悪魔がうちにやってきた 2
一歩足を踏み出すごとに魔法の呪文を唱えてみる。
大丈夫。
大丈夫。
また一歩。
大丈夫。
いつものように笑って、挨拶して、そうしたらそれでおしまい。祖母も葉介もそれ以上のことは要求してこないはず。
(あれはお客、あれはお客)
大丈夫。
客だと思えば笑顔になれるはず。
覚悟を決めて、鍵を握りしめる。
いつもは店から帰るのだが、今日はそんな勇気が出なかった。
裏の玄関の鍵をあけて、そっとドアを開けた。
コーヒーの香りが流れ出す。店のざわめきが聞こえてきた。
廊下に人の気配はない。
静かにドアを閉め、靴を揃える。
そして足音を立てないようにキッチンの前を通り過ぎた。
大丈夫。大丈夫。
あれにさえ会わなければ大丈夫。
無事に廊下を通り過ぎ、階段に足をかけてほっと一息ついたとき、唐突にキッチンのドアが開いた。
「あ、お帰り」
耳慣れない声がした。
びくりと肩を震わせて、振り向かずに階段を駆け上る。部屋に飛び込む直前、葉介の声が聞こえたような気がした。
ドアに背をつけて、大きく息を吐き出した。全力疾走したあとのように心臓が激しく動いている。
三度目の深呼吸のあと、万真は頭を抱えて唸った。
「逃げちゃだめじゃん!」
計画では「葉介にも祖母にも気づかれないようにさりげなく『早く出て行け』アピールをして可及的すみやかに辞めてもらう」はずだった。具体的に何をするのかということは、これから家に来る千里と相談する予定だ。
そのつもりだったのに、最初から思いっきり逃げてどうする。
さっきのことはかなりの確率で葉介か祖母の耳に入るだろう。そうなればまず叱られる。そしてあいつには警戒されるかもしれない。
警戒されたら「油断させて背後からざっくり計画(by成一)」の意味がなくなる。
「うわーばかばかー」
「何がバカなの?」
突然ドアが開いた。
「葉ちゃん! ノックしてよ!」
「したけど、気づかなかった?」
気づくわけないじゃん! と心の中で愚痴って口を尖らせた。
「なに?」
「千里から電話」
見ると、葉介の手には子機がある。
「鳴ってたのにも気づかなかったの?」
「…考え事してたの」
チカチカと点滅している子機を受け取ると、その手で頭を撫でられた。なだめるような笑顔に、心の中を見透かされているような気持ちになる。
葉介が部屋を出て行くと、すぐに子機を耳にあてた。
「千?」
「カズ、遅い。いいかげんケータイ買ってもらえよ」
「ソウマさんちとは違ってウチはかつかつなんですー」
千里の声の後ろで掠れた笑い声が聞こえた。成一も一緒らしい。
「今駅出たんだけど、なにか買っていくものある?」
「嫌がらせグッズ」
即答すると、話を聞いていたらしい成一が爆笑した。
「わかった、買ってく、何がいい? 蛙とか蛇とかのゴム人形? ぶーぶークッション? ガムと見せかけて指を挟むやつとかあったよな」
「一、バカにしてる?」
「してないしてない」
嘘をつけ。
「カズ、何かリクエストは?」
千里の声も笑っている。
万真は口を尖らせた。
「……葉ちゃんとおばあちゃんにばれないようにダメージを与えられるようなヤツ」
「万真いんけーん」
「うるさい」
成一はげらげら笑っている。
「わかった、最高に陰険な嫌がらせを考える」
千里の声も笑っていた。
笑いに咽ぶ成一に「バカ」と言い残して電話を切る。万真はこんなに真剣なのに、笑い事にして、と幼馴染を愚痴りながら部屋を出ると、なぜかソファに葉介が座っていた。
「あれ、お店は?」
「休憩中」
昼食をとる暇もなかったのか、片手にサンドイッチを持っている。
ふうん、と呟いて、子機を充電器に戻した。
「千、もうすぐ来るって。一も一緒」
そう、と頷く葉介の背後に回り、なんとなくソファ越しに抱きついてみた。葉介の広い肩が揺れる。
「どうしたの?」
「べつにー」
頭を撫でる葉介の手が好きだ。頭から頬に移った手に甘えていると、耳元で葉介が笑った。
「万真」
「はーい」
「半年間、一日も休まず家の手伝いをしたら、携帯電話を買ってあげる」
「えっ!?」
聞いてたの!? と声をあげると、葉介は笑顔でそれを肯定した。
