悪魔がうちにやってきた 4
万真の日常は夢の狭間を移ろうようなものだ。
伊織の家と相馬の家、水城の家、そしてジム以外での活動はすべて眠りの膜に包まれていて現実味が無い。
今日も眠りの合間に遠く教室を見て、ざわめきを聞きながら一日を過ごす。
そのはずだった。
脚が重い。睡眠不足の頭は自然とうなだれ、ただ地面を見つめて機械的に脚を運ばせる。
嫌がらせを止めてから3日が経った。
もつれた思考の糸はいっこうにほどける気配がなく、仲上の声を、足音を聞くたびにより複雑に絡み合っていく。
このままではいけない、と心が叫ぶ。
なにも考えたくない、と幼い万真が耳をふさぐ。
どうすればいいのかわからない。
期限の1ヶ月はすぐそこだ。
目を瞑ると、まぶたの裏に甦るのは垣間見た背中。
無意識に溜息がこぼれる。
重い脚を引きずって、店の前に立った。
3日かけて、学校で寝ずに考えた。
万真の気持ち。
彼のこと。
あとは、ほんの一歩だけでも、この暗がりから踏み出せばいい。
そっと深呼吸して。
そして震える手でドアを押し開けた。
軽やかな音に葉介が顔を上げた。万真を見て眼を丸くする。
久しぶりに表から入った店内は、いつもと変わらずコーヒーの薫りと常連客の穏やかな話し声、そしてクラシックで満たされていた。その中に仲上の姿を見つけて万真は軽く息を止める。
「おかえり」
馴染みの客からかけられた声に会釈を返して、肩から下げた鞄を握りしめるとカウンターへと向かった。奥のテーブルの上を片付けていた仲上が万真を見ている。
昨日から仲上は時折万真を見るようになった。訝しげな彼の表情を、万真は直視できないでいる。
「おかえり」
聞きなれなかったはずのその声は、いつの間にか耳に馴染んでしまった。視線を避けて顔を伏せ、奥へと足を向ける。
カウンターの向こうで葉介と祖母、そして常連の女性がなごやかに談笑していた。
珍しく苦笑している葉介に気づいて首を傾げると、その女性が振り向いた。
「かずちゃん、お帰り」
「…ただいま」
どうしたの、と聞こうとしてためらった万真に気づいたのだろう、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「そうそう、かずちゃんにも見てもらわないと」
「横山さん」
葉介の声には取り合わず、彼女は万真の前に四角い冊子を突き出した。両開きのそれを開くと、中には振袖を着た女性の写真がある。
よくわからず首を傾げる万真の上で、葉介が溜息をついた。
「かずちゃん、この人どう思う?」
どう思う、といわれても。
「やめてください」
少し語調を強めた葉介の隣りでは、祖母が他人事のように笑っている。
状況が理解できず、眼を輝かせている夫人を見上げた。
「きれいな人でしょ」
そう言われてみると、写真の女性は確かに美人だ。
「……優しそう」
「そうでしょそうでしょ」
とたんに勢いづいた女性に葉介がまた溜息を落とした。
「横山さん、僕は本当に」
「今24歳なの、葉介君とならお年もちょうどいいし」
ちょうどいい?
万真の脳内でクエスチョンマークが踊った。
「この方お料理が得意なのよ。きっと葉介君を支えてお店を盛り上げてくれると思うわ」
支える?
盛り上げる?
