キィ、と音を立ててブランコの鎖がきしんだ。勢いよくブランコを漕いで、最高点に達する一歩手前で成一は木の台を蹴った。
危なげなく着地し、足元を確認して悔しそうに顔をゆがめる。残念ながら日向の飛距離には及ばなかったらしい。雑言を吐き捨てた成一に日向が余裕の笑みを向け、そんな二人を見て万真が声を上げて笑った。
薄暗い水銀灯が放つ光の中に浮かびあがったそんな光景を眺めていた千里は、ふと手元の携帯電話に視線を落とした。異質な明かりを放つそこには数字が並んでいる。
千里の顔から表情が消えた。能面のような顔で画面を見つめた後、なにかを振り切るように固く目を瞑った。
目を閉じたまま、電源ボタンを押す。待ち受け画像に切り替わった。
カシャン、と鎖が音を立てた。成一の悔しそうな呻き声が聞こえた。
千里は顔を上げると、携帯を閉じてポケットにねじ込んだ。そして日向になにやら文句を言っている成一に声を投げかけた。
「一、へたくそ!」
「うるせぇっ!」
すかさず成一の怒声が飛んでくる。千里は声を上げて笑った。
「八つ当たりか? ばか」
「うるせえっての! ほらもう行くぞ!」
大声で言い捨て肩を怒らせて公園の出口へと向かった成一のあとを、笑いをかみ殺しながら万真が追う。そのあとに日向が続いた。
公園を出る間際、千里はふと足をとめた。携帯電話を取り出し、ディスプレイを眺める。ボタンを操作しようとして――指が、止まった。
「千?」
訝しげな声に「ん」とだけ声を返し、千里は携帯を閉じた。
緑色の光が闇を切り取った。明るく光るディスプレイを眺め、亮はため息をついた。あの反応を考えたら、こんなにすぐに電話がかかってくるはずはないのに、なぜかこうしてことあるごとに携帯電話を気にしてしまう。
パチン。
音を立てて携帯を閉じて、すぐにまた開く。無意識のうちにそれを繰り返していたらしい。「亮?」と衛に声をかけられて、慌てて携帯を閉じた。
「なに?」
振り向くと、衛は眉をひそめて自分を見ていた。
「お前、なにか隠してないか?」
亮は動揺を隠そうとして――失敗した。反射的に視線が泳ぐ。衛の表情が険しくなった。
「――亮?」
衛の様子に気づいたまどかが顔を上げ、亮を見やった。紗綾も不思議そうにこちらを眺めている。頭上で街を眺めていた慧が訝しげに二人を見下ろした。
亮は忙しなく携帯を尻ポケットにねじこむ。衛の視線がその動きに定まった。
「携帯がどうかしたか?」
「え、あ、別に」
「亮」
上から声が降ってきた。まっすぐに自分を見下ろす澄んだ瞳から眼をそらし、とたんまどかの猜疑に満ちた瞳にかち合う。
「…亮君?」
遠慮がちな紗綾の声がとどめになった。
「あーッ」
ヤケを起こしたように一声唸ると、その場にあぐらをかいて腕を組む。
「なんだよそんな眼で見るなよ!」
「見られたくなかったら隠してること吐けよ」
ひんやりと冷気すら感じさせる衛の声に、亮はわずかに顔をしかめるとふてくされたようにそっぽを向いた。
「言ったらお前怒る」
「………怒りたくなるようなことしたってのか?」
低い声は怒りの兆候。亮は首をすくめてちらりと衛を見やった。やっぱりだ。眼鏡の奥の目が細められている。
頭上からは冷たい視線。目の前からは鋭い視線。そして真横からは戸惑いと疑いに満ち満ちた視線を、それぞれ注がれる。
無言の行に、亮は程なくして降参した。
「あーっ、わかった、言う! 言います!」
よし、聞こうじゃないか、とばかりに座りなおした衛の傍らに、音もなく慧が舞い降りた。まっすぐに自分を見つめてくる瞳から眼をそらして、亮は口を開いた。
「…昼間、千里に会って」
衛の目が丸くなった。「え」とまどかと紗綾が声を漏らす。慧の眼がつと細くなった。
「…『会う』?」
「……あー。その、ヨビダシテ…」
言ったとたん、衛の眼が細くなった。組んだ腕をほどき、膝に乗せる。指が軽く膝を叩いた。
「………で?」
なにかをこらえているような声に危険を感じながらも、亮は言葉を続ける。
