NIGHT GAME 二章八話 真夏の一幕(後)
 先ほど店を出てから三十分も経っていない。
 まさかまたここに戻ってくるとは思わなかったと、日向は皮肉を込めて「庵」を見上げた。
 正午の日差しの中、その店は変わらぬ佇まいを見せている。
 万真は店には入らず、その裏に回った。
 店の裏は普通の民家のような玄関があり、万真は荷物を抱えたまま器用に鍵を開けるとドアを押し開けた。
「入って」
 促されて、遠慮しつつも家の中に入る。 
 ふと、コーヒーの薫りが鼻腔をくすぐった。
 店の中だけでなく、家の中までコーヒーの薫りが染み付いているらしい。そう思うとなんだか少しおかしかった。
 玄関をあがるとすぐ右手に階段があり、万真は日向を階段の下で待たせると廊下の奥へと駆けて行った。
 左手にあるドアを押し開けるとそこはキッチンになっている。
 万真は床に買い物袋を慎重に下ろすと、冷蔵庫の横のドアを開けて店に顔を出した。
「あれ、万真。お帰り」
 弘行から聞いていたのだろう、葉介がのんびりと声をかけてくる。
「ただいま。とりあえず、買ってきたよ」
「はい、お疲れさま。そうだ、万真、さっき日向君が来たよ」
 身を翻そうとしていた万真は、半分だけ開いたドアからひょこっと顔だけのぞかせて応えた。
「知ってる。いま日向うちに来てるから」
 葉介が驚いて目を丸くしたが、それは万真の眼には止まらなかった。
 弘行にあとを任せるとキッチンを飛び出す。
 所在なげに立っていた日向に手招きして、階段を上がる。
 二階に上がると、日向にソファに座るように言い置いて万真は自分の部屋に入った。
 残された日向は不思議な気持ちで部屋を眺めた。
 どうやら通されたのはリビングのようだった。
 二階にリビングがあるというのはどうにも妙な感じがするが、一階のほとんどのスペースが店に当てられていることを考えると、別におかしなことではないのだろう。
 南に面した広いバルコニーから差し込む光が、部屋を明るく照らしている。
 階段を上ってすぐ右手にはソファとガラス張りの瀟洒なテーブルがあり、左手には観葉植物の鉢とテレビが置いてある。
 本棚の類はない。部屋の隅にはオーディオ機器が置かれ、その横には黒いラックがさりげなく置かれている。
 フローリングの床はきちんと掃除が行き届いていて、清潔だ。
 部屋は驚くほど簡素だった。
 余計なものは一切ない。
 だがそれでいて決して人間味がないというわけではなく、むしろその人の人柄を偲ばせる。
 きっと、万真や葉介の人柄が出ているのだろう。
 階段のところに立っていた日向は、そっと数歩前に出て、あらためて室内を見渡した。
 バルコニーに干された白いシャツが眼に入り、どきりとする。
 動揺を隠すように上を仰ぐと、意外に高い天井が目に入った。
 天井からは、和紙でできた丸い不思議な照明が吊るされている。まるで大きなちょうちんみたいだと、日向はそんなことを考えた。
 和食の店にあるような、そんな照明。
 右手、ソファーのさらに奥にはドアが二つ、そして階段の向こう側の壁にはドアがひとつあった。
 ふと、日向は階段の上り口のすぐ横に梯子がかかっていることに気づいた。
 どうにも階段の天井が低いと思っていたら、階段の上にはロフトがあったらしい。
 ドアの一つが開いて万真が出てきた。
「ごめんね、遅くなって」
 万真は小さな箱を抱えていた。
 ソファに座った日向の向かいに腰を下ろして、万真はてきぱきと包帯や薬を取り出す。
「手、出して」
「別にいい」
 一応はそう言ったものの、万真は日向には取り合わず彼の手を取った。
「消毒だけさせて」
 日向は仕方なく万真のするに任せた。
 小さな手が自分の手に触れていることを意識して、日向は動揺を押し隠すために無事な左手を握り締めて顔をそむける。
 風に翻る白いシャツが目にまぶしい。
 日向の骨ばった大きな手に触れていた万真は、骨に異常がないことを見て取ってほっと安堵の息をもらした。
 良かった。
 怪我のほうもたいしたことはなく、これなら数日で治るだろう。
