NIGHT GAME 二章十六話 ナツヤスミのシュクダイ![]()
開店直後の「庵」は相変わらず人気がない。しかし、密やかな音楽に混じって低い話し声がどこからともなく聞こえてきていた。
葉介は豆を選り分けながら店内の隅、観葉植物の影の席へ視線を投げる。
そこには、いつものごとく三人の少年とひとりの少女、そして珍しいことに真赤な髪の青年がいて、なにやらひそひそと話をしていた。
「…なあ弘さん。俺いまだに信じられねんだけど」
頬杖をついて、成一は立っている弘行を仰ぎ見た。彼の前では腕を組んだ千里が同じように胡乱げな眼で弘行と、そして隣の万真を見比べている。
「本当にカズが“裏”の鬼なのか?」
「99%間違いない」
「残りの一パーセントは?」
千里の言葉に弘行は軽く肩をすくめた。
「カズ坊が“鍵”を見つけられない可能性、だな」
その答えに千里と成一、そして日向は溜息をついた。
彼らの様子を見て、万真は困ったように頬を掻いている。
昨日の今日――いや、正確には今朝未明なのだが――のことで、千里たちの弘行に対する態度は頑なだ。
弘行もそれは仕方がないことと思っているようで、特になにも言わない。
四人の前に冷水のグラスを置きながら、弘行は屈託なく笑った。
「だから、カズ坊はこれからちょっと大変なことになると思う。それを守れるのはお前らだけだ。――だから、蓮見はわざわざあんなことを言ったんだよ」
千里の表情が動いた。
「カズを守るために? なんで」
万真と弘行は顔を見合わせた。赤い髪に手をやって、弘行は笑った。
「俺たちが探してるのは、その“鍵”なんだ。あ、カズ坊にはなにもしねえよ。ただ、“鍵”を見つけたら連絡してくれる約束はしてあるけど、な」
「うん。そういう意味では、あたしも別働隊になるの」
千里はますます不審げに弘行を睨みつけている。
「…亡くなった律也って人は、“裏”だったんだろ? それで不審な死に方をした。――カズも、危険じゃないのか」
弘行の顔から笑みが消える。真面目な顔になって、彼は頷いた。
「ああ。はっきり言って危険だ。“鍵”がどういうものかなにもわかってねえからな。律也も、“鍵”については誰にもなにも言わなかった。他の“裏”の鬼もそうだ。ただ――俺はカズ坊以外に“裏”を三人知っているけど、そのうち二人はもうこの世にいないんだ」
四人の表情が強張った。恐る恐る顔を上げ、万真が慎重に問い掛ける。
「……それは、“鍵”のせいで?」
「いや。律也はたぶん“鍵”が関わっているだろうけど、残りのひとりは無関係だ」
四人の顔に安堵の色が広がる。弘行はどこか複雑そうな顔で笑うと、手を伸ばして成一の頭を盆で軽く叩いた。
「だけど、“裏”に危険が付きまとうことには変わりはねえんだから、おまえらもしっかり力をつけろよ」
考え込んだ三人を見てちらりと笑みをのぞかせ、弘行は踵を返そうとした。とたん、エプロンをつかまれて足を止め、振り返る。
万真の丸い瞳が弘行を見上げていた。
どこか心配そうな少女に安心させるように微笑みかけ、弘行はカウンターに戻った。
出迎えた葉介の表情は非常に複雑だった。
「…万真が、“裏”ね…」
溜息とともに落とされた小さな呟きに、弘行も笑みを消し去って真面目な表情になる。
「なにも起こらないよう、俺たちがフォローします。…大丈夫っすよ。鬼がふたりにコピーがひとり。たいていの奴は手が出せませんから」
葉介の瞳に影が落ちた。
カウンターを拭く手を止めて、台拭きを見つめたまま呟く。
「……それでも、“裏”には常に死が付き纏う」
弘行は沈黙した。
サイフォンが小さな音を立てる。
背後の棚からカップを取り出し、カウンターに並べながら、弘行は口を開いた。
「でも。まだ、生きている人もいるじゃないすか」
「彼とは解散以来逢ってないし、連絡もない。生きているかどうかは、わからないよ」
静かな声に言葉を無くす。
葉介は瞳を伏せた。
「…ゲームは始まった。これから、東京は荒れる」
そのセリフに弘行も小さく頷いた。
「闇は、さらに深くなる…」
かすかな声は、よくよく注意しないと聞き取れないものだった。よく聞き取れず、聞き返そうと顔を向けた弘行は、思いがけず静かな葉介の瞳にあい声を失った。
「もしなにか起こった時は、僕が出向くよ」
予想外の言葉に、弘行は絶句した。
葉介が、再びあの世界へ戻る。
「そんな――、マスターがそこまでしなくても…!」
思わず声を上げた弘行に向かって、葉介はどこか哀しい微笑を浮かべた。
「僕の家族は、あのふたりしかいないんだ。…もう、失いたくはないからね」
弘行の顔に動揺が走ったのを見届けてから、葉介は淹れたばかりのコーヒーを持ってカウンターをするりと抜け出す。
弘行はなにも言えず、その背を見送った。
頬杖をついたまま、万真は顔のすぐ横にある緑色の葉を見つめて、ポツリともらした。
「それにしても、ライト失恋決定かあ……」
「は?」
眼を丸くしたのは男三人だ。成一などは丁度冷水を飲もうとしていたところだったために、気管に入ってしまいむせている。
