NIGHT GAME 二章十三話 安堵と疑惑の狭間で
 ビルは、思いのほか遠かった。
 細い路地を抜けて頭上にそびえるビルを幾度となく確認しながら、ほとんど足元を見ずに駆け抜ける。息が切れて肺が酸素を訴えたが、気にも止めなかった。
 心臓の音だけを耳にして、ようやく眼の前に現れた件のビルに飛び込む。
 床に散乱するコンクリートの塊に足をとられながらも、勘としか言いようのない鋭さで地下へ続く階段を見つけなにも考えずに駆け下りた。
 その先にはただひとつのドア。
 この先に、万真がいる。
 それだけを考えてドアに思い切り体当たりする。
 鈍い音とともに身体が傾ぎ、反射的に足を出して体勢を立て直した。
「カズ!」
 数人の男たちに囲まれるようにして、一人の少女が椅子に座っていた。
 少女が驚いたように振り返る。
 視界が暗転したのは、その瞬間だった。
 万真の姿を見とめた瞬間だった。
 眼の前は濃墨をぶちまけたかのように真っ黒で、なんの色彩も見えない。
「万真!」
 目の前にいるはずなのに、彼女の姿が見えない。
 ここまで来て。
 突然のことにパニックになったのは一瞬のことだった。すぐに我を取り戻し、こぶしを握り締める。
 おそらく、これは「能力」の一種だろう。
 その証拠に足の下にあるコンクリートの感触は変わらない。
 だが、問題は、色彩ばかりでなく音も聞こえないということだ。
 千里は小さく舌打ちすると、先ほど万真を見た方向に駆け出そうとした。
 足元の感覚が確かならば、ここはまだ部屋の入り口のはずだ。まっすぐに進めば万真がいるはず。
 そう確信し、数歩踏み出したとたん、突然なにかが千里の身体に絡みつき、ものすごい力で押さえつけた。
「なにッ!?」
 反射的に腕に力を入れるが、それ以上の力で身体を締め付けてくる。
「くっ」
 振りきろうともがくがびくともしない。
(くそっ)
 万真が、いるはずなのに。
 じわり、と不安が胸に広がった。
 彼を包み込む暗黒が心まで侵食するかのように、静かに、不安が広がる。
 思考が散漫になる。
 一度は静まったはずの心が不安に脅かされ、恐慌状態に陥りかける。
 絶望が心によぎる。
 その寸前、千里の心の片隅に、なにかが引っかかった。
 懐かしい、だがなによりもよく知っているもの。常に傍らにいた存在。
「カズ」
 万真が、いる。
 彼女が近くにいる。
 理屈ではなく感覚でおのれの半身の存在を感じ取る。
 胸に巣食っていた不安が瞬く間に消え失せ、変わりに静かな、波のような安堵感が押し寄せた。
 いったいなにをそんなに不安になっていたというのか。
 これはただの闇に過ぎないのに。
 落ち着きを取り戻した彼にとって、闇はなんの障害にもならない。
(闇には、光)
 左手を胸元で握り締める。
 きつく握った指の間から、真っ白な光が漏れ、直線となって広がった。



「千ッ!」
 万真は駆け出そうとした。
 だが、横から伸びてきた北斗の腕によって動きを制される。
 闇はどんどん凝縮し、また濃くなっていく。
 万真の胸にいいようもない焦燥が広がった。
 目の前にいるのに、助けられないのか。
 腕を掴んでいる北斗を仰ぎ見る。
「お願い、やめて! もういいでしょ!?」
 北斗はなにも言わず、小さく首を振った。
「ねえ!」
 万真は叫んだ。
 と、北斗の瞳がつと細められた。
 蓮見が軽く口笛を吹く。
 闇を振り返り、万真は驚愕に眼を見開いた。
 闇に、亀裂が入っていた。
 卵が割れるように、ひび割れは幾筋も増え、広がっていく。
 息を呑んで見つめる万真の眼の前で、亀裂から白い光が放たれ、そして薄いガラスが割れるような音を立てて闇が壊れた。
 白い光の中、佇んでいるのはひとりの少年。
