日向剛志はぼんやりと手の中の携帯電話を見つめていた。掌に巻かれた白い包帯も目に入らない。ただ、液晶画面だけを見ていた。
今日は土曜だ。
あの三人と、約束した日。
(……別に、仲間になったわけじゃないし)
同盟を組んだだけだ。
だから、常に一緒に行動する義務はない。
あの三人なら、日向がいなくても十分あそこでやっていけるはずだ。相馬千里の能力は、自分の能力などはるかに凌ぐものであるから。
その千里に加えて、すべての攻撃を無効化してしまう成一がいる。
最強タッグだ。
日向がそこに加わっても、たいした戦力にはならない。日向にできることなど限られているし、日向でなければならない理由もないのだから。
(言い訳なら、いくらでもある)
たとえば、怪我で身体が動かない、とか。
事実だ。
事実ではあるが、それでもやはり胸の奥にもやもやとしたものが残っている。
全身を襲う痛みはまだ治まっていない。
時々思い出したように身体の節々が痛む。普通に歩くだけなら特に支障はないが、走るとなると少々都合が悪い。
こうなることを望んでいたかのような自分の気持ちに、日向は戸惑う。
自ら進んで百人組み手に参加し、いつもなら絶対にしないような隙を見せてわざわざ相手の拳を受けた。
なぜあんなことをしたのか。
答えは出ていた。
自分がなににそんなにこだわっているのかも、理解しているつもりだった。
だが、胸の奥にわだかまる靄の奥にあるものを直視することは、まだ彼にはできない。
本能的にそれを避けていた。
窓の外はすでに真っ暗だ。
もう住人たちは活動をはじめていることだろう。
そう、彼らも。
日向は携帯のディスプレイを見る。
そこに表示された、すでに暗記してしまった文章を眺める。
「――ちっ」
反動もつけずに起き上がると、日向はベッドの上であぐらをかいた。
腕に巻かれた包帯を解き、体中に張られたガーゼをはがしていく。
顔の腫れもひいて、痣もかなり目立たなくなってきている。
これなら、あいつに顔を見られても大丈夫だ。
(――あいつ?)
自分はいったい、誰を想定したのか。
心臓の動機が不規則になる。
考えるな。
今難しいことを考えたりしたら、ただでさえ性能が悪い自分の頭はショートしてしまう。
日向は自分の気持ちをガーゼと一緒に丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
街は静かだった。
油膜を抜けた瞬間に身体に訪れる変化にもすでに慣れてしまい、万真はもう吐き気を感じない。あれほど気持ち悪かったのに、もう慣れてしまった。
なんだかんだ言っても、自分はこの世界に順応してしまったのではないだろうか。
その証拠に、最初はこんなところには二度と来たくないと強く思っていたのに、今ではそんなことはかけらも考えなくなってしまっている。
いったい、いつの間にそうなってしまったのだろう。
すでに自分はこの「夜」の世界に心まで支配されてしまったのではないか。
そう思うとぞくりとした。
以前のナンの科白がよみがえる。
――やめられないんだ、どうしても――
――病み付きになっちまう。
そう、ナンは言った。
やめられなくなると、そう言っていたではないか。
最初にここに来て以来、夜になると妙に気分が高揚した。
以前は一晩で濃い濃いコーヒーを何杯も飲み干していた万真だったが、最近ではそんなこともしなくなった。
眠れない、眠らなくても良くなった代わりに、夜の闇に包み込まれた街を見ていると無性に外へ飛び出していきたいという衝動が身体を突き動かしそうになった。
外に出たい。
夜に抱かれたい。
あの王国へ、行きたい。
あの世界の、あの空気を嗅ぎたい。
生じる欲求は、突き詰めれば再びこの世界に入り込みたいというもの。
ひたすらそれだけを求める自分に戸惑った。
こうして、この世界独特の空気に身を任せていると、安心する自分がいる。
いったいいつからこうなってしまったのか。
前を行く千里と成一は、いつもとほとんど変わらない。
相変わらずくだらないことで言い合って、笑っている。
まったく普段と変わらないその様子が、とてつもなく恐ろしかった。
二人とも――特に千里は、二度とこんなところには来たくないと、言外にそうはっきりと言っていた。
それが今では、ここに来ることを楽しんでいる素振りすら見せる。
いったいいつの間に、三人の意識は変化してしまったのだろう。
(抜けられなくなる――?)
