」
万真の両足首にからみついているものは、人間の手ともそうでないとも見て取れた。真っ黒に塗りこめられたそれの手首から先はなく、すっぱりと切り落とされたそこからは触手のようなものが蠢いていた。
影の、指にあたる部分がどろりと溶け、そこからさらに触手が伸ばされ、万真の足の上を這った。
「〜〜〜〜ッッ!!」
万真の全身が粟立った。生理的な嫌悪感が、恐怖に打ち勝った。
渾身の力を振り絞り、にょろにょろと蠢くそれをなるべく見ないようにしてむんずとつかむ。そしておもむろにそれを引き剥がして、力の限り遠くへ投げ捨てた。もう一歩の足も、同じようにする。
「う――あ――もうっ、気色悪い気色悪い気色悪い!」
「………」
ぴょんぴょんと、耐え切れなくなってそこらへんを跳ね回る万真を、全員が唖然としてみつめた。
「うわーん、まだぞわぞわするっ!」
「………万真サン?」
成一の呼びかけに、ようやく万真は動きを止めた。それでもまだばたばたと両手足を振ることをやめない。
「さわっちゃったよー」
「さわっちゃったよーっておまえ……なに考えてんだ?」
怪訝な顔で万真は千里を見返した。
「なにが?」
「なにがっておまえ、あれを素手でさわるか普通!」
「じゃあどうしろって言うのよ。ほんっとに気持ち悪かったんだから!」
思い出したのだろう、万真はとたんに青い顔になって二の腕をこすった。
その様子を傍らで見ていたナンは、乱れた髪をかきあげてぽつりと呟いた。
「いやあ…あれも一種の才能だねえ」
「って言うかあいつ、マジでゴキブリ程度にしか思ってないんじゃ……」
ゴキブリ相手に同じ反応をしていたことを思い出して成一はひとりごちた。それはずいぶんと、神経が太い。
仲睦まじく口論している千里と万真は放っておいて、成一はさきほど万真が投げ捨てたものを眼で探した。ほどなくして、それは見つかった。そして見つけてしまったことを激しく後悔した。
「……なんッか、俺、めまいしてきた」
夜の闇の中、その部分だけ明らかに地面が黒かった。なにもないのに生じた影は、うぞうぞと音もなく移動して、サッカーボールの影にすっぽりと紛れ込んだ。
万真たちは気づかない。
「だいたいなんだよ“ぅわぎゃあ”って。どうせならもっと女らしい悲鳴をあげれば?」
「なにそれ女性差別? セクハラ? 〈女らしさ〉を五十字以内で定義できる? できないくせにわかったような口きくなバカセン」
最初の論点からさながら坂を転がり落ちるボールのようにころころと変わっていく二人の口論にも、慣れていたはずなのに成一はなぜか頭痛を覚えた。
音もなくボールはゆっくりと転がっていく。ぞろりと持ち上がった影がボールを押し出す。ボールが転がり、影が移動する。飽くなきその繰り返し。
「カタカナで言いやがったなこの野郎!」
「ああ言ったよ。だからなにさバカセンえびセン!」
はたして二人は最初の論題を覚えているのだろうか――いや、覚えていまい。
どんどん低レベルになっていく二人の口論を聞いていた成一は、無言でため息を落として首を振った。
「……いつもこうなの?」
力なく笑うしかない。
今のこの状況も忘れて、成一はただ呆然と口論する二人を眺めていた。
「――こんなキョーダイ喧嘩なら、悪くないね」
「え?」
ぽつりと落とされたナンの科白を聞きとがめて成一が彼女を顧みたとき、ふいに二人の口論がぴたりと止んだ。
見ると、ひたすら等速直線運動を行っていたサッカーボールが、行く手に立ちふさがった障害――すなわち千里の足――に阻まれて静止している。千里と万真は、今まで怒鳴りあっていたことなどころりと忘れて、眉をひそめてサッカーボールをみつめている。
「……遅いって気づくのが」
ナンがぼそりと突っ込んだ。頷きながら、成一はさっきからずっと気になっていたことを言う。
「それよりもナンさん、どーもさっきから頭数が少ないような気がするんスけど」
「あー…」
おりしもそのとき、サッカーボールの影がぞろりと動いた。
「うわっ!?」
万真が派手な悲鳴をあげて飛びのく。千里はただ眉をひそめてソレをみつめた。
