NIGHT GAME 二章三話 三本脚の椅子
 水城成一は非常に不機嫌だった。
 左の脇腹が不快な痛みを訴えている。
「いやはや、食べてすぐの激しい運動は控えましょうってか?」
 腹いっぱいに牛丼を詰め込んで「さて食後の運動でも軽くこなしましょうか」と意気込んでこっちの世界にやってきたはいいが、入るや否や十人ほどのチームに見つかりあわや戦闘になりかけたのだ。
 全速力でその場は逃げたものの、おかげで脇腹が痛い。
 さすがに息切れがしてきた万真が、苦しそうに、それでもすかさず突っ込んだ。
「余儀ない場合はどうなのよ」
 成一も走りながら風に前髪があおられて開いた額をぴしゃりと叩く。
「そう言うときはひた走る」
「でもやっぱり食べてすぐの全力疾走はつらいー」
 はにゃあ、と万真が変な声でそう言う。
 その隣を走りながら、千里が冷静な声を出した。
「それにしても、急に人が増えてきたな。十二時をすぎると活性化するのか?」
「あ、なんかそれ動物とか虫みたい」
「夜行性? って俺らもじゃん!」
 成一が一人でボケて一人で突っ込む。少しむなしかったらしく、寂しそうな表情になって沈黙する。
 三人の前方を走っていた日向は思わず振り向いて怒鳴った。
「お前ら、余裕すぎ! この状況わかってるのか」
 今現在六人ほどの集団に追われているところだと言うのに、このお気楽さはなんだ。
 成一が口を尖らせた。
「だってさー。俺らなんにもしてねえし」
「逃げてるだけってなんか腹が立つんだけど。応戦しようぜ」
「ついさっき無駄なケンカは止めようって決めただろうが!」
 怒鳴られても、二人はなおもぶうぶうと文句を言う。
 ふと背後を振り返り、万真は思わず引きつった笑い声を上げた。
「あははー。どうしよう。人増えてるよ」
「なにいッ」
 三人はほとんど同時に振り返り、十人ほどに膨れ上がった集団を確認した。
「……お前ら日ごろの行い悪いだろ」
「あっ、失敬な! 成一様の素行のよさを知らねえな? 水城さんちの成一君って言ったらご近所でも顔・長身・性格と三拍子そろったイイオトコって評判で」
「一はともかく、俺の行いが悪いわけないだろ。聖人君子を地で行く俺が」
「はいはい千里クンそのぐらいにしとこうねー。あんまり風呂敷広げすぎるとたためなくなるよー」
 日向は軽い頭痛を覚えた。
 だから、状況を把握しているのかお前たち。
 と、前方に人影が現れた。まだ若い青年だ。
 青年が四人を認めてにやりと笑う。両腕を広げて不思議な構えを取り、口を開いた。
「お前ら、ここまでだ――」
「はい、邪魔――!」
 いつのまにか先頭を走っていた万真が青年の肩に手をついてひょいと飛び越えた。間髪いれず肉薄した日向が情け容赦ない蹴りをくれる。ぐらりとよろめいたその身体を千里がぽいと横にうっちゃり、成一がその腹をしたたかに踏みつけた。
 嵐のような一団はあっという間に駆け去ってしまった。
「うげー、さっき変なもん踏んだー」
「ゴミだゴミ」
「猫の屍骸だったりして」
「千! いいかげんにしてよね!」
 先ほどの青年のことはすっかり忘れ去り、四人はにぎやかに怒鳴りながらひた走る。
 だがしかし、追っ手は減るどころかさらに膨れ上がってきている。両者の距離は先ほどよりも短い。
 これではいかんと遅まきに悟り、千里が叫んだ。
「二手に分かれるぞ。まけたらとりあえずさっきのファミレスに集合」
 ちょうど道が二つに分かれていた。だから千里はそう言った。
「おっしゃ」
 追っ手はすぐそこだ。
 音を立てて火の玉が万真の横を掠めた。
「ひゃあ!」
 万真は慌てて開けた道のほうへ飛び込んだ。
 すぐ横にちょうど一人分の足音がついてくる。
 十分に走り、何度も細い路地を折れ曲がってもう大丈夫だと思い始めたころ、ようやく万真は足を止めた。
 何気なく傍らの人物を振り返り――。
 そして硬直した。
 そこにいたのは千里でも、成一でもなく。
 日向は汗を袖で乱暴にぬぐうと、ちらりと万真を見てから歩き出した。
