覚えているのは一面の赤。
髪の先まで染み付くような血の匂い。
真赤な水溜りの中白い顔で倒れている少年と、そして。
血に染まったおのれの半身。
白い服も、白い肌も、全身を真赤に染めたままで、彼は少年をただ見下ろしていた。
まだ若かった。
人が「死ぬ」ということを、言葉は知っていても、現実のものとして自分は理解していなかったのだと知ったのは、その瞬間だった。
この手を血に染め、何人もの人の命を奪っていたにもかかわらず、「死」という概念を理解していなかったのだ。
だがそれは、思いもよらぬ形で心の刻み込まれることとなった。
最も親しい、最も大切な人の命と引き換えに。
そして。
誰よりも近しい人の裏切りによって――。
ナンは目の前に黒々とそびえるビルをただ見上げていた。
ずいぶんと、探した。
かつて彼らが根城にしていたビルや通りをしらみつぶしに渡り歩き、ことごとく外していた。
今回も外れだろうか。
――否。
直感とした言いようがないが、それでもナンは彼がここにいることを信じて疑わなかった。
自分たちの最後の牙城。
最も思い出深い場所。
それだけに、この場所を忌避してきた。
自分がどうしても近づけなかったいわば「聖域」に、あの男が入り込み、我が物顔で棲みついていることを思うと、胸の奥がぢりぢりと焦げるような感覚に襲われる。
許せない。
あの男だけは、たとえシュウが許しても絶対に許さない。
自分と、そして「彼」に対し、二重の裏切りをしたあの男だけは許すことができない。
しかも弁解も釈明も、自分にはなにも告げず目の前から姿を消した。四年間の間ずっと逃げ回っていたのだ。その態度にも、ナンはますます怒りをつのらせる。
ビルを前に立ち尽くしていたナンは、昂然と顔を上げ一歩踏み出そうとした。
「!」
ナンの足が止まった。
眼つきが険しくなる。
眼の前の暗がりの中に人影が現れたのだ。
靴音がだんだん近づいてきて、それにともないその人物の輪郭が明らかになる。
薄明かりの中現れたのは若い男だった。
年のころはナンと変わらない。細面の中、鋭い目がナンを見つめている。
ナンの瞳が細められた。
彼の背後から、さらに人影が現れたのだ。
中背の青年と、そしてその傍らの赤毛の青年の顔を見たとたんナンの顔色が変わった。
「あんた――リーダーまで引っ張り出してきたのか。ずいぶんな念の入れようだね。反吐が出る」
弘行が小さく苦笑した。
「俺のことは気にするな。君とは別件でこいつに呼び出されただけだから」
「蓮見もかい?」
蓮見は首を振る。
「四年ぶりの兄妹の語らいを邪魔する権利なんか誰にもない」
とたん、ナンは目を吊り上げて叫んだ。
「キョウダイなんかじゃない!」
表情を改めた後ろのふたりに対し、北斗の表情は変わらなかった。ただ静かな瞳でナンを見つめていた。
「――俺に用があるんだろう?」
ナンの表情が引き締まった。
憎しみに燃える瞳で目の前の男を睨みつける。
「…なんで、律也を殺した」
北斗の表情は変わらない。能面のような無表情でほとばしるナンの憎しみを受け止める。
対照的に顔を歪めたのは背後のふたりだった。
眉を歪め、蓮見が口を開く。
「南、聞いてくれ」
「よせ蓮見」
北斗その人に制され、蓮見は今度は北斗に食って掛かった。
「だけどおまえ、このままじゃ南は」
「いいんだ」
「北斗!」
「いいんだ」
静かな表情で繰り返す。蓮見は悲しそうな、悔しそうな表情で口を閉ざした。
「あたしがなんだい。言いなよ、蓮見」
蓮見は答えない。
ただ、哀しそうな瞳でナンを見つめている。
ナンは顔を歪ませた。蓮見とは違い、怒りのために。
舌打ちが漏れる。
「言い訳ぐらい聞いてやろうと思ったら、まただんまりか。いったいどれだけあたしを馬鹿にすれば気がすむんだ、北斗!」
北斗は答えない。
