悪魔がうちにやってきた 1
万真は溜息をついた。
肩から下げた鞄が重い。
着慣れない制服は疲労を感じさせるだけで、膝のあたりでヒラヒラと揺れるスカートに、いやでも気分が重くなる。
中学校に入学してから三週間。不躾な視線やあからさまな嫌味を受け流すだけでも精一杯だというのに、ここへきて新たな問題が発生してしまった。
「………帰りたく、ないなぁ」
ポツリと本音がこぼれた。
足元の小石を蹴飛ばして、再度吐息を落とす。
家に帰りたくない。
祖母が突然アルバイトを雇うと言い出したのが一週間前。
祖父がいない今、祖母と葉介だけで店を切り盛りするのに二人が限界を感じていたのは知っていた。
だから反対しなかった。
反対はしなかったが、やってきたアルバイト候補者に対する感想を言う権利だけはしっかりといただいた。
張り紙を張ってから2日目にやってきたいかにも遊んでいそうなおにーさんは、夕食の時に「おばさん受けが良くなさそうだね」と言ってみたところ、その場で祖母が「大変申し訳ありませんが」と電話をかけた。
次にやってきたのは真面目そうなおねえさん。少し気の強そうな顔が怖いと思った。はっきりとそう口に出した覚えはなかったが、万真の顔に彼女への怯えを見たのだろう。夜に万真のいる前で、葉介が柔らかな口調で不採用の電話をかけた。
その後にきた近所の若奥さんは、葉介狙いなのがあからさまだったので、祖母がにっこり笑顔でご遠慮願った。
(このままアルバイトなんて決まらなかったらいい)
ひらりと目の前に落ちてきたものに顔を上げる。すっかり葉桜になってしまったソメイヨシノに変わって、八重桜が大輪の花を咲かせていた。
いつの間にか公園まできてしまっていた。
家はすぐそこだ。
一瞬悩んだが、公園で時間をつぶすのもただの逃げだと己を叱咤し、重い足を引きずってわが家へと向かった。
万真の家は祖父の代から続くコーヒー専門店だ。昼間は近所の主婦たちが集い、夕方には高校生や大学生が訪れる。
今はきっと暇な主婦やお年寄が優雅なひと時を楽しんでいることだろう。
それを思うと、また万真の気持ちが重くなる。
今日はなにごともありませんように。
そう祈りつつ、店のドアを押し開けた。
ドアベルの涼やかな音にカウンターにいた青年が顔を上げ、微笑んだ。
「――お帰り」
「……ただいま」
そっと店内を伺うと、客は月に二度は店にくる若奥さん二人と、派手な金色の髪をした青年だけだった。
振り返った彼らに会釈をし、「いらっしゃいませ」と声をかける。
「着替えておいで」という葉介の言葉に頷いて店の奥へと足を向ける。一瞬金髪の青年と目があった。
(……珍しいタイプのお客さん)
いかにも遊んでいそうな容姿の彼は、落ち着いた店の雰囲気には余りあっていない。年配の客が多い中、彼のようなタイプは珍しかった。
どうやら今日は例のアレはきていないらしい。いいことだ。
今日は客が少ないのでいつもよりのんびりと着替えると、足取りも軽く店に向かう。
キッチンの壁からエプロンを取って身につけ、元気にカウンターに顔を出した。
今日のように客が少ない日は、葉介がコーヒーのいれ方を教えてくれるのだ。張り切っていた万真は、カウンターにいる金髪の客と眼があったとたん意欲を挫かれた。
「ああ、かずちゃん、丁度よかった」
なぜかカウンターに座っていた祖母が万真を見てにっこりと微笑む。手招きされて、そちらに歩み寄ると、笑顔で告げられた。
「こちらの彼、仲上さん。今から面接するから」
「―――はい?」
思わず訊き返してしまった万真に罪はない……はずだ。
肩にかかる金髪はパサパサしていて、正直あまり清潔感は感じられない。左耳には小さな赤いピアス。くっきりとした眉は意志が強そうで、少し怖い。
そしてなによりもその眼。
まっすぐ注がれる視線は鋭くて、万真はそっと葉介のエプロンを掴んだ。
こういう視線には慣れていない。
まるで観察されているようで、逃げ出したくなる。
そんな万真に視線を向けて祖母が微笑んだ。
「じゃあ、改めまして。店長の伊織公恵です。これは息子の葉介と孫の万真」
まっすぐな眼が葉介を見、そして万真を見る。
「仲上弘行です」
強い口調、睨むような目つきに、なんとなくケンカを売られているような気になった。
「こら。そんな顔しない」
睨み返すとすかさず横から咎められる。視線を落とし、居心地の悪さに身じろぎする。きゅ、とエプロンをひっぱった。
「……部屋、行ってていい?」