 慌てて後を追おうとはするが、なぜか身体が動かなかった。
 心臓が不規則な動きをし始める。
 万真がついてこないことに気づいたのだろう、日向は怪訝な表情で振り返った。
「? 行くぞ」
 万真はぎこちなく頷いた。ぎぎぎ、と音がしそうなほど、なぜか身体が固かった。
「あ、あ、うん」
 なんだか、右手と右足が同時に出てしまいそうだった。


 万真が彼女なりの戦いに身を投じようとしているまさにそのとき、その片割れは非常に不愉快な思いをしていた。
 なぜなら、彼の傍らにいるのは他でもない成一で。
「千里クン。人の顔見るなりそれはねえでしょーが」
 自分の隣を走るのが成一だと知ったとき、思わず千里は足を止めて生まれたときからの親友を怒鳴りつけていたのだ。
「なんでお前がここにいる!?」と。
 これにはさすがに気分を害した成一だったが、千里の懸念もわからなくはないので一応怒りは抑えた。我ながら大人だよな、自分で自分をほめてあげたい、とか思いながら、努めて優しく言ってみる。
「万真なら大丈夫だろ、日向がいるから」
 ところがそれは確実に千里の気分を害してしまったらしい。久しぶりに見る珍妙な表情で沈黙してしまった千里を見て、成一は内心首を傾げた。
 どうやら押すつぼを間違えてしまったようだ。
 だから別の方向から攻めてみることにした。
「なあ千里。ちょっと冷静になれよ」
「あ?」
 成一に冷静になれなどと言われる日がくると思っていなかった千里は呆気に取られた。ここが押し時だとばかりに成一は続ける。
「鬼同士がつるむわけにはいかねえだろ? かといって俺と万真の組み合わせじゃ攻撃手段がなくなるだろ? じゃあ、自然に俺と千里、万真と日向が組むしかねえじゃねえか」
「そのくらいわかってる」
 はて。では千里はなににこだわっているのか。
 千里は固い表情で呟いた切り口を閉ざしてしまっている。
 さて、どうやってこの貝をこじ開けるべかと思い悩んでいるところに、貝のほうから口を利いてくれた。こんな表情をしたときの千里からは、思いもかけないことだった。
 千里は非常に真面目な表情で、言った。
「一。お前、なんであいつをそんなに気にかける? なんであいつに万真の事情を話したりしたんだ?」
 成一は軽く首を傾げた。
「だって、いいやつだろ、あいつ」
 とたんに相棒は顔をしかめた。
「根拠は」
「俺の勘」
 とたんに相棒はがくりとうなだれた。
 またなにか変なことを言ったのだろうかと内心はらはらしていた成一だが、千里の消沈の理由は成一の心配とは若干異なっていた。
「お前の勘って……なんでもない」
 成一の勘ほど当てにならないものはなく、また当てになるものはないのだ。
 成一はそんな千里には気づかずに、言い訳がましく口を開いた。
「お前だって気づいてるだろ? あの万真が、自分から店に誘ったんだぜ?」
 先日。
 遊びほうけている間に、詳しい話をする時間がなくなってしまった。それで後日また集まろうという話になったのだが、その時万真が庵の名を挙げたのだ。
 溜息をついた千里を見やって、成一は言った。
「それにさ、お前だって日向のことわりと気に入ってるだろ?」
 千里は黙った。
 事実、その通りだったのだ。
 それなりに顔がいいが無骨なために高校生の少女にはあまりもてないだろう日向は、悔しいことにかなり千里の好きなタイプだった。もちろん、友人としてであるが。
 そして何よりも問題なのは、まさにその点だったのだ。
 双子ゆえか、万真と千里の好みは非常に似通っている。
 それを知らない成一ではない。
 複雑な表情になって沈黙した親友を眺めて、思わずにやりと笑った。
「ヤキモチ?」
「殴る」
 真顔でボソリとささやかれる。
「冗談だって」
 千里は競歩並みの速度で歩きながら、前方を見つめたまま言った。
「俺とお前よりもイイオトコじゃなきゃ、認めん」
 年頃の娘を持つ父親のような科白を、あくまで真顔で吐く。
 虚を突かれて成一はぽかんとした。