 その姿を認めるや否や、万真は彼に向かって駆け出した。


 パリン、と澄んだ音を立てて闇の繭が壊れた。
 反転して白い視界に千里は思わず眼を瞑る。
 と、誰かが彼の名を呼んだ。
 耳に馴染んだ心地よい声に眼を見開く。
 とたん、胸に衝撃が来た。
 誰かが千里に抱きついてきたのだ。
「…カズ」
 胸にしがみつく万真を見下ろし、肩の力を抜いた。安堵のあまり、少し情けない声が出てしまった。
「無事か」
 小さなからだを抱きしめながら、耳元に顔を寄せて囁く。
「うん」
 小さな頷きとともに帰ってきた答えに、千里は再び安堵の溜息をついた。
 万真は顔を上げて千里の顔を覗き込んだ。
 ほんの少し離れていただけなのに、涙が出そうなほど懐かしい顔。
 千里の端正な顔が憔悴しているように見えて、万真はかすかに眉を下げた。
 こんなに心配をかけてしまった。
 二度と悲しい思いはさせないと誓ったのに。
 一瞬眼を伏せ、次に顔を上げた万真の表情には、一瞬前に浮かべた悲しみはどこにもなかった。
「ごめんね」
 そっと謝ると、無言で抱擁が返ってきた。
 耳元に千里の嘆息がかかる。
 悲しみと嬉しさの混ざった表情で万真はしばらく沈黙していたが、やがて振り切るように顔を上げて聞いた。
「ほかのみんなは?」
 千里はその言葉に怪訝そうに振り返った。
「いや、一緒に来たはずだけど」
 千里の背後には、いまだに暗黒が広がっていた。
 おそらく残りの人間はまだ闇に捕らわれたままなのだろう。
 そう見て取った千里が光の塊を生み出すよりも早く、万真が後方を振り返り怒鳴っていた。
「もういいでしょ! 早くみんなを解放してよ!」
 その声に振り返ろうとした千里の眼の前で、音もなく闇が消え失せた。
 なにが起きたのかわからないのだろう、現れた呆然とした顔の少年たちを見て万真は知らず笑みこぼれた。
 と、成一が千里から離れた万真を見つけて安堵の表情になった。
「万真! 怪我は!?」
「ないよー」
 底抜けに能天気な返事に成一は体中の力が抜けていくのを感じ、がっくりと肩を落とす。
「……なんか、心配して損した」
「心配かけてごめん」
「…いや、いーけどよ」
 力なく言い返す成一の隣では、日向がやはりほっとした表情で立っていた。そんな彼に笑いかけて、万真は言った。
「ご心配をおかけしました」
 その言葉、その笑顔に、照れくさくなり日向は少し視線をそらし、ぶっきらぼうに言った。
「俺より、相馬だろう」
 ふと万真の眉が下がった。
 その表情に日向が気を取られた隙に、彼を押しのけてライトが緊張した顔つきで万真に声をかけた。
「…それで、おまえを攫ったやつは」
 万真は少し困ったような顔をした。
「あ…っと」
 恐る恐る背後を指差す。
 彼女の視線を追って部屋を覗き込んだ成一と千里は、ひときわ目立つ赤毛の青年を見て絶句した。遅れて青年に気づいた日向が息を呑む。
 三人の視線を受けて、弘行は万真に困ったような目配せをしてから、笑顔になり片手を上げた。
「よう。おそろいで」
 一拍おいて、千里が低い低い声で万真に訊いた。
「………どういうことだ」



「えーっと。だから」
 万真は困り果てていた。
 眼の前には思い切り不審げな千里と成一、今にも弘行に噛みつかんばかりの形相をしているライトとゼン、そしてなにを考えているのかさっぱりわからないが心なしか眉間のしわが深くなっている日向がいる。
「その…」
 なんであたしが説明しなきゃならないの。
 そう思いつつ横目で弘行を見やると、彼は困った顔で頭を掻いていた。
 北斗と蓮見も、なにか察するものがあるのだろうか、当惑した体で少年たちと弘行を見比べている。
 おどおどしている万真をものすごい眼つきで睨んでから、ライトが弘行に向かって言い捨てた。