葉介が咎めるように眼を細めた。その口が開くよりも早く、祖母を見て眉を下げてみせる。
「……いい?」
祖母は逡巡するような素振りを見せたが、何も言わずに頷いた。ほっと力を抜いて身を翻す。
キッチンのドアを閉めてそれに寄りかかると、万真は大きく息を吐き出した。思っていたよりも緊張していたらしく、手が汗で湿っていた。
まっすぐ見据えてくる瞳を思い出して身震いする。
あの眼が少し怖かった。
「――でね、今日きた人は、ちょっと不良っぽくって怖かった」
『へえ』
聞こえた声は、安堵の響きを持っていた。
『じゃあきっと大丈夫だな』
脱色のし過ぎだろうパサついた髪に、無愛想な顔、声。どう考えても接客業には不向きだ。ここの客層とも合わない。
葉介や祖母の苦労はよくわかっている。でも、それでもこの家に他人が出入りするのは嫌だった。
「なんか、眼が怖くてね。……もうあんな人はきてほしくないなぁ」
『……あんまり近づくなよ』
「うん」
とたんに警戒した千里がおかしくてくすり笑う。
「近づかないよ。たぶんもう会うこともないだろうし」
あの男の第一印象は言うまでもない。ああいう手合いをあの二人が雇うとは思えない。
『そっか。……イイヒトが来るといいな』
千里の声に頷いた時だった。
遠慮がちにドアが叩かれた。千里に断ってから電話を切ると同時にドアが開く。顔を出したのは葉介だった。もう終わったのだろう。
「今いい?」
頷くと、葉介は椅子を引き寄せて後ろ向きに腰掛けた。両手を背もたれに乗せて万真を見る。
「終わったの?」
尋ねると、
「彼、どう思った?」
と逆に問い返された。
いつのも問いかけに、正直に答える。
「怖い」
彼は怖い。それ以上の感想はない。
葉介は何かを思案するように万真を見ていたが、ややあって「そう」と呟いた。
これで終わりだ。
あとは葉介が彼に電話をかければそれでおしまい。
クッションを抱えて、万真は葉介が立ち上がるのを待っていた。
「――彼はね」
だから、葉介が話を続けたことに驚いた。
「一人暮らしをしていて、専門学校に行くためにお金を貯めようとしているらしいよ」
「……葉ちゃん?」
いつもと違う展開に、ひたひたと不安が押し寄せてきた。手の下のシーツを握りしめる。
「勉強したいんだって。見た目のわりにしっかりしてる」
だから、なんだっていうんだろう。
「軽薄そうに見えるけどね」
くすりと笑うその仕草が不安を掻き立てる。
なぜだろう。なぜこんなに葉介が怖いのか。
「いやだよ」
無意識に口が動いていた。
「いやだよ。あの人は嫌だ」
「どうして?」
柔らかい声になぜか追い詰められる。頭がまともに動かない。口だけが勝手に動き出す。
「いやだよ、怖いよ」
震える声に気づいて泣き出したくなった。
何をこんなに怖がっているのか、それすらもわからなくなっている。
「万真」
静かな声に体が震えた。
いつの間に立ち上がったのか、葉介の身体が目の前にある。頭をそっと抱き寄せられると、ふわりと熱に包み込まれた。
「彼はいい人だよ」
「……やだ」
首を振る。そんな自分が幼い子供のようで、また泣きたくなった。
「かーずま」
困ったような声が降ってきたが、答えずに目の前のシャツに額を押し付けた。
「やだよ」
「万真、聞いて」
「やだ」
聞きたくない。ぎゅっとシャツを握りしめると、大きな手が背中を撫でた。
「一ヶ月だけ」
落ちてきた言葉は残酷で、一瞬で心が冷え切った。
「無理に彼と接しようとしなくていいから」
「……うー」
なんで涙が出るんだろう。
「ごめんね、万真の気持ちはわかるよ」
声は直接万真に流れ込む。頭を振ると優しく抱きこまれた。その優しさが胸に痛い。
「葉ちゃんのばかぁ」
「ごめん」
胸を叩く。痩せた胸。この半年で葉介は痩せた。祖母の髪が白くなり、溜息が増えた。
仕方のないことなのだと胸のうちで呟いても、たちまち心は悲鳴をあげる。
「ばかー、家出するー」
「相馬の家ならいいよ」
「あっさり許可出す親なんていないもん」
「じゃあ、家出はダメ」
「ばか」
小さな笑みがこぼれた。それを受けて、上からくすくすと笑い声が降ってくる。
「がんばってみる?」
「やだ。イヤな奴だったらやめさせてやるー」
「こわいこわい」
顔をあげると、穏やかな笑みが返ってきた。
「大丈夫そう?」
「一ヶ月だけなんだよね?」
だったら頑張る。
そう言うと、叔父は嬉しそうに微笑んだ。
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