NIGHT GAME 二章四話 彼らの日常
 翌日、日向は来なかった。
 今回は遠慮する、というのが断りの文句だった。
 そしてその次のときもまた、日向は来なかった。
 駅の改札を通り抜けながら、成一は内心首を傾げた。
 理由がさっぱりわからないのだ。
 日向の気を損ねるようなことをしたのだろうか。
 ――心当たりはない。
 それでは、嫉妬に狂った千里がなにかよけいなことを言ったりとか?
 ――日向と万真の仲はそこまで進んでいないし、第一千里はそういうやつではない。
 やはり、原因がわからない。
 駅を出ると、正午の日差しが容赦なく成一の上に降り注いだ。
 暑さを通り越して、痛い。
 日光を避けて比較的涼しい木陰を選んで歩いていた成一は、ふと彼の心を占めていた人物が向こうからやってくるのに気づいて軽く瞠目した。
 日向だ。
 声をかけようとしたが、成一は日向の姿に気を取られてうっかり声をかけ損なった。
 日向は、一言で言うならば傷だらけだった。
 それも尋常の怪我ではない。
 額と左腕にはまぶしいほどに白い包帯が巻かれている。頬にもまた右腕にもばんそうこうが貼ってある。
 交通事故にでもあったのだろうか。
 声をかける機会を失って、成一はただ日向の姿を見送った。
 伊織家につくなり、成一は万真と千里を捕まえて日向の様子を話してやった。
 熟睡していたところを叩き起こされて万真も千里も不機嫌そうにしていたが、日向の様子を聞くにつれて二人とも驚きに目を見張った。
 眠気も吹き飛んだ。
「交通事故…かなあ」
 さすがに心配そうに万真が呟く。
「ケンカとか」
 表面上は興味を持っていないように千里が素っ気無く言う。だが、黒い瞳はやや不安そうに揺れていた。
「日向は自分からケンカ売るような人じゃないと思うよ」
 思わず、というふうに万真が言った。
 成一もそれには異論がなかったので同意する。
「……まあ、それで最近誘いに乗ってこなかったのかもな」
 ポツリと千里が呟いた。
 そうだったらいい、と万真は心から思った。
 怪我をしたからとか、忙しいからとか、そう言う理由だったらいい。
 ただ――もしかしたら、日向は万真たちと一緒にいたくないのかもしれない。
 このあいだの一晩で、三人に嫌気がさしたのかもしれない。
 そう思うと、胸の奥がきりりと痛んだ。
 それは、ひどく悲しい。
 また失うのだろうか。
 彼もまた、去って行くのだろうか。
 ――どうせいなくなってしまうのなら、いっそ――…。
「万真」
 不意に名を呼ばれて、万真はのろのろと顔を上げた。
 するとそこには、思いのほか真剣な成一の顔があった。
 成一はゆっくりと首を振った。
 そのしぐさに、その表情に込められた意味を知って、万真はそっと顔を伏せた。
 成一は千里に眼を向ける。
 千里は気まずそうに視線を逸らした。

 品川区、五反田駅から徒歩五分のところに、そのビルはあった。
 六階建てで総ガラス張りの、一見おしゃれなビルである。
 ビルの中にはIT企業やそこそこ高名な会社が入っているかと一見思われるが、あいにく看板はなにも出ていない。
 ただ、自動ドアの脇に立派な木の看板だけがかかっていた。
 ビルの外観にそぐわないその看板には、黒々とした墨も鮮やかに「碎牙流」と立派な楷書体で書かれている。
 その看板を見上げて一人ごちる少年の姿があった。
「うーん。いつ見ても……」
「悪趣味」
「うん」
 そのすぐ隣で背の高い少年と小柄な少女が重々しく断言する。
 成一は軽く苦笑した。
「あのおっさんの趣味だけは理解できねえよな」
 まったくだ、と千里と万真は頷いた。
 この近代的なビルになぜ古式ゆかしい木の看板なのか。
 看板を捨てられなかった、と師範は言うが、それでももうちょっと考えろ、と言いたい。
 自動ドアを通り過ぎると、受付の女性が三人の姿を見て微笑んだ。
「久しぶりね」
 三人は苦く笑った。
「嫌味っすか、それ」
 女性はころころと笑う。
「あら、なんのことかしら」
「さぼってたわけじゃない」
「さぼってたんでしょ?」
 千里は見事なカウンターパンチを食らった。
 これ以上なにか言われてはたまらないと、三人はそそくさと受付を離れてガラス戸のほうへと歩み寄った。