変わらぬ無表情を、悲しみさえ感じさせるその瞳を見たとたん、ナンの頭に血が昇った。
「…あんたは律也を殺した。自分の親友を殺したんだ!」
右手が閃く。
蓮見と弘行が顔色を変えて飛び出そうとしたが、北斗自身によって制される。
北斗の表情は変わらなかった。
静かに、ナンを見つめていた。
真空の刃が彼の身体を引き裂く。
そう思われた瞬間。
北斗の眼が驚愕に見開かれた。
刹那。
「やめろ、南!」
叫び声と同時にガラスが砕けるような音があたりに響き渡った。
驚愕に眼を見開き、ナンの背後を見つめたまま北斗は呆然とした口調で呟いた。
「なぜ、ここに…」
雷に打たれたかのように硬直していたナンの表情がゆるゆると動いた。
緩慢な動作で背後を振り向く。
そして、そこにいた人々を見てやはり驚愕に眼を見開いた。
「シュウ…」
シュウがいた。
青年の、以前はしっかりセットされていた茶髪は乱れていて、息も弾んでいる。
だがシュウは息を整えることもせず、ナンに駆け寄った。
「シュウ…」
ナンは呆然とした瞳で駆けて来るかつての仲間と、そしてつい数日前まで行動をともにしてきた少年たちを見比べる。
わからなかった。
なぜシュウが万真たちと一緒にいるのか。
撒いたはずの青年が眼の前に立ちふさがる。
そして彼の左手が動いた。
小気味よい音とともに右頬に鋭い痛みが走る。
呆然としたまま青年を見上げると、彼は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「もう、やめてくれ…。これ以上人が…仲間が死ぬのは見たくない」
その言葉にナンの瞳に光が戻った。苛烈な光を宿した瞳でシュウを睨みつける。
「見たくない? 律也を殺したやつが目の前にいるのにか!?」
「北斗は南の実の兄貴じゃないか! それに」
ナンは最後まで言わせなかった。
悲壮な顔で必死にナンを説得しようとしているシュウを突き飛ばす。
「あいつはもう兄じゃない!」
胸が痛くなるほどの絶叫に、初めて北斗の表情が動いた。
絶望に似た表情で一瞬足元を見つめ、次いで顔を上げたときには先ほど見せた表情など微塵もうかがわせない無表情に戻っている。
「南!」
蓮見が叫んだ。
その蓮見をも睨みつけて、ナンは昂然と叫ぶ。
「あんただってそうだ! 結局は人殺しの味方をするんだ! リーダーもだよ!」
「聞け南! 違うんだ!」
肩を掴んできたシュウを跳ね除けて、再び両手を振りかざす。
しかし、生み出されたカマイタチは北斗に届くことなく消滅した。
ナンは髪が乱れるほどの勢いで後方を振り返り、怒鳴った。
「邪魔するんじゃないよ成一!」
ことの成り行きに狼狽するしかできなかった少年たちの中で、ただひとり力を行使していた成一は、ナンの剣幕に思わず一歩下がった。
その隙を見逃すようなナンではない。
「クッ」
振り返りざま特大のカマイタチを北斗の傍らに出現させる。
後は、北斗の肌が勝手に切り刻まれるだけのはずだった。
しかし。
突如として北斗の身体が黒い影に包み込まれた。
一瞬、北斗の「闇」かと身構えたナンだが、驚いたことにそれはカマイタチを食らうとはがれるように人の形を取り、消滅する。
まさしくシャドウの影そのものだった。
「な…んで」
愕然とするナンと同様、北斗たちもまたことの成り行きに呆然としていた。
ただひとり、蓮見だけは眼を丸くして「あ」と呟く。
コピー能力者。
確か以前パルチザンの様子を「視て」いたとき、彼らはそんな会話をしていたはずだ。
会話こそ聞こえはしないが、彼ほどの練達者なら読唇術の心得ぐらいある。
北斗も薄々状況を察して、ナンの後方で状況をうかがっている少年たちに眼をやった。幾ばくかの感謝を込めて、目礼だけする。暗闇の中一瞬少女の顔が見えたような気がした。
