油膜を通り抜けると、そこは灯りひとつない暗闇だった。すぐにライトが光を灯すと、ぼんやりと周囲の様子が浮かび上がる。
狭い路地だった。左右の壁にはびっしりと赤や黒のスプレーで落書きがしてある。真っ赤なスプレーで書かれた「夜露死苦」の文字を発見して、思わず成一は吹き出した。
「すっげー。いつの時代のやつだよこれ。ドードー鳥の足跡だな、こりゃ」
「………一、たとえがわかりにくい」
万真の抗議は聞き流して、成一はものめずらしそうに落書きを眺める。当時の人々は真剣だったのかもしれない、そう思うと笑いがこみ上げてきた。人の感性は時代に応じて変化するものである。
感心したように壁を眺めて、千里は一人ごちた。
「絶滅動物とは言い切れないんじゃないか? 探せば一匹くらい見つかるかもしれない」
「とりあえず、絶滅の危機に瀕してるのはまちがいねえってか。保護が必要だな」
成一はからからと笑う。
とたんにナンの厳しい声が飛んできた。
「静かにしな。もうやつらのテリトリーに入ってるんだ」
「テリトリー?」
聞き返した千里の声にかぶさるように、闇の中から高い声が響いてきた。
「誰?」
女性の声だ。
「動かないで。一歩でも動くと、命はないわよ」
万真たちは歩みを止めた。
目前の闇を睨んで、ナンは声を投げた。
「あんたたちに用はない。ただ、通りたいだけさ」
声はしばし沈黙した。ややあって聞こえてきた声はさっきよりも近くなっていた。
「なぁんだカマイタチじゃない。生きてたのね」
ライトの光が強くなり、広がった光の輪の中に一人の女性が現れた。
明るい茶の髪を両サイドで高く結って、若草色の、露出度の高い服を着ている。
成一が軽く口笛を吹いた。
「びっじーん」
その声が聞こえたのか、女性は微笑んだ。
「またぞろぞろと引き連れて。見ない顔ね。新人?」
ナンは沈黙している。
光に現れた女性の顔を見て、万真は危うく声を出すところだった。
彼女の顔を知っている。
あの、ルーレットの向こうに見た女性だった。
「――B・B?」
ナンがギョッとして万真を振り向くのと、女性が軽く眉を上げるのは同時だった。
「ふうん。あたしも有名になったわね」
満足そうに女は呟く。
押さえた口調でナンが言った。
「悪いけど、通してくれないか? 急いでるんだ」
女性は口元を押さえてナンをちらりと見上げた。
「METHの新しい獲物が決まったって? 誰が追われるのかしら。ねえ、カマイタチさん。誰かは知らないけど、気の毒よねぇ」
ナンは沈黙している。
「そう言えば、さっきメールが届いたんだけど、“鬼”が現れたんですって? ほんとにいたのね。びっくりしちゃった」
大きな瞳で沈黙している彼らを見渡す。
「噂によると、新入りなんだって、その鬼。誰なのかしら。逢ってみたいな。そう思わない?」
「ああ。そうだね」
彼女はくすくすと笑った。後ろで手を組み、身を乗り出してナンの顔を覗き込む。
「カマイタチさん、どうやってシャドウの手から逃れたの? 今後の参考のために、教えてほしいなぁ」
「――ウィッチ、本当に急いでるんだ。通してくれ」
「あら、急いでるんなら別の道を通ればいいじゃない。それとも、ここじゃなきゃいけない理由でもあるの?」
言って、彼女はくすくすと笑った。
「ああ、ごめんなさい。そうよね、ほかの道にはMETHの手が回っているのよね」
追われる身は大変ね。
いたずらっぽく言う彼女に対して、ナンはどこまでも無表情だった。
「そう、大変なんだ。だから通してくれないか」
「あら、それが人に物を頼むときの態度?」
「………通してください」
彼女は軽く小首をかしげた。
「えー。どうしようかなあ。――どうする? クロ」
女性の声に応えるように闇の中から現れた大男の姿を見て、万真たちはギョッとなった。
大きい。
百九十をゆうに超えているだろうその男は、たくましい肉体をしていた。腕の太さなど、万真の倍以上あるかもしれない。
形容しがたい威圧感に、万真は思わず一歩さがった。
マッチョな男は、どちらかと言えば嫌いではない。嫌いではないが、しかし。
真夜中に道端でばったり出くわしたりしたら、五メートル以上の距離を置き、姿が見えなくなると同時に警察に通報したくなる面構えである。なんといっても、怖い。