 ガラスの向こうでは、スパーリングをしている男たちや、それぞれ筋力トレーニングにいそしむ男たちの姿が見えた。
「ちーっす」
 口々に声をかけて中に入ると、一瞬男たちの動きが止まった。
 一斉に注がれた視線を意に介するふうもなく、三人は人々の中を堂々と進んでいく。
 まっすぐに部屋を出て、階段を上り始めた。
 このビルには一応エレベーターはついているのだが、利用するものは皆無だった。
 この程度の階段を上れなくてどうする。
 しかし、ここの階段はただの階段ではない。
 一段一段が普通よりも高く、また急である。
 足腰の鍛錬にはちょうどいいように設計してあるのだ。
 世間話をしながら跳ねるように五階まで上がった三人の息は少しも乱れていなかった。
 現在五十人以上いるジム生の中で、五階に入れるものはその五分の一だけだ。
 ほとんどの人間は一階から四階のジムで各格闘技の基本の技を鍛錬する。そして、それらの技をマスターし、師範に実力を認められたものだけが五階・六階に上がれるのだ。
 千里たち三人は、その数少ない人々のうちの三人だった。
 五階のガラス戸を押し開けると、そこは広いフローリングになっている。
 その広々とした空間で、一人腕立て伏せをしている青年がいた。
 思わず千里は顔をしかめた。
 それは万真と成一も同様で、万真などは回れ右をしてその場から逃げ出そうとまでした。 だが、万真が階段を駆け下りようと右足を持ち上げた瞬間、その青年が三人に気づいてしまったのだ。
「ありゃ」
 間の抜けた声は、確実に三人の足をその場に縫い止めた。
「よう、サボリーズ。久々の登場か?」
 一括りにされて三人は不満そうに眉をひそめたが、青年は取り合わない。タオルで汗をぬぐうと、快活に笑いかけた。
「後で師匠に顔見せな。キレてたから」
「帰ります」
 三人は即座に踵を返し、階段を下りようとした。
 だがそれは、かなわなかった。
 その階段の下から、見覚えのある人間が上がってきたからだ。
 薄いシャツ越しにもはっきりとわかる、引き締まった体躯。
 顔立ちはどこか狼を連想させる。
 切れ上がった瞳が三人を捕らえた。
 このジムの代表であり、総師範である碎牙研三は、無言で顎をしゃくった。
 三人も無言で数歩後ろに下がる。
 無言の迫力と威圧感に押し出されるようにして、三人は部屋の中央まで来てしまった。
 ここまで来ては、もう逃げられない。
 碎牙は無言である。
 引きつった表情で、なんとか声を発したのは成一だった。
「ど、ども。お久しぶりです…」
 慌てて傍らの二人も頭を下げる。
 碎牙は三人を睥睨して、初めて口を開いた。
「ちょうどいいところにきたな、てめえら」

 そして五階はさながら戦場と化した。
「近頃たるんでやがるからな、ちょうどいい」
 二十人ほどの男たちに囲まれた万真を見やって、碎牙は鼻を鳴らした。
「鬼ですか、あんた」
 先ほどの青年、平賀春樹は思わず呟く。
 次は我が身の少年二人は、憮然とした表情で部屋の隅に座っている。
 万真を取り巻いているのは、みな二十歳を過ぎた筋骨隆々たる男たちだった。いずれも五年以上ジムに通い続けているものたちばかりである。
 だが、その男たちが、ほんの小柄な少女に対して及び腰になっていた。
 小柄な万真は、男たちの中にいるとさらに小さく、頼りなく見えた。
 だが愛らしい顔の中で炯々と輝く黒い瞳と、小柄な身体から発せられる気迫が、男たちを圧倒していた。
 十六にして、万真はすでに屈指の実力者である。
 大の男相手でも、一歩も劣らない自負があった。
「来ないなら、こっちから行きます」
 呟くなり、床を蹴った。
 一瞬で間近の男に肉薄すると、足を跳ね上げる。
 顎の先の急所を蹴り上げ、間髪入れず鳩尾に拳をめり込ませた。
 声も立てず崩れ落ちた男の姿に動揺したのか、張り詰めていた空気が緩んだ。
 その瞬間だった。
「うおお!!」
 あいた万真の背中にひとりの男が踊りかかった。だが、殴りかかった拳が捕らえたのは、空気だけだった。
「遅い!」
 泳いだ男の延髄に手刀を振り下ろす。
 その男が倒れる間に、横合いから繰り出された腕を捕らえて巻き込むようにして床に叩きつける。
 その様子を見ていた青年は、思わず、というふうに呟いた。
「相変わらず、速いな」
