仄かな明かりが灯る部屋の中に、静かな音楽が流れていた。
明るく、しかしどこか人を悲しくさせる音の響き。
窓の外は闇。しかし、あと一時間もしないうちに、外は明るくなるだろう。
万真は両腕の中に顔をうずめた。
「………ごめん、お母さん」
指輪、なくしちゃった。
お母さんの指輪、なくしちゃった。
単調な繰り返しから、曲は華やかな調子になり、明るい色彩をともなって部屋の中を明
るく満たす。
しかし、万真が顔を上げることはなかった。
「なくしたとすると、考えられるのはバスケットコートか、最後のあの道路か」
昼過ぎ。
ようやく目覚め、ブランチを取ったあと、腕組みをして成一が言った。
「…バスケットコートは、違うと思う」
鎖がはずれるほど激しい運動はしていない。
「じゃあ、やっぱりあの時か」
最後の、シャドウとの戦い。
何度となく万真を襲ったカマイタチ。
考えられるのは、あの時だけだ。
「………どうしよう」
ひざを抱えてうつむいた万真に、成一は慌てて声をかけた。
「大丈夫だって。だったら、今すぐあの場所に行ってみようぜ。な?」
「だめだな」
即座に飛んで来た言葉にむっとして、成一は千里の背中を睨みつけた。
「なんでだよ」
「ナンさんの言葉を思いだせよ。あの世界は現実じゃないんだって。現に、朝が来たら道
路はさっきまでの道路じゃなくなっただろ」
「じゃあ、指輪があるのは――夜の方ってことか」
「そういうこと」
万真は膝の上に乗せた両腕に額を押し付けた。
「……どうしよう」
この世に一つしかない、指輪。
大切な、大切な、指輪。
万真の様子を見て痛ましげに顔をゆがめて、成一は千里の元へ忍び寄った。
「おい、千里。お前もなんか言ってくれよ。俺もう見てらんねえよ」
千里は溜息をついて頭をかいた。無意識に指先が胸元の鎖に伸びる。
「…カズ。指輪は絶対に見つけ出す。だから、見つかるまでは、これ持ってろ」
そう言って足元に投げ出されたものを見て、万真は目を見開いた。
細い鎖に通された一つの指輪。傷つき、歪んだ形。
「だめだよ千。これ、千里のじゃない」
「お前が持ってろ」
「だめだよ」
父親の指輪は千里が、母親の指輪は万真が、それぞれ一つずつ持とうと、そう約束した
のだ。この指輪を万真が持つわけには行かない。
万真は指輪を握り締めると、立ち上がり、パソコンを操作している千里の後ろに立った。
無言で千里の首にかけなおす。
千里も無言でそれを受け入れたが、万真の手が離れる間際、片手を伸ばして万真の指に
触れた。
「心配するな。絶対に、見つけ出すから」
「うん」
成一が身を乗り出した。
画面に表示された文字を指差す。
「Night Gameだってさ」
Night Gameという大文字の下に、緑の小さな書体で文字が書いてある。
『ここは夜の王国に関するサイトです。
王国の住人は、現在のところ以下の通りです。
なお、新入りの方はチーム名を決定し、行動エリアを指定してください』
成一は千里の顔を見た。
「チーム名だってさ」
「なんだそれ」
悩むこと一時間。
もめにもめて、ようやくチーム名は「神威」に落ち着いた。なんか強そうで箔があるか
ら、とのことだった。
万真は画面を見てはいるものの、眼はうつろで元気がない。
そんな万真を横目で見つつ、千里はマウスを動かしていく。
「現在のチーム数は――350? ナンさんの話とずいぶん違うな」
「あ、違う。これ全国だ。東京だけだったらどうだ?」
成一の言葉に、マウスを操作してさらに細かいデータを引き出す。
「東京だけでも50はあるぜ。ナンさん、20とか言ってなかったか?」
「俺に聞くなよ。――ああ、個人を合わせてって書いてある。純粋にチームとしてなら、
20ぐらいなんじゃないか?」
「かな」
頷きつつ、成一は万真を見やる。やはり、元気がない。
画面には、日本地図が表示されている。十色ほどで色分けされていて、これがいわゆる
エリアということらしかった。
東京をクリックすると、東京都が大きく表示される。
地図上の無数の点が、どうやら出入り口のようだ。
「いっぱいあるな、入り口」
「青が出入り可。赤が入り口だけで、緑が出口のみ、か。どういう仕組みなんだろうなあ」
「さあ、そればっかりはなんとも――あ、家の近くにもあるぞ、入り口」
千里の指が一点を指し示し、次いで少しだけ移動する。
「ここが、昨夜入ったところだな。ここにコンビニがある」
「ああ、なるほど」
さすがにワープゾーンまでは表示されていない。というよりも、おそらく夜の世界の地
図と実際の地図は同一ではないのだろう。
画面が変わる。
鬼と、鍵についてのページだ。
「読む? 印刷しようか」
「おう、頼む」
これは、あとでじっくり読んだほうがいいだろう。ついでに先ほどの入り口の地図も印
刷し、千里はさらにページを開いていく。
現れたのは、先ほどと同じような東京の地図。だが、そこにはいくつかのチーム名と、
力を示すグラフがあった。
グラフを見ると、圧倒的な力を誇るのが、やはりシャドウ率いるMETH。驚いたことに、
その次にB・Bの名があった。かなり力のあるチームなのだろう。
その後に続く名前は、千里たちは当然のことながら聞いたこともなかった。
「最新情報――更新日が、今朝になってる」
正確には、今朝未明。
クリックして、現れた文字を見て、二人は一瞬声を失った。
『鬼出現か!?