「ちょっとまて。ライトって…そうなのか?」
千里の言葉に万真はきょとんとした表情を返した。
「そうって…律也さんって、ナンさんの恋人だったんじゃないの?」
「本人の口から聞いたのかよ」
ようやく呼吸を回復した成一が涙眼で問い掛ける。万真はことりと首を傾げた。
「聞いたわけじゃないけど…でも、そうでしょ、あれは」
考え込み、千里も軽く小首を傾げた。
「まあ、確かに、あのこだわりかたは尋常じゃなかったけど……でも、なんでライトがでてくるんだ?」
「えーだって、ライトってナンさんのこと好きでしょ?」
再び眼を丸くした三人だった。
額を抑え、成一は空いた片手を押し留めるように上げる。
「一体あのふたりのどこらへんからそういう結論が導き出されるんですか?」
万真は二三度瞬いて、そして笑った。
「どこらへんっていうか……勘、かなあ。銀さんもそう思ってると思うよ」
あの得体の知れない情報屋とのやり取りを思い出して三人は一様に渋い顔になった。渋い顔のままで、千里が問い掛けるように万真を見る。
「勘、ね」
「うん。なんとなくね。ライトはナンさんのことが好きなんだなあって。思った」
三人は複雑な表情で眼を見合わせた。
特に日向と千里の表情は複雑だった。
それには気づかず、万真はのんきに笑う。
「あたしの勘も捨てたもんじゃないよー。北斗さんもいい人だったしね」
「………あれのどこが?」
とたんに不機嫌になった千里の言葉に万真もむうと膨れる。
「まだこだわってるの?」
頼むからもう忘れてよ。
しかしいくら万真が北斗たちのことを千里に理解してもらおうと言葉を重ねても、かえって逆効果となってしまっていたので、万真はもうなにも言うことは出来なかった。千里がさらに不機嫌になることがわかっていたからだ。
千里と万真を見て、成一が人の悪い笑みを浮かべた。
「まあ、それは置いといても。万真の勘があたるかどうかは保留だな」
「なんでさ」
「べーつーにー?」
成一はにやにやと笑うきりで答えない。千里も、人の悪い笑みを浮かべて万真を見下ろしている。日向は日向でなにを考えているのかわからない顔で窓の外を眺めている。
三人の反応にムッとしていた万真は、近づいてくる人物に気づいて顔を上げ、そして笑った。
葉介は微笑を返してテーブルの上にコーヒーカップを置いていく。
「悪巧みでもしてるの?」
柔らかい声に四人は気まずそうに顔を見合わせ、そして曖昧に笑った。
葉介も微笑みながら四人を見る。
「遊びもいいけど、宿題は大丈夫なのかい? もう八月も半分すぎるよ」
あ、と表情を変えた少年たちを見てくすりと笑うと、葉介はいたずらっぽく付け足した。
「夜遊びも悪くはないけどね。僕にも経験はあるから。でも、宿題はちゃんとやりなさい」
言うだけ言って、背を向ける。
去っていく葉介を見ながら、万真は頭を抱えていた。
「………ばれてたんだ」
「侮れないよな。いつから気づいてたんだ」
千里も驚いた顔をしている。
溜息をついたのは成一だ。
「…宿題かー。俺全然手ぇつけてねえ」
「あ、あたしあとちょっとで終わる」
「俺も」
「……この裏切り者」
千里と万真は沈黙している日向を見やった。
日向はひとり、あらぬ方を向いていた。
ポン、と成一の手が隣の日向の肩に置かれる。
「…同士?」
「……まあな」
気まずそうに日向がボソリと答える。
二人は同時に溜息をついた。
「一緒にやるか?」
取り成すように千里が笑いながら言うと、二人は同時に千里に眼を向けた。
「…そうか、相馬は條青だったな」
考え込みながら日向が呟く。男子校の條青といえば、都内でもトップクラスの進学校である。
「俺も一応條青なんですけどー?」
さりげなく自己主張した成一はあっさり無視される。
「わからんところ聞いてもいいか?」
「俺にわかるものなら」
千里が頷くと、日向は席を立ち、「宿題取ってくる」と言い残して「庵」を出て行った。
程なくして窓の外を自転車に乗った日向が通り過ぎていく。
軽く笑って、万真と千里は無視されてふてくされている成一を見やった。
「一は、取りに行かなくていいの?」
「…千里がやったのを丸暗記」
「ざけんな」
頭を叩かれ、成一は「あーっ」と一声唸るとテーブルに突っ伏した。千里はそんな成一の頭を冷めた眼で眺めて、口を開く。
「ルーズリーフやるから、ここでやってけよ。ついでだろ?」
「…写させては」
「殴られたいか」
「………くれねえんだよなー」
拳を固めた千里を見て、盛大に溜息をつく。
けちーけちー、と小学生のように呟き始めた成一を、千里はしばらく無言で見下ろしていたが、やがて苛立ったような溜息とともに声を投げた。
「それ以上ごねたら問答無用で静香姉さんに電話を」
「ルーズリーフ貸してください」
がばっと身を起してそのままテーブルに額をつけん勢いで頭を下げた成一を見て、千里は苦笑し万真は声を上げて笑った。
そして成一を残して千里と万真も席を立ち、カウンターの奥の部屋へ宿題を取りに向かう。
その様子を見ていた弘行と葉介は、いまだ複雑そうな表情ではあるが、顔を見合わせて苦笑していた。