漠然とした不安が、万真の胸に湧き上がった。
と、千里が万真を振り返り、怪訝な顔をした。
「どうした」
とたん、万真ははっとして慌てて表情を取り繕った。
今、この二人に自分の不安を話してしまおうか。
そんな考えが頭をもたげたが、だが、話そうにも漠然としすぎていて形にならない。
万真はその考えを諦めると、なんでもないと瞳に織り込んで首を振った。
千里と成一は不思議そうにしている。「なんでもない」という表情ではないのだ。
だが、このとき千里は非常に珍しいことに万真の表情を読み間違えた。
心なしか不機嫌になり、こう言った。
「あいつのことは忘れろよ。もともと、仲間じゃなくてただの同盟者なんだ。気にするな」
万真は瞬いた。千里がなにを考えているかを悟り、真っ赤になる。
「な、なに言ってんの千! そんなんじゃないよ!」
すっかり忘れていた。日向は、今日も来ていないのだった。
千里がなにをどう誤解したかは知らないが、万真の憂鬱と日向を結び付けられたことで彼女は非常に狼狽し、動転した。
心当たりがないことだから、というレベルではなかった。
とたんに日向の顔がまざまざと思い出されて、万真はそれを振り切るように急に早足で歩き出す。
ざかざかとまるで競歩並みのスピードで歩き出した万真を、二人は唖然としながらも慌てて追った。
なんだ、やっぱり図星じゃないか、と、そんな表情で。
万真の顔は真っ赤だった。振り切ろうとしても、日向の鋭い瞳に見つめられているような気がして、心臓のあたりが落ち着かない。
(なんでなんで!? なんでいきなり日向が出てくるわけ? なに考えてんの千。まったく、いきなり変なこと言い出すんだから――)
めまぐるしい勢いでそんなことを考えていた万真は、右手の通りから飛び出してきた人物に気づくことができなかった。めったにないことだが、はっきりとわかるその気配に気づかなかった。
「わっ!?」
突然飛び出してきた相手にお互い驚いて、数歩飛び退く。
一瞬跳ね上がった万真の心臓は、その人物の顔を見た瞬間タップダンスを踊りだした。
「日向っ!?」
千里と成一が驚いて叫ぶ。
日向も驚いたように万真を見て、そして後ろの二人を見た。
「…オス」
刹那、万真の脳裡に前回に起こった出来事がよみがえった。
そうだ。
万真は、このあいだ、この男に――。
(うっわあああ―――!!)
その先を考えてはいけない!
あれは非常事態だったんだ緊急事態だったんだ適切な処置じゃないかそうだ適切だったんだ!
一秒にも満たない間に脳裡をよぎった考えを振り切ると、万真は努めて何気ない素振りを装って日向の顔を見ようとして――失敗した。
日向の顔が、見れない。
どうしても直視できない。
万真はあちこちに視線をさまよわせながら数歩後ろに下がり、日向の正面の場所を成一に譲り渡した。
成一の背中に隠れるようにすると、ほっと息をつく。
日向は成一よりも背が高いため頭は万真の位置からでも見えたが、それでも正面に立っているよりは断然ましだった。
心臓を落ち着かせようと深呼吸をしている万真を見やって、千里が呆れたように声をかけた。
「お前、意識しすぎ」
「………」
万真もそれは重々承知している。
大体ジムの野郎どもに寝技をかけられてもちっともドキドキしないのに、なぜこんなにも心臓が騒ぐのだろうか。
もしかしたら、心臓になにか疾患でも!?