助けを求めて祖母を見ると、どうやら完全に傍観者に徹するつもりらしくとぼけた顔でウィンクを投げてきた。50も半ばを過ぎた祖母はまだまだ若いつもりでいるようだ。
見上げた葉介の顔に苛立ちを見つけて驚いていると、女性がにこやかに口を開いた。
「かずちゃんは、お姉さんほしくない?」
「え?」
「葉介君もそろそろお嫁さんをもらってもいいと思うの」
万真の手から釣書が落ちた。呆然と葉介を見上げる。
「お嫁さん………?」
口にした瞬間、胸が熱くはぜた。
「やだ」
女性が眼を丸くする。赤い唇が動くよりも早く、万真は叫んだ。
「いやだ!」
肩から鞄が足元に落ちた。
「でもね、かずちゃん――」
追ってきた声を振り切って、万真は店を飛び出した。
あとを追おうと駆け出した葉介は、横から伸びてきた腕に阻まれて瞠目した。
「俺が」
「仲上君」
仲上は葉介を見やり、カウンターを指で示す。
「あっちをなんとかしたほうがいいんじゃないすか」
唖然とした顔でこちらを伺っている女性に気づき、内心舌打ちする。
「それより万――」
「じゃ、いってきます」
ひらりと目の前で手が振られた。
止める間もなく閉じたドアに、伸ばした手を額に当てて長い息を吐く。
「葉介」
さあ、どうする?
楽しげな表情でそう問いかけてくる母と、不安げな女性への苛立ちを笑顔で隠して、葉介は二人の元へと足を向ける。
万真が落としていった鞄と釣書を拾い上げる。鞄についた砂を丁寧に払い、自分の肩にかける。
そして微笑みながら釣書をカウンターに戻した。
万真は走った。
すれ違う人々が一様に振り返っていくが、かまわず人ごみを走りぬける。目指すは幼い頃から逃げ場にしていた公園。
自転車止めの柵をすり抜け、ひときわ背の高いイチョウを目指す。
あと少しで手がとどくというとき、不意に肩をつかまれた。
「やぁっ!」
突き出した拳は大きな手のひらに受け止められる。
見上げた先に、肩で息をしている青年を見て目を瞠った。
「おま、足速ぇ」
苦しそうに顔をゆがめながらも、彼は笑った。
呆然としていたのは一瞬だった。我に返り、まだつかまれたままの腕を振り払おうともがく。
「放せ!」
「うわ、やめろ馬鹿!」
「放してよ!」
叫ぶと彼はますます慌てた。
「やめてくれ、警察呼ばれる!」
「――はぁ?」
思い切り状況にそぐわない単語が飛び出した。呆気に取られて抵抗をやめると、仲上はあからさまに安堵の表情になった。逃げるなよ、と言い置いてそろそろと手を放す。
「なんで警察?」
問うと、彼は顔をしかめた。
「お前制服、俺プー太郎」
言われて自分の格好と男を見比べる。洗いざらして膝の抜けたジーンズに、着まわしているのだろう、少し伸びているTシャツ。極めつけに派手な金髪だ。
不潔感はないけれど、信頼感もないだろう。
「どう見ても怪しいだろ」
ふんぞり返ってそういう仲上の姿に、気がつけば万真は笑っていた。
「うん、怪しい」
「そこは否定しろ」
仲上も笑った。無愛想な顔がほんの少し優しくなった気がした。
ほら、と手渡された紅茶の缶は冷たく汗をかいていて、ほてった肌に心地よかった。自分もジュースの缶を手にしたまま、万真の隣りに乱暴に腰をおろす。少しはなれた遊具では、小学生が楽しげに戯れていた。
ぼんやりとその様子を眺めた。
頭上では背の高いイチョウが伸びやかに葉をざわめかせている。
二人して無言のまま缶を傾けてどれくらい経っただろうか。
軽くなった紅茶の缶を膝の上におろした時、唐突に傍らの男が口を開いた。
「このあいだは、ありがとな」
とっさに何のことかわからなかった。
「気ィ使ってくれただろ。俺のこと」
そう言われてようやく思い出した。気まずい思いでうつむく。
「………」
「聞かねぇんだな」
だって、と、呟いた。