 とりあえず消毒をしようとした万真は、ふと自分が日向の手に触れているのだという事実を思い出して赤くなった。
(あ)
 なぜそれを今更思い出すのか。
 それよりも、なぜ今まで忘れていたのか。
 日向は、万真を守ってくれたのだ。
(うわあ…)
 頬が熱くなる。
 動揺してしまった自分がなんとも恥ずかしくて、万真は乱暴に日向の手当てを終えると急いで薬を片付けはじめる。
「あ、あの…」
 突然声をかけられて、日向は仕方なく視線を目の前の少女に向けた。
 お互いに正視できなくて、視線は逸らしたままだ。
「さっき、なんで……」
 言いかけて、万真は口をつぐんだ。
「なんでもない」
 首を振ったとき。
「サザエでございま〜す。たったかたったかたったかたかたか」
 どこからともなく調子ッぱずれな歌声が聞こえてきた。
 突然のことに、万真も日向も凍りついた。
 軽快に階段を上がってきた成一は、ソファに座っている意外な人物を見て眼を丸くした。
「あれ? 日向? なんで?」
 さすがに日向はとっさに反応できなかった。
 成一の登場の仕方があまりにも素っ頓狂だったこともあるし、なによりも頭が正常に作動していない。
 そしてさらに追い討ちをかけるようなことが起こった。
 まさに日向が成一に応えようと口を開いた瞬間だった。
 どこからともなく寝ぼけたような呻き声が聞こえたかと思うと、ロフトの上からひょっこりと千里の頭がのぞいたのだ。
「……うるさいバカ一」
 日向は心臓が止まるかと思った。
 先刻のマスターの言葉が脳裡によみがえり、目の前が真っ暗になる。
 指先が震えるのを、自分でも止められなかった。
 そうだ。
 成一のことで忘れていたが、千里と万真は―――。
 その千里も日向の姿に気づいて眼を丸くし、梯子を降りてきた。
「なんでお前がこんなところにいるんだ?」
 と無邪気に問い掛けてくるが、その問い掛けも日向には威嚇に聞こえた。
「カズに手を出すな」と、いつかの言葉が蘇る。
 日向の様子には気づかず、万真が心なしか頬を染めて日向に助けてもらった旨を話しているが、日向の耳には入っていなかった。
 ただ、ひたすら自分は邪魔者なのだと、それだけを思っていた。
 意外なところから声がかかったのは、日向が陰鬱に自分の殻に閉じこもろうとしていたその矢先のことだった。
 いつの間にやってきたのか、両手に盆を持った葉介が立っていて、四人の姿を見て明るく微笑んだ。
「いらっしゃい日向君。千里、今起きたのか?」
「うん。おはよう」
「おそようだろう」
 しれっと挨拶した千里を笑っていなして、葉介はテーブルの上に麦茶の入ったグラスを置いていく。
「一のバカ声で目が醒めた。一お前音痴、もう歌うな」
「なんだと」
「じゃあこれから千里のモーニングコールは成一君にしてもらおうか」
「…葉介さん、それどういう意味ッすか」
 葉介はくすくすと笑いながら万真の頭を軽く叩いた。
「弘行君には一時まで入ってもらうから、ゆっくりしなさい。千里も、顔洗って着替えておいで」
「葉ちゃん、俺ガキじゃないって」
「はいはい」
 葉介は笑って取り合わない。
 千里の髪をくしゃくしゃと撫で回すと、日向を見て微笑んだ。
「日向君と成一君も、ゆっくりして行ってくださいね」
「あ、ハイ」
 日向は慌てて頷いた。
 葉介の姿が階下に消えてから、あらためて眼の前の三人を見つめる。
 今の彼らの会話は、明らかに変ではなかったか。
 なにかがかみ合わない。
 どこかが狂っている。
 日向の頭の中の彼らと、今の彼らとは、明らかに齟齬がある。
 日向はすました顔で麦茶を飲んでいる千里と成一を睨んだ。
「………おい」
 とりあえず、一番的確にこの状況を説明できるのはこの二人だろう。
「相馬?」
 千里は名を呼ばれて軽く肩をすくめた。
「ばれちゃしょうがないな」
「なにがだ」
 千里はグラスをテーブルに置くと、万真の肩に腕を回し、にっこりと笑った。
「今まで黙ってた…と言うか、言う暇がなかっただけなんだけど。俺と万真は正真正銘のキョウダイ。双子です」