北斗は顔色を無くしている女性に視線を移す。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「南。こんな命ならいつでもくれてやる。だが、今はダメだ」
「ふざけんじゃないよ!!」
ナンの白い頬が怒りに赤く染まる。
静かな声が落ちる。
「俺にはまだやることがある」
「バカなこと言うんじゃない! じゃあ律也はなんだったんだ! あいつはまだ若かった。やることどころか未来だってあったのに、それを奪ったのは北斗じゃないか!」
叫び声とともに振り上げた手は、しかし振り下ろされることはなかった。
小さな影が飛び出す。
ナンは眼の前に現れた小柄な少女と、そして自分の腕を背後から掴んでいる少年に眼をやり、狼狽した。
「…どけ、万真」
「どかない」
少女は両腕を広げて北斗をかばいながら首を横に振った。
「そこをどきな。あんたには関係ないだろう。千里もだ!」
千里はなにも言わなかった。
その細い外見からは信じられないほどの力で振り払おうともがくナンの腕を掴み続ける。
「……死にたいのかい」
ナンは空いた左手を振り上げた。低い、氷のような声に万真の顔が引き締まる。だが、少女はその場を動こうとはしない。
北斗が万真の肩に手をかけ、少女を制止しようとした。
「どけ。死ぬ気か君は」
「…ナンさんには、できないよ」
静かな声だった。
大きな瞳でナンを見つめながら、万真は静かに続ける。
「こっちには一と千がいる。悪いけど、ナンさんにはできない」
千里の手が離れ、ナンはようやく自由になった右手を無意識に触った。つかまれたところが痛む。おそらくあざになっていることだろう。
「なんで、邪魔するんだい。あんたには関係ない」
万真の表情がかすかに揺れた。
背後の北斗を意識し、短い逡巡のすえ口を開く。
「あたしは、もう、関わっちゃってると思う。ナンさんに逢った時点で」
ナンは舌打ちして万真を睨んだ。
「あんたたちが、関わってる? ふざけんじゃないよ」
万真はかすかに首を振った。
「あたしたちがじゃなくて、あたしが」
ナンの表情が微妙に変化した。
不審から、訝るような表情へ。
眉がひそめられ、万真と、その背後の北斗を何度も視線が往復する。
ナンの背後では、数歩下がった千里もまた怪訝そうに万真を見つめていた。
北斗を睨みつけ、厳しい声で詰問する。
「どういう意味だい」
かすかな吐息を漏らしたのは弘行だった。
赤い髪をかきあげ、苦々しげに吐き捨てる。
「律也を殺したのは北斗じゃない。こいつは無実なんだよ、南」
瞬間。
ナンの表情が凍りついた。
耳を疑う、などという生易しいものではない。
ナンの頭はその言葉を拒否した。
言葉に変換されなかった音の連なりが耳の奥でぐるぐると繰り返される。
ホクトジャ ナイ
どれくらい呆然としていたのか。
気がついたら掌は汗に濡れていて、力が入らなかった。
指先どころか膝にも力が入らない。
「……なに?」
今度はすぐそばから声がした。
「すまない、南。ずっと言おうと思ってたんだけど……」
苦しげなシュウの言葉は耳に入ってこなかった。
音だけが耳を通り抜けていく。
無意識の内にナンは前髪をかきあげた。指の間をすり抜ける髪の感触が妙に生々しかった。
「は…なに、言って…」
ホクトジャ ナイ。
音だけがただ耳に残っていて、意味まではわからない。わかりたくない。
さまよった視線が捉えた北斗の表情は静かだった。だが、静かな裡にちらりと悲しみのような、哀れみのような、複雑な色が浮かんだのが見えた。
「…ウソだ」
かすれた声が漏れた。
まるで他人のものような違和感を残し声は宙をさまよう。
痛ましげに顔を歪めて蓮見が囁く。
「嘘じゃない」
「じゃあ、律也は誰にやられたんだ」
当然の疑問に対する答は返ってこなかった。