盛り上がった影は、そろそろとサッカーボールを押し出して必死に方向を変えようとしている。
「………」
誰もが無言で、ボールをみつめた。
なんとか障害物を迂回したボールは、そのままそろりそろりと運動を再開した。まっすぐに――ひたすらまっすぐに成一に向かって進んでいく。
「………アレって、知能あんのかね」
成一の呟きに答えるものはいない。
ぞろりぞろりと動く物体をひたすら凝視していた千里が、ふいにぽんと手を打った。
「尺取虫」
「ほあ?」
謎の物体の動きは、尺取虫に似ていた。
ゆっくりと移動するサッカーボールは、成一の前までくると静止した。じっと見守る四人の真ん中で、ボールの影から黒い塊が分離する。そしてソレは、じわじわと成一に接近してきた。
(なんだかなー)
気づかれていないと思っているのだろうか。それとも、そんなことを考える知能すらなく、ただあの男の命令のままに動いてるに過ぎないのか。おそらく後者であろう。
どっと疲れが出たような気分で、成一はがしがしと頭をかいた。その隣で、ふいにナンが身動きした。と思ったときには、ナンの美脚が成一の目の前に振り下ろされる。
バスケットシューズに踏みつけられた影は、びちびちと蠢いた。
「うっ」
万真はひいた。成一と千里はわずかに顔をのけぞらせただけだったが、それでも気分が悪くなって顔をそらす。
びちびちと蠢いていた影は成一に向かって触手を伸ばしたが、ナンがぐりぐりと念入りに踏みつけるとたちまち引っ込んだ。
「成一」
「はいっ」
声が裏返ってしまった。影をまともに注視する勇気はなく、ただナンの顔を仰ぎ見た。
「あんた、さっきのアレ、もう一度やってみな」
成一の頭は一瞬真っ白になった。そして、彼女の言葉を理解したとき、成一は思い切り首を振っていた。
「――ッあ、えっ。ムリッ」
混乱した頭で、なんとかそれだけを口にする。
「さっきのが本当にあんたの力か試すんだよ。ほら、さっさとやる。あたしだって気持ち悪いんだ!」
強い口調で言われて、成一は不安げに視線をさまよわせた。そんな成一に、千里はしっかりと頷きかけた。
「骨は拾ってやるから」
「せーんーり――っ」
「泣き言いうな。だいじょうぶ、死なない死なない」
「誰が保証するんだよそれ!」
「俺」
「バカヤローッ」
成一は蒼白だった。千里はにっこりと微笑むと、友の肩に手を回して耳に唇を近づける。
がらりと声音が変わった。
「ぐだぐだ言ってないで、さっさとしろよ。でないと――カズにあのことばらすぞ」
「――!」
成一は、オチた。
成一が抵抗する気力をなくしたのを見て取って、千里はよしよしと頷くと肩に回した手をどける。
成一を見据えて、ナンは言った。
「いいかい。放すよ」
成一が頷いたのを見届けて、ナンはその足をどけた。
その瞬間、影がぞろりと持ち上がり、反動をつけたかと思うと、成一めがけて飛び上がった。
「うわあっ」
かばってあげた両腕に影が触れると見えた刹那、パシン、という音とともに影が消滅する。
そろそろと顔を上げて、影が跡形もなくなったことを確認して成一は呆然とする。
「………やっぱり、俺?」
「まちがいなく、おまえ」
千里にきっぱりと断言されて、成一はなぜか言葉につまった。覗き込んできたのは万真で、成一に気遣わしげな瞳を向けた。
「だいじょうぶ? 変なところとかない?」
「変なのは、むしろ俺のアタマ」
冗談でもなんでもなく、本心だった。頭がどうにかなりそうだった。
夢だったらいいのに――と思う自分がむなしい。そう考える時点で、すでにこれが現実であると肯定してしまっているのだ。
「本当におまえだいじょうぶか? けがとかしてないか?」
「………けッ、はくじょーもん」
「あのなあ。俺はおまえの緊張をほぐそうと思って」
「ふん、そういうことにしといてやる」
むっとなった千里を万真が慌ててなだめる。いつもどおりの光景に、成一の心は少しだけ和んだ。
穏やかな沈黙がおりる。夜の風は、夏の匂いがした。
「…なあ。さっきのって、やっぱ、俺がやったのかな」
ぽつりと落とされた言葉に、千里と万真は顔を見合わせる。答えたのは千里だった。
「たぶん」