 ゆるゆると頬が赤くなるのが、自分でもわかった。
 にやつく表情を千里に見られないようにしながら、成一は応えた。
「光栄だな」
 そんな成一をちらりと見やって、千里は言ってのけた。
「せいぜい男を磨いてくれよ、物差し」
 怒るべきか否か――。
 非常に複雑な気分になってしまった成一だった。


 さて再び万真であるが、彼女はなぜかまたも逃げていた。
 背後からは男たちが執拗に追いかけてくる。
「今回はあたしのせいじゃないよねえっ!?」
 万真はすでに半泣きである。
 時たま飛んでくるソニックブーム(命名万真)をもはや本能としか言いようがない勘でよけているが、すでに髪の毛数本が犠牲になった。服や万真自身が犠牲になる瞬間もそう遠くはないだろう。
 同じように全力で走りながら、若干気まずそうな表情で日向がボソリと言った。
「悪ィ。今度は、たぶん俺だ」
「ええっ!?」
 驚いた万真を横目で見つつ、日向は決まり悪そうに弁解する。
「前にちょっと小競り合いになって…。むかついたから、どかんと」
 どかんと、ナニ。
 思ったが、万真は訊くことができなかった。
 本来受動的な能力の持ち主である日向が、なにをどうしたら「どかんと」攻撃できたのであろうか。
 と、ひた走る二人の前方に揺らめく陽炎が現れた。
 ワープゾーンである。
「飛び込むか」
 日向はすでに身構えつつそう言ったのだが、とたんに隣から飛んできた声に驚いて目を見張った。
「ダメ。ガラの悪いのがうじゃうじゃいる」
 一瞬頭が真っ白になった日向だが、聞き返す間もなく思い切り腕をひかれて横合いの路地に飛び込んでいた。
 斜め前を走る万真に尋ねる。
「お前、ワープゾーンの向こうが見えるのか?」
 返答は簡潔だった。
「見えますね、なぜか」
「なんで」
「さあ」
 万真も首を傾げる。
 千里たちも見えないと言っていた。ナンたちも驚いていた。そして日向も、驚いている。
(あ…ちょっと嫌な予感ー)
 背後からは足音が迫りくる。
「ところでさー日向。道わかって走ってる?」
「わかるわけないだろ。俺はこっちに来てからまだ二ヶ月だ」
 万真は引きつった表情で笑った。
「あははー………マジですか」
 道もわからない二人が闇雲に走るのである。今現在どこをどう走っているのか、万真にはさっぱりわかっていない。傍らを行く日向が冷静だから、きっとわかっているのだろうと信じていたのだ。
 さて、どうやって待ち合わせの場所まで行こうか。
 二人ともほぼ同時に同じことを考えた。
「……とりあえず、一度外に出るか」
「それがいいねー」
 これ以上ここを走っていても迷うだけだし、人数的に分がない。なにしろ万真はここでは日向のお荷物である。
 角を曲がったとたん、万真は思わずうめいた。ほぼ同時に日向が万真の腕を掴んで、路地に引きずり込む。
 道の向こうからやってくる人影が見えたのだ。
 路地を突っ切り、別の通りに飛び出す。
 そして追ってくる足音を背に受けながら、別の路地に飛び込んだ。
 背後からは入り混じる足音が聞こえてきていた。のんびりとした足音や時折聞こえる雑談から、先ほどとは別のグループだとわかる。
 さっきのように路地を通り抜けようとして、日向は思わず足を止めた。反対側にある通りからも足音が聞こえる。
 両方の足音はだんだん近づいてくる。
「ちっ」
 日向は万真を抱え込むと、積んであったビールケースの陰に身を隠した。
 驚いたのは万真である。
 一瞬近づいてくる足音も話し声も頭から抜けた。
 痛いほどに日向が抱きしめてくる。
 夏であるため、日向が身につけているのはジーンズと薄いシャツだけだ。
 そのシャツ越しに、日向の体温が万真の頬に伝わってきた。
 走ったために軽く汗ばんでいる日向の胸に、今、万真は頬をつけている。
 千里でもなく。成一でもなく。
 日向剛志に。
(―――うっわあ〜〜〜)
 顔が赤くなるのがわかった。
 頬が熱い。心臓が騒々しく踊りだす。
 混乱のあまり、なぜか涙が出そうになった。