 万真は、さながら小さな旋風だった。
 誰よりも速く動き、誰よりも眼がいい。
 旋風に触れたとたん、男たちは捕らえられ、地に伏せる。
 男たちが全員倒れるまで、十分とかからなかった。
 少々息を乱しながらも、傷ひとつ受けずに立っていた少女を見て、碎牙は軽く嘆息した。
「もうすこし粘ってくれよなあ……。まったく、情けねえ」
「師範の鍛え方が悪いんじゃないの?」
 とことこと歩み寄りながら万真はそんな憎まれ口を叩く。
 この男に対する、ささやかな復讐なのだが、そんなもので倒れてくれる相手ではないということを彼女も嫌というほど知っていた。
「お前も俺が鍛えてやったんだぞ」
「そうだねー」
 気のない素振りでそう答え、部屋の隅に座り込んでいる二人の前にぺたんと腰を下ろした。
 千里と成一は、非常に熱心に雑誌を読んでいるようだった。
 万真に気づくとちらりと顔を上げ、彼女の様子と床に寝ている男たちを確認しつつ「お帰り」と言う。二人とも万真の勝利を信じて疑わない。勝つのが当たり前なのだ。
 万真もなにも言わずに軽く首を傾げた。
「なに読んでるの?」
「見ろよ、これ」
 そう言って成一が差し出したページを見て、万真は目を見張った。
 よく見知った顔が乗っていたのだ。
「……日向?」
 それは、どこから見ても日向剛志その人だった。
 なんの雑誌かと表紙を見ると、毎月発売されている格闘技の雑誌である。
 文章を読み進めるうちに、万真の顔から表情が抜け落ちていった。驚きのあまり、開いた口がふさがらなかった。
「……日向って、空手やってたんだ」
 先月行われた都大会で、優勝。
 一般の部であるから、大人も大勢参加していただろう。
 それで、見事、優勝したのだ。
 まさに能ある鷹は爪を隠すである。
 日向がそれなりに鍛え上げられた身体をもっていることを察していながら、こっち方面には頭が回らなかった。
 まさか、日向が「同類」だったなんて、考えても見なかった。
 それも、おそらく尋常でなく強い。
「次、水城!」
 名を呼ばれて、成一は勢いよく立ち上がった。
 新たに呼び出されてきた二十人の男たちを眺める。
 おそらく、日向はこの男たちよりも強いだろう。
 血が騒ぐ。
 異種格闘技戦は、成一がなによりも好むものだ。
 もちろんストリートファイトも好きだが、それとは違った緊迫感や、高揚を味わえる。
 これはなんとしてでも日向と逢う必要があった。
 万真が動なら、成一はさながら静である。
 大地に根ざした大木のように、ゆるぎなく、だが確実に男たちを倒していく。
 万真の拳が「虚」なら、成一のそれは「実」である。パンチが軽く数発を持ってしか相手を倒せない万真とは違って、成一の拳は一撃で相手を打ち倒すだけの力と威力を持っている。
 静かに、淡々と相手を倒していく成一は、えも言えぬ迫力に満ちていた。
 そして彼もまた、十分かからずに全員を倒した。さして息も乱れていない。
 碎牙はただ沈黙する。こめかみのあたりが軽く引きつっていた。
「……相馬」
 ようやく自分の番が回ってきたと、千里は軽い足取りで部屋の中央まで行った。
 男たちは部屋の端に退けられた仲間の様子を見て怯んでいる。
 無理もない。
 相手はまだ高校生の子供である。
 対する自分たちは、れっきとした大人だ。
 年齢的にも体格的にも、ずいぶんと差があるはずなのだ。
 千里はそんな男たちの怯えには取り合わず、軽く首を回す。
 彼もまた、燃えていた。
 日向がそんなやつだとは思いもしなかった。
 これはぜひとも、一度手合わせをしなければならない。
 胸の奥で燃え始めた炎は、消し止められぬ勢いで指先からあふれ出そうだ。
 幸い目の前にはこの炎をぶつける相手がうじゃうじゃいる。
「……楽しませてくれよ」
 呟きは、男たちに向けて発せられたものではなかった。
 千里の動きは、他の二人とはまた違う。
 万真が峻烈に、成一が力強くあるのとはまた異なり、彼の動きはいっそ優美ですらある。
 流れるように、舞うように重心を移動し、拳を繰り出す。
 音もなく、まるで炎に引き寄せられる虫のように、男たちは彼に吸い寄せられるようにして倒れていく。
 やはり、ここでも少年に傷を負わせることができたものはいなかった。