成一は唸った。がしがしと髪をかきむしり、頭の中を整理してみようと試みるが、依然としてぐしゃぐしゃになった頭の仲は混沌として、なにがなんだか理解できない。
「うー、わけわかんねーっ」
その思いは、千里も万真も同じだった。
三人の視線は、当然のことながら、この場で唯一事態を理解できていてなおかつ説明してくれそうな人物に向けられた。そして同時に口を開いた。
「もういっぺん、最初からきっちり説明してクダサイ」
ナンはぽりぽりと頬をかいた。こんな事態は予想していなかった。
「最初から話せって言われてもねー。なにが一番ナゾなわけ?」
適当なベンチに腰を下ろしてすらりと伸びた足を組む。
三人は同時にまったく同じ科白を吐いた。
「鬼ってナニ」
予期していた答えだったが、どう答えようかナンは悩んだ。ちょこんとしゃがみこんで、万真はナンを見上げる。
「鬼ごっこの鬼と全然違うじゃん」
「――まあ、違うっちゃ違うんだけどね」
どう話したらいいのやら。
「鬼ごっこの鬼ってさ、ある意味異色じゃない?」
「イショク?」
成一が石でも噛んだような表情で訊き返す。
「一人だけみんなと違うんだ。『負けたやつが鬼』ってあれ、要は一人だけ『違う』やつをつくりだすことだろ。だから、鬼はみんなとは違う。異色なんだ」
成一は奇妙な表情になった。うつむいて、ひざを抱え込んで地面をみつめている少女を見やる。不透明な顔で、千里は呟いた。
「……わかる、と思う」
ナンは少しだけほっとしたように見えた。
「そう? よかった。こういうのはあたしよりライトのほうが得意なんだよ」
その段になって、ようやく万真はライトの姿がないことに気づいた。見ればゼンと呼ばれた少年もいない。
「ふたりは?」
尋ねると、成一とナンはあからさまに呆れた。いくらなんでも、気づくのが遅すぎる。
「たぶん別のところに飛んだんだろ。まあ、そのうちくるさ。こっちの居場所は伝えてあるから」
万真はようやくルーレットに思いがいたった。もしタイミングがずれていたら、みんなばらばらになっていたかもしれない。自分たちはよっぽど悪運が強いのかもしれない、ちらりとそう思った。
ナンが話を戻した。
「それでだ。あたしたちの中では、異色なやつが“鬼”って呼ばれる。表向きにはそういう理由」
異色と言われて成一は複雑な表情になった。唇に指の背をあてて、成一が問い掛ける。
「異色って、たとえば?」
「表向きってことは、他にも理由があるの?」
畳み掛けるような万真の言葉に、ナンは二人を見比べて髪に片手をうずめた。
「そう急くな。順番に説明するよ」
吹く風にブランコがゆれた。鎖がきしむ音が、妙に大きくうつろに響く。
ナンは少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「あたしたちは、それぞれいろんな能力を持ってる。たとえばライトは光を操るし、あたしは――」
ナンの片手がひらめくと、足元に転がっていたサッカーボールが突然裂けた。空気が抜け、布の塊と化してその場に崩れ落ちたソレを、三人は眼を見張ってみつめた。なんの気配も感じなかった。
「あたしは、真空状態をつくりだすことができる。いわゆるかまいたちってやつ? それを起こすことができるんだ」
思い当たることがあった。シャドウが、彼女を「カマイタチ」と呼んでいたではないか。
「まあ、ほかにも見ただろ。あの破壊魔ボウヤとか、シャドウとか。まあいろいろいるわけさ」
風がナンの髪をゆらした。見上げる万真の視界のナンは、大きな満月を背にしている。
「それぞれみんなでたらめな力のように思えるけど、そこにはなんらかの法則があるって言われてる。理って言うのかな」
「じゃあ、“鬼”っていうのは、その理から外れたやつ?」
万真の言葉に、しかしナンは静かに首を振った。
「そう思うだろ。でも逆なんだ」
理由を問うてくる三組の視線を見返す。
「みんな、理に従って力を帯びているはずなのに、その理がなんなのか、誰も知らない。理を知ろうとしたやつもいた。でも、結局なにもわからなかった」