「できる?」
「ジムに行く日と、相馬の家に行く日はどうするの?」
「朝と夜があるでしょう。できない?」
「うんと、できるー」
頷くと、大きな手で頬をなでられた。
「へへへ」
きゅうと首にかじりつく。
「それとね」
「うん」
「嫌がらせは、端から見て気分が悪くならない範囲でやってね」
「ぅえっ!?」
落とされた言葉に硬直した。
「あと、僕と母さんとお客さんに迷惑をかけるようなこともダメ」
「よよよよようちゃ」
「家が汚れるようなこともダメ」
「や、ちょ、え」
「ご近所の迷惑になるようなこともダメ」
「な、なんで」
「もちろん法律に触れるようなことは論外だからね」
硬直している万真に笑いかけると、葉介はやんわりと強張ってしまった腕をほどき、立ち上がった。
そして階下から聞こえるチャイムの音。
「ああ、きたかな」
呟いて階段を降りて行く葉介の背中を呆然と見送る。
薄々気づいてはいたけれど。
「……葉ちゃんって、性格わっるぅ……」
「…普通ソウイウコトを推奨する保護者っていないと思うんだよね」
家出然り、嫌がらせ然り。
「葉ちゃんって時々謎だよな」
千里が輪ゴムを捻りながら首を傾げる。その隣りでは成一が、買ってきた音の鳴るクッションを指で押して遊んでいた。
「なにしたのか知らないけど、時々おばあちゃんに怒られてるし」
「まじで? なにしたんだよ葉介さん」
「ねぇ」
夜に説教されているところを何度か見かけたことがある。本当にフシギだ。
「そういえば、このあいだ言ってた主婦ってどうなった?」
「気がつけばこなくなってた」
毎日昼頃から夕方まで店に通い詰めてはカウンターにべったり居座り、葉介に秋波を送っていた女性は、気がつけばもう3週間ほど見かけていない。たまたま万真の帰宅時間とあわなかっただけかと思っていたが、祖母が「せいせいしたわ」と言っていたところを見ると本当にきていないのだろう。
クッションに飽きたらしい成一が、なにやら液体の入ったボトルを蛍光灯にかざしながら頷いた。
「ああ、前姉ちゃんが言ってたヤツな。化粧が濃いとか性格悪そうとか年考えろとかぼろくそに言ってた」
「あれえ、いつ会ったんだろ」
「しらね」
掠れた声で成一が笑う。
耳慣れないそれが苦しそうで、万真はことりと首を傾げた。
「のど、痛い?」
「ぜんぜん」
成一はけらけら笑う。
輪ゴムを封筒に入れていた千里は、「これ、給料袋に入れたいよな」とか呟いて、ようやく万真を見やった。
「で、嫌がらせってなにする気?」
「うーん」
万真は頭を捻ってみた。
「……靴に水」
「まあ、精神的なダメージは大きそうだな」
「鞄を隠す」
「ちょっとガキっぽくね?」
「うん、やっぱり相手は大人だから、もうすこしレベルの高いものを考えないと」
「スープに消しかす、とか。サンドイッチのマスタード増量、とか」
「マスタードいいな、お茶にわさびとか」
「食べ物系はダメージでかそう」
「教科書にラクガキ……持ってるわけないじゃん」
人の鞄を勝手に見るのもねぇ、と首を傾げる万真を千里と成一が見下ろした。
「……カズ、それ自分がやられたことだろ」
「うーん、マスタードはなかったなぁ」
あのなぁ、と成一が額を押さえたとき。
階段からコツコツと遠慮がちな音がした。
振り返ると、そこには派手な金色の頭。
「あ」
トレイを持ってこちらを見下ろしてくるそいつは、やっぱり目つきが悪かった。
「店長から、差し入れ」
そう言ってこちらに歩み寄り、テーブルにトレイを置こうと身をかがめ――。
そこに広げられたものを一瞥して、そいつは「ふん」と鼻で笑った。
そして呆気に取られた三人を残したまま、なにも言わずに階段を下りていく。
バカにされたと気づいたのは、足音が聞こえなくなってからだった。
「……うっわー、想像以上にイヤなやつー」
ガタン、とテーブルが耳障りな音を立てた。千里が叩いたのだ。
「カズ」
「うん」
「早く追い出そう」
言い切った半身の手を握り締めると、横からにゅっと手が出てきた。
「俺あいつ嫌い。協力する」
三つの手を堅く握り合う。