 一瞬、思考が止まった。
 頭が真っ白になった。
「……………は?」
 間抜けに口を開いたまま千里と万真を凝視する日向を見て、万真がくすくすと笑い出す。
「やっぱり気づいてなかったんだ」
 その声で我に返り、日向は呆然とした口調で呟いた。
「……ふたご?」
「そう」
 にこにこと笑いながら二人が頷く。日向は眩暈に似たものを感じて混乱する頭に手を当てた。
「……ちょっと待て。名字が違うのは?」
 笑顔を絶やさずに千里がさらりと答える。
「ああ。五歳のときに両親が死んでさ、それでばらばらに養子に出たんだ。俺は父方の伯父に引き取られて、万真は母方の祖父に引き取られて。な」
「ね」
 微笑みながら顔を見合わせる。
 日向は、以前成一から聞いた話を思い出して納得するも、それでもなかなか飲み込めないでいる。
 ちらりと二人を見ると、千里と万真は視線を受けて柔らかく微笑んだ。
 双子だと言われてみると、確かに似ているその笑顔。
 気づかなかったことが不思議なほど、二人はよく似ていた。
 おそらく名字の違いが先入観となって日向の眼を曇らせていたのだろう。
 だが、そんなことは口に出せるはずもなく、日向は気づかなかった自分への苛立ちをその原因にぶつけた。
「似てねえな」
「だって二卵性だし」
 日向の気持ちを知ってか知らずか、千里と万真は異口同音にそう言う。その息の合い方に、弾かれたように成一が笑い出した。
「一卵性でも通るよな、お前らは。外見はともかく中身はよく似てるし」
 心外だというふうに千里が鼻を鳴らし、万真が顔をしかめた。
「嘘でしょ?」
「俺とカズのどこが似てるんだ? それ以前に性別はどうでもいいのかその場合」
 その反応にひとしきり笑ってから、成一はまだ難しい顔をしている日向を見やった。
「あんまり気にすんなよ。十年前はこの二人ほんとにそっくりだったんだけどさ、今じゃこんなもんだ。こいつらを一目で兄弟だと見破ったのは今のところナンさんだけだしな」
 日向は驚きつつも、それでかと内心腑に落ちることがあった。
 昨夜――いや、今朝か――千里と万真が二人で帰っていくのを当然のように見送ったライトとゼンも、きっとこのことを知っていたのだろう。
 知らなかったのは日向だけだ。
 日向の眉間にしわがよったのを見て取って、千里と成一は顔を見合わせる。
 千里はさりげなく万真の背中を叩いた。
「カズ、時間はいいのか?」
 言われて時計を見ると、そろそろ一時だ。
 万真は慌てて立ち上がった。
「あたし、ちょっと店があるから」
「カズ、俺支度に時間かかるから遅れる。って二人に伝えて」
 唐突な千里の言葉に万真は面食らった。
 だが、それを追求するには時間がなさ過ぎる。
「早く来てよ」
 仕方なくそれだけ言うと、万真は千里と成一に追い立てられるように階段を下りて行った。
 万真の姿が消えたのを見計らって、千里は日向に向き直る。
 足を組み、極上の笑顔を浮かべて口を開いた。
「なにか言いたそうだな」
 日向は膝の上に乗せた拳を握り締めると、千里の顔を睨みつけた。
「……お前、わざとやってたな」
「なにを?」
 千里の笑顔がこの上もなく憎たらしい。
「俺が誤解してるって知ってて」
「なにをどう誤解してたんだ?」
 澄ました顔で千里がそう尋ねてくる。成一は顔をそむけて必死に笑いをこらえている。
「だから…ッ」
 声を荒げかけ、日向は我に返ってその後に続く言葉を飲み込んだ。意地の悪い笑みを浮かべて千里がその続きを口に出した。
「俺とカズが付き合ってると思った?」
 日向は答えない。だが、赤くなった顔から答えは容易に知れた。成一はソファの背に顔を伏せてくつくつと笑っている。
 千里はにっこりと微笑んだ。
「で、そう誤解して、なにか困ることでもあったのか?」
 日向は絶句した。
 ここまできて、そういうことを訊くか、普通。
 成一はもはや声を抑えようともせず、思う存分爆笑している。
(困ることなんて、あったに決まってるだろうが!)
