「ハックシュッ」
かわいらしいくしゃみが路地に響いた。
成一が軽く笑って背後の万真を振り返る。
「なんだ、風邪か?」
「…違うー」
鼻をすすりながら、こもった声で少女が答えた。心なしか丸い瞳が潤んでいる。
「知ってるか? 夏風邪ってバカがひくんだぜ」
「だから、風邪じゃないって―――ヘクシッ!」
言ってるそばから再びくしゃみ。これには、千里だけでなく日向まで思わず笑顔になった。
「風邪じゃん」
それ見たことか、とそんな顔で言った成一を上目遣いに睨みつけて、万真は鼻を抑えながら口を開いた。
「違うってば」
説得力のない科白は、いつものように軽く聞き流される。
「どうせ腹出して寝たんだろ? おまえ寝相悪いから」
「誰の寝相がいつ悪くなったって?」
「冗談だ冗談」
はっきり言って万真は寝相がいい。寝言も言わない。対して寝相が悪く寝言歯軋り当たり前の成一は、険しい顔立ちの万真を前に笑顔を浮かべていた。
と、唸りながら成一を睨みつけている万真の頭に大きな手の平が乗せられた。千里だ。
「大丈夫か? おまえクーラーつけっぱなしで寝るからなあ」
「うん。大丈夫。相馬の家ってばクーラー全室完備なんだもん。油断しちゃってさ」
普段クーラーを使わない万真は、ついつい油断してクーラーをつけたまま寝てしまうのだ。おかげで相馬の家で寝泊りすると、必ず体調を崩してしまう。学習能力がない、と、いつも千里に馬鹿にされるのだが。
再びくしゃみをした万真を見て、さすがの千里も心配になったらしい。
「本当に平気か? なんか眼ぇ潤んでるぞ? 熱あるんじゃないか?」
言いながら万真の額に手を当てる。
「熱はないけど…」
「だいじょーぶだってば」
のんきに笑った万真を見下ろす千里の眼はまだ心配そうだ。
「辛くなったら言えよ」
「はいはい」
その様子を日向は黙って見ていたのだが――なんとなく、眼の前でいちゃつかれているような気持ちになるのは、どうしてだろう。
ふたりが血を分けた兄弟であるということを知った今でも、いや、知っているからこそか、ふたりの様子がこれまで以上に親密に見えてしまう。
これは、相当重症だ。
日向の気も知らず万真はのほほんと笑っている。
「それにしても、今日は静かだねー。いつもならそろそろどこかのチームにぶつかってる頃なのに」
万真の言葉に、千里も頷いて周囲に視線を走らせる。低い雑居ビルが立ち並ぶ通りには、彼ら以外の人の姿はない。物音もしない。
「ドンパチやってる気配もないし。ここまで静かだと、いっそ不気味だよな」
「でもよー。今日から、他のエリアの奴もこっちに入ってくるんだろ? それって、結構やばくねえか?」
「まあな。来る奴は、そのエリアを制圧した奴ってことだろ」
「やっぱやばいじゃねえか」
言いながら千里を振り返った成一は、そのまま表情を固めてしまった。
「…願ったりじゃないか。強い奴とぶつかるのなら大歓迎だ」
――そう。千里は誰よりも好戦的なのだ。
うっすらと笑みを浮かべながら言い切った千里から離れるようにして三人は固まると、
「…うわーどうすんの千やる気だよ」
「バトルモード入りかけてるし。俺ら三人のこと考えたら、とにかく目立たないようにするのが一番イイって言ったの確か千里だよな」
「………ゼッタイ忘れてる。あの顔ケンカすることしか考えてない」
「相馬って、本当に理論派なのか? どうもそうは見えないんだが」
ふっと、成一が遠い眼になった。
「……あいつ、嬉しそうだよなー…」
その言葉に千里を見やると、彼は嬉々とした笑顔を浮かべてぐるぐると肩を回したりしている。
三人はほぼ同時に溜息をついた。仕方がない、付き合ってやるか、と、眼だけでそう会話する。
「そういえばナンさんたちも今日から本格的に動き出すんだろ?」
三人の様子には気づかず、千里がそう声を投げてきた。慌てて表情を取り繕って万真は頷いた。
「うん、そう言ってた。弘くんも参戦するみたいだし」
成一が軽く笑って言った。
「いきなりばったり逢ったりしてな」
「それはないでしょ」
万真が苦笑してそう答えたその刹那。
空が赤く染まった。
直後、そう遠くないところから爆音が聞こえてくる。
近い。
熱風が肌をかすめる。
四人は顔をあわせ、勢いを増して熱風が吹き出してきた路地に眼を向けた。
紅蓮の炎が燃え広がる中、ひとりの男が立っていた。
炎の壁が割れ、生じた道から歩み出てきたその顔を見て、男はうっそりと笑う。傍らのナツやミネの背筋が寒くなるほど、それは獰猛な笑みだった。
「おんどれか。まだ生きとったとはな。とうの昔にくたばったと思うとったら、えらいしぶといやないか。ああ? ガク」
