悪魔がうちにやってきた 3
キュ、と床が鳴る。震動を耳で感じながら、万真はぼんやりと天井を見上げていた。蛍光灯の光の中に映るのは真剣な横顔。
そこから目をそらすように眼を瞑り、ころりと横に転がると、ごつんと額に固いものが当たった。成一の膝だ。
「眠いんなら寝れば?」
汗を拭きながらそう言う幼馴染に「んー」と気のない返事をする。ごろごろしていると、一汗流した千里がやってきた。万真を覗き込みながら、「だるいの?」と訊いてくる。
また「んー」と返すと、二人は顔を見合わせて首を傾げた。
「腹でも壊したか?」
「葉ちゃんに怒られた?」
などと遠慮なく言ってくる二人に「違うー」と返して、またごろりと転がる。二人は納得していない顔をしていたが、追及することは放棄したのだろう、あっさりと話を変えてきた。
「で、今日は?」
「生クリームとメープルシロップの詰め合わせ」
うげえ、と成一が顔をしかめて見せた。
気もそぞろながら、ほぼ機械的に作業を済ませて家を出た。それでも、生クリームを靴の中に落としながら、万真ははじめて良心の呵責を感じた。
あんなに真剣に仏壇に向かうなんて、彼は伊織の家となにか関係があったのだろうか。
思考はやはりあの光景に戻ってしまう。
彼はいったいどういう人間なんだろう。
なんで家にきたんだろう。
なんで家を知ったんだろう。
近所の人だったんだろうか。
前からお客できていたのかもしれない。
ごーろごーろと左右に転がりながら考え事をはじめた万真を見て、成一と千里は肩をすくめるとさっさとフロアに戻っていった。
取り残された万真は再び仰向けになると、天井を眺めながら思った。
もし、彼が店の常連で、何かしら思い入れがあって庵で働きたいと思っていたのなら。
そう考えると、これまでしてきた数々の嫌がらせを、少しだけ申し訳なく感じた。あくまでも「少しだけ」だが。
それに、もしそうなら、何をしても黙って耐えていることも理解できるような気が……するようなしないような。
常連だったなら、あっさり葉介と祖母が受け入れたこともわかるような気がする。
葉介が嫌がらせを黙認している理由はよくわからないが。
「…………悪いこと、してるのかなぁ」
ポツリと口からこぼれた言葉に、慌てて首を振る。
そんなことを考えたらアイツの思う壺だ。
万真は万真の日常を取り戻すためにも、心を鬼にしてもっともっとすごい嫌がらせをしてやらないとダメなんだ。
などと意気込んでぴょこんと飛び起きる。
「うん。アレは忘れよう」
理由なんて考えていてもわかりっこないし。
そう結論付けると、スパーリングに励む二人の元へと駆けていった。
今日のおやつはたまごボーロだ。
舌の上で溶ける甘味を楽しみながら、万真はソファの上で唸っていた。
「うーっ」
気持ちがしっくりこない。
原因はわかっている。昨日のアレだ。
「カズ、邪魔」
ソファを一つ占領して寝そべる万真の背中を千里が踏む。
「あ、そこ気持ちいい」
「どこの親父だよ」
以前よりも若干低くなった声で成一が笑った。そんな二人に唸り声で応えて、万真はまた一つ、小さなお菓子を口に放り込む。成一曰く、これも小さい頃に万真が好んで食べていたものらしい。
最近なぜか「昔懐かしい」おやつばかりがテーブルの上に置いてある。
ちまちま食べるのに飽きたらしい成一が、おもむろに袋を傾けて小さな粒を口に流し込んだ。
「んで、今日もやんの?」
「うん。今日はガムシロップをたらしてみようと思うんだ」
もちろん投入先は例の靴。毎日洗っているのだろう、観察により、靴は3足あることが判明した。
「どこからそういう悪知恵が沸いてくるのか俺は真剣に知りたいよ」
千里の言葉は聞こえないふり。千里のほうが性格が悪いくせして、いい子ぶるところがちょっとむかついたので、ソファにもたれるその頭を叩いてやった。
千里は宿題をする手を止めて「痛い」と万真の手を叩き返す。
千里たちの入学した学校は、万真の学校とは違って課題が多いらしい。大変そうだね、と他人事のように呟いて、重い体を起こした。
「店の手伝いしてくる」
「観察よろしく」
「おー」
ひらりと振られた手を叩いて、成一には手を振って、万真は戦場へと降り立った。
キッチンには葉介がいた。万真を見て夕刊をめくる手を止めて、にこりと笑う。
「なんだ、あんまり遅いから携帯電話は諦めたのかと思ったよ」
「……」
最近、葉介の万真たちへのあたりがきついように思うのは気のせいではないらしい。まずいなぁ、と思っていると、案の定お小言がきた。
「最近、ちょっとやりすぎじゃない?」
うひ、と首をすくめる。さらに続きそうな言葉を強引に遮った。
「葉ちゃんがイイって言ったんだよー」
「今は空いてるから、コーヒーの練習でもしてなさい」
との言葉に渋々マイコーヒーセットを取り出した。
まだ難しい顔をしている葉介をなだめながら、ごまかすように慌ててコーヒーを煎れる。案の定まずかったのか、一口飲んで顔をしかめた葉介は、「やり直し」と短く告げてカップを置いた。
「え〜」
口を尖らせて万真も一口すすってみる。苦味が強くてとても飲めたものじゃなかった。
「まず…」
「もったいないから捨てずに全部飲むんだよ」
「うえー」
葉介も祖母も、こういうところはとても厳しい。
熱い上にまずくて飲めないコーヒーを前に逡巡していると、祖母に呼ばれた葉介はさっさと店に戻っていった。一人残され、万真はむなしくカップを手に立ち尽くす。