いや、それはありえない。そんなわけはない。
万真は、成一となにやら談笑している件の人物をちらりと見やる。
うん、今は心臓はおとなしい。
(…あんまり、男の子に〜〜される経験がないから、ちょっと動揺しただけだよね)
意識的に単語を思い浮かべないようにしながら、万真は傍らに立ってとてもとても疑わしそうな表情で自分を見ている千里を見上げた。
「……お前さ」
このとき、千里がなにを言おうとしたのかは、万真には永久にわからずじまいとなった。
万真が無言で腕を広げ、千里に抱きついたのだ。
さすがの千里も一瞬唖然とした。
じゃれあっているとき以外、こんな真面目な(?)状況で、万真が抱きついてくることなどないからだ。
「……おーい。カズ? どうした?」
困惑したような声が降ってくるが、万真には聞こえない。
まわした腕に力をこめても、別にドキドキしない。規則正しく上下する胸の温かさも、ただ「あったかい」と感じるだけで、別にどうということもない。いや、どうということはあるか。
千里の体温は、安心する。
なによりも自分に近しいものの温もり。
それだけで、万真は幸せな気持ちになれるのだ。
だが、日向は、千里とは明らかに違った。
困ったように妹のつむじを見下ろして、千里は万真の身体に腕を回した。
「カズ?」
「うん。千じゃドキドキしないんだ」
千里の眼が点になった。
「はあ?」
聞き返したときには万真は腕を解いて千里から離れようとしている。
千里は非常に嫌な予感を感じた。
万真は、なにかを確かめようとしている。
なにかはわからないが、それを確かめようとして千里に抱きついたようだ。
そして、なにやら結果らしきものをえたらしい。
その発言が、これである。
(俺“じゃ”ドキドキしない!? じゃあ、誰だったらときめくんだ!)
かんぐるなと言うほうが無理だ。
「カズ、ちょっと正直に答えろよ?」
万真の肩を掴んでその顔を見つめる。
と、そのとき、強い視線を感じて千里と万真は同時に顔を上げ、そちらを見た。
一瞬日向と眼があったような気がしたが、気のせいだろうか。
日向は成一と話していて、二人を見ようともしていない。
千里は一瞬先ほどの疑問を忘れそうになり――そして危うく踏みとどまった。
(おい、待て)
今、明らかに日向は二人を意識していた。
その証拠に、これほど注視されているというのにこちらを見ようともしない。
日向が、二人が抱き合っているところを見たのは明白だ。
万真はまたそわそわし始めている。日向はこちらを無視しようとしている。
(待て!)
これは――由々しき事態だ。
先ほどの万真の言動が、非常な重圧を持って千里にのしかかってくる。
千里はすばやく万真の腕を掴み、引き寄せた。
万真は抵抗しなかった。
ただ、抵抗はしなかったが千里の眼を見ようともしない。
「………カズ。俺になにか隠してるだろ」
万真の欠点。それは、嘘がつけないことだ。
夜目にもはっきりとわかるほど顔を真っ赤にさせた少女を見て、千里は内心滂沱の涙を流した。そして同時に日向を心底憎んだ。
(おのれ、カズになにしやがった!)