漠然としたものが、三人の胸の裡に湧き上がる。ナンが言いたいことが、少しずつ、形となって理解できるような気がした。
「“鬼”はその理を知るものだって言われてる。ほんとかどうかは知らないけどね」
「でも、俺なんにも知らないぜ? ここのことだってさっぱりわからねえのに」
思わず声をあげた成一を、ナンはじっとみつめた。
「あたしは“鬼”なんてやつに逢ったことはないけどさ。でも、それでもあんたは“鬼”なんじゃないかって思うよ」
「だからなんで」
「俺、わかる気がする」
言ったのは千里だった。万真がことんと首をかしげた。
「一、さっき影を消したじゃない」
突然言われて、成一は面食らった。千里とナンが同時に頷いたので、さらに困惑した。
「わっかんねーよ。消したって言っても、じゃあつくりだすことだって理を知らなくちゃできねえだろ」
「うーん。そこらへんがあたしもよくわかんないんだけどさ」
苦笑して、ナンは軽く空を仰いだ。月は西に傾いていて、夜空は月の光に明るい。
「言葉が悪いんだ」
突然千里が言った。
「“知る”なんていうから話がややこしくなるんだ」
千里はどこかすっきりとした表情で、みなを見渡した。
「理があるってことは、誰もが知ってることなんだろ。でもそれを使うすべを知らない。支配するすべを知らない。そういうことじゃないのか?」
「……もちっと詳しく」
成一はといえば、口に入れた豆腐の中に硬い石が入っていたような、そんな表情で千里を見ていた。ナンはわかったようなわからないような顔をしている。
「一、水の化学式は?」
「H2Oだろ。バカにすんな」
「そう。水は昇華や凝固によって変化するだろ」
「だからなんだよ」
「つまりだ。俺たちは原子や分子の存在――つまり理を知ってる。理解している。水がその理によって成り立つことも知ってる」
「おう」
「さらに俺たちは、水を氷や水蒸気に変化させることもできる」
「それで」
「でもそれは分子や原子なんか知らなくてもできるだろ」
はたと成一は手を打った。
つまり、その状態がナンやライト――いわゆる普通のものだといえる。
「んじゃ、鬼は」
千里はいまいち確信が持てない、といったふうに小首を傾げて見せた。
「ほんとに推測でしかないんだけどさ…。理を『支配する』人なんじゃないか」
また水で例をあげるけど、とことわりをいれて、千里は続けた。
「おまえ今ここで、水を原子に分解できるか?」
「原子? 分子じゃなく? そりゃムリだ」道具さえあれば水素分子と酸素分子に分けることができなくもないが。
「だから、それができるやつを“鬼”って呼ぶんじゃないか?」
人は物質の形状を変化させることはできても、その根元までを変えることはできない。 水を氷に、鉄を固体から液体に変化させることはできても、鉄の塊を個々のFeに分解することはできない。
しかし、それを自在に操ることができるものがいるとすれば、それこそ空気中の物質を集めてその場でダイヤモンドを作り出すことすら可能となる。
とどのつまり、“鬼”とはそういう存在ではないかと、千里はそう言っているのだ。
「なるほど!」
そう言ったのはナンで、三人は疑わしげな視線をナンに向けた。
「……ナンさん?」
不審そうな表情の万真に、ナンは悪びれずに笑った。
「すっごくわかりやすかった。あったまいいねえ、千里くん。だからさ、状態を変化させることができるのがあたしたちなんだよ。でも“鬼”はそうじゃなくって、その根本のところから変化させちゃう」
さっきあんたがやったように。
そう言われて、成一は本当にどういう表情をすればわからない、という顔になった。
心底面倒くさそうに千里が口を開いた。
「だから、簡単に言うとだな。おまえは水をいきなり原子に分解するのと同じことをやったんだ」
「……俺がぁ?」
信じられない。
「うん、顔に書いてある」
「…エスパー?」
「バカ?」
冷たく言われて成一はさっくりと傷ついた。万真はそんな成一を仰いで、軽く首をかしげた。
「ムリして納得しなくてもいいんじゃない? いくらなんでも普通じゃないから、この事態は」