「あんたたちがヘルハウンドか」
 とたん。
「あ、俺違う。無関係」
 弘行にあっさりと言われて肩透かしを食らう。
 胡乱げな顔つきで成一が聞いた。
「なんで弘さんがここに?」
 万真は弘行を見た。弘行も万真を見返し、次いで後ろの二人に目をやって肩をすくめる。
「昔の仲間でね。ちょっと野暮用でここ来てみたらカズ坊にばったり逢ったってわけだ」
 あちゃ、と万真が顔をしかめたのと少年たちの表情が動いたのは同時だった。
「昔のって、まさか神竜?」
 ライトの言葉に弘行は軽く目を見張る。
「俺たちってそんなに有名だったんだ?」
 冗談交じりの言葉は、だがこの場合しゃれにならない威力を発揮した。
 先ほどとは打って変わって張り詰めた表情になった少年たちを見やり、北斗は眉を上げた。
「そのこ以外にも用がありそうな顔だな。目的は俺たちか?」
 ライトが無言で頷いた。
 緊迫感に張り詰めた彼を見て、万真は慌てて口をはさんだ。
「あ、あのっ。えーっと」
 わたわたと落ち着きなく腕を振り回す少女を北斗が胡乱げに見やる。
「君の仲間なんだろ? 俺は忙しいんだ。こいつ連れて早く帰れよ」
「じゃなくて、そのーっ」
 混乱しているのだろう、もどかしげに少年たちと青年を見比べる。
 落ち着きない行動に呆れて弘行が口を出した。
「カズ坊、深呼吸」
 反射的に深呼吸する。
「落ち着いたか?」
「うん」
 こくんと頷き、北斗を見上げて口を開いた。
「あの人はライトっていって、ナンさんの…チームメイト」
 北斗の表情が動いた。
 細い目をさらに細めて、こちらを睨みつけている少年を凝視する。少年と青年の狭間にいるのだろうその若々しい顔は、今、怒りとも恐れともつかないもので張り詰めていた。  北斗が声を落とした。奇妙に感情のない声だった。
「あいつが、チームを組んだ?」
 万真はちらりと北斗を見上げ、小さく頷く。
「うん。ライトと、そっちの男の子。その二人とチームを組んでたの」
 蓮見が舐めるようにライトとゼンを見つめた。穏やかな顔立ちからは思いも寄らぬほどの眼光が二人を射すくめる。
「本当に? 本当にチームだったのか?」
 いきなり問い掛けられて、ライトはとっさに口が利けなかった。
 “本当にチームだったのか?”
 ――それはこちらが訊きたい。
 軽く唇を噛んでから、青年たちを睨む瞳はそのままに、ライトは口を開いた。
「本当の意味で“チーム”だったかと聞かれたら、答えはノーだ」
 万真は驚いて目を丸くした。それはほかの三人も同様で、驚いたようにライトを見つめている。
 ライトはこぶしを握り締め、さらに言った。
「あの人は、いつも一人だった。周りに誰がいても、どこかで人を寄せ付けなかった。そんな人が“チーム”を作ると思うか?」
 どこか自嘲の響きを宿した声に、万真は思わず口を開いていた。
「でも、ライト……」
 昨夜のライトの悲痛な叫び声はまだ耳に残っている。
 ライトは万真の言葉を封じるように小さく吐息をつくと、北斗を正面から睨みつけた。
「あの人は孤独だった。その原因は、あんたたちにあるんじゃないか?」
 北斗の表情は動かなかった。能面のような表情でただライトを見つめている。
「いつまでもあの人を縛り付けるなよ! あの人はもう開放されてもいいはずだ!」
 万真の横で空気が揺れた。弘行が髪をかきあげる動作をしたのだ。
 刹那。
 腹に響く振動とともにライトが後方に弾き飛ばされた。
「!?」
 壁に背中を打ちつけ、ライトの口からくぐもった音が漏れる。
「ライト!?」
 駆け寄ろうとした万真は弘行に肩をつかまれて動きを止めた。ものすごい力だった。
「なにも知らねえやつがギャーギャーわめきやがって」
 聞いたこともないドスのきいた声に万真や千里、成一が凍りつく。