 とは思いつつも、口には出せない。
 日向の赤くなった顔から答えを読み取ったのだろう、千里はとうとう吹き出した。
「相馬!」
「あはは…悪い悪い。お前ほんと、サイコー」
 こんな状況でそんなことを言われて褒め言葉だと受け取る人間は少ないだろう。
 日向は大いに気分を害し、眉間のしわを深めた。
「……お前、性格悪すぎ。どこが伊織と似てるんだ」
「俺もそう思うよ。カズは俺とは違う」
 笑いの中に真剣みが混ざったことに日向は気づいた。気づいたが、それを訝しく思う間もなく成一が横から口を出した。
「でも日向、安心しただろ」
 とたんに日向は耳まで赤くなり、それを見て二人はまた声を上げて笑った。
 腹を押さえながら成一が言った。
「お前昨夜、千里と万真が一緒に帰ったの見てすっげーショック受けてただろ」
「…べつにッ!」
「あ、やっぱりショック受けてたのか。俺もな、気にするんじゃないかとは思ったんだけど、早く帰らないと葉ちゃんが起きるし」
「べつにショックなんかッ」
 千里と成一は耳まで赤くなった日向を見てにやりと笑う。
「嘘付け。俺とカズが抱き合ってるの見て、動揺してただろ」
「俺ん時も動揺してたよな? 露骨に眼ぇ逸らしたりして。バレバレなんだよ」
「あ、あれは……いきなり抱き合ってたりしたら、誰だって…」
 真っ赤になって弁解する日向の様子にひとしきり笑うと、千里はグラスに残っていた麦茶を飲み干して立ち上がった。
 開放されるのかと内心胸をなでおろした日向だったが、続く千里の一言でまたもや心臓が跳ね上がる。
「言っとくけど、昨夜の言葉に嘘はないぜ? カズに手ぇ出すなよ」
 真剣を突きつけられたかのような、そんな錯覚。
 千里はたった今見せた殺気など嘘のようにへらっと笑うと、日向の腕を軽く叩いた。
「今度ケンカしようぜ。都大会優勝した腕を見せてくれよ」
 意外な言葉に日向は驚いて、今しがたのことなど一瞬忘れてしまった。
「なんで知ってるんだ?」
「それは俺様が天才だから」
「言ってろバカ」
 成一に尻を蹴られて、千里は軽く笑い声を上げると階段を降りて行ってしまった。
 残された日向は問い掛けるように成一を見る。視線を受けて成一は軽く肩をすくめた。
「俺たちもさ、格闘技やってるんだよ。空手じゃなくて、総合格闘技」
 軽い驚きを込めて相手を見返すと、成一は人好きのする笑みを浮かべた。
「そう言うわけで、今度でいいから一発やろうぜ」
 そう言われても、日向はすぐには頷けないでいた。なにしろケンカは御法度の世界なのだ。他流試合の形でなら試合はできるが、それ以外の場では拳を振るうことはできない。千里が言うようなケンカは論外だ。
 考え込んだ日向を見て、成一はなにもかもわかってる、というような笑顔を浮かべた。
「試合って形にしたいんなら、うちの師匠に話をつけてもいい」
「試合なら」
 ようやく頷くと、成一はおおらかに笑った。
「サンキュ。三人相手はちょっとキツイってんなら、日にちをばらしてもいいし」
「三人?」
 聞きとがめて日向は繰り返した。
「俺と、千里と、万真。三人」
 さすがに日向は絶句した。
「伊織もか?」
 成一は眼を丸くして首を傾げる。
「なにそんなに驚いてんだ? あいつもやってるぜ、総合格闘技。あいつの強さはお前も知ってるだろ?」
 確かに、伊織万真が尋常でなく強いということは日向もうすうす悟っていた。だがそれとこれとは別問題だ。
「伊織と試合しろって?」
「だからそう言ってるだろ。万真も気合入れてるし。なんか問題でもあるか?」
「あるに決まってるだろ、伊織は女だぞ!」
 思わずそう怒鳴ったが、成一はなぜかムッとした。
「女だからナニ? 万真は強ェぜ。それじゃダメなのかよ」
 日向は口ごもった。だが、この相手にごまかしは聞かないと判断し、ぼそぼそとささやくように言う。
