人は、なんと簡単にいなくなってしまうのか。
大切な人たちを失くしたとき、胸に湧いたのはただそれだけだった。
胸にあいた大きな穴。
目の前には、同じくらい大きな穴を心に抱えた、自分とそっくりな少女がいた。その濡れた黒い瞳に映った自分の姿を見たとき、決めたのだ。
この子に二度とこんな思いをさせないように、また、自分が同じ思いをしなくてもすむように、全身でこの子を守っていこう。愛していこう。
――そうすれば、この穴は埋まってくれるはずだから。
あの子の心の傷も癒えるはずだから。
だから、なにがあっても、そばにいるんだ。
(そう誓ったのに!)
一瞬眼を離しただけだった。
ほんの少し、ほんの少しだけだったのに。
なのに、一瞬の隙を突いて万真の姿は消えてしまった。
(カズ!)
不安が心を支配する。
彼女がいないだけで、こんなにも、自分は不安になる。
真っ青になって肩で息をする千里を見下ろして、ライトがやはり焦燥の混じった声で囁いた。
「千里、ちょっと落ち着け」
「うるさい!」
怒鳴るや否や、息を整える間もなくまた別の道へ駆け出そうとする。すかさずゼンが飛び出し、千里の細い外見とは裏腹にがっしりとした背中にしがみついた。
「落ち着いてください! 千里さん!」
背中で声がする。それすらもどこか別の世界から響いてくるように感じられた。
万真が、いないのだ。
なぜそれを、誰もわかってくれないのか。
「――くそッ!」
握り締めたこぶしを横にないで塀に叩きつける。ミシ、と嫌な音がして甲に痛みが走ったが気にもとめなかった。
唇を噛み締めてうなだれる千里の姿から、成一はそっと眼をそらした。
見ていられなかった。
万真の姿が消えてから、三十分が経過していた。
携帯電話に何度もかけてみたが、つながらない。
(なにしてやがんだよ、あのバカ!)
あの万真が、千里を放って姿を消すことなどありえない。
なにかが、起きたのだ。
それがわかっていながら、どうすることもできない自分に絶望した。
鬼だと言われながらも、結局自分は無力なのだ。大切なときに役に立たない力など、必要ない!
「ああもうっ!」
じっとしていることすらかなわず、衝動に任せて走り出そうとした成一は、強い力で腕をつかまれて我に返った。
日向が、鋭い瞳で見つめていた。
そっと千里をうかがい、日向は成一に囁く。
「昼間の、マモル。アイツは千里眼だ」
「え――」
衛の顔が脳裡に蘇った。千里眼。そんな能力があるのなら、もしかして――。
希望の光が成一の眼に宿ったのを見て、日向は小さく頷いた。
「伊織と相馬のピンチだ。あいつらなら、無条件で探してくれるはずだ」
成一の腕を放すと、塀に背を預けて道路に座り込んでしまった千里の上に屈みこむ。
「…千里眼の知り合いがいる。今、連絡をとるから」
千里がのろのろと顔を上げた。その顔は、たった三十分の間に見違えるほど憔悴してしまっていた。小さく口が動き、かすれた声が漏れた。
「せんりがん…」
成一が千里の頭を乱暴に小突いた。
「万真は大丈夫だ。絶対に見つかる。だから、しっかりしろ!」
千里はぼんやりと二人の足元を見つめて「千里眼」と再び呟いた。
見る間に蒼白だった頬に赤みが戻る。一縷の希望にすがるよう見つめてくる千里に頷いて、日向は衛に電話をかけた。
数回のコール音の後、すぐに聞き覚えのある声が流れ出す。
「ゴウだ。いきなりすまん。緊急事態なんだ」
早口でそう言い、千里を気にして声を落とし、相手の返事も待たずに続けた。
「伊織がいなくなった。突然消えた。――頼む、探してくれ」
驚いたような声があがった。
『――わかった。今すぐ探す。今どこにいる。すぐに俺んとこまで来い!』
続く衛の言葉を耳に留めつつ、感謝の言葉とともに電話を切る。そして千里を振り返り、言った。
「探してくれる」
「誰が?」
間髪いれずに返ってきた言葉に、一瞬返答に詰まる。だが、日向はそんなことをしている場合じゃないことを思い出し、すかさず答えた。
「ちょっとした知り合いだ。――行くぞ」
どこへ、との言葉には応えず、先頭にたって走り出す。
ライトが追いついてきて、先に並んだ。ちらりと彼を横目で見て、低い声を投げる。
「悪いがナンさんのことは後だ」
「わかってる。俺も、そこまで薄情じゃない」