そっけない言葉に、なぜか成一は肩の力が抜けた。普通じゃない、そう考えているのが自分ひとりではないことを知って、心が軽くなる。
「まあ、えらそうなこと言っといてなんだけど、俺、自分で納得してないから」
さらりと爆弾発言をかました千里は、唖然とする周囲の視線に軽く首を振って見せた。
「理屈は理屈。分析すんのは好きなんだけどさ。ただ俺ってどこまでも常識的な人間ですから、こういう非現実的なことには順応できなくて」
「ウソツキ」
即座に、しかも混声ユニゾンで言われて、さすがに千里はしばし沈黙した。
「…それはどこにかかった科白? 常識的? 順応できない?」
「全部」
きっぱりと言われて、千里は完全に沈黙した。千里を黙らせた万真は、ナンに視線を戻して言った。
「で? 裏の理由って?」
黙って三人の会話を愉しんでいたらしいナンは、突然話題を振られて慌てて万真を見た。
「あ、ああ。そうだったね」
言って、ナンはふと万真をじっとみつめた。不思議な表情に、万真はなぜかどぎまぎした。
「な、なに」
「んー。なんでもないよ」
答えて、ナンはこぼれてきた前髪を押しやる。
「ただ、言っても理解できるかどうか」
「そんときはそれまで。とりあえず話してよ。気になるから」
ナンは「それもそうか」と苦笑した。しばらく言葉を選んでいるふうだったが、やがてぽつりぽつりと話し出した。
「“鬼”にはもうひとつあってね。それはこの世界の存在に関わるっていうものなんだ」
きょとんとしている三人を眺めて、ナンは困ったように笑う。
「これも聞いた話。さっきの理を知るってことにもつながるんだけれど、“鬼”は、この世界の“鍵”につながるって言われてる」
また知らない言葉が出てきた。三人の表情に気づいて、ナンはすぐに言った。
「鍵って言うのは、この世界を支配する鍵。それがなんなのかは誰も知らない。もしかしたら人かもしれないし、物かもしれない」
千里が首をかしげた。
「誰も知らないのに、そんなものがあるってわかるわけ?」
「ずうっと言い伝えられてるらしいよ。あたしは先輩から聞いたし、その先輩もそうだって。伝説みたいなもんかな」
ふに落ちないといった表情で話を聞いていた万真は、あることに思い当たって顔を上げた。
「わかった。それでチーム同士が争うんだ」
初めにナンは、「鬼をめぐって対立する」と、そう言っていたではないか。
「まあ、本気で鬼を手に入れようとしてんのはMETHだけなんだけどね」
言ってから、ナンは慌てて付け足した。
「METHはシャドウのチームだ。あいつがリーダー。どいつもこいつも変態で、性根の腐った連中だよ。絶対に近づくんじゃないよ」
言われなくても、あいつがリーダーと聞いただけで絶対に関わりあいたくないと心の底から思う三人だった。
成一は無言で足元の草を引き抜く。引き抜きながら、小さな声で呟いた。
「“鬼”って、一種の伝説だろ? そんなのほんとに信じてるわけ? 俺は自分がそんなにだいそれたものだなんて思えねえよ」
指先には土がついて、それが爪の中にまで入り込んでいる。薄暗い街灯に浮かび上がる成一は、迷子の子供のような、途方にくれた表情をしていた。
ナンは成一のつむじを見下ろした。
「……“鬼”は半信半疑だったかな。少なくともあんたみたいなタイプのほうは、信じてなかった。理なんてどうでもいいって思ってたから」
ナンの言葉は成一を通して誰かほかの人に向けられているように感じられた。成一は顔を上げて、ナンの、限りなく透明な表情にぶつかった。
すべての喜びも悲しみも怒りも、感情という感情をすべて超越したような、どこか諦めに似た表情。そんな表情をする人物を、彼は知っていた。
ナンの瞳はどこか遠くをさまよう。透明に澄んだ瞳に映るものはただ虚空だけで、柔らかな声にはなんの感情も現れない。
「でも、“鍵”のことは信じてる。鍵につながる鬼のことも信じてる。――そういうやつを、知っていたから」
ナンの表情のなにかが、万真の心にふれた。人がこんな表情をするとき、そのときなにを考えているのか、そのときの心を、万真は知っていた。
考えるまでもなく、口が勝手に開いていた。