「あいつの両親のこととか、成一のお父さんのこととかを、かいつまんで」
「かいつまんで?」
衛の語調が強まった。
「…話しました。エサはでっかい方がいいかなーと思って」
衛は額を押さえている。慧はそんな衛を見下ろし、そして表情を変えずに亮を見やった。その無表情さに不安が膨らむ。
亮はともすれば消え入りそうになる声を励まして話し続けた。
「それで、俺の話を信じてもらうために、証拠として例の記録を一冊渡してきたんだ、け、ど…」
あぐらをかいた両足首を掴んで、上目遣いに衛を見やった。
「勝手にしろ、って、お前言ったよな」
昨日吐き捨てられた衛自身の言葉を言ってやると、参謀閣下は大きなため息をついた。
「言った。確かに言った。だけどなぁ…」
額を押さえて首を振る。そして顔を上げた衛は、なぜか泣き出しそうな表情をしていた。
「なあ亮。訊いていいか?」
あまり見ることのない衛の心底情けない表情に、亮は腰を引きながらも頷いた。
衛は長く息を吐き出し、言った。
「お前さ、ケイソツって言葉知ってる? タンリョって言葉知ってる? その対義語言ってみろよそしてその頭に叩き込めあーもーっ」
言ってから、唐突に顔を両手で覆って後ろに背中から倒れこんだ。驚く亮たちの前で低くうめく。
「俺もういやだ。もう知らね。俺の今までの苦労一体なんだよ。伊織さんに怒鳴り込まれたって俺知らねーから。相馬さんがぶちきれても俺もう関与しねえから。成一のことまで持ち出しやがって。女傑を怒らせてもお前がなんとか対処しろよ父親に頼るなよ」
言って、寝転んだまま四人に背を向ける。まどかがぽかんと口を開けて「衛が壊れた…」と呟いた。
「千里に殴られても成一にどつかれても万真に泣かれても知らねえからな。全部お前が責任取れよ」
「取るよ。覚悟の上だって言っただろ」
衛は答えない。慧が衛の背を蹴った。
「拗ねるな」
「どこをどう見たら俺が拗ねてるように見えるんだ」
ぐるりと首だけまわしてねめつけられても、慧は表情を変えない。ひょいと肩をすくめて、「自分もフライングしたくせに」とぼそりと言い差した。
とたんに衛は口を閉ざし、再び彼らに背を向けた。
自分を拒絶しているようなその背中に、亮はさきほどに比べて幾分か力のない声を投げた。
「…怒ってる?」
衛はしばらくの間沈黙していたが、やがて諦めたように息を吐き出すとごろりと仰向けになった。
「もう怒ってねえ」
まだ心なしか尖ったその口調にまどかが眉根を寄せた。亮の顔に安堵の笑みが広がった。
「よかった」
「やっちまったものはしかたねえし」
間髪入れず落とされた冷たい声にたちまち笑みが凍る。大の字になり、夜空を見つめたまま、衛は言った。
「もう止めねえよ。止めたってお前はきかねえってことはよくわかった。好きにやれよ」
一端崩した姿勢をあらためて、亮は衛を注視した。残る三人も固唾を飲んで仲間を見つめる。
「俺は口出ししない。そのかわりに手もかさねえ」
きっぱりとした言葉に亮は息を呑んだ。慧が問いかけるように衛を見下ろす。
「これだけは約束しろ。あいつらを――人を傷つけることだけは、するな」
亮は眼を見張ったあと、しっかりと頷いた。
「わかった」
衛はただただ黒く塗りつぶされた天を凝視していたが、その返答を聞いて固く目を瞑った。
「…暇だ」
ぽつり、と、成一が呟いた。「王国」にきてから二時間、どのチームにも、ナンたちにすらも出会わない。ふらふらと歩き回った結果なにも得られなかった彼らは、再び元の公園に戻ってきていた。
木のベンチに寝そべり、万真は頭上を見上げた。いくつかの星が瞬いている。
「千ー。あの星なにー?」
少し西に傾いた白っぽい星を指してそう問うたのだが、返事がない。
「千?」
首をもたげて片割れを見やると、彼はただじっと目の前を見つめていた。うつむいているため、髪が目元を隠している。
胸がざわめいた。
「…千?」