あいつらには借りがあるしな――。
そんな呟きを耳に留めつつ、日向は千里と成一がついてきていることを確認して、さらに速度を上げた。
万真のことが心配なのは、千里だけではないのだ。
十分ほどで、指定された場所についた。
小さな廃ビルの外階段を音を立てて駆け上がる。錆びた鉄の階段はもうぼろぼろでいつ外れてもおかしくないものだったが、今はそんなことに気を使えるような状況じゃない。
階段が終わると同時に横手のドアを蹴り開ける。
耳障りな音がしたが、千里はかまわなかった。
屋上にまろびでて、周囲を見渡した。
物音に、屋上にいた数人の人影が千里たちを振り返った。
千里のすぐ後からやってきた日向は、臆すことなく彼らに駆け寄る。その動作で、彼らが日向の言っていた知り合いなのだろうと、少しだけ警戒を解く。
そして息をつく間もなく日向を追って駆け出した。
日向が話しているのは、千里とそう年の変わらない少年たちだった。焦燥に駆られていながらも、どこか冷静に千里は彼らを一瞬で見て取る。
少年が三人に、少女が二人。うち、メガネをかけた少年は、屋上にあぐらをかいて座り、どこか遠くを見つめていた。
どう声をかけていいものかと、千里は日向を見やる。日向は少年たちと何事か話していた。
落ちつかなげに髪に手をやる。千里の様子を見やって、少女が近寄ってきた。
反射的に距離をとった千里の様子に少しだけ傷ついた表情を浮かべた後、少女たちは小さく微笑んだ。
「大丈夫…。今、探してるから」
あんたたちになにがわかる。
思わずそう言いかけて、口を閉ざす。
わざわざ探してもらっているのだ。失礼なことはいえない。
だから、小さく頷くだけで、その場をやり過ごす。
視線を足元に落としていた千里は、成一が少女たちに向かって軽く眉を下げて見せたことに気づかなかった。
誰も口を開かないまま、時間が過ぎる。
一秒が一分にも感じられ、千里は気が狂いそうだった。
沈黙が重すぎる。だが、千里はもとより、誰もその沈黙を破ることが出来ない。
永遠にも思える時間と沈黙を破ったのは、メガネの少年だった。
「いた!」
小さく上げられた声に、千里の顔が輝いた。
「どこに!?」
少年の瞳が妖しく輝きだす。彼は睨むように前方を見据えて、眉間にしわを寄せた。
「…わからない。どこかの、建物の中だ。廃ビル、か?」
呟きは、だがしっかりと千里の耳に届く。
少年の眉間のしわがさらに深くなった。
「誰かとしゃべってる。男が――三人」
千里の眉がひそめられた。どういうことだ。
少年の声に、訝しげな響きが含まれた。
「見たことがある……あれは――ヘルハウンド!」
ライトの顔色が変わり、一瞬遅れて千里たちも顔色を変えた。
「なんで…!?」
ライトの驚愕の叫びは、千里の大声にかき消された。
「ヘルハウンドのアジトの場所は!?」
掴みかからんばかりに詰め寄られて、軽く頭を振っていた少年は気圧されながらも首を横に振った。
「…悪い。そこまでは……」
「チッ」
舌打ちするなり身を翻す。屋上を飛び出した千里の後を、成一は慌てて追った。
彼がなにを考えているのか、手にとるようにわかった。
すぐ横をライトが追ってくる。
「…結局、最初の予定通りってことか」
「目的に万真が付け加えられたけどな」
冗談めかした口調だが、成一の声と表情は真剣そのものだ。
足の速い千里にライトが遅れを見せ始め、ぴったりと食いついていけるのは成一と日向だけになった。ゼンははるか後方に見える。
「…あいつらが、伊織探しを手伝うといってきたが」
「いらねえ。悪いが、今のあいつらは役にたたん」
成一はばっさりと切り捨てる。
予想していたのだろう、日向はさして反論もせず、静かに言った。
「そう言うと思って、丁重に断った」
「すまねえな」
「いや」
短く言って、前方の千里の背中を見つめる。
万真の姿がないと知ったとたん、こちらが驚愕するほど取り乱した千里。
昼間成一から聞いた話を、いやでも思い出してしまった。
いたたまれなくなって千里の背中から眼をそらす。その瞬間だった。
前方でなにやら怒鳴り声がした。
反射的に顔を上げ見ると、千里が人と衝突してしまったらしく、地面に倒れているのが見えた。
「大丈夫か!?」
慌てて成一が駆け寄る。