 路地の向こうに人影が見えた。
 日向は身を固くして万真を抱く腕に力をこめる。
 幸い彼らは二人に気づかなかったようで、路地を見もせずに通り過ぎて行った。そのまましばらく待つと、反対側の通りを数人の人影が通り過ぎて行った。
 足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなるのを待って、日向はそっと息をついた。
 どうやら無事にやり過ごしたらしい。
 そして、そのときになって、日向は自分の腕の中にいる少女の存在に気づいた。
「わ、ワリ…!」
 慌てて手を離すと、伊織万真は急いで日向から身を離した。
 暗がりなので彼女の表情はわからないが、日向から顔をそむけて慌しく立ち上がる。
 そのまま無言で歩き出した彼女の後を追って、日向は頭を掻いた。
 どうにも胸のあたりが暖かいなと思ったが…。
 頬が熱くなる。
 怒っているのだろう、小走りに歩く彼女の背を見ながら、日向は片手で口元を覆った。
 言い訳もできないようなことをしてしまった。
 いや、それでも非常事態だったのだから、仕方がない。
 などと自分を正当化することを考えながら、日向はふと思う。
 これを、千里や成一が知ったらなんと言うだろうか。どう思うだろうか。
 そしてそれよりも、彼女は日向の行動をどう思ったのだろうか。
 先を行く万真と並んで歩く勇気はなく、日向は気まずい思いで彼女の背を追いかけた。


 二人が行き着いたのは、二十四時間営業のレストランだった。千里たちと別れてから二時間近い時間が経過していたが、店内には彼らの姿はなかった。
 精神的にも肉体的にも疲れていた日向と万真は、ホットドリンクを飲みながら聞くともなしに店内に流れるラジオ番組を聞いていた。
 二人とも、相手の顔が見れなかった。
 万真はホットココアをそっと口に含んだ。
 ココアの薫りで、少し落ち着いてきた。
 上目使いにそっと横を向いている日向を盗み見る。
 千里や成一とは違う、引き締まった、やや骨ばった顔立ち。男だな、と思う。
 筋肉が盛り上がった二の腕や、先ほど不覚にも触れてしまった胸板などを考えると、日向はかなりいいガタイをしている。
 さっきのことを思い出して、万真は赤面して慌てて顔を伏せた。
 千里は兄だし、成一は弟のようなものだ。葉ちゃんは叔父だし、良樹はやはり伯父だ。
 男である以前に彼らは家族で、それ以上のものはない。
 彼ら以外に身近な男性といえば、若くて弘行やジムの青年たちだろう。だが、彼らはすでに二十代だ。
 考えてみれば、日向は万真がはじめて親しくなった同年代の少年だった。
 小学校中学校と友達がいなかった万真が、初めて友達と呼べるかもしれない存在だった。
 そう、友達なのだ。
 ただ、身近にこんな男がいなかったから、それで少々上がっているのだ。それだけだ。
 万真は強引に絡まった気持ちをまとめてしまうと、熱いココアをのどに流し込んだ。
 日向は日向で、非常に戸惑っていた。
 やはり万真は怒っているのだろうか、先ほどから一度も日向を見ない。
 最も日向は決まりが悪くて万真を直視できなかった。
 自慢ではないが、同年代の少女には嫌われる日向である。
 無愛想なところがいけないのだろう。それとも、しょっちゅう作る生傷のせいだろうか。はたまた立派すぎる体躯のせいだろうか。
 中学三年ごろから女子からは敬遠されるようになった日向だが、どういうわけか伊織万真はごく普通の友達に接するように日向に話し掛けてきた。
 今日の言動で「こいつ本当に女か?」と幾度となく思ってしまった日向だが、確かに万真はクラスの少女たちのような「少女らしさ」はあまりない。女を感じない、とでも言うのだろうか。
 まるで、男友達に接しているような錯覚さえ受ける。
 だから、あんなことをしてしまったのだろうか。
 日向はふと万真を見やった。
 ココアを半分ほど飲み終えて、人心地ついたという表情をしている。
 また頬が熱くなるのを感じて、日向は慌てて顔をそむけた。