「ナンさん、ムリしてない?」
言ってから、万真は激しく後悔した。いくらなんでもストレートすぎる。そろそろとナンをうかがうと、彼女は目を大きく見開いて万真を注視していた。
「……ごめんなさい」
万真が身を縮めて謝るのと、ナンがくしゃっと笑うのは同時だった。泣き笑いのような表情に、見ているこちらがせつなくなった。
「はは……まいったなあ。今のはちょっと、効いたー」
ナンはのけぞって天を仰いだ。しゃがみこんでいる三人の位置からはナンの表情は見えない。天井の銀盤だけが、彼女の表情を、気持ちを知っていた。
静かなときが流れる。月はゆっくりと西に傾き、星が廻る。夜を渡る風は公園の木々を、ブランコを、そして四人をかすめて、通り過ぎていく。
沈黙は、なんの前触れもなく突然破られた。
公園の片隅にある木々のこずえが突然ざわめいたかと思うと、ふいにそこに陽炎が立ち現れる。転がりでた人物を見て、思わず三人は腰を浮かした。動じなかったのはナンで、飄々と片手をあげて声をかける。
「早かったね」
「と、とぉちゃく〜」
べしゃっと、奇妙な音とともに地面に突っ伏したライトは、なんとか起き上がるとかろうじてそう答えた。ころりときれいに転がった少年がその勢いで木に激突し、頭を抱えて丸くなっている。どことなく、二人は憔悴して見えた。
「……だいじょうぶ?」
「なんとか」
万真に答えて、ライトは服に付着した砂を払う。ゼン少年も頭を抱えながらふらふらとこちらへ歩いてきた。
「ナンさんは、無事ですか」
「あんたたちは無事じゃなかったみたいだね」
ライトが顔をしかめた。
「途中でB・Bにつかまっちゃって……からかわれる程度ですんだけど」
思い出すのもいやなのか、彼はそれ以上は言わなかった。
万真たち三人は、間近に立ったゼンを改めて見た。お互いにちゃんと顔を合わせるのは初めてだったので、まじまじと相手の顔を見る。先に口を開いたのはゼンだった。
「はじめまして、ゼンです」
きちんと頭を下げる。長めの金の髪とその礼儀正しい態度との落差に三人は面食らった。
「あっと、万真です」つられて自然に頭が下がる。
「俺、千里。そっちの間抜け面が成一」
「誰が間抜けだえびセン」
言ったとたん、ひらめいたこぶしが成一の腹に叩き込まれた。実に見事な裏拳だった。
「なんか言った?」
「…テメェ、寝首かくぞこら」
「へえ、それ本気で言ってる? やれると思ってるんだ? へーえ」
成一はぐっと言葉につまった。つまったが、毎回言いくるめられていてはたまらない。思い切って反撃を試みた。
「……万真にばらすぞ」
「よく考えてから物言えよ。おまえのほうがリスクが大きいんだぞ? わかってるよな、もちろん。なあ一」
「………くっ」
そして玉砕した。完膚なきまで叩きのめされた。
「……一。あんた、おばか?」
とどめをさしたのは万真で、成一はもはやぐうの音もない。傍らで会話を聞いていたゼンはちょっとひるんだ表情で三人を眺めている。呆れた声を出したのはナンだった。
「いつまでやってるんだいあんたたちは。まったく、この状況がわかってるのかね」
その点に関してはちょっと、いやかなり自信がない三人であった。
ナンはピンクの髪に片手を突っ込むと、「どうしたもんかね」と空を仰ぐ。風に流れる雲が銀盤を覆い隠し、彼らの頭上に影を落とした。
なんとはなしに、少女に眼がいった。どことなく女性味にかけた少女は、この状況に怯えることもなく、むしろ生き生きとして見える。困惑の色が時折仄見えるものの、この状況を頭から否定することもない。頭がやわらかいというのか、それとも適応能力に長けているというのか。それは後の二人にも言えることだ。
自分がはじめてこの世界に足を踏み入れたときのことを振り返る。こんなに落ち着いてはいなかったように思う。
「なに?」
少女が怪訝そうに問い掛けた。いつのまにか凝視してしまっていたようだ。
ナンは少女には答えずに、その傍らに立つ少年に眼をやった。
「……あんたたち、こんな時間に外出歩いてもいいの?」
唐突に言われて、三人はきょとんとした。それは、いくらなんでも今さらではないか?