千里は肩を打ったらしく、小さくうめいて肩を抑えたが、そのまま立ち上がり、駆け出そうとした。
それを留めたのは、千里の正面でやはり倒れていた男だった。
頭を打ったのだろう、側頭部を抑えてよろよろと立ち上がる。
「てめえ、ぶつかっておいて詫びもなしかよ」
「悪い。急いでるんだ」
素っ気無い言葉に、男の顔が怒りで歪む。
脇をすり抜けようとした千里の腕を掴んだが、次の瞬間男の身体は宙を舞っていた。
「え?」
間の抜けたような声が空中に取り残される。きれいに弧を描いた男は、地面に音もなく横たわった。衝撃はないようだった。ただ、なにが起こったのかわからないのだろう、呆然として思わず千里の腕を離す。
「急ぐんで、これで」
ボソリとそう言い、千里は駆け出した。否、駆け出そうとした。
「待てよ」
張りのある声が響いた。思わず成一と日向は周囲を見渡したのだが、千里は一瞬動きを止めただけで再び走り出す。
とたん、千里の眼の前で赤い花が咲いた。
頬を撫でた熱風に千里の顔が歪む。
「人の仲間をなぶっておいて、ずいぶん素っ気無いじゃないか」
ようやく追いついてきたライトとゼンが怪訝な顔で周囲を見回す。千里は眼の前に現れた炎の壁を睨みつけると、ようやくくるりと向き直った。
「急いでるんだ。通してくれ」
声の発生源は認められない。
「そうはいかない。言っただろう? そいつは俺の仲間だって」
千里は鼻を鳴らし、眼の前を睨みつけた。
「だから? 仇でもとるって?」
「まあ、そういうことだ」
声の調子は変わらない。からかうような、明るい調子で語りかける。
千里は眉をひそめて沈黙した。
臆したのではない。単純に、面倒くさいと思っているのだ。それは成一や日向も同様で、ただでさえ一刻を争う事態だというのにこんな邪魔が現れたことに彼らは非常に不機嫌になっていた。
声は彼らの沈黙を別の意味に取ったようだ。
声に明らかな愉悦が含まれる。
「俺たち赤龍に当たったのが運のツキだと諦めるんだな」
瞬間、千里の瞳がぎらりと輝いた。
「赤龍?」
静かな声に含まれるのは危険な響き。
端麗な面に凄絶な笑みが浮かぶ。
「そいつは好都合だな」
ひゅ、と右腕がしなる。一瞬でようやく我に返り身を起こそうとしていた男の首に指を巻きつける。
そしてそのまま、絞めた。
あえぐように開かれた男の口から奇妙な音が漏れた。
「あんたたちに、聞きたいことがあるんだ」
完璧な、そしてそれゆえに冷酷な笑顔とともに、千里は言った。
「さっさと出て来いよ。でないとこいつ、死ぬぜ?」
明日は晴れる? そんな口ぶりで、言う。
「…殺しは禁じ手だ」
警戒も露わな声に、だが千里は表情を変えない。
「あんた甘いな。殺さずに廃人にする方法なんかいくらでもあるんだ。今後のために、身をもってレクチャーしてやろうか?」
男の口から漏れる音が次第に小さくなっていく。千里の指を引き剥がそうと必至にかきむしるが、千里の指の皮膚をはがすだけで指そのものはびくともしない。
「……なにが知りたいんだ」
「あんたたちのことじゃない。ヘルハウンドのアジトを知ってるか」
千里の声が大きく響いた。
しばしの沈黙が流れる。
息を止めて耳を澄ますライトたちの耳に、足音が届いた。
ライトが光を作り出し、道を照らす。
光に照らし出されたのは、二十歳そこそこの一人の青年だった。目を凝らすと、彼の背後に何人もの人影が見える。青年がちらりと背後を振り返り、片手を上げると、人々の姿は消えた。だがその気配までは消えず、離れたところから千里たちを監視しているようだった。
青年が軽く首を傾げ、顎をしゃくった。
「とりあえず、彼を解放してやってくれ」
「どういうことだ?」
弘行の言葉に、北斗は困惑した表情で軽く首をかしげた。
「おまえ、この子と知り合いか?」
「バイト先の子だ。それよりも、なんで」
北斗がどう答えようか迷っている間に、件の少女が跳ねるように身を乗り出してきた。
「弘くんの知り合い?」
聞いてから、問題はそこではないとあらためて気づく。
「じゃなくて。弘くんも能力者だったの!?」
しまった、とあからさまに顔に出たなじみの青年を見て、万真は驚愕を隠せない。
まさかこんな身近にこっちの住人がいたとは思いもよらなかった。
弘行は妙にあせって弁解を試みる。