炎の朱が照らす中、ガクと呼ばれた男の口角が笑みの形に釣りあがった。
「それはこっちの科白だ。相変わらず口汚い男だな。だいたい、“ゲーム”のたびに東京に来るのはいいが、毎度毎度同じ道を通る癖をそろそろ直せよ。まあ、こちらとしては楽でいいがな、ヤス」
「ほざいとれボケが。通さん言うんやったら通るまでじゃ」
ガクの笑みがさらに怜悧なものとなる。
「…その程度の人数で? 今の赤龍は昔とは違う。以前の分もまとめてきっちり返させてもらうぞ」
「やってみい!」
ヤスが吠えた。
その刹那。
ガクの背後にそびえていた炎の壁が大きくうねり、そこから炎の縄が噴出した。それと同時に四方から無数の力の塊が五人めがけて飛来する。
轟音と共に、五人の姿は煙に包まれてかき消された。
目の前で起こっている出来事に、四人は声もなくただ見入った。
一方は、これは誰に聞かなくてもわかる、明らかに関西から来たと思われるチーム。対するもう一方は、万真は知らないが他の三人は忘れるはずもない、あの赤龍のリーダーである。
「……死んだ?」
かすれた声で万真が誰にともなく呟いた。それに対する返答はない。
固唾を飲んで見入っていると、ゆっくりと煙が晴れ、そして驚いたことに人影が現れた。立って、しかも動いている。
複数の影が身動きした。そのとたん、ガクが顔色を変え、声を投げた。
「まだだッ!」
刹那、地響きを立てて大地が揺れ動き、アスファルトに亀裂が走る。
平坦だった道路には瞬く間に複雑な隆起が生じ、うねり始める。
その余波は万真たちのところにもやってきた。普段体験することのない激しい揺れに立っていられなくなり、慌てて地面に伏せる。
それでも、眼は目の前で繰り広げられている戦闘から離すことができない。
地面に生じた隆起は巨大な石筍となり、鋭利な刃物となって関西勢を襲った。しかし、それが眼の前に迫る直前に、一人の青年が片手をかざす。
とたん巨大な石の刺はアイスクリームのようにどろどろと溶け出した。
「すご…」
知らず万真の口から呟きが漏れる。
今にも水になるかと思われたアスファルトから突然炎が噴出し、青年に絡みつく。しかし、瞬きする間に炎は小さくなり、やがて消えてしまった。
青年の優しげな面に剣呑な光が浮かび上がる。
「…丁重なもてなし、ありがたく受け取った。今度はこっちからいくで」
その言葉が終わるや否や、青年の背後から細身の少年が飛び出した。溶け残った石筍を足場に跳躍し、数度、指を鳴らす。
「いてまえッ」
小さな光球が生じ、それは眼にも止まらぬ速さでガクの足元に落ちたかと思うと、周囲を白く塗り替えるほどの閃光を発した。直後、周囲の建物を振るわせるほどの轟音が響き渡る。
衝撃波に、低い体勢をとっていた万真の体が浮き上がり、後方に弾かれる。とっさに日向が手を伸ばし、襟首を掴んで万真が吹き飛ばされるのを防いだ。残りのふたりは、地面にしがみついているのが精一杯で、とても万真の面倒を見る余裕はなかったのだ。
しかし安心するのもつかの間、再び少年の手から放たれた光が爆発する。
巻き上がった粉塵は万真たちをも包み込んだ。
埃を吸い込み咳き込まないために口と鼻を手で覆い、涙でにじんだ目を見張る。
ゆっくりと晴れてきた視界の中、ゆうらりと男の影が浮かび上がった。
ガクだ。
多少汚れてはいるものの、負傷した様子はない。
「……赤龍って、めちゃくちゃ強いじゃねえか」
呆然とした声で成一が囁いた。対する千里も、驚愕を顔に張り付かせたままかすかに頷く。
「もしかしたら、METHより強いんじゃないか?」
赤龍の人数がわからないだけに、なおさらその疑惑は強くなる。
それにしても、と四人はあらためて眼の前で常軌を逸した戦いを繰り広げている人々を眺めた。
赤龍もさるものながら、関西勢もとてつもなく強い。あれだけの猛攻をたった五人で全て防ぎきり、さらには攻撃まで仕掛けているのだ。
「……ああいう人たちと、戦うんだよね」
万真が呟く。
勝てるのだろうか。自分たちで。
鬼が二人もいて、コピー能力者もいて、才能だけはあるのかもしれないが、いかんせん経験不足は否めない。いかに人よりも優れた能力を持っていたとしても、それでも百戦錬磨のつわものに比べると、どうしても劣ってしまうのだ。
完全に埃が消え失せ、両者は再び対峙する。
「…やるやないか。少しはマシになったっちゅうことか」
「いつまでもやられっぱなしだと思うなよ。いいかげんおまえらもイイ歳だろう。ぐだぐだ叶いもしないことを夢見てないで、さっさと足洗えよ」
「その科白そっくりおまえに返したるァ。あいつら殺るんは俺らじゃ」
背筋を氷が滑り落ちるような、そんな寒気を誘う言葉にも、ガクは動じない。細めた瞳に危険な光を浮かべて口を開いた。