「……聞いていいことと悪いことぐらい、わかるよ」
「そっか」
大きな手が伸びてきて、不器用に万真の頭を撫でた。
万真はさらにうつむくと、足をベンチに上げて膝を抱えた。ぎゅっと両手を握り締める。
「あのさ」
低い声に、いつの間に耳はなじんでしまったのだろう。
「俺のことなら、気にしなくていいぞ」
万真の頭を撫でた手が、今度は金色の頭をかきまわす。
「嫌われてるのはわかってるからさ。出てってほしいんだろ?」
顔を上げた万真を片手で押しとどめて、彼は口の端を持ち上げた。
「最初からわかってたから。お前もさ、こんなところで変な遠慮なんかしないで、もっと俺にぶつけてくればいいのに。どうせあと少しで一ヵ月になるし、そうすりゃ俺はお別れだ。――ああ、先が見えたから、今さらあんなこと続ける必要もなくなった? そっか、ごめんな、俺が気を回しすぎた。変なこと言って悪かった」
とうとうとまくし立てられた男の言葉に、万真はむうと口を尖らせた。
「何であんたが謝るの」
「見知らぬ人間が家の中うろうろしてるのって、やだろ」
だって俺って見るからに怪しいしー。
そう言って笑って見せる男に、万真はくしゃりと表情を崩した。
なんだ、全部気づかれてたんだ。
「だから告げ口しなかったの?」
「あ、俺、そういうのキライ」
首を傾けて最後の一滴まで飲み干した男は、空になった缶を名残惜しそうに振っていた。
「ガキのわがままに負けましたって言うみたいでイヤじゃん」
むかついたけれど子どものわがままであることは事実だったので、万真は尖らせた口を膨らませることで気持ちを表現した。
「だからあと一週間ぐらいは粘るぜ俺」
ぷくっと膨らませた頬をつつかれる。その手を避けて、抱えていた足を投げ出した。そのまま腰をずらしてずるずると沈み込んだ。
「もうしないもん」
「え?」
不意を突かれた表情で彼が問う。
沈み込んだまま、もう一度呟いた。
「……しないもん」
仲上はしばらく万真を眺めていたが、やがてベンチに背中をもたれさせ、大仰に息を吐き出した。
「ふー。正直助かる。雨が降ったら履いていく靴ねぇんだもん」
冗談めかした言葉は万真の心をちくりと刺した。
「……ごめん」
「なに気ィ使ってんだよ気持ち悪いな」
失礼だな、と思ったが、口には出さずにずるずると座りなおす。
そのまま足をぶらぶらさせていたが、ややあって沈黙に耐えかねて口を開いた。
「その。……傷、痛い?」
見上げた先の顔は、驚いたように目を丸くして、次いでくしゃりと目尻を下げた。
「全然」
また大きな手のひらが頭を撫でていく。
彼は笑った。
「お前は優しいなぁ」
「――お前じゃないもん」
くすくすと、低い笑い声が落ちてくる。
「じゃあ万真?」
「呼び捨てするなー」
なんて呼べってんだよ。
声は笑みを含んで、乱暴に髪をかき回された。
「店長みたいにカズちゃんって呼ぼうか?」
「気色悪ぅ」
このやろう、と今度は頭を小突かれた。
「お前なんかカズ坊で充分だ!」
「男じゃないよ!」
「わかって言ってんだよ」
「いたいー」
砂場で子どもを遊ばせていた女性たちが胡乱気にふたりを伺っているのに気づき、仲上は慌てて手を離した。万真も視線を感じて心持ち身体を離してみる。
気がつけば影が伸びていた。
「機嫌直った?」
からかうような口ぶりに、万真はムッと口を尖らせて見せた。
仲上は笑う。
「しょうがないからおじちゃんがお菓子をあげよう」
今日はなにがあったかな、とポケットを探った彼が差し出したのは、チューインガムによく似た形をしたソフトキャンディだった。万真は知らないキャラクターが満面の笑みを浮かべている。
ほれ、と一枚差し出され、恐る恐る口に入れてみた。
甘さが口の中に広がる。
「どう?」
「……なんか」