「知ったふうな口を利くな。うざいんだよ」
 再びライトの身体が壁に叩きつけられる。衝撃波に壁が震え、天井が震えた。
 万真は愕然として弘行を見上げた。これが本当にあの弘行なのか。
 つかまれた肩が痛い。指が食い込む。
「弘くん…」
 その痛みが、彼の怒りの強さを伝えてくる。
「無関係なやつは引っ込んでろ」
 万真の肩をつかんだまま吐き捨てる。
 ライトは腹を抑えながらよろよろと身を起こすと、半身を起こした状態で弘行を睨んだ。
「…ナンさんもそう言った。だけどな、俺はすでにあの人と関わってるんだ。今更無関係だから関わるなって、そんなのないだろ!」
「下手したらてめえが死ぬかもしれないのにか?」
 冷たい声だった。
 その言葉の内容に、なにより弘行の表情に、ライトが凍りつく。
 万真の肩をつかむ手の力がわずかに緩んだ。
「あいつがそう言ったのは思いやりだ。察してやれよ」
 声からは先ほどの凄みはなくなり、表情もいつもの彼に戻っている。
 弘行の手が万真から離れた。
 痛む肩を無意識に抑え、万真は弘行を見上げた。
 弘行の手が背に触れた。今度は先ほどの怒りはなく、ひどく静かな動作だった。
「おまえの気持ちはわからなくもない。だけどな、これは俺たちの問題だ。おまえにできることはなにもないんだ。……悪いが、去ってくれ」
 同情すら感じられる声の響きに、ライトは言葉もなくただ唇を噛み締めた。
 ひどく悔しかった。
 ナンだけでなく、この男もまた、拒絶する。
 弘行の手に力が入り、万真は押し出されるように数歩前に歩み出た。思わず弘行を見上げると、意外に静かな視線が返ってくる。
 頼む。そう瞳が語っていた。
 小さく頷いて、万真はまだ床に座り込んでいるライトに駆け寄った。
「……立てる?」
 小声で尋ねると、足を踏みしめて立ち上がろうとするライトに肩を貸して立ち上がらせる。慌てて駆け寄った千里が、ライトの重さを支えきれずよろめく万真に代わって彼を支えた。
 万真は己の力のなさに顔をゆがめるライトを覗き込み、小さく囁いた。
「行こう」
「万真!?」
 驚愕に眼を見張るライトに向かって首を振る。
「だめだよ。ここからはもう、あたしたちは踏み込んじゃいけない。あたしたちが口を出せる問題じゃない」
 ライトはうなだれる。
 その背をそっと叩いて、万真は言った。
「ナンさんは大丈夫だから。あの人たちは、ナンさんを傷つけないから」
 彼らもまた、万真たちと同じくらい、いやそれ以上にナンを大切に思っていることがわかったから。
「だから、行こう」
 静かな言葉に、ライトは拳を握り締めた。
 自分にできることは、なにもない――。
 現実が突きつけられる。ずっと眼をそらしてきた現実が。
 握り締めていた拳からゆっくりと力を抜き、ライトはようやく声を絞り出した。
「………ああ…」
 無言で部屋を出て行くライトたちを見送ったあと、万真は一人青年たちを振り返った。
 言葉はない。
 ただ、静かな瞳が、思いを伝えてくる。
「……ナンさんのこと、よろしくお願いします」
「君も、気をつけて」
 北斗の言葉に小さく頷き、万真は先に行った仲間を追って部屋を去った。
 暗い廊下の先にある階段を上って、ようやく自分が地下にいたことを知る。携帯電話が使えなかった理由がようやくわかった。
 千里たちはすでにビルの外に出ていた。
 遅れて出て来た万真を見て、千里が複雑そうな顔をする。
「…なにしてたんだ?」
 少し考えて、万真は言った。
「あいさつ」
 なにかが心にしこりを残しているような気がするが、その「なにか」がわからない。曖昧な答えに呆れた声を上げたのは成一だった。
「あいさつっておまえ、自分を攫ったやつにあいさつなんかするバカがいるか?」