再び声をかけると、千里の意識が自分に向いた。「なに?」といつもと変わらない調子で聞き返される。
万真はなんとか笑みを作った。喉元にこみ上げてきた塊を飲み下して、天上をあおぎ、頭上を指差す。
「あの星。なに?」
千里も夜空を仰いだ。
「ああ。今日は結構星が見えるな」
珍しく星がきれいに見える。きれいといってもこの都会ではたかが知れているのだが。
「で、どれ」
説明しながら、万真は全身で千里の様子をうかがっていた。いつもと違う。
違和感は昼間からずっと感じていた。千里が一人でジムに行ったと知ったあのときから。
わからない。千里がなにを思っているのか、わからない。
ひたひたと、闇が忍び寄ってくる。
心に広がる空洞に、闇が広がる。
いつの間にか千里の顔を凝視していた万真は、「聞いてるか?」と問われて慌てて頷いた。
千里は困ったように首の後ろを撫でた。
「でも、あんまり聞かれてもな…俺星のことよく知らないし」
「あれ、そうだっけ」
そうだよ、と若干気分を害したような口調で言ってから、千里は笑った。いつもとかわらない、いやいつもよりも穏やかな笑顔に安堵した万真だったが、目の前の黒い瞳の中に異質な光をみとめて息を呑んだ。
「…千?」
千里の瞳に映る自分はとても不安そうな表情をしている。
千里が瞬きをすると、一瞬で普段の彼に戻った。
穏やかに笑って「なに?」と問う。
万真は思わず千里の腕を掴んだ。
「なにかあった?」
驚いたように眼を丸くし、千里はしばし万真を凝視した。凍りついた表情が瞬く間に解けて微苦笑に変わる。
「別に、なにもないよ」
直感的に、嘘だと思った。
本当になんでもないのなら、なんでそんなに思いつめた表情をしていたのか。なんでこんなに自分にはばかるような態度をとるのか。
問い詰めようとしたときには既に千里は眼を伏せて、会話を終了させてしまっていた。
さりげない拒絶。千里が自分を閉ざしてしまったことを感じ取り、万真は顔をゆがめた。
わからない。千里がなにを抱えているのか、さっぱりわからない。
「千」
呼びかけると、千里は万真に応える。笑顔を浮かべる。それでいて、態度で、万真から疑問をぶつけられることを拒んでいるのがわかった。
泣き出しそうにゆがんだ万真の表情を見て千里の眉が下がった。揺らいだ瞳を固く閉ざして、短く息を吐き出す。
再び万真を見たそこには困ったような笑みが広がっていた。
「ごめん、カズ。本当になんでもないから」
言って大きな手で万真の頭をなだめるように撫でる。伝わる熱に千里の気遣いを感じて、万真は否応もなく胸に広がる不安をなんとか押さえようとした。
千里の手が離れ、熱が遠ざかる。万真は不安を閉じ込めるようにぎゅうと目を瞑った。
そんな万真を見やって千里の表情が厳しくなった。
「千里?」
声をかけられて千里は顔を上げる。成一が気がかりそうな表情で自分を見つめていた。
「どうした」
なんでもない、と返すと、成一は心配そうに万真をうかがい、そしてもう一度千里を見た。
「本当に? 調子悪そうだけど」
そう言った成一を、万真はすがるように見つめた。自分の様子に不審を覚えたのだろう、日向が問いかけるように見てきたのがわかったが、どうしようもなかった。膨らむ不安を押し殺すほどの余裕がなかった。
万真の顔を見て軽く眉をひそめてから、成一は軽く首を傾げる。
「千里、お前無理してんじゃないか? 休めるときにちゃんと休めよ。もうすぐ学校始まるし、それに――」
成一は続く言葉を飲み込んで、日向をはばかるように千里を見た。
成一が言おうとした言葉の内容に思い至り、千里は苦笑し万真は顔を伏せた。
「ちゃんと休んでるよ」
「嘘言え。休んでる顔かそれが」
「どんな顔だよ」
言って千里は笑ったが、成一がにこりともしないで自分を見つめていることに気づいて笑みを収めた。決まり悪そうに頭をかく。
「本当に休んでるんだけどな」
「じゃあ休息が足りてないんだろ」
きっぱりと断言されて千里は困惑したように成一を見た。成一は千里の様子に眉を寄せてから、ため息をついて頭をかいた。