眉を吊り上げ、ナンは蓮見と北斗を睨みつけた。
「こいつじゃなかったら誰なんだ!」
短い沈黙が落ちる。
静かな声を発したのは北斗だった。
「…わからない」
「な――!」
ナンは絶句した。
「わからない!? ふざけんじゃないよ!」
再び叫んだナンに向かって北斗はあくまで静かな表情で首を振る。
「信じてくれとは言わない。だがな、律也はいきなり俺の前に現れたんだ。そのときにはもう、手遅れだった」
なにもない空間から闇を割って出現した律也は、すでに血まみれだった。倒れかけたその身体を抱きとめたとたん、背中から吹き出した血が北斗の頬を、服を、濡らした。
「おまえに、「すまない」と。それがあいつの最期の言葉だったんだ」
今まで黙っていてすまなかった。
そう囁かれ、ナンはその場に立ち尽くした。
冗談じゃなかった。
では、今までの四年間はなんだったのか。
北斗を殺す。
律也の仇をとる。
それだけを糧に、ここまできたのに。
今日までこの世界に残り続けてきたというのに。
喉が焼け付くように痛い。
零れた声は、かすれていて、自分の声ではないようだった。
「…なんで、言ってくれなかった…」
北斗の表情が揺れた。
痛ましげに、哀しそうに歪められる。
「言い訳ぐらい、してくれれば…!」
「……言えなかったんだ。おまえには。せめて、律也を殺したやつがわかってから、知らせようと…」
気がつくと熱いものが頬を伝っていた。
視界がかすんで、北斗の顔も、万真の顔も、なにも見えなくなる。
喉が熱い。熱くて、痛い。
「あたしひとり…知らなくて……」
たった一人で、四年間も。
北斗を殺すことだけを考えて生きてきたのに。
それが、全て勘違いだったなんて。
ふ、と、暖かいものが頬に触れた。
眼をぬぐって顔を上げると、そこには北斗の顔があった。
懐かしい顔を見たとたん、再び涙が溢れてきて、ナンは声を殺して泣いた。
「ごめん。ひとりにさせて。辛い想いさせて、悪かった」
優しい言葉に、ますます涙が止まらなくなる。
くしゃりと髪をかき回す大きな手があった。優しく髪を撫でながら、かすれた声が囁いた。
「ひとりで、辛かったな。……だけどな、おまえにはどうしても言えなかったんだ。言ったら最後、おまえは絶対にここから抜けられなくなるってわかってたから、俺がみんなに口止めしたんだ。
…怨んでいいぜ。実の兄貴を憎ませるなんて、ひどいことしちまった。ほんとに、すまねえ」
「リーダー…」
久しぶりに聞く弘行の声に、懐かしい記憶が蘇ってくる。
自分がいて、北斗がいて、彼がいて、みんながいた。
懐かしい、もう二度とは戻ることができない、過去。
昔を想うと、また涙が出てくる。
あとからあとからこみ上げる涙に負けてひたすら泣き続けるナンを、かつての仲間たちは優しく見守っていた。
青年たちに囲まれてひたすら泣き続けるナンを、万真は離れたところから見守っていた。
涙とともに、ナンを縛っていた鎖が解けていくのが見えるような気がする。
ナンはもう大丈夫だろう。
なんとなく、そう想った。
だって、ナンにはもう確かな「仲間」がいるのだから。
ナンたちを見つめていると、傍らに千里がやってきた。
千里に軽く笑いかけて、ぺたんと地面に腰を下ろす。
実のところ、膝が震えていたのだ。
千里と成一、それに日向もいる。危険なことはないとわかっていても、さっきのナンと対峙するのはさすがの万真も緊張した。
相手が本物の殺気を放っていただけに、なおさら。
同じように隣に腰を下ろした千里に笑いかけて、短く言った。
「協力、感謝」
「二度とするな」
とたんにぴしゃりと言われ、軽く首をすくめる。
と、いきなり上から諦めたような吐息が降って来た。
「…相変わらず、むちゃくちゃなやつだな」