「毎回毎回そう言って結局失敗しているくせにえらそうな口叩くな。こっちにもつもり積もった借りがある。おまえらには譲らねえよ」
「誰も譲れ言うてへん。俺らが、奪い取る」
静かな、それでいて凄絶な声に、ガクは口元だけで笑った。氷のような笑みだった。
「…やってみろよ」
その言葉を合図に、両者に物凄い光の雨が降り注いだ。
眼を焼く光と激しい衝撃に、四人は両手を顔の高さにまで上げてガードする。
「…おい、やばいぞ」
緊迫した声で千里が囁いた。
すでに彼らの攻撃は、四人が潜んでいる路地の両脇のビルにまで及んでいる。このままここに居続ければ、巻き添えになることは必至。
眼だけで会話して、そろそろと後方へとすり足で歩き出す。
路地の向こうでは赤い炎がまるで蛇のようにうねっているのが見えた。
「この程度の攻撃で俺らが殺れる思うとんのか!? ヤキまわったなガク!」
「まだだ! 神竜は俺の獲物だ、他所もんは引っ込んでろ!」
聞き覚えのある単語が耳に入り、四人は思わず足を止めた。
今、神竜、と聞こえた。
万真を除く三人の脳裡に、以前ガクと交わした会話が蘇る。
そういえば、彼は異常なほど神竜に固執していた。
「神竜は俺の獲物や言うとるやろが! 後からでてきてえらそうにほざくなこんボケ! あいつらが復活した言うからには、この俺がきっちり引導渡してやらなあかんやろ!」
「どっちがえらそうなんだ! ケンカに後も先もない、力のある奴が神竜を倒す、それが全てだ!」
ただの口論、というのならまだかわいげがあっただろうが、しかし口の動きの倍以上の速度で眼にも止まらぬ攻撃が繰り広げられている。
逃げることも忘れて、四人は顔を見合わせた。
「……なんか、さあ」
複雑な表情で万真が口を開いたとき。
轟音と共に右手のビルが揺れた。慌てて顔を上げ、四人は顔色を変える。
頭上から、炎に包まれた瓦礫が降ってきたのだ。
反射的に身動きした成一と日向は、直後表情を引きつらせた。
力によるものではない。
従って、彼らには手も足もでないのだ。
「く…ッそ!」
行動を起こしたのは千里だった。
頭に、以前見たパルチザンの少年の力をイメージする。
おそらくあれは重力を操る能力。
ならば――。
「クッ」
落下速度が急速に遅くなった。燃え続けていた瓦礫は、ゆっくりと下降を続けていたが、やがて日向の頭上、頭二つ分ほど上でぴたりと制止した。
とたんに万真たち三人の口から安堵の息が漏れたが、一人千里だけは額から玉の汗を噴き出して仁王立ちしていた。
「…これ、きついぞ……!」
呟いたことで集中が途切れたのか、ぐん、と十センチほど下に沈み込む。日向が慌ててその場を飛び退き、それにつられるように他の二人も飛び退いた。
千里が作った重力場の中では、瓦礫は相変わらず燃え続けている。
千里はこの物体を扱いかねていた。困ったような視線に気づき、万真と成一は慌てる。
万真はばたばたと慌しく両腕を動かした挙句、口走った。
「あ、あー…捨てちゃえ!」
一瞬眼を見張った千里だが、名案だ、と頷いて気力を振り絞って両腕を振り上げる。
「日向」
「ああ」
言葉を受けて日向は両腕を掲げ、千里が作った力の波動をしっかりと絡めとったことを確認した後、大きく腕を動かした。
「お、おい!」
成一が狼狽して声を上げたが時遅く、日向は思いきり瓦礫の塊を放り投げていた。
炎上する瓦礫は、真っ直ぐに路地を飛び出して行き、まさに今現在激しい戦闘が繰り広げられている通りに激突した。
とたん。
それまで轟音が絶え間なく鳴り響いていた通りは、水を打ったように静まり返った。
「………」
万真たちの顔から音を立てて血の気が引いた。
ゆっくりと振り返って見た日向の顔からもまた、血の気が引いている。
恨みがましい三対の瞳に、日向は口の動きだけで「すまん」と謝ったが、それで許してはくれないということは、三人の表情からよくわかっていた。
奇妙に静まり返った通りに立つ男たちは、みな無言で突然現れた瓦礫を見つめていた。
炎に包まれた梁らしきものが、炭化して崩れ落ちる様を、瞬きもせず見つめていた。
ガクの、ヤスの、トキの――全員の眼が、路地に向けられる。
暗い路地からは物音こそしないが、それでも、どこか慌てたような人の気配は手に取るようにわかった。
逃げる気はないらしい。
そう見て取ったガクが固い声を投げた。
「――出て来い」
許しはしない。そう匂わせる声の響きに四人は身をすくめて顔を見合わせる。
逃げられない。
そう悟った。
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