「お前、本当に変。自覚ないんならもう帰れ。帰って風呂入って横になれ」
「一」
「黙れ」
さすがに千里は口をつぐんだ。怒ったような成一の顔を見て、長く息を吐き出す。
そして言った。
「…わかった。帰るよ」
成一の肩から力が抜けた。
表情をゆるめて千里の頭を軽く叩く。
「なあ。なにか心配事とかあるんだったら俺に言えよ。抱え込むなよ」
「――なにもないよ。多分ちょっと疲れてるんだ」
千里は笑った。
その笑顔を見て、成一は複雑そうな表情をしたあと、ややあって「そうか」と呟いた。
――俺にもわからねえ。
成一ならば千里の様子がおかしい理由を知っているのではと、問い掛けてそして返ってきた答えを思い出し、万真は胸のうちでため息をついた。
わからないと、そう言った成一の苦しげな表情が頭から離れない。
両腕を頭上に投げ出して、万真はぼんやりと天井を見つめる。
太陽が玉座に返り咲いてもう二時間は経っていて、部屋の中の温度は上昇の一途を辿っている。カーテンを通して入ってきた光が淡く部屋の中を照らし出していた。
シャツで首元をぬぐい、寝返りをうつ。
暑い。
ちっとも睡魔が訪れない理由を暑さのせいにして、万真は枕を抱えた。
結局あの公園での会話のあと、すぐに解散した。成一はとても心配して、何度も千里に声をかけていたが、やがて諦めたように家に帰っていった。
帰り際に「なにかあったらすぐに連絡しろよ」と万真に耳打ちして。
伊織の家に帰った千里は万真の部屋ではなくロフトで寝ることを選んだ。
家に帰った時間を考えるとありえないことではないのだが、それでも万真は千里に避けられているような気がしてならない。
昨夜、ずっとなにか考え込んでいた千里。
千里は何事もないようにふるまってはいたけれど、ふと見れば一人宙を見つめていたその姿に気づかないはずがない。
普段の彼なら、なにか気にかかることがあったら自分か成一に相談していた。一人抱え込んでしまうことなどめったになかった。
なにかあったことは確実だ。
どれだけ千里が隠そうとしてもそれだけはわかる。なにもなかったら千里はあんな風には自分を閉ざさない。
問題は、なぜ万真にも成一にも一言も相談しないかだ。
自分たちには言えないようなことなのだろうか。
「…っ」
汗が目に入った。
シャツの袖で眼をこすり、ベッドの上に起き上がる。
暑い。
扇風機のスイッチを入れようと手を伸ばした時、床がきしむかすかな音が聞こえた。
ドアの向こう。階段に向かっている。
――千里。
万真に気遣っているのだろうかすかな音は、やがて階下へと消えていった。
知らず詰めていた息を吐き出し、万真は力なくベッドの上に倒れこんだ。
千里がなにを抱え込んでいるのかは知らないが、こんな気の遣われ方はいやだった。なにかあったのなら相談してほしい。心配事があるのなら吐き出してほしい。
ため息がこぼれた。
階下からかすかな音が聞こえてくる。
万真は跳ね起きて窓に駆け寄った。カーテンを開け、見下ろすと、千里がでてきたところだった。軽く足をのばしている。
やがて身体をほぐし終えた千里は静かに走り出した。いつもよりもペースが速い。
千里が角を曲がって見えなくなっても、万真はその場から離れられないでいた。
千里が帰ってきたのはそれから一時間後だった。
キッチンにいた葉介は、玄関が開く音にぬれた手をぬぐってそちらを見やった。
「千里? 走ってきたのかい?」
言いながら、近づいてくる甥を見て目を見開く。黒いシャツは汗で色がかわっていた。
額に張り付く髪をかきあげて、千里は言葉少なに頷いた。顔から首から汗でびっしょり濡れている。
「シャワーは」
「浴びる」
言って、葉介を見ずに浴室へと消えていった。それを見送って、葉介は万真の姿がないことに気づいた。
どうやらまだ寝ているらしい。
珍しいこともあるものだな、と料理の下ごしらえを続けていると、再び足音が聞こえて千里が顔を出した。