泣く子も黙るどころか、顔を見たとたんにひきつけを起こすこと間違いない。
(暴力団員が思わずハジキぶっ放したくなるような顔だな…)
絶対にお近づきになりたくない。
逃げの体勢に入っていた成一は、男と眼があってしまって反射的に身構えた。
とたんに女性が明るい笑い声を上げた。
「そんなに警戒しなくても噛み付いたりしないわよ」
女性の興味が、ナンから成一たち三人に移ってしまったことを知って、成一は内心滝の汗を流していた。
ナンの横をすいと通り過ぎて、女性は成一の顔を覗き込む。
「へえ、わりといいおとこじゃない」
美人さんに言われるのは嬉しいのだが、もっと別の状況下で言われたかった。
硬直する成一から千里に視線を移して、彼女は瞳を輝かせた。
「あらあらこっちは極上ね。いいなあ、あたしにも分けてよ、カマイタチ」
どう反応したらいいかわからず、千里はただ黙っていた。どうせ言われるなら、もっと別の女の子に言われたい。
女性と目が合ってしまって、万真はびくっとした。直後、黄色い声が耳に突き刺さる。
「きゃ―――っ。やだ、このコカワイイッ」
「うわあっ」
抱きしめられそうになって、万真は慌てて女性の抱擁から逃れた。千里の影に逃げ込んだ万真の手を引っ張りながら、女性は言った。
「ねえ、ぼくぅ。お姉さんといいことしようよ」
「ぼっ……」
(ぼくぅ?)
衝撃だった。
幼い頃ならいざ知らず、高校生になってまでも男に間違えられるとは。
成一が必死で口を押さえて肩を震わせている。
自分は女だと叫ぶ前に、彼女が口を開いた。
「ねえカマイタチ、このコちょうだい」
ナンは静かに首を振った。
「えーっ、なんでよぅ、いいじゃない。そんなにいっぱい飼ってるんだからさあ、一匹くらいちょうだいよ」
「飼ってない飼ってない」
ふくれながらも、女が万真の手を離そうとしないので、耐え切れず万真は言った。
「あの、放して……」
彼女はしばし万真の顔を見ていたが、やがてふにゃっと相好を崩す。
「〜〜やっぱりカワイイッ。ねえぼく、うちのコにならない?」
「え、遠慮します」
こそこそと千里の背に隠れる。彼女はまだ名残惜しそうに万真を見ていたが、やがて諦めたのかくるりと万真に背を向けた。
「まあいいわ。そのうち気が変わるかもしれないし」
色気のある流し目を食らって万真は硬直した。
彼女は万真の反応を楽しむように笑うと、沈黙しているナンに擦り寄った。
「通りたいのなら通ってもいいわよ。あたしはべつにあなたにもシャドウにもまして“鬼”なんかにも興味ないから」
「そうかい」
さっさと歩き出したナンの後を追って歩き出した万真は、女に擦り寄られて思わず逃げ腰になる。
「ねえ、新人くん」
(〜それ以上よってこないでよっ)
千里を楯にして逃げる万真にはかまわず、女は今度は成一につやっぽい視線を送った。
「ここでやっていく気があるのなら、あたしの名前くらい覚えておきなさい。あたしはウィッチよ」
「魔女?」
成一の言葉に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。どこか毒のある微笑。
「そう。もしかしたら呪っちゃうかもね」
「…ははは…」
乾いた声で笑った成一は、傍らの千里に耳打ちした。
「――魔女だって」
「これ以上ないほどぴったりなネーミングだな」
「だよな」
女はきゃらきゃらと笑った。
「あらやだそれ誉め言葉?」
このあつかましさも、彼女にかかればチャームポイントとなるのだろうか。
「……ご想像にお任せします」
凍りついた笑顔でなんとかそう言うと、成一は万真とともにそそくさと逃げようとした。
「あら、もう行っちゃうの?」
残念そうな声は聞かない聞こえない。
さかさかと早足で大男の横を通り過ぎ、ほっと息をついて全員が肩の力をついたそのとき、全身が総毛立つほどの殺気が彼らの足を止めた。
「なっ!?」
反射的に構えて振り向き、目の前に広がる光景に万真は絶句した。
「ゲ………ッ!?」
ガシャリ、となにかがこすれるような音がした。
闇の中、ぽうと白く仄かに光るものがある。
それも無数に。
「………俺、もうめげそう」