 万真は、やわらかかった。
 同じ筋肉でも、同じ身体でも、男と女ではこんなにも差があるのかと、日向は一瞬奇妙な感動を味わった。
 もちろん日向はそれなりに鍛えている。鍛えられた筋肉と一緒にすることが無理なのだとは思うが、ほかに比較対照がないのだから仕方がない。
 それに、小さい。
 腕の中におさまった彼女は、意外なほどに細く小さかった。
 それを考えると、やはり彼女はれっきとした「女」なのだと、不思議な感慨とともに理解する。
 それでも――。
 どうにも、日向に接するときとほかの二人に接するときで、彼女の態度が微妙に異なるのは仕方がないことなのだろう。
 日向は、なにしろ数日前に知り合ったばかりだ。
 こちらは何ヶ月も前から相手を知っていたのだが、万真が日向を知っていたとは思えない。名前を呼ばれたときは驚いたほどだ。
(あの二人、か)
 千里と成一、彼らはいったい万真の何だろう。
 成一は、彼氏ではないと言った。ただの幼馴染だと。
 確かに、成一と万真は、恋人同士というよりも仲のいい友人か、もしくは兄弟のように見える。男と女を意識しているようには思えない。
 では、千里は?
 見たところ、千里と万真の関係は、成一と万真の関係とは若干異なっているような気がする。
 成一と万真が友人だとするならば、千里と万真はもっと別のなにかで結ばれているような気がする。
 それに千里は、妙に万真を気にかけていたりするし。
 日向は三本脚の椅子を思った。
 あの時口走ったのは、なんとなく、三人の絆には入り込めない強さを感じ取ったからだ。
 三本脚の椅子は、それだけでもうひとつの椅子だ。
 四本目が入る余地はあるものの、それは単なるおまけでしかない。
 自分は、四本目になりたいのだろうか。
 一つの椅子を作りたいのだろうか。
 ひたすら内に篭っていた日向は、出口のない迷路のような思考に疲れて顔を上げた。
 そして軽く目を見張った。
 伊織万真が、ソファの背にもたれてうとうととまどろんでいた。
 よほど疲れているのか、ココアはまだ半分ほど残っている。
(そう言えば……不眠症だとか言っていたな)
 声をかけて起こそうかどうしようか迷っているうちに、万真の身体はことんと横に倒れた。
 思わず立ち上がった日向だが、万真がソファに横になって眠っているのを見てほっと息を吐いた。
 耳を澄ませば、軽い寝息が聞こえてくる。
 店内は、寒いぐらいに冷房が効いている。
 このままここで眠ると、まず間違いなく風邪をひく。
 日向はウェイトレスを呼び止めると、バスタオルを持ってきてもらい万真にかけた。
 風邪でもひかそうものなら、千里や成一から何を言われるかわかったものではない。
 自分の行動にそんな理由をつけると、日向は冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。
 コーヒーはひどく水っぽかった。
 

 目の前に広がる光景を見て、成一はがくりと肩を落とした。隣では千里も疲れたような表情をしている。
 彼らの前には、世界文化遺産に酷似した彫像が立っている――というよりは、置いてあった。
 どこかしら愛嬌すら感じさせるそれがなにか、二人はよく知っていた。
「モヤイ……」
 心底疲れた声で成一が呟いた。
 時刻は二時を少しすぎたところ。
 万真たちは今ごろどこにいるのだろうか。
 千里は心なしかムッとすると、傍らの成一の腕を掴んで歩き出した。
「お、おい?」
「急ぐぞ」
 千里の眉間にしわが寄っている。
 なんとなく、万真を日向と二人きりにしておきたくなかった。
 幸いまだ動いていた電車に飛び乗って、二人は外を流れる夜景をぼんやりと眺める。
 白や黄色、赤などの灯りがゆっくりと後方へ流れていく。
 千里は扉に頭を持たせかけた。
 ひどく、疲れている。
 電車の緩慢な揺れは、彼の眠気を誘った。
 だが、ここで眠るわけにはいかない。
 世界はまだ夜なのだから。