「いや、べつに…。家には誰もいないし」
千里の言葉にほかの二人も首を縦に振る。アリバイなら完璧だ。
ナンはもどかしげに口を動かした。
「そうじゃなくて…。万真はおんなのこだろ。いくら兄貴が一緒でも、男と夜中に外をぶらついてるのはどうかと思うよ」
「………へ?」
これにはさすがに三人の目が点になった。今、なんとおっしゃいました?
三人の表情に、今度はナンが怪訝な顔をする。
「アレ? 違った? じゃあいとことか?」
三人は顔を見合わせる。驚きの表情を互いの顔に見出して、眼だけで会話する。千里と万真が互いに指差しあったのを見て、ナンは頷いてみせた。
「血ぃつながってんだろ? 違うの?」
「……違わない」
ぽつんと万真が言った。
「あ。もしかして万真のほうが姉貴とか? ごめん」
ようやく我に返った千里が、やはりどこか力ない声で「双子なんだ」と呟いた。
ナンは妙な表情になった。
「びっくりしたなー」大声を出したのは成一で、心底驚いた表情をしている。
「なんでそう思ったわけ?」
「え? だって、顔とか似てるし、しゃべり方とかしぐさとか、似てるだろ?」
改めてしげしげと見合ってしまった両者だった。お互いが似ていると考えたことはなかったのだ。
驚きが通り過ぎると、どことなく嬉しくなって万真はナンに言った。
「ねえナンさん、姐御って呼んでもいい?」
「イヤ」
「えーっ」
「なつくなよ。変なやつらだなあ」
ニコニコと顔の緩んでいる二人を見てそう評したナンに、成一はしんみりといった。
「いろいろあるんです」
「ふーん」
三秒後、ナンはぽつりと、言った。
「変なの」
気がつくと時刻は午前三時を回っていた。あっという間に三時間が経過していたことに、三人は軽い驚きを覚えた。ナンが心配になるはずだ。
なんとなく円陣を組んで、ライトが口火を切った。
「これからどうする?」
「このまま夜明けを待つって手もあるけど、時間がもったいないしねー」
ナンが言いながらタバコに火をつけた。
なんとなく顔を見合わせて、お互いの表情を確認する。代表して、千里が口を開いた。
「このままずっと逃げつづけるのか?」
ライトがむっとしたように睨んだ。千里はかまわずに言葉を続ける。
「シャドウって野郎は成一を“鬼“だって思ってるんだろ? じゃあ、こいつはずっと追われつづけるんだ?」
「まあ、そういうことになるな」
ライトは不承不承頷いた。千里は低い声を落とす。
「ふざけんな」
成一が大きく頷いた。千里は怒気もあらわに言葉を続ける。
「あんたたち、情けなくないのか? 獲物みたいに狩られるんだぞ? 悔しくないのかよ」
「誰が黙ってやられるんだ?」
ナンの声は冷えていた。冷たく、暗い。それでいて力ある声。ナンを挑戦的に睨みつけて、千里は言った。
「逃げてるだろ、現に」
「戦術的退却ってコトバ知ってる?」
ナンの言葉に、ハイ、と万真が手を上げた。
「三十六計逃ぐるにしかず」
「黙ってろ、カズ」
万真はふくれた。なにごともなかったかのように、千里は続けた。
「直接対決しようとしないのは、あっちのほうが力が上だから?」
三者三様の表情で頷く。
千里はちょっと黙り込むと、ぶつぶつと呟いた。
「……だからってケンカ売られてこのままサヨナラってほど、人間できてないんだよ」
「一発ぐらい殴ってやりたい」
過激な発言をしたのは万真で、それに傍らの二人は大きく頷く。
「当事者の俺としては、あんな変態野郎に追われる趣味はないし?」
「ついでに言うと、黙って狩られる趣味もない」
どこまで本気なのかわからないことを言う成一と千里に、思わずナンは口を開いた。
「あのなあ。状況がわかってるのか? あんたたちは。下手に突っかかって、つぶされたら元も子もないんだよ?」
「やってみなきゃわかんないでしょ」