かくして、戦いの火蓋は切って落とされた。
その日から毎日成一と千里が店に通い詰めるようになった。学校もあるだろうに、夕方にはやって来て、六時ごろに帰っていく。夕飯を一緒に食べていくときもある。
まずはオーソドックスな手に出てみた。
彼が店に出ている隙に鞄に蜘蛛を仕込んでみた。もちろんゴム人形だ。
八時を過ぎ、閉店になると彼は帰り支度をはじめる。万真はわくわくしながらその瞬間を待ったが、彼は特にリアクションもなくあっさりと帰っていった。
気づかなかったのかなぁ、と首を傾げながら自室に戻ろうと階段に足をかけたとたん。
「うぎゃぁ!」
万真の足の下でぐにゃりと奇妙な感触が。
震える首を下に向けると、素足の指の間から毛に覆われた太い肢が顔を出していた。
翌日。
「虫はダメだと思うんだ」
という万真の主張に従い、双子と一人は食べ物系で責めてみることにした。
夕食のまかないに出されたパスタにこっそりゴムを数本混ぜてみる。
わくわくしながら二階で結果を待っていると、葉介が階段を上がってきた。
「せっかくだから、二人も食べていきなさい」
はーい、と行儀よく返事をして、万真はさりげなく葉介を見た。
「あいつは?」
「ん? 仲上君? 店に出てるよ」
あっさりと返されて、「あれぇ?」と顔を見合わせた。
彼は三十分も前に食事を終えているはずなのだが。
「…またノーリアクションかなぁ」
葉介が降りていったのを見計らってフォークを手に取る。今夜のメニューはまかないと同じくミートソーススパゲッティとサラダ、スープ。
「イヤ、ストレス与えるのが目的だし、長期戦で」
「そうそう、気長にのんびりと。葉介さんのゴハンってうまいよな」
これってアルデンテって言うんだろ? と言った成一の笑顔が固まった。時を同じくして双子も表情を固くして口を抑える。
「………カズ、ティッシュ」
「うう」
口の中のモノを吐き出して。
「…………やられた」
三人は同時にうめいた。
翌日は休憩用のコーヒーにしょうゆをたらしてみた。
祖母にばれて三人正座でしっかり叱られた。
次の日は彼の靴にハンドクリームをいれてみた。
反応はなかった。
次の日も同じことをしてみた。
やはり反応はなかった。
「………なんか、だんだんバカらしくなってきたな」
「うん……」
三人は同時に溜息を落とした。
あれから何をしてみても反応が返ってこない。
怒りなり困惑なりの反応が無いので、自分がやっていることがなんなのかわからなくなってきた。
「いじめって、すごく不毛なことなんだね」
「ほんとにな…」
再び溜息。
万真は、おやつにテーブルの上に用意されてあったラムネを手に取ると、手のひらで転がした。青いプラスチックの容器に入ったそれは、なぜか郷愁を感じさせる。
「これガキの頃よく食ったなぁ」
万真がラムネを手のひらに出すのをぼんやり眺めて成一が呟いた。
「あ、なんか懐かしい味」
一粒口に入れて千里が表情を和ませる。
「お前らもよく食ってたよ」
「そうなのか?」
「よくおばさんにもらってた」
ふうん、とつぶやいて、万真は容器を眺めた。ラムネの瓶を模してある。
記憶にはなかったが、『懐かしい』と感じたということはそういうことなのだろう。
ラムネを口の中で転がしながら千里がぼやいた。
「明日はなにしよう」
「……靴にクリームは利いてるっぽいけどなぁ」
「…今度は生クリームにしてみようか」
ポツリと万真が呟いた。
「店で使うやつちょっとくすねて」
「あんまり変わりなくないか?」
「でも、アリわくじゃん」
一瞬沈黙し、二人は万真に拍手を送った。
「性格悪すぎ」
「それでいこう」
次の日、帰宅そうそう店の前を掃いている彼とばったり出会ってしまった。
「げ」
顔をしかめた万真を見下ろして、
「お帰り」
という。
見下すような目つきにむかついたので、思いっきり顔をそむけてやった。だから万真は、自分の背中を見つめて彼がアンニュイな溜息を落としたことなど知るはずもなかった。
「どう? きいてる?」
「きいてるきいてる、靴が変わってたもん」
「よし、今日もそれでいくか」