 累々と倒れ付す男たちを見やって、碎牙は溜息をついて首を振った。
 心底情けなかった。


 三人は、かれこれ十年近くこのジムに通い続けている。六歳のとき碎牙に出会って以来、この世界に身を置いてきた。
 まだ開校したばかりのジムに生徒は数人しかおらず、幼い子供でも溶け込むのはそう難しくなかった。
 年齢的には若輩だが、三人はジム生の中では古株である。
 当時高校生だった先輩たちの半数がやめてしまった今、ジム開校当初からいるのはほんの一握りしか残っていない。そしてそのほとんどが、五階へ上がる権利を持ついわゆる特別生だった。
 ジムに通うことになったきっかけは単純だった。
 碎牙にナンパされたのだ。
「よく考えたらさー、あれって立派な変質者だよな」
 ガシャン、とバーベルを引き上げながら、成一が言った。
 頭上のフックにバーベルをかけて、反動もつけずに身を起こす。
 さすがに少々息が切れていた。
 ここはジムの二階にあるトレーニングルームである。
 あのあとやってきたこの部屋には数人人がいたのだが、三人の姿を見るとそそくさと逃げて行った。
 俺は害虫か、と千里が苦く呟いていた。
 その千里は上腕の筋力の増強を図っていたのだが、一息つくつもりのようでトレーニングマシンの中から抜け出してきた。
「なんて言われたっけ? ――確か」
 千里の語尾を、若い少女の声がさらった。
「“強くなれば、大切な人を守ることができる”」
 腹筋をしていた万真は今、傾斜した台の上にだらんと寝そべっている。三人はほぼ同時に苦笑した。
「くさいねー」
「怪しいことこのうえないな」
「なんであんなやつに付いて行ったりしたんだろ、俺」
 当時の碎牙はまだ二十代だった。
 公園で遊んでいた三人は、近づいてきた若い男に警戒心を抱いたが、それはその言葉できれいに消えてしまった。
「大切な人を守れるように」
 その言葉が、三人を突き動かした。
 今周りにいる人々も、いつ突然いなくなってしまうかわからない。
 万真と千里の両親がそうだったように。
 また、成一の父親がそうだったように。
 ならば、ならば、強くなろう。
 強くなれば、大切な人を守れるのなら。
 あのときのような悲しみを感じなくてすむのなら、強くなろう。
 だから、三人はがむしゃらに身体を鍛えた。
 厳しい稽古にも、耐え抜いた。
 何度倒れ、何度吐いたか、もう覚えていない。
 だが、不思議と、やめたいと思ったことはなかった。
 強くなりさえすれば、あんな思いをしなくてすむ。
 それだけが、三人を突き動かしていた。
 それだけではいけないと悟ったのは、四年前のことだ。
 伊織の祖父が死んだ。
 交通事故だった。
 そして、夫の死ですっかり元気を無くした祖母も、二年前に他界した。
 力だけでは守れないものもあるのだということを、そのときになってようやく悟ったのだ。
 いくら強くなっても、万真と千里の心は五歳のころとなんら変わっていなかった。
 身近な人を無くした悲しみに震え、己の内に閉じこもることしかできなかった。
 二人の魂を、固く閉ざされた殻から救い出したのは、成一だった。
 あのときと同じように、成一は二人を叱咤し、励まし、温かな心で包み込んでくれた。
 この友を失いたくないと、二人は強く思った。
 だから、二人は再びジムに戻る決心をした。
 そして今、三人はここにいる。
 それぞれの思いを抱きながら、身体を、そして心を鍛えている。
 再びバーベルを持ち上げた成一を見やって、万真は軽く笑った。
「あんまり筋肉鍛えると、身長止まるよ」
 成一は取り合わずに、笑いながら答えた。
「百七十八あるからもうジューブン」
 再びトレーニングマシンに戻りながら、千里はさかさまになった万真を見てちらりと笑う。
「頭に血が上るぞ」
「うん。ちょっとつらい」
 言いながら、万真は腹筋に力を入れて上体を起こした。
 足は固定されている。
 腹筋を再開した万真を見やったあと、千里も自分のトレーニングに戻る。
 腕の力だけで百十キロのバーベルを持ち上げていた成一がポツリと呟いた。
「明日、アイツくるかな」
「さあな」
 そして、各々のトレーニングに励みだした。

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