日向は、ぷすぷすと突き刺さる視線を痛いほどに感じながらも、それでもそちらを振り向くことができないでいる。
できることならこのまま成一と話し続けていたかったが、無情にも成一は話を打ち切ると背後を振り向き笑って言った。
「んじゃ、メンツもそろったことだから、行くか!」
そして、その時になってようやく千里と万真の様子に気づいた。万真は妙に落ち着きがなく視線が定まらないし、千里は千里でとてもとても不機嫌な表情になっている。
ふと、なにかを思って成一は傍らの日向を見やった。
案の定と言うべきか、日向はこれまた奇妙な表情で千里と万真をちらりと見、そして視線を逸らしたまま二人を見ようともしない。
いったい成一が日向としゃべっている間になにがあったのか。
成一はそのときは、想像するのはそう難しくないと思った。
だが、彼が真相を知るのは、もう少し後のことである。
三人の間に落ちた重苦しい空気に辟易しつつも、表面上は快活に歩き出す。
なんとか空気を和ませようといつも以上にボケを飛ばしたりしてみるが、千里の突っ込みはいつもよりも三倍以上きつい(当者比)。
(おーい。マジでいったいなにがあったんだぁ?)
空気が重い、重すぎる。
なんとか打開策を講じようと頭をフルに稼動させようとしたとき、不意にずしりと重みがかかって足が止まった。
腰になにかが絡み付いている。背中のあたりが暖かい。というより、邪魔だ。
「………万真サン?」
万真が成一の背中にしがみついていた。いや、背中というのは適切ではない。腰に、万真がしがみついていた。
「なんだよいきなり。邪魔。重い」
腰に手をまわして、万真は成一の背中にぴたりと頬をつける。
一見、仲睦まじい恋人同士の構図である。
さすがの成一も驚いたが、今更ときめくような仲ではないので照れを振り切るように無理やり一歩踏み出した。
力任せに歩き出すと、万真がずるずると引きずられてついてきた。
日向が顔を強張らせ、次いでぷいと顔を逸らしたのが見て取れて、成一は軽く瞠目する。
(お? 今のって、もしかして)
と、少女の声が彼の思考に割り込んだ。
「あたし、重い?」
「軽い」
成一は横目で日向の様子をうかがいながら即答した。
やっぱりだ。これはもう間違いなく、アレだ。
成一がしげしげと日向を観察している間に、千里が万真の襟を掴んで引っ張った。
「お前、いつから抱きつき癖なんかついたんだ?」
「いや、癖ってわけじゃ…」
万真は掌を無意味に開閉させて視線をさまよわせている。
やっぱりだ。成一も、安心はするけれども別にドキドキしない。
日向にだけそうなるのか。それとも、この二人が変なのか。
他に比較対照がない今、どれほど考えても結論は出そうにない。
そこまで考えると、万真はあっさりとそれ以上先に進むことを放棄した。
これ以上考えると、よけいに混乱してしまいそうだから、考えないことにした。
成一と千里は顔を見合わせると、日向と万真をうかがう。
二人ともお互いに一度も相手を見ようとはしない。それどころか、日向は千里と成一からも顔をそむけている。
いったいなにが起こったのか。
とりあえず、二人の様子と万真がやたらと抱きつきたがったことにはなんらかの関係があるはずだ。
そう結論を下すと、千里と成一は心なしかムッとした。
なんとなく、面白くない。
「うらっ、行くぞっ!」
「とろとろしてると朝になるだろうが」
成一が日向の、千里が万真の腕を掴んで強引に歩き出す。
いきなり引っ張られて二人はよろけ、その弾みに軽くぶつかった。
「あ」
眼が合ったとたんに、二人は豪速で顔をそむけた。
赤くなってそっぽを向く二人に気づかない成一と千里ではない。
非常に面白くない気分で、二人は半ば走るように駆け出した。
もちろん、万真と日向を引っ張ったまま。
「おい、離せ」
十分ほど走ったころ、ようやく言語機能が回復した日向はかろうじてそう言った。
いまだに万真の顔を見ることはできなかったが、その理由はまだわからない。無意識に考えないようにしているのだ。
ようやく手を開放されて、万真はそっと息をついた。
胸の中がばたばたしている。まるで鳥が羽ばたいているような、そんな感じ。
ひとつわかったことがある。日向と眼が合うと、どうやらおかしくなるようだ。
千里と成一ではこんなふうにならない。
うかがうように千里を見上げると、彼の眉間にはしわが刻まれていた。
かなり不機嫌である。
原因はわからないが、これは刺激しないほうがいいと判断して正面に顔を向けなおしたとき、万真の耳が人の話し声を捕らえた。
ほぼ同時に全員が足を止める。
道の先はT字路になっていて、そのあたりから声が聞こえてくる。
激しくとまではいかないが、明らかになにか言い争っている様子だ。
気まずさも忘れて四人は顔を見合わせた。さすがに今回はドキドキするようなことはなかった。
諍いはますます激しくなっていく。
そろそろと近づくにつれて、だんだんと声の調子が聞き取れるようになって来た。
(あれ?)