乾いた声で成一が呟いた。
千里は青い顔で目前をみつめていた。
地面に、しゃれこうべが生えていた。
おびただしい数のしゃれこうべの虚ろな眼窩が六人に向けられる。
「ひっ」
万真がびくりと身を震わせたのと、しゃれこうべが一斉にからからと鳴り始めたのは同時だった。
壁に反射して四方から笑い声が降りそそぐ。
すんだ高い声が響いた。
「まだ行っていいとは誰も言ってないわよ」
目を堅く瞑ってひたすら身を縮めていた万真の耳に、ナンの溜息が届いた。
「――相変わらず悪趣味だね」
そう言っている間にしゃれこうべが持ち上がり、四肢を供えて歩き出す。――六人に向かって。
かしゃ、かしゃ。
万真は耳を押さえた。その耳元に千里が口を寄せた。
「――お前こういう系もダメだったか?」
「テレビなら平気だけどナマはダメ!」
「…アンデッド系とくれば聖水だよなー」
呟いた成一は、すでに思考を楽しい想像の世界へと飛ばしていた。逃避である。
「アンデッドもゾンビもみんなイヤ!」
やけくそでそう叫んだ万真の語尾に、くすくすと押し殺した笑いが重なった。
「へえ、ゾンビも嫌いなんだ?」
声が届いたとたん、骸骨の半数がどろりと溶けだし、代わりに皮膚をずるずると引きずる腐乱死体が現れた。
ずる、と足を引きずってゾンビが歩き出したとたん、それの目玉がとれた。
「イッ……いや―――っ!!」
今度こそ万真は絶叫した。
「落ち着け、カズ」
万真を胸に抱きしめて、千里は忙しく頭を働かせ始める。
これは実体なのか。
その疑問は、自分自身によってすぐに否定された。
否。
いくらなんでも都合がよすぎる。
これが実体のはずはない。
「――幻覚か?」
意外なほど近くでナンの声がした。
「あたりだ。やっぱり頭いいね、あんた」
誉められても嬉しくないのは、やはりこんな状況下だからだろう。
二人の会話を聞きつけて、成一がぐるりと首を回した。
「…幻覚? マジで?」
安堵の混じったその言葉に頷いて、ナンは骸骨とゾンビの集団の向こうの闇をすかし見た。
「ウィッチの仕業だ」
うぬぅと成一が唸った。
「ただの色っぽいねえちゃんじゃなかったか」
「………幻覚ってわかったところで、この状況をどうするんだ?」
「あ、こら、無視すんなよ」
ナンは背後を振り向いた。
「ゼン、準備はできたかい?」
さっきからなにかごそごそしていたゼン少年が顔を上げ、頷いた。
千里たちが見守る中、ゼンは臆する風もなく前に出て、握り締めた拳をひらめかせた。
開いた手から放たれた砂が一瞬骸骨たちの姿を隠す。
そしてゼンは勢いよく両手を打ち鳴らした。
パン!
破裂音が路地に響いた。
そのとたん、骸骨たちの姿が一瞬にして掻き消えた。
驚いて眼をぱちぱちとさせる千里たちの耳に、女の声が届いた。
「あーらら。だからあんたたちって嫌いなのよね」
さして残念そうでもなくそう言うと、女はふわりと闇の中から姿を現す。
見守る六人に向かって残念そうな表情をすると、ひらひらと片手を振った。
「さっさと行けば? もうすぐ夜も明けることだし」
ライトが慌てて時計を見た。
「急がないと」
促されて、ナンは軽く頷く。
身を翻したナンの後に続いて歩き出した万真は、なんの気なしに背後を振り返った。
ウィッチと目が合ってしまった。
彼女は万真に気づいてにっこりと微笑むとひらひらと手を振った。
「またね、ボウヤ。また遊びましょ」
(え、遠慮しますぅ…)
引きつった笑いでそれに答えて、万真は慌てて回れ右をすると先へ行ったみんなの後を追った。
次に振り向いたときには彼女の姿はなく、万真は傍らを行く成一に向かって溜息まじりにこう言った。
「――なんッか、すっごい人」
重々しく頷いて、成一。
「あんまりお近づきにはなりたくないタイプだよなー」
心の底から頷きあう二人に、千里がニヤニヤと笑いながら声をかける。
「だけど美人だったぜ」
「女は顔じゃない!」
「そのとーり」
拳を振り上げて言った万真に、すねに傷持つ成一がやけに重々しく同意した。
「女は顔じゃねえって、マジで。やっぱり気立てがいいのが一番だぜ」
「………お前、なんか実感こもってないか?」
「いろいろあんだよ、俺も」