低い声に上を向くと、ずいぶん高い位置にある日向の顔が見えた。そして、その傍らには成一もいる。
「俺らがいなかったらおまえ、どうなってたと思ってんだ?」
くしゃくしゃと髪をかき回されて万真はくすぐったそうに首をすくめた。
「だから、ほんとに感謝してるってば。そこらへんは、信頼してますから」
「上手いこと言ったってごまかされねえぞ」
上から頭を押さえつけられる。
立てた片膝を抱えたまま青年たちを眺めていた千里が、ポツリと声を落とした。
「…おまえは、知ってたのか?」
万真は、なにをとは聞かなかった。
千里の言葉にはあまりに多くのことが含まれすぎていたので、聞けなかったのだ。
だから、自然と答えは曖昧になる。
「…知ってたわけじゃないけど。なんとなく、ナンさん、空回りしてるんじゃないかなあ、って」
北斗や蓮見と逢って話して、ふとそう思ったのだ。
勘でしかなかったが、万真は自分の勘を信頼していた。
だから、北斗たちの側に立って動いた。
人を見る眼だけは自信を持ってあると言えるから、北斗たちを信用したのだ。
ふ、と眼の端に人影が現れてそちらを見ると、複雑な表情をしたライトとゼンが立っていた。
どことなく悔しそうに、ライトは呟く。
「結局、ナンさんにとっての「仲間」は、あの人たちだけだったんだろうな…」
なにも言えず、万真たちはただ沈黙するしかなかった。
おそらく、ライトの言葉の通りだろう。
袂を別けても、ナンは彼らを「仲間」だと思い続けていたのだ。そして彼らも、ナンのことを「仲間」だと思い続けてきた。
落ち着いてきたのだろう、顔を上げたナンとなにやら真剣に語り始めている青年たちを眺めながら、万真は内心溜息をついた。
面倒なことに巻き込まれてしまった気がする。
いみじくも自分で言ったとおり、ナンに逢った時点からこうなることを運命付けられていたのではないか、とすら思えてしまう。
運命、という言葉は万真がなによりも嫌う言葉なのではあるが、北斗に攫われたことといい、弘行とのことといい、なにか、はじめからそう決められていたことのような、そんな錯覚すら覚える。
(冗談じゃ、ないんだけど)
でも、結局巻き込まれている自分がいる。
“鍵”がどう関わっているのかは知らないが、亡くなったという人とも自分は無関係ではなさそうにすら思えてくるから、困ったことだ。
ぼんやりしていると、不意に千里が声をかけてきた。
「さっき、言ってた。おまえは無関係じゃないって、どういう意味だ?」
万真は少しだけ躊躇した。
なぜかは分からない。
まだ言うべきではないと、心のどこかで誰かがそう囁いている。
だから、万真はこう言った。
「……まだ、言えない。ここでは、言えない。後でちゃんと説明するから」
「…弘さんも関わってるのか?」
静かに成一がそう問いかけてくる。
万真は短い沈黙の後、小さく頷いた。
とたんに溜息が降ってきて、髪をぐしゃぐしゃにされる。
「ひとりで抱え込むなよ」
成一がそう言い、千里が無言で万真の肩を抱いた。
「うん」
万真は、小さく応えた。
涙が止まり、ようやく落ち着きを取り戻したナンは、気恥ずかしさも手伝ってなかなか顔を上げることができなかった。
うつむいたまま、傍らのシュウに向かって声を投げる。
「あんた、さっさと言ってくれたらよかったのに」
「だから、悪かったって。リーダーに口止めされてたんだよ」
真赤な眼で睨まれて弘行は慌てて両手を前に上げた。
「いや、その。本当のこと言ったら、南は復讐に燃えると思ったから…。結局それが裏目に出ちまったんだけどよ」
「でも、あたしだって辛かったんだからな」
初めて口に出した弱音に、また涙が零れそうになる。
こらえて、眼の前で優しく微笑んでいるおのれの半身を見上げた。
「…北斗は、ゲームに参加するのか?」
「ああ」
躊躇いはなく、まっすぐな答えが返ってくる。