東京エリアで、鬼と思しき人物が現れた。目下のところ、METHが全力で追っている模
様。なお、ある筋の情報によると、鬼は新入りとのこと。
各チームは鬼獲得にむけて死力を尽くすべし。
現在のところ、その鬼が“表”か“裏”かは、まだわからない。
情報が入り次第、更新する』
成一は呻き声を上げた。千里もまた、深い溜息をつく。
「…んだよ、これ」
「知るか」
千里は投げやりに吐き捨てる。
「…これ書いたのって、METHの誰かか?」
「さあ。その可能性が濃厚だな」
成一を鬼だと思っている人間は、ナンたちとシャドウたちだけのはずだ。
「そうじゃなけりゃ、千里眼の持ち主とか」
「……そう言う能力もあるのか?」
目次を探したが「能力」の項目はなかったので断念した。代わりに「世界の成り立ち」
という項目をクリックする。
『夜の王国は、現実ではありません。ですが、その世界の中では、それは現実です。
王国の中では怪我をしたら血も出るし、ときには命を落とすこともあります。テレビゲ
ームではありません。リセットはできません。
中略。
王国への入り口は、各地に散らばっています。
入り口は、一方通行も含めて、外側からでも内側からでも、どちらからでもその向こう
の風景が見えます。
対照的に、王国内の各所にあるワープゾーンの向こうは見えません。その向こうに何が
待っているかは、誰にもわかりません。よほど力に自信がある人以外は、むやみに飛び込
まないほうがいいでしょう。初心者は、特に気をつけてください』
二人の視線が、自然と沈黙している少女に向けられた。
やはり、ワープゾーンの向こうは見えないのだ。
だが、万真には見える。
なぜ?
――わからない。
結論を出すには、情報が少なすぎる。
二人は考えることを止めて、パソコンに目を戻した。
めぼしいところを見終えて、残すは掲示板のみとなった。
ページが開かれる。
ぼんやりとパソコンをみつめていた万真の表情が動いた。
『昨夜の三人組。
指輪は預かっている。
シャドウ』
短い言葉。
だが、それは三人の表情を変えさせるのに、十分な力を持っていた。
万真の手が震えた。
顔を見合わせ、お互いの表情を確認する。
「……いいな」
千里の言葉に、成一と万真は無言で頷いた。
千里の指がキーボードの上を踊り、文字が書き込まれる。
『RE:
一週間後の土曜日。十一時。例の公園で待つ』
部屋に満ちる音楽は、万真の耳のそばを通り過ぎていくだけで、心の中には入ってこな
い。
パッヘルベルの「カノン」。万真が好きな曲。そして両親が一番好きだった曲。
だが、この曲でさえも、万真の気分を晴らすことはできない。
「…お母さん」
指輪は必ず取り戻すと、千里は言った。
シャドウがどれだけ手勢を引き連れてきたとしても、絶対に指輪は取り返す、と。
万真の今を支える指輪。過去と現在をつなぐ、成一を除くと唯一の接点。
絶対に、取り戻す。
取り戻してみせる。
気がつくと曲は終わり、カーテンの向こうが白んできていた。
ようやく夜が明けたのだ。
万真はふっと肩の力を抜くと、ベッドの中にもぐりこんだ。
時計を見ると、五時前だった。
布団を肩まで引き上げ、目を閉じてしばらくすると、隣の部屋のドアが開く音がした。
廊下を歩く軽い足音が聞こえる。
足音は万真の部屋の前で一度止まった。すぐにドアが静かに開かれる気配がする。
万真が寝ていることを確かめたのだろう、ドアはすぐに閉じられ、足音が遠ざかってい
った。
足音が完全に聞こえなくなってから、万真は眼を開けて天井をみつめる。
万真の叔父、葉介も、万真が眠っていないことにはとっくに気づいているだろう。
だが、なにも言わずに気づかない振りをしてくれる。
そのことをありがたいと思うと同時に、心を突き刺す疼痛がある。
十年前から、自分は少しも生長していないのだと。
夜が怖いと泣きじゃくる子供のままだと、実感してしまうのだ。
胸を刺すいくつもの痛みをこらえているうちに、万真は、ようやく眠りについた。
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