なにやら切々と訴えるような男の声に、聞き覚えがあった。
無愛想にハスキーな女声がそれに応じる。
(これって…)
四人は再び顔を見合わせると、壁の影から顔を出して通りをうかがった。
三人の人物がそこにいた。
ひょろりと背の高い青年が困ったように、だが明らかな苛立ちを顔に浮かべてなにか怒鳴っている。対する女性は、疲れたようにタバコの煙を吐き出してピンクの髪をかきあげた。二人の間で金髪の少年がおろおろと彼らの様子をうかがっている。
思わず千里たち三人は口に出していた。
「ナンさん?」
反射的に三人は振り向き、次いで驚いたように目を見張った。
「あれ? 久しぶりだね、あんたたち」
先ほどの口論などなかったかのようにナンがのんびりと言う。
男二人は、四人の登場にうろたえているようだった。困ったようにナンを見る。
だがナンは、二人をことさら無視するように四人に近づくと、こう言ったのだ。
「悪いけど、ちょっと頼まれてくれないかな」
「なんスか?」
成一が何気なく問い掛ける。
ナンは微笑みすら浮かべながら立ち尽くしているライトとゼンを指で指し示した。
「ちょっと野暮用があってさ。あの二人の面倒見てやってくれない?」
「――は?」
「ナンさん!」
悲鳴のような声を上げた二人は無視して、ナンはとたんに真剣な表情になる。
「あいつらの力は攻撃的じゃないから。一緒にいてやってくれ」
「ナンさん、やめて下さい!」
ゼンがナンの背中にすがり付こうとしたが、彼女はそれをいっそ冷たいほどの動作で押しとどめた。
氷のような表情で静かに言う。
「ここから先は、あんたたちは来ちゃいけない。あんたたちには関係ないことなんだ」
「ナンさん!」
ライトの声は細い背中にぶつかり、跳ね返った。
ナンは日向を見てふと微笑んだ。
「あんたも一緒か。良かった」
なにに対して安堵したのか、四人にはわからない。
突然の事態に困惑しているうちに、ナンは四人の横をすり抜けようとした。
「ちょ、ちょっと待ってって」
慌てて成一がそれを押しとどめる。
「…説明してくれ」
低い日向の言葉に、ナンは少しだけ笑って首を振った。
「それはダメ。これはあたしの問題だから、あの二人を巻き込むわけには行かないんだよ」
思わず駆け出そうとしたライトを抑えたのは万真だ。
「ライト。落ち着いてよ」
ライトは万真の腕を振りきるようにもがき、叫んだ。
「俺たちはチームじゃなかったのか!? ナンさん!」
「チームだよ。でもな、これはあたし個人の問題で、チームの問題じゃないんだ」
「だから、その問題ってなんなんですか!」
ナンはそれには答えなかった。
ただ笑って手をひらひらと振った。
千里たち三人の横をするりとすり抜ける。
困惑して立ち尽くした三人をちらりと見て、ナンは静かな声を落とした。
「あんたたち、万真から眼を離すんじゃないよ」
「え?」
突然の言葉に三人は困惑する。
「あの子は――」
言いかけて、ナンは言葉を飲み込んだ。
そのまま数メートル先の壁の前まで行くと、壁に片手をつく。
とたん、ナンの身体は壁に吸い込まれるようにして消えてしまった。
万真の静止を振り切ったライトが駆けつけたときには、ナンの姿はどこにもなかった。
「なんで……」
ナンが消えた壁に触れても、そこを叩いても、陽炎は現れない。
ライトは壁に両手をつき、のどから搾り出すように叫んだ。
「なぜだ、ナンさん!」
人気のない路地裏に移動するや否や、ゼンはその場にへたり込んだ。ライトも壁にもたれてずるずると座り込む。