ナンは視線を落とした。
「…なんのために」
ふ、と息をつく音が聞こえた。
顔を上げるとそこにはどこかやるせない光を宿した瞳がある。
「…最期の瞬間、律也は闇を割って現れたんだ。ワープゾーンもドアもなにもないところから」
ナンの整った眉がひそめられた。
「鍵」
呟きにはしっかりとした肯定の言葉が返ってくる。
「ゲームに勝利してこの世界の覇者になったら、鍵に接触できるかもしれないと思ったんだ。だからリーダーにまたここに来てもらった」
「おいおい。聞いてねえぞ俺は」
苦笑した弘行に「そういうことだから、よろしく頼む」とちゃっかり言い置いて、北斗はナンの顔を覗き込んだ。
「…おまえも来い。南の力が必要なんだ」
ナンはすぐには応えなかった。
ちらりと、北斗の背後に視線をよこす。それに気づいて北斗は苦笑した。
「あいつらが、気になるか?」
「ああ…。あたしの勝手で放り出すわけには行かないだろ。今回のことじゃずいぶん迷惑かけちまったから」
「そうか…」
北斗はなにも言わなかった。ただ小さく呟いて、ナンの頭をくしゃりと撫でたきりだ。
ナンはかすかに笑った。
「あたしは遊軍になるよ。なにかあったら呼んでくれ。すぐに駆けつけるから」
「わかった。頼むぞ」
その様子を見て弘行が小さく笑った。
「北斗もリーダーらしくなってきたな。俺の居場所なんかねえよ」
「そういうわけにはいかないさ」
北斗も軽く笑い、今度はシュウに眼を向けた。
「シュウも、戻ってくれるか? 君がいてくれたら、心強い」
シュウは破顔した。大きな笑顔だった。
「俺は初めからそのつもりだぜ。…それよりも、これからは北斗がリーダーなのか?」
意表を突かれて北斗は目を丸くした。そして吹き出した。
「リーダーは弘さんだ。それはもう変わらない」
複雑な表情で弘行が頭を掻き、それを見てまたみんなが笑う。
人数こそ減ったが、以前と同じ空気がここに流れていた。
静かに微笑みながら、ナンは再び視線を北斗の背後に投げた。所在なげに固まる少年たちを見て、かすかに表情を改める。
視線に気づいて、弘行が小さく声を落とした。
「鍵は、“鍵”か」
一瞬降りた奇妙な沈黙に、弘行は慌てて弁解する。
「ま、待て! べつにギャグとかじゃないぞ!」
「わかってるよ、弘さん」
穏やかに蓮見が言い刺し、弘行は赤くなって顔をそむける。
ナンは少年たちに眼を向ける。彼らの中心にちょこんと座っている小柄な少女に。
「…あの子を、ちゃんと見てやってくれ」
北斗の声に、ナンはしっかりと頷いた。
「ああ。とりあえず今は、万真が一番の近道になる、か」
声に複雑なものが混じる。それ以上に複雑な表情で呟いたのは弘行だった。
「…頼むぜ。あいつはたぶん、それだけ『死』にも近いところにいるから…」
思わず弘行を見る。
「…“裏の鬼”は短命だと言うのは本当なのか?」
北斗の言葉に弘行は顔を歪ませた。
「…俺の知ってる裏の鬼のうち、半数はもうこの世にいない」
その言葉に全員が表情を改めて何事か談笑している少女を見つめた。柔らかな表情で笑っている少女。
その姿に、今はもういない、かつてともに生きた仲間の姿が重なる。
「――わかった。万真のことは、あたしが責任持つよ」
しっかりと呟いたナンは、こちらに気づいた少年たちに向かって軽く片手を振った。
そして彼らの方へ歩き出す。
つられるように歩き出した仲間の背を見つめながら、弘行はポツリと声を落とした。
「……能力が遺伝するってことは、あるんだろうか」
「え?」
北斗と蓮見が振り返る。
弘行は軽く首を振った。
「――なんでもねえ」
そして、先に行ってしまったナンの後を追うように、足を踏み出した。
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