「いや、もうずっと前に抜けたんだ。今日はいきなりこいつに呼び出されて…」と北斗を指差し、万真がつられて北斗を見た隙に話題をすり返る。
「そういや、千里たちはいねえの?」
はた、と万真の表情が凍りついた。
目が丸く見開かれる。
そうだ。
弘行の登場で頭から抜け落ちてしまっていたが、千里が心配しているはずだ。
別れてからどれくらい時間が経過したのだろう。あまり長く姿を消していたのでは、絶対に千里は死ぬほど心配する。
考える前に携帯電話を取り出していた。だが、電話しようとしたとたん、愕然とする。
ディスプレイに表示された「圏外」の二文字。
「なんで…!?」
なぜこんなときに圏外なのか。千里が死ぬほど心配しているのに。連絡しないといけないのに。
万真の表情に気づいた弘行が怪訝そうに覗き込んできた。
「どうした?」
万真はすがるように弘行の顔を見上げる。
「電話が…」
万真の表情にただならぬものを見て、弘行はもう一度尋ねた。
「千里と成一はどうしたんだ?」
「いないの。いきなりこの人たちに連れてこられて…。千里、絶対心配してる」
弘行の顔が真剣味を帯びた。
北斗と蓮見を振り返り、厳しい声を出す。
「どういうことだ」
二人は答えない。弘行は目に見えて怒気を露わにし、険のある声を投げた。
「こいつになにをしたんだ」
「答える義務はないね。おまえはもう抜けたんだ」
北斗の言葉にさっと顔を赤くする。そんな弘行から彼の背後の少女に目を移し、蓮見が小さく笑った。
「友達なら、必死で君を探してる。ここを嗅ぎつけるのも時間の問題だな」
万真の表情が揺れた。
千里は、どれほど心配しているだろうか。もう二度とあんな気持ちを味わわせたくないのに。
「嗅ぎつけるって、ここは割れてるのか?」
弘行の言葉に、蓮見は小さく首を振った。
「パルチザンを使ったようだ。向こうの千里眼もなかなか優秀みたいだね。今も俺たちを探ってる。……まあ、身のほど知らずだけれど」
ここらでひとつ、思い知らせてやるか。
そう言うと、蓮見はつと眼を細めた。
瞬間、黒い瞳が輝いたように見えた。
きょとんとする万真に向かって、蓮見は何事もなかったように笑いかける。
「これでしばらくやつは“眼”が使えない」
よくわからない。顔にそう表れている少女を見やり、蓮見はおどけたように肩をすくめた。
「あと一時間ぐらいで君の友達はここへ来る。だから安心しなよ」
来る。
そう聞いて、万真は少しだけ肩の力を抜いた。
この人々を信用するわけではないが、弘行がいてくれることで少しだけ精神的な負担は減っている。
と、その弘行が、険しい顔で蓮見を睨んだ。
「おまえ、今『パルチザン』って言ったか?」
とたん、蓮見の顔から笑顔が消えた。
「ああ」
「どういうことだ。あの人たちはもういないんだぞ?」
訝しげな弘行に答えたのは北斗だった。
「一年ほど前だ。いきなり現れた。しかも、メンバーは全員ガキ」
「ガキがなんのためにその名を名乗る!?」
「知るか。……まあ、おまえには聞かせたくない話だったんだけどよ」
決まり悪げに呟いた北斗から眼をそらし、弘行は怒りをこらえるようにこぶしを握り締めると、どさりとソファに倒れこんだ。
苛立たしげに頭をかきむしる。と、傍らの万真が心配そうに見つめていることに気づき、溜息とともに手を止めた。
「まあいい。とにかく、こいつだ。こいつがなんでこんなところにいる? こいつになんの用なんだ? 俺を呼び出した用はなんだ?」
立て続けに言われ、北斗と蓮見は面食らったように顔を見合わせた。
「…まあ、順をおって話す。おまえに用っていうのは、この子のことだ」
北斗の言葉に、指を指された万真は思わず弘行を見上げた。ほぼ同時に弘行も万真を見下ろす。
訝しげに顔をしかめて、弘行は呟いた。
「なに?」
北斗はそんな弘行は無視し、立ち上がると、万真の前に立った。
ジムの男たちを見慣れている万真の眼には、棒のように映るほど細い身体。だが、そんな身体でも目の前に立ちふさがられると、それなりの威圧感がある。こんな状況では、なおさら。
息を飲んで見上げた万真の黒い目を見据えて、男は言った。
「――鍵は、どこだ」
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