吹き込む風に転がる空缶が大きな音を立てた。
「……ねえ、なにがあったの?」
万真は遠慮がちに問い掛けた。
ライトとゼンは夜目にも青い顔をしていて、張り詰めた空気を身に纏っている。悲壮感にも似たその空気に、万真は軽く唇をかんだ。
いったいなにが起こったのだろう。
この二人がこんな顔をするなんて。
ライトとゼンはうつむいたきり顔を上げない。
震える片手を上げて、ライトはくしゃりと前髪を掴んだ。
そんな青年の前にしゃがみこんで、千里は静かにささやく。
「話してくれないか?」
ライトとゼンは、すぐにはなにも言わなかった。しばらくじっと靴の先を見つめていた。
ようやく口を開いたのは、優に十分の時間が経過してからだった。
「……昨日、ナンさんに電話があって」
ポツリとライトが呟く。
「覚えてないか。前に逢った――シュウってやつ」
記憶を探って、万真たち三人はほぼ同時に頷いた。
「ああ、あの消防士」
千里の言葉にライトは少しだけ笑った。
「本人が聞いたら怒るぞ」
力ない言葉に千里は肩を軽くすくめて見せた。
「勝手に怒らせればいい」
千里らしい言葉に、ライトはまた笑った。先ほどよりも少しだけ明るい表情で。
だが、その笑顔もすぐに暗い表情に塗り替えられる。
「そいつからの電話だった。それから、ナンさんの様子が変になって――」
言葉を切り、ライトは両手で顔を覆った。
震える指を握り締める。
「今日、チームを解散するって言われたよ」
四人は声をなくした。
信じられなかった。
片膝を抱えて声を落としたのはゼンだった。
「理由も、教えてくれませんでした。一方的にそんなことを言われたって納得できるはずがない!」
――僕たちはチームだったんじゃないんですか。
そう呟いて、ゼンは腕を顔に押し当てた。
四人は顔を見合わせた。
いったいなにがあったというのか。
ライトの前にしゃがみこんで、万真はことんと首を傾げた。
「解散するって、本当にそう言ったんだ?」
「ああ」
かすれた声でライトが答える。
万真は言葉を探しながら口を開いた。
「……ナンさんは、二人を大事にしてたと思う。あたしの眼には、三人はちゃんと“仲間”に見えたよ」
ゼンがそっと顔を上げ、万真を見た。ライトも目の前の少女の瞳を見つめる。
「ナンさんはすごく責任感が強い人だと思うよ。言い方が悪いかもしれないけど――」
万真はやわらかく笑った。
「一度拾った子猫をまた捨てるなんてまねをするような人じゃないんじゃないかなぁ」
(子猫――)
知らずライトは苦笑していた。
「酷い言われよう」
「ごめん。だからさ、そのナンさんがそんなことを言うんだもん。よっぽどの理由があったんじゃないかな」
「ライトたちにも言えないほどの理由がさ」
静かな千里の言葉に、二人は顔を上げて少年を見た。
千里は壁に背を預けると、座り込んでいるライトとゼンを見つめる。
「ナンさんは、責任感の強い人だ。だから――二人を巻き込んじゃいけないとか思ってるんじゃないか?」
「なんだよそれ」
睨みつけられても千里は表情を変えない。立てた人差し指でライトを指差した。
「これは俺の推測なんだけどさ。ナンさん、ここは長いんだろ? だったら、ライトが知らないあの人もいるわけだ」
ライトは言葉に詰まって唇をかんだ。
その通りだ。
「今回のコトの発端がライトも知らない昔に起こったことだって言うんなら、ナンさんとしては『関係ない』としか言いようがないんじゃないか? 事実、関係してないんだから」