「いや……その、伊織とは、闘いたくない」
 女だからと言う以前に、伊織万真と、試合はできない。彼女と戦うことはできない。
 日向の気持ちがわかったのだろう、成一はにっこりと笑った。
「青春だねえ」
「………お前なら手加減なしで殴り飛ばせるから安心しろ」


 エプロンを身につけて店に顔を出した万真が、どことなくそわそわしていることに気づいて、葉介は軽く微笑んだ。
「日向君は?」
「え!? あ、ああ、千里たちと話してる」
 なぜか慌ててそう答えた万真の様子を見て、弘行が意地の悪い笑みを浮かべて少女の顔を覗き込んだ。
「仲いいみてーだな」
 とたん、万真は耳まで赤くなった。
「べつにッ、普通ッ」
 その反応に、葉介と弘行は「おや」という表情をして顔を見合わせる。
 万真は二人の様子には気づかず、落ち着かない手つきでコーヒーを煎れはじめた。
 キッチンから顔を出した千里は、葉介と弘行が不思議な表情で万真を注視しているのを見て怪訝な顔になる。
「……どうかした?」
「――いやぁ?」
 にやっと笑って弘行はそう答え、鼻歌交じりに新たな客の注文を取りにカウンターを出て行った。
 千里は小首をかしげて弘行の背中を見送ったが、気を取り直して右手のサンドイッチを食べながら、万真から煎れたばかりのコーヒーを受け取った。
「…なに話してたの?」
 どことなく遠慮がちに万真が問い掛けてくる。
 千里はコーヒーを一口飲んで、軽く笑った。
「イロイロ」
 万真はしばらく千里の顔を見ていたが、なにも読み取れず、仕方なく「そう」とだけ呟いた。
 こういうところが、千里にはかなわないと思う。
 すぐに顔に出てしまう万真とは違って、千里は隠し事がうまい。
 少しだけ悔しく感じながら、オーダーで入ったコーヒーを煎れようとしているところに、成一が顔を出した。
「日向帰ったぜ」
「あ、そう」
 千里はあっさりと応じたが、万真はそうはいかなかった。
「ええ?」
 と明らかに落胆の表情を浮かべて、残念そうに呟く。
 弘行と葉介は、カウンターをはさんで再び顔を見合わせた。
 千里と成一は意味深な笑みをかわしている。
 葉介は、フィルターに湯を注いでいる万真を見下ろして、さりげなく声をかけた。
「ずいぶん仲良くなったんだね」
「だから、普通だってば」
 顔を上げもせず、泡立つ黒い液体を見つめながらかたくなにそう言う。
 フィルターの中の水分がなくなったことを見て取って、さらに湯を注ごうとしているところへ、絶妙のタイミングで弘行が言った。
「カズ坊の彼氏?」
「なッ!」
 湯がフィルターから溢れ出た。
 慌ててカウンターを拭きながら、万真は耳まで赤くなって弘行を睨む。
「そんなんじゃないって言ったじゃない! もう、弘くんいつまでいるの、さっさと帰りなよ!」
 一時はとっくに過ぎているのに、なぜか弘行はいまだに店にいる。
 弘行は軽く笑うと、
「もう上がるよ」
 と言って葉介に会釈するとドアの向こうに消えて行った。
 万真はまだ顔を赤くして、憤然とカウンターを拭き続けている。千里と成一はそんな万真を見て困ったように笑っていた。
 以前とは明らかに反応が違う万真に、葉介が気づかないはずがない。
「――ふうん」
 笑いをこらえて千里たちを見やると、二人もまた軽く肩をすくめて笑いを返してきた。
 なるほど、わかりやすいものである。
「はい!」
 万真はようやく煎れ終えたコーヒーを葉介に押し付けると、赤い顔でキッチンに行ってしまった。
 葉介はコーヒーを手にしたまま千里たちに向かって小首を傾げる。
「そういうこと?」
 悪戯っぽい葉介の表情に、負けず劣らず茶目っ気たっぷりに二人は答えた。
「そういうこと」

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