「わかるんだよ!」
ライトは口を押さえた。
言い過ぎた。
しかし万真たちはそんなナンをちらりと見たがなにも言わず、視線を戻して互いを見る。
「でもさあ。悔しいよ、やられっぱなしなんて」
「俺の無敗記録に黒星はいらない」
きっぱり言った千里を、二人はものすごく疑わしそうな瞳で凝視した。
「………千、もしかして」
「冗談だ。言ってみたかっただけだよ」
万真はほっと胸をなでおろした。恐ろしいことを言うな、バカ。
成一が腕を組んで唸った。
「けんかなら、絶対に勝つ自信あるんだけどなあ」
ケンカなら。
“外”でなら。
誰にも負けない自信がある。あるのだが。
それはちょっとばかりリスクを伴う。
ゼンが顔を上げて、ナンの横顔を仰いだ。
「でもナンさん。このまま逃げてるわけにはいかないよ」
ナンの端正な顔が歪んだ。
「わかってる。でも、手がないんだ」
その時だった。
さきほど、ライトたちが転がりでてきた空間にふいに陽炎が現れた。
いち早くそれに気づいた成一が声をあげ、全員がそちらを振り向く。
そして、彼らの見ている前で、陽炎から姿をあらわしたのは。
シャドウだった。
木々がざわめいた。
雲は月を完全に覆い隠してしまい、空にはどす黒いヴェールがかかっている。
シャドウのあとから、総勢八人の若者が現れた。その中にはさきほどの青年もいる。
陽炎は、彼らを吐き出してしまうと、薄れて消えてしまった。
「チッ。運がないね」
ナンの呟きは、かすれていた。
METHのメンバーはじりじりと、万真たちを包囲するかのように、公園沿いに広がっていく。その動きからは彼らの実力は測れない。
勝てない。
千里は即座にそう思った。
いくら成一が攻撃を無効化する力を持っていても、この人数では勝ち目はない。
ここでは。
腰を落とし、油断なく身構えたまま、千里は傍らのナンに向かって低い声を出した。
「ナンさん。外へ出るには、どうすればいい」
「外?」
成一と万真がかすかに千里に視線を走らせた。
「外に出れば、勝ち目はある」
外でなら。
勝てる。
千里の思いが通じたのか、ナンは視線をさまよわせると、小さな声で答えた。
「…公園を出て右の路地に、出口がある」
話を聞いていたライトが、すっと前に出た。
成一と万真は、わずかに足の位置を変える。
「ライト、頼む」
「わかった」
返事と同時に、ライトは掌に集束させた巨大な光の塊を、思い切り、シャドウに向かって投げつけた。
身を翻して駆け出した万真のすぐ横を、力の塊がかすめ去る。地面を削り取り、土を巻き上げて、それは植え込みの木々を粉砕した。
間髪いれず細い針のようなものが、走る六人を追ってきた。
「なに――!?」
「バカ、かまうな、走れ!」
ナンに襟首をつかまれ、今にも針が万真の全身に突き刺さる、というところで、全身に強い衝撃がきた。
決して慣れることのない、不快感。
何十兆という細胞のすべてに浸透していく。
変化する。細胞が。
油膜から転がりでて、ナンのヘッドロックからするりと抜け出し、万真は陽炎に向かって身構えた。
追っ手は、すぐにもくるだろう。
「………どうするの?」
「どうするって、やるしかないだろ」
「うっわー。千里がそう言うなんて、よっぽどじゃねえ? おまえが責任取れよ」
「ざけんな。連帯責任に決まってるだろ」
「えー」
「追われてんのはおまえだろ!」
ぶちぶちと言いながら軽く屈伸をして、成一は瞳を輝かせた。
「まあ、なんとでもごまかしはきくかな」
「あのオヤジがごまかせるような人ならねー」
ゆっくりと構えを取りながら万真。
困惑している三人に、千里は不敵な笑顔を向けた。
「ケンカはまかせて」
そうして、油膜はたわむ。
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