 万真はムッとして成一を見返した。
「あの人たちは悪い人じゃないよ!」
 その声の強さに思わず全員が万真を見た。
「なんでそう言いきれる?」
 静かに尋ねたのは日向だ。
「あの人たちは、まだナンさんのことを仲間だと思ってる」
 ライトとゼンの表情が強張った。それには気づかず、万真は小さな声で続ける。
「仲間にひどいことするような人じゃないよ。そんな人じゃ、ない」
 簡単にナンを切り捨てて終わりにするような人ならば、万真を攫ってまで「鍵」を見つけようとはしない。
「おまえを攫ったやつが悪い人じゃない?」
 嘲るような、怒りのような声を上げた千里を見て、万真は眉を下げた。
 思い切り心配をかけた身として、どうしても千里には強く出れない。
「べつにあたし、ひどいことされてないし」
「カズになにかしてたらその場で俺があいつら全員殺してた」
 それは弘行も例外ではない。
 千里の怒りの大きさを思い知り、万真はますます小さくなる。
「それに、理由もあったし…」
 千里の瞳がきらりと光った。
 うっすらと口元に笑みを浮かべ、万真の顔を覗き込む。
「理由? おまえを攫った? どんな理由だ言ってみろよ」
 弱りきって万真は視線をさまよわせたが、成一も日向も、そしてライトたちも真剣で、どうにも切り抜けようがない。
「その…あの人たち、なにか探してて……。あたしが、その手がかり持ってると思ったらしくて……」
「持ってたのか?」
 万真は無言で首を振った。
 なんとなく、今は“鬼”の話をするべきではないと思ったのだ。
 千里は鼻を鳴らして万真の手を乱暴に掴んだ。
「おまえ、二度と俺から離れるなよ。はぐれないように服でも腕でも掴んでろ」
 万真は小さく頷いて、千里の大きな掌を握り返した。
 万真が自分の手をしっかりと握ったことを確認すると、ようやく千里の心も落ち着いてきた。
 万真の手を握ったまま、複雑な顔で万真を見ているライトに顔を向ける。
「…ナンさんのことは、納得したか?」
 ライトとゼンはゆるゆると首を横に振った。
 それを見て万真は慌てて口を開いた。
「大丈夫だって。あの人たちはナンさんを傷つけたりしないから。しないって約束したから」
 口約束でも立派な約束だと、そう言ったのはナンだった。
 それをちらりと思い出しながらそう言うと、ライトは複雑そうに顔を歪ませた。
「……それでも、心配なんだよ」
 その言葉に万真は口を閉ざした。
 ナンと一番関わりが深かったのは万真ではなく、ライトたちなのだ。
 横たわった沈黙を破ったのは日向だった。
「…あいつらはそうでも、ナンさんはどうだろう」
「え?」
 その言葉の意味を問い直そうとしたときだった。
「あ!」
 ゼンが小さく叫んだ。
 少年の視線を追い、万真たちも眼を見張った。
 道の向こうにひとりの男が見えたのだ。
 忘れもしない。
 シュウと呼ばれた青年だった。
 彼は脇目も振らず走っていた。
 その先にあるものを見たとたん、万真は千里の手を振り払い駆け出した。
 彼が向かっているのは、先ほどまで彼女たちがいたビルだった。




 万真がいなくなった後、静まり返った部屋の中に弘行の溜息が大きく響いた。
「……久々にキレた」
「本性だろ」
 蓮見にさらりと言われ、弘行は苦笑する。
「泣き虫だったおまえも言うようになったな」
 とたんに蓮見は頬を赤らめた。
「そりゃ、俺も大人になりますよ」
「どうだか」
 本当の「大人」はこんなところに出入りしない。それを暗に示唆する言葉に蓮見は黙り込む。
 ちらりと笑みを浮かべた弘行を見て、北斗が妙に感心した声音で呟いた。
「……抜けても能力は消えないんだな」
 弘行の顔から笑みが消えた。
「そのようだな。俺も驚いた」