万真は思わず千里を見上げた。
「千、冷たい」
成り行きを見守っていた日向はギョッとした。万真は非難のまなざしで千里を睨んでいる。
「もうちょっと言い方があるでしょ? だいたい、それってただの推測じゃない」
「ただの推測でも、それなりのプロセス踏んで筋道立てて考えた結論だ。どこかおかしいところでもあったのかよ」
言い返す言葉も見つからず、万真は口を閉じた。
万真を沈黙させてから、千里は誰にともなく呟く。
「鍵は、シュウだな」
ライトは思わず千里を見た。
顎に片手をあてたまま、千里は深い色の瞳で宙を見つめている。
「ナンさんがこんな行動に出たのには、なにか理由があるはずだ。シュウってやつの電話でナンさんは変わったんだろう?」
「ああ」
強く頷いたライトに声をかけたのは成一だった。
「時にライト。そのシュウってやつはナンさんのなにさ」
とたんにライトは硬い表情で黙り込んだ。ゼンも険しい顔つきで壁を睨んでいる。
「…知りません」
苛立たしげに頭を振って、ライトが吐き捨てた。
「昔の知り合いらしい。それ以上は、わからない」
ふうん? と成一は首を傾げる。
「昔の仲間とか、そういうんじゃねえのか」
「ナンさんはなにも教えてくれませんから」
万真は思わず成一と顔を見合わせた。成一は軽く首を傾けて頭を掻く。
「考えてみりゃ、不思議な人だよな」
千里は壁に後頭部をこつんと当てた。
ナンは八年この世界にいると言っていた。
そのときのライトたちの驚きようからすると、彼らも知らなかったことなのだろう。
八年は、長い。
その間に、なにがあったっておかしくはない。
彼女がここから抜けられなるほどのなにかがあっても。
以前見た彼女の表情を思い出し、千里は内心ぞくりとした。
「ナンさん、大丈夫かな」
ポツリと落とされた声にそちらを見る。一瞬、心を読まれたのかと思った。
万真は視線に気づいて顔を上げ、千里の瞳を捕らえた。
足を投げ出してライトが吐き捨てる。
「あの人は強いから大丈夫だろ」
万真は驚いてライトを見た。
「なに言ってんの?」
「あんたたち、ナンさんのなにを見てたんだ?」
万真と千里に言われてライトとゼンは面食らう。
成一が頭をかきながら言葉を添えた。
「ナンさんはさ、強くなんかねえよ。たぶん――すっげ、もろい人だ」
ライトは絶句した。
こいつらは、あの人のなにを知っているのか。
ライトも知らないようなあの人の顔を見たのか。
そう思うと、無性に悲しくなった。
結局、自分はナンのことを全然理解していない。
突然目の前に手が現れて、ライトは瞬いた。細い腕をたどっていくと、やわらかく笑う少女の顔に行き着く。
控えめに微笑んで、万真はそっと言った。
「いこうよ」
ライトはためらった。
自分は切り捨てられた身だ。今更、どんな顔をして逢えばいい?
だが万真は、優しくライトの腕を捕らえた。
「ライトは今、どうしたい?」
どうしたい――。
答えは、すでに出ている。だが、体が動かない。
万真は笑った。
「ナンさんはね、ライト。女の人なんだよ」
だから、守ってあげなきゃ。
その言葉を聞いた瞬間、胸のつかえが取れたような気がした。かすんでいた視界が一気にクリアになった。
「ああ……。そうだな」
呟いて、ライトは万真の手をしっかりと握った。
握り返してきた小さな掌は温かかった。
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