怪訝そうに振り返ったライトの言葉に、うんうんと頷きながら成一は言った。
顔にハテナマークを張り付かせたライトの肩に腕を回して、千里は耳打ちした。
「こいつ女運悪くてね、すッげー姉さんがいるんだよ。めちゃくちゃ美人なくせに気性が激しくて、一度切れたらゴジラ並み」
「おいこら千里! 内緒話は聞こえないよーにやれよコラ」
「聞こえるように言ってるんだ。それくらいわかれよばーか」
にぎやかな背後の会話に、思わずナンはこめかみを押さえた。
緊張感という言葉を、はたして彼らは知っているのだろうか。
この言葉からこれほど程遠いやつらも少なかろう。
「……なんだかなあ」
知らず口に出していた言葉を聞きとがめて、ゼンが顔を上げてナンを仰いだ。
「どうかしましたか?」
「いやぁ……のんきなやつらだなあと思ってさ」
「ああ」と呟いて背後を振り返り、ゼンは穏やかに微笑んだ。
「いいんじゃないですか、たまには」
背後は依然としてにぎやかで、ともすればケンカをしているともとられかねない彼らの会話が、実はただのじゃれあいだということがわかる程度には彼らのことがわかってきた。
今までのナンたちにはなかった明るさ。
それは、ある意味救いなのかもしれない。
夜の王国というこの世界の中、すべてのものが暗く彩られてしまう。その色に染め上げられていない三人の存在は、ナンにとってはまぶしくさえあった。
「うん…たまには、いいかもね」
にぎやかな彼らの声が、本来静寂を好むナンにとって不快ではない。それが答えだった。
一通り口論に飽きてしまうと、成一は頭の後ろで手を組んで、頼りない灯りに照らされた周囲を見渡した。周囲の壁には依然として毒々しく鮮やかな落書きがびっしりと書かれている。
複雑に入り組んだ迷路のような路地を迷うことなく進んでいくナンの後ろ姿をなんとはなしに見やる。
危なげなく進んでいく彼女の姿に、ふとある疑問が浮かんだ。
「ナンさん」
「ん?」
振り向いたその顔は、白い光に照らされて限りなく透明に近いものになる。
「ナンさんは、ここ長いの?」
「なんで?」
「いや、なんか勝手知ったるって感じだからさ」
ナンは苦笑した。
ボーっとしているわりには、目ざといやつらだ。
「そうだね、長いよ」
興味を引かれたのか、万真がひょいと首を伸ばす。
「どのくらい?」
あまり触れてほしくない話題だったが、この際仕方がないかもしれない。
少し考えて、ナンは言った。
「そろそろ…八年、かな」
これにはライトやゼンからも驚きの声があがった。
最初驚いていた成一が、やがて戸惑いの表情になる。
ためらいながら、彼は言った。
「ナンさん…今、何歳――いてっ!」
言ったとたんに万真に睨まれ、千里にすねを蹴飛ばされた。
なんとも正直な三人の反応に、おかしくなってナンは笑った。
「それは内緒。女性に年齢聞くもんじゃないよ、成一。女の子にもてないぞ」
「うっ」
胸を押さえてあらぬ方を向く成一。全員の視線が一斉に成一に集中し、そして申し合わせたかのように同時にはずされる。
何度目かに角を曲がると、ようやく彼らの視線の先にほの暗く光る陽炎が姿を現した。
千里は眼を細める。
その向こうが見えないところを見ると、どうやらただのワープゾーンのようだ。
陽炎の手前まで来て、ナンは立ち止まった。
睨み付けるように陽炎を凝視する。
「……いやな感じだねぇ」
不穏な空気が、陽炎を通してありありと伝わってくる。
身を乗り出して陽炎を覗き込んで、万真はことんと首をかしげた。
一瞬人影が見えたような気がしたが…。
「一応……誰もいないけど」
陽炎を通して見えるどこか路上の光景の中には人影はない。
「……シャドウがこのルートを知ってる可能性は?」
千里の言葉に、ナンは小首をかしげる。
「どうだろう。あいつがそこまでこの世界に詳しいとは思わないけど……」
だが、絶対に知らないとは言い切れない。
「――賭けてみるかい?」
蛇が出るか鬼が出るか、それは行ってみなければわからない。
「おう!」
てんでばらばらに、だが生き生きとした表情で新米三人が、古参の二人は信頼にあふれた笑顔で、それぞれ応える。
「そんじゃ、行くよ」
身構え、そしてナンは陽炎に飛び込んだ。
|