 暇そうに吊り輪をもてあそんでいる成一から、千里は窓の外へと眼を向けた。ガラスに映る自身の顔をぼんやりと眺める。
 千里は、母親似だ。
 どことなく女性的な顔立ちは万真や葉介にも通じるところがある。
 だから、千里は日向のような男性的な顔立ちに憧れていた。成一や万真、とうの日向には口が裂けても言えないことなのだが。
 振動が心地良い。
 落ちそうになるまぶたを必至に開けている千里の脳裡に、不意に日向の言葉がよみがえった。
 三本脚の椅子。
 不思議なことに、日向は一言で千里たち三人を言い表してしまった。
 千里や万真が眼をそむけていた事実を、たった一言で暴き出してしまった。
 椅子は脚が三本あれば立つことができるが、それは裏を返せば一本でも脚が欠けると椅子として成り立たなくなるということだ。
 一本でも欠けると、すべては無に帰す。
 三人身を寄せ合って生きてきたからこそ、千里はこうして今を生きることができた。
 万真もそうだ。
 たぶん、二人とも、成一がいなければ、今ごろこの世にはいなかった。
 成一は無言で窓の外を眺める千里を見つめていた。
 ガラスに映る千里はひどく思いつめた表情をしている。
 成一は、そっと息を吐いた。
 千里がなにを思い悩んでいるのか、理解できる気がした。
 三本脚の椅子。
 ほかに言い方はなかったのだろうか。
 あのとき、日向は、思いもよらず口から飛び出した、というような表情をしていた。
 おそらく、深い考えがあって言ったわけではないのだろう。
 だが、その不用意な一言は、こんなにも核心に迫っている。
 おそらく千里は日向に対して壁を作ってしまっただろう。
 万真も、おそらく同様だ。
 これではなんのために日向に万真のことを託したのかわからなくなってしまう。
 万真も千里も、このままでいいわけがない。
 少しずつ、外の世界に踏み出していかなければならないのだ。
(三本脚の椅子か……)
 成一も、脚にすぎない。
 外の世界に出て行かなければならないのは、成一も同じだった。


「………なんで」
 日向が三杯目のコーヒーを飲み干したころにようやく到着した千里と成一が、眠る万真を見て発したのはたったそれだけだった。
 心なしか二人の表情が強張っているように思えて、日向は内心怪訝に思う。
 千里はそれきり口を閉ざすと、青い顔で万真を揺り動かした。
「おい。おい、カズ!」
 軽く頬を叩くと、ようやく万真は目を覚ました。
 そして、そのまま硬直した。
 真っ青になって目の前にいる千里を食い入るように見つめた後、視線を転じて成一の姿を確認する。
「あ、あたし……」
 口元にやった彼女の指先は、かすかに震えていた。
 千里が無言で万真の頭に手を置いた。
 とたん、万真はほっと安堵の息を吐いた。
 張り詰めていた空気が緩む。
 千里は万真の隣に腰を下ろすと、彼女の肩を抱くようにして身を寄せた。
「大丈夫だ。大丈夫」
 優しいテノールが耳を掠め、万真は生まれる前から知っていた半身の体温に包まれたような錯覚に陥った。
 それは、まるで羊水に包まれているかのような、不思議な安心感。
 成一がそっと万真の頭をなで、そして乱暴に日向の隣に滑り込んだ。
 そして、何事もなかったような口ぶりで言った。
「遅くなって悪ィな。ちょっと道に迷っちまって」
 不思議な光景に心を奪われていた日向は、その声に我に返ると慌てて首を振った。
「いや、そんなに待ってない」
 先ほどの万真の様子が気にかかったが、尋ねることができるような雰囲気ではなかった。
 千里と成一が、それを許さなかった。
 沈黙が訪れる。
 万真は硬い表情で一人物思いにふけり、その隣の千里はまた非常に物思わしげな表情でテーブルを見つめている。
 居心地が悪い。
 そんな日向の様子に気づいたのか、頬杖をついていた成一がポツリと呟いた。
「……今日はもう帰るか」

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