などと、おやつをつまみながらくすくす笑う。今日のおやつは、やはりどこか懐かしいキャラメルと三角形の煎餅だ。
そしてふたたび生クリームを靴に投入してみたさらにその翌日。
彼の顔つきが、明らかにすさんできていることに気がつき、三人顔を見合わせてにんまり笑う。これはなかなかいい手かもしれない。
ほくほくしながらキッチンの前を通ると、中から声が聞こえてきた。
「……なんでこんなに嫌われてるんすかねぇ」
彼だ! と三人は反射的にドアに張り付いた。溜息が聞こえてくる。
それきり彼の声は聞こえなくなった。
お互いの顔を見て、効果を確認する。
確実にきいている。
それから同じことを続けていると、彼の顔色がだんだん悪くなってきた。動作に余裕がなくなり、苛立つ様子が増えてきた。
「これ、あと一週間も続けたらやめるかな」
「やめそうだな」
意地の悪い笑みを交わす。そんな子どもたちを見て葉介と祖母は呆れた顔をしていたが、やりすぎを注意することはあっても止めることはなかった。
三人が半ば意地になっていることがわかったからだろう。
問題の彼はというと、いたずらの犯人がわかっていないはずが無いのに、万真に人を食ったような笑みを向けてくる。それがまた「どうせ子どものすることだから」と見下されていているようで腹が立つ。
今日も今日とて、意識しながらも「あんたなんかどーでもいいんだから」という態度をとり続ける万真には頓着せずに、彼は淡々と仕事をこなしていく。それがさらに癇に障る。
どことなくピリピリしている万真に、さすがの葉介も苦笑を禁じえないでいるようだ。
無言の戦いは三週目に突入した。
その日は研究授業の関係で、万真は午前中で学校から解放された。寝たりない身体を引きずって帰途に着く。
今日はジムに行く日なのに、この調子だと行ってもフロアの隅で寝入ってしまうかもしれない。
あくびをかみ殺して、玄関のドアを開けた。
アイツがきてから、店ではなくこちらから出入りすることが当たり前になってしまった。時間は12時を少しすぎたところ。アイツは確か12時からきているはずだから、もう店に出ているかもしれない。
そう思い、音を立てないようにすり足で廊下を通り抜ける。階段に足をかけたとき、2階からりんの音が聞こえた。
「……?」
不思議に思い、首を傾げる。
仏壇にまいるのは、朝、お膳をあげる時と月命日の日だけだ。
おばあちゃんかな、と心に呟いて二階をのぞき、万真は慌てて身を隠した。
アイツがそこにいた。
小さな仏壇の前に正座して、真剣な顔で写真を見つめている。
(なんで)
なぜ、彼が。
疑問に頭が支配され、真剣な横顔から眼が離せないでいる万真の目の前で、彼は仏壇に向かって頭を下げた。そのままの姿勢で瞑目する。
しばらくじっとそうしていたが、やがて顔を上げ、立ち上がった。
まずいと思ったが、足が動かなかった。
振り向いた彼が万真を認めて目を見張る。その顔にちらりと走った動揺に、しかし彼以上に動揺していた万真は気づかなかった。
「あ、あ」
大きな手のひらが自分に向かって伸びてくる。
「ひっ」
反射的に眼を瞑った。無意識に突き出しそうになった拳は、頭に感じた熱に押しとめられて。
「お帰り」
ポン、と軽く叩かれて、反応もできないまま、熱が去っていった。
軽い足音が遠くなる。
振り返ると、金色の頭はすぐに見えなくなった。
「………なんで」
仏壇に目をやる。線香はずいぶん前に燃え尽きたのか、灰になっていた。その段になってようやくコーヒーの香りにまぎれて漂う線香の匂いに気づく。
開けられたままの仏壇の前では、両親と祖父が笑っていた。
万真が生まれる前だろう若い両親と、亡くなる一月前の姿を残した祖父の写真。
写真を見つめる真剣な横顔を思い出す。
あの眼が写していたのはなんだったのだろう。どちらを見ていたのだろう。
わからない。
尽きぬ疑問に答えはでてこず、かといって本人に確かめることもできないまま、葉介に呼ばれるまで万真はその場から動けなかった。
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