落ち着いた灯りが灯る店内に、コーヒーの強い香りが流れる。食器がぶつかるかすかな
音は、静かに流れるサティの音楽に吸い込まれ、かき消される。
磁器のカップにコーヒーを注いでいた葉介は、背後から聞こえてきた小さな物音に微笑
んだ。
「おはよう」
「…おはよう」
戸惑いがちな声が返ってくる。
制服の上にエプロンをつけた万真は、葉介の手からカップを受け取った。眠たげに目を
瞬いている。
「8番テーブル」
「はーい」
少女は盆の上にカップを載せると、するりとカウンターを抜け出して、客がまばらな店
内に滑り込んだ。
黒で統一された家具類と、薄暗いオレンジ色の照明の中、少女の白いシャツが仄かに浮
かび上がる。
二時間も寝ていないだろうに、万真の足取りに不安はなく、きびきびとした動作で歩い
ていく。
自分の弱さを、おくびにも出さない。
それは万真の強さでもあり、また弱さでもある。
カウンターに戻ってきた万真は、焼きあがったトーストを皿に乗せて奥の部屋に消えた。
朝食を取るのだ。
カランカランとドアベルが鳴り、入ってきた年配の男は、カウンターの中にいる青年を
見て残念そうな顔をする。
「マスターだけかい? 万真ちゃんは?」
「ご指名ですか?」
葉介にからかうように言われて、老人は慌てて首を振ると自分の指定席へと向かった。
「いつものやつ」と注文するのを忘れずに。
すぐに戻ってきた万真は、新たに増えた客に目ざとく気づいて軽く頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
老人も笑顔で会釈を返した。
コーヒーハウス「庵」は、葉介の店だ。数年前までは万真の祖父が店長を務めていたが、
祖父が亡くなり、代わって葉介が後を継いだ。
葉介は、母の弟だ。十年前に万真の両親が亡くなり、万真は伊織家に引き取られた。そ
して千里は父方の相馬家に。祖父母、つまり母の両親が亡くなった今、万真は葉介と二人、
この家で暮らしている。
大きな置時計が八時を告げた。
「万真、早く行きなさい」
「はーい」
少女がカウンターの奥へ消えるとき、店内の客は口々に「行ってらっしゃい」と言った。
万真も笑顔で振り向き、言った。
「行ってきます」
万真は夜が嫌いだ。
十年前、両親が死んだ日から、夜に眠れなくなった。
眠っている間に、両親を、世界をなくした。
その記憶が、万真を睡眠から遠ざける。
だが、一日二時間足らずの睡眠では、身体を壊してしまう。
だから万真は、日中に睡眠をとるようにしている。それは小学校来の習慣だった。
学校につくなり机に突っ伏して寝入ってしまう万真に、クラスの者も教師さえももはや
なにも言わなかった。時折苦々しげな、恨みすらこもった視線が眠る少女の小さな背中に
投げかけられるが、当然のことながら万真は気づかない。
小学校から万真を知っている少女が、自慢げにこう話しているのを、万真は夢うつつに
聞いていた。
「ああ、伊織さん? 眠り病だって、みんな言ってるわよ。小学校のころからずっと寝て
るわ。起きてるのは体育と実習のときぐらいじゃない?」
後の会話はすでに耳に入ってこなかった。
窓際の席、窓から入り込む風が気持ちよくて、完全に眠ってしまったのだ。
授業開始のチャイムが鳴るまで後数分というとき、不意に万真の身体に振動が伝わった。
机が揺れたのだ。
「………?」
地震か、と思って顔をあげると、白いシャツが眼に入った。ぼやける視界を、何度か瞬
いてはっきりさせる。
目の前に立っているのが男子生徒だと認識した瞬間、鼻先になにか突き出された。
「……日誌?」
学級日誌だ。
とすると、今日は万真が日直なのか。
(……面倒臭い)
日直の日は、休み時間ごとに起きて黒板を消さなければならない。まとまった睡眠が取
れないのだ。
日誌を受け取るとき、顔を上げて何気なく男子生徒の顔を見た。
鋭い目が万真を射た。まるで睨まれているようだった。
(………誰?)
男子生徒は万真に日誌を渡すと、それで用を済ませたのだろう顔を背けて歩きさった。
入学して三ヶ月と少し過ぎているが、寝てばかりいる万真はまったくクラスメイトの顔
と名前を知らない。
万真は日誌を見るともなしに開きながら、隣の席に腰を下ろした少女に声をかけた。
「ねえ」
「え?」
万真に声をかけられて、少女はあきらかに驚いたようだった。その反応に少し気を悪く
しながらも、一度も声をかけたことがない身としては、やはり驚かれても仕方がない、と
思う。
「あの人、誰」
万真の指先を追って、背の高い少年を見つけて、少女は軽く頷いた。
「ああ。日向剛志君」
万真に顔を寄せて、声を落とす。
「なんか、危ない人らしいよ。しょっちゅう傷だらけになってるし、この前三年生を殴っ
たって」
「…ふうん」
確かに、顔は怖い。怖いというよりも無愛想なのだろうが、眼つきが鋭いせいで、やはり怖
い印象が強い。
万真は少女に礼を言うと、よだれ防止兼枕代わりのタオルに額を押し付けた。
チャイムが鳴ったのだ。
いやなことは重なるもので、万真は授業中に当てられてしまった。
もともと寝は浅いほうなので、名を呼ばれればすぐに目覚めるが、だからと言って目覚
めてすぐに頭が働くわけではない。
読めと言われた古文を眺めること数秒。万真はようやく、寝ぼけた声を出した。
「………ながつきはつかのころ、あるひとにさそわれたてまつりて、あくるまでつきみあ
りくことはべりしに……」
だんだん目がさめてきた。
「…案内させて入り給ひぬ」
「そこまで訳してみろ」
古文は苦手ではないので、すらすらと訳すことができた。ようやく開放されて、眠りに
つく。
だが、その眠りはすぐにチャイムによって破られた。
だから日直は嫌いだ。
「伊織さんって、なんでいつも寝てるの?」
万真が唯一起きて活動する、体育の時間。隣の席の少女、北川が声をかけてきた。
万真は靴紐を結びなおしながら、ぼそぼそと答える。
「……不眠症で、夜は眠れないんだ」
「ふうん」
北川は首を傾げた。長い髪がさらさらと揺れた。
かわいらしい少女だ、と万真は思う。女性らしく丸みをおびた身体に、小造りのかわい
らしい顔。羨ましい。
「伊織さん、運動神経いいよね」
「そう? 身体動かすのは好きなの」
動いている限りは、いやなことは忘れられるから。
飛んで来たバレーボールを、レシーブで返す。ボールは正確に、遠方の少女の手元にお
さまった。北川が手を叩いた。
「いや、誉められても困るんだけど」
困惑気味に呟いた万真の眼が、グラウンドのほうに向いた。
グラウンドの隅では、男子が高飛びをしている。
万真の見ている前で、背の高い少年が走り出した。地面を蹴り、万真の身長ほどもある
バーを軽々と飛び越える。
「……あれ、日向くん、だっけ」
遠巻きな男子生徒もいれば、朗らかに笑って拍手している生徒もいる。日向の顔にも、
少しだけだが、笑顔が見える。
「うん。やっぱり、怖そう」
万真は彼女の言葉には否定的だった。
人を外見で判断してはいけないと常日頃葉介から言われているし、身を持ってそれを実
感しているからだ。
遠方の少女が万真の名を呼んだ。万真のチームの他の少女たちは、すでにコートの中に
入っている。
万真は北川に軽く手を上げると、チームの少女たちの元へ走っていった。
|