すぐそばにはシンクがある。
流してしまおうか。
そんな悪魔の囁きが聞こえた時だった。
店に続くドアが開いた。
「あ」
聞こえた声に身体が跳ねた。
「あ!」
跳ねたはずみにカップを離してしまった。
慌てて手を延ばすがそれより早く長い腕が万真の指先をかすめた。しかしそれも間に合わず、耳障りな音が上がる。
「あちゃー」
耳元を低い声がかすめた。カップは見事に割れてしまっていた。
足元白い陶器の欠片が散乱している。そして目の前のシャツは色が変わってしまっていた。
「万真?」
音が聞こえたのだろう葉介が飛び込んでくる。その声で万真はようやく我に返った。
「やけど!」
叫んで、引っ込められそうになっていた腕をつかまえる。濡れた袖を捲り上げようとして――万真は眼を疑った。
するりと腕が抜き取られ、濡れた布に包まれる。
「怪我は?」
ぶっきらぼうな声。
見上げたそこには、冷たい色の瞳があった。
「二人とも怪我はない?」
「すんません、今片付けます」
「いいから、怪我は?」
破片に手を伸ばそうとした彼を遮り、葉介は万真を見た。眼があった瞬間、身体がすくんだ。
「万真」
「…な、ない」
そう、と葉介は表情を緩めた。そのまま仲上を振り返り、色が変わったシャツを見やった。
「着替えないと。脱衣所――」
その言葉に万真は慌てて仲上の腕を掴んだ。
「こっち!」
強引に背中を押して、葉介の目から隠すように彼を廊下に押し出す。ちらりと見た葉介は眼を丸くして二人を見ていた。
洗面所に追い立てて、チェストから引っ張り出したタオルをその胸に押し付ける。
「着替え持ってくるから」
顔も見ずに言い捨てて階段を駆け上った。
「…かずー?」
「割った? 大丈夫?」
心配そうな顔で聞いてくる二人に生返事を返して、葉介の部屋に飛び込んで適当なシャツを引っ張り出す。
そのまま階段を駆け下りる万真に興味をひかれたのか、珍しく千里と成一もついてきた。
「あけるよ」
声をかけて、中から声が聞こえたのを確かめてから脱衣所のドアをあけた。
その瞬間、目に飛び込んできたものに万真は声を失った。
細身の背中に走る無数の傷痕。
瞬きする間にそれはシャツに覆い隠される。
我に返ったのはそのあとだった。
背後で眼を丸くしていた千里と成一を突き飛ばす。
「カズ!?」
非難の声を背に受けながら、手にしていたシャツを仲上に押し付けると音高くドアを閉めた。
「なにすんだよ」
「うるさい」
万真が睨むと、予想外だったのだろう成一がわずかに身をひいた。
「な、なんだよ」
「あっち行く」
ドアを背にしたまま階段を指さす。千里の眉間に皺がよった。
「なんで」
「いいから!」
叫んだ時、騒ぎを聞きつけた葉介が顔を出した。
「万真?」
歩み寄ってくる叔父の姿に万真はさらに表情を険しくした。
「あっち行って」
ピリピリと気が立った様子に葉介もまた訝しげに眉を寄せた。不審そうに千里たちに目をやり、首を傾げる。
「彼は中? やけどは――」
「入っちゃダメ!」
伸びてきた手を叩いて退ける。その剣幕に三人は眼を丸くした。
「あっち行って!」
葉介の背中を押して脱衣所から遠ざける万真の後ろでドアが開いた。
仲上だ。
弾かれたように顔を上げ、そこに葉介のシャツを着た彼を認めて万真は複雑な表情になった。そのまま視線を足元に落とす。少し色のあせたジーンズに包まれた長い足。
「やけどは大丈夫だった?」
「はい。すいませんでした」
そう言って頭を下げる仲上の姿に、万真の眉が下がる。口は無意味に開くのに、なにを言っていいのかわからない。
「万真は休んでいなさい」
一言だけを残して葉介は店へと戻っていく。そのあとを追い、仲上も万真の横をすりぬけた。
すれ違いざまに頭に触れた手に驚いて顔を上げると、苦笑のような笑みを浮かべた仲上と眼があって当惑する。
唇の前に人差し指を立てて。
ちらりと目尻を下げて、彼はドアの向こうに消えていった。
千里は困っていた。
葉介にすげなく追い払われた万真は、ソファの上に丸くなって落ち込んでいる。成一は成一で、毒気を抜かれたように呆然とした顔で床を見ていた。
そんな二人を眺めやり、千里は小さく息を落とす。
さっき、一瞬だけ目にした光景が頭から離れない。
細い背中に縦横に走る無数の傷痕。一見して古いものだとわかった。
ジムに来る男たちの中には身体に傷を持つものが少なくないが、それでもあそこまでのものははじめて見た。
丸くなったまま微動だにしない万真に目をやる。なにを考えているのか、思い悩んだ横顔。
先ほどの万真の行動を思い出し、参ったなぁと頭をかいた。
「かーず」
細い肩が揺れた。腕を伸ばして抱き寄せると、小さな身体は抵抗もなく胸の中に落ちてきた。
春休みの間に千里は少し背が伸びた。それと前後して、少しずつ開いていく身長差と、抱きしめた時の感覚に、半身と自分の違いを感じることが増えた。
「かぁず」
黒い瞳が憂いに沈む。
小ぶりな頭を軽く叩くと、万真はそっと瞳を伏せた。
階下のざわめきがいつもより近く耳に届く。
ポツリと成一が呟いた。
「……あの人ってさぁ」
かすかな笑い声。
祖母の陽気な声が聞こえた。
「意外と、苦労してんのかもな」
落ちた言葉は応じる声を待つことなく、ざわめきに解けて消えた。
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