 半ば無意識に力を振るっていた。この世界に出入りしていたころとなんら遜色ない力。
「……まだまだ裏がありそうだな」
「ああ」
 弘行の呟きに残る二人も即座に応じた。
 彼らは誰よりも長くこの世界にいるという自負がある。それでも、一瞬一瞬が驚きの連続だ。この世界の謎はあとからあとから湧いてきて、尽きることがない。
 軽く息を吐き出して、北斗が首を振った。
「…四年ぶりか。“裏”の鬼は」
「……たぶんな。このままあいつが上手く“鍵”と接触できればの話だが」
「できるさ」
 妙に力強い北斗の言葉に弘行は目を見張った。
 北斗は前方を見据えたまま、はっきりと繰り返す。
「あの子なら、できる。あの子は…どこか、あいつと通じるところがあるから」
 弘行と蓮見の表情が揺れた。
 視線をさまよわせ、弘行は口元に手をやりながら呟く。
「……確かにな。妙に人の気持ちを読むところとか、か?」
 北斗も考え深そうに瞳を翳らせる。
「それだけじゃないが……印象が、あいつと重なるんだ」
 蓮見も小さく頷いた。
 弘行は「お手上げだ」というふうに首を振る。
「俺にはわからねえな。カズ坊の印象が強すぎる」
 ふとした瞬間に万真が見せる暗い表情は、「彼」にはなかったものだ。
 と、小さく北斗が笑い出した。
 顔を上げた弘行に向かって微笑みながらこう言った。
「あんたも、つくづく“鬼”に縁のある人だな。しかも“裏”の鬼に。あの子で…三人目か? 普通じゃないぜ、それは」
 弘行は微苦笑した。
「正確には、あの子で四人目だ」
「後一人は誰だ? 俺たちも知ってるやつか?」
 驚いて眼を丸くした二人に向かって、弘行は力なく笑った。
「知らないはずだ。俺が入ったころにはもう抜けてたし、ずいぶん前に亡くなってるから」
 二人は息をついてソファにもたれた。心から残念そうに蓮見が呟く。
「“表”の鬼がいたら、神龍は完璧だったのにな。弘さん、そういう人本当に知らなかったのか?」
 弘行は頭を掻いた。困ったようなその表情に二人は思わず身を乗り出した。
「まさか…知っていたのか!」
 北斗の声に弘行は苦笑した。
「いや…悪い。その人はもう抜けた人だったから、わざわざ言うこともないと思って」
 ソファに身を埋めて、北斗は片手で顔を覆った。
「信じられねえ。なんでそこまで“鬼”が集まるんだあんたのところに」
 その言葉に弘行は軽く目を見張り、次いでゆっくりと首を振った。
「それは違うぞ。たぶん、鬼同士は惹かれあうんだ。俺はたまたま“鬼”の近くにいたから、他の鬼を知る機会があった。それだけだろ」
 と、その時、蓮見が軽く眼を見開いて口をはさんだ。
「そういえば、さっききた奴ら。あの中にも鬼がいたはずだ」
 とたんに興味深げな表情になった二人を見やって、蓮見は続ける。
「背の高い、がっしりした眼つきの悪いやつと、茶髪のやつ」
「ふたり!?」
 眼を丸くした北斗の前では弘行が絶句していた。
「眼つきの悪いのと茶髪って…おいおい!」
 それはすなわちあのメンバーの中ではどう考えても日向と成一を指している。
 惹かれあうにもほどがある。
 知らず弘行が頭を抱えていると、不意に蓮見が立ち上がった。
 そして小さく呟く。
「来た」
 北斗が立ち上がった。弘行も顔を上げ、蓮見を見上げる。
「ひとりか?」
 北斗の囁きには頷きが返ってくる。
 弘行も立ち上がった。
「ここで待つか?」
 静かな声に、北斗はしばし逡巡する様子を見せたが、きっぱりと首を振った。
「いや。こちらから行こう」
 弘行は小さく微笑む。蓮見もどこか悲しげな微笑を浮かべる。
 そして彼らは、ドアへと足を向けた。

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