ふ、と胸をよぎった感覚は、ラムネを食べた時のそれに酷似していた。
「懐かしい、かも」
呟くと、仲上は眼を細めて笑った。
その表情に「あれ?」と思った。
もしかして。
「――ラムネ」
「ん?」
そのままポツリと押し黙った万真を見て仲上は軽く考えたあと、思い当たることがあったのか破顔した。
「マスター、ばらしたな」
葉介からは何も聞いていないけれど、万真は仲上が誤解するままにしておいた。なにを言っていいのかわからなかった。
なにやら満足げに空を仰いでいる仲上を横目に見ながら、ぶらぶらと足を揺らす。
なにかいいことでもあったのか、子どもたちの歓声が聞こえた。
高い声に低い声が溶けた。
「で。俺はあそこにいてもいいんでしょーか」
一つ、足を揺らして。
「………いいんじゃないでしょーか」
万真は答えた。
その瞬間の男の笑顔を見て、こんなふうにやっていくのもいいなぁ、と万真はぼんやりと思った。
わだかまりがすっかり解けた男はさわやかな表情で笑っている。よほど靴の被害がこたえていたらしい。
「もう戻れそう?」
そう訊かれて、家を飛び出すに至った状況を思い出す。
むっつりと押し黙った万真を見て、彼は苦笑したようだった。
「俺より女の人が家を出入りするほうがイヤなんだろ」
反論のしようがなく、ただ口を尖らせる。
「叔父さんを取られたくない?」
それに答えるのは癪だから口は開かない。だが、彼は万真の態度から答えを読み取ったらしい。困ったように笑った。
その態度が、万真を子ども扱いしているようで腹が立った。
口を尖らせたまま沈黙していると、またまた大きな手が下りてきた。くしゃくしゃと髪を乱されて、万真の頭は無残なものになってしまっている。
「ま、その心配は当分必要なさそうだけどな」
「え?」
振り仰いだ万真を見下ろして、仲上は笑った。
「叔父さん、お見合い断るよ」
嘘、と万真は呟いた。
「ホント」
仲上は笑う。怖いと思っていた眼も、今はそう感じなくなっていることに気づく。
「ほら。帰ろう」
差し出された大きな手。
わずかに残ったためらいを振り捨てて、万真はそっと自分の手を重ねた。
葉介でもなく、千里でもない。成一でもない。
自分の心の中で、新しいドアが開いたのを、万真は感じた。
その夜、万真は祖母の部屋のドアを叩いた。
そこには葉介もいて、額を寄せ合って帳簿を眺めているところだった。
「カズちゃん、まだ休んでなかったの?」
「おばあちゃん」
ドアを背にして、万真は眼を伏せた。
「……ずっとわがまま言っててごめん」
ドアを片手にそろそろと部屋から出て行く。
二人の視線を感じながら、足元だけを見ていった。
「あいつなら、いいよ」
「え?」
驚いたような葉介の声をドアで押しとどめて、万真は自分の部屋に逃げ込んだ。
そしてすぐに千里に電話をかける。
思いを告げると、千里は最初は驚いた声を上げた。
「それでいいのか?」
「うん。あのヒトなら、いい」
長い沈黙があった。
「………カズがそう言うのなら、俺はいいよ」
その声音は「いい」という言葉を裏切っているものだったが、万真は言質を取れたことに満足した。
その後取りとめもなく30分ほど話したあと、受話器を枕もとに投げ出してごろりと横になった。
早まった感が無いこともない。
本当にこれでよかったのかと、心の底で声を上げている自分がいる。
でも。
その一方で心が浮き立つような昂揚感に、身を任せてみようとも思う。
「まあいいか」
持ち前ののんきさが不安を押しやった。
「なんとかなるよ」
その翌日、千里と成一の二人が仲上を相手に「カズに手を出すなよ」としっかり釘をさしたことを、万真は知らない。
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