乱暴に髪を拭きながら冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。
「万真は?」
「…寝てるんじゃないの?」
その言い方に葉介は違和感を覚えた。
「千里?」
紙パックから直接牛乳を飲んで、千里は指で口元をぬぐう。
「なに?」
問い掛けてきた声からは先ほど感じた違和感はきれいになくなっていて、葉介は戸惑った。なんと声をかけようか迷っている隙に千里はキッチンを出て行ってしまう。
あとを追った葉介は、髪を整えて洗面所を出てきた千里と鉢合わせした。
「千里」
玄関に向かおうとした甥の肩を掴み、振り向かせる。
「だから、なに?」
苛立ちを含んだ声に慌てて手を離した。
「出かけるの?」
微かな頷きが返ってくる。
「ごはんは」
「食べた」
直感的に「嘘だ」と思った。キッチンに食事をとった形跡はなかった。しかし、追求するよりも早く千里に背を向けられてしまう。
「どこに?」
とだけ声を投げると、
「ジム」
とそっけない返事が返ってきた。
音を立てて閉まったドアを途方に暮れて眺めていると、背後からかすかな足音が聞こえた。
振り返ると、階段から万真がこちらを見下ろしていた。
「葉ちゃん…」
聞こえた声は不安げで、葉介は万真に向き直った。気のせいか、顔色が悪い。
「千、どこに」
声にははっきりとわかるほど不安がにじんでいた。
「万真? どうか」
「千は?」
「ジムに行くって――万真!」
ふら、とよろけた万真の身体を慌てて支えて、顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
うん、と、小さな声が返ってきた。
「ジムに行くって、言ったの?」
「そうだけど…」
葉介は姪を見下ろした。先ほどから感じていた違和感がますます強くなっている。
「ケンカでもした?」
まさかと思って尋ねると、万真は力なく首を振った。
「ううん。ケンカはしてないよ」
そう言って、玄関を眺める。
そして、万真はひっそりとため息をついた。
「万真?」
一瞬葉介を見つめて、そして万真は力なく笑った。
「ちょっと、寝るね。なんか調子悪くって」
そう言って背を向けて階段を上がっていく姪の背中を葉介は心配そうにじっと見つめていたが、やがて万真の姿が見えなくなると、そっと息を吐き出した。
もうすぐ弘行が来る時間だ。
後で少し訊いてみよう。
裂帛の気合とともにミットが大きく弾かれた。
床が鳴る。
鈍い音とともに揺れるサンドバッグ。怒声に近い掛け声がフロアに響く。
トレーニングにいそしむ青年たちの様子を、千里は一人眺めていた。
フロアの隅にうずくまり、なにをするでもなく膝を抱えて青年たちの動きを眼で追う。彼らの踏み込みに合わせて伝わってくる振動を感じながら。
身じろぎもせずにそうしていた千里は、ふと思い出したように携帯電話を取り出し、眺めた。
パチン、と音を立てて開く。
伊織の家から一回、成一の携帯から2回着信があった。万真からの着信はない。
成一から着たメールを開かずにぼんやりと眺める。
用件は、なんとなく想像がついた。やはり自分の態度は変だったのだろう。
隠しているつもりでも、態度にでてしまっていたのかもしれない。昨夜――いや、今朝か――の成一の表情は少し変だった。万真の態度も。
違う。
変なのは、自分のほうだ。
携帯を見つめる。
興味があったら連絡しろと、あいつは言った。
興味がないはずがない。
両親の名前を、成一の父親の名前を出されて、興味を持たないはずがない。
携帯を閉じて、また開く。
どうしたらいいのか、わからない。
両親の名前は自分には重すぎて、扱いきれない。
相談したくても、成一には話せなかった。あいつがどういうつもりで成一の父親の名前を出したのかはわからない。だけど、まだ、その名前は成一の中ではタブーだ。だから、成一には言えない。
成一に話せない以上、万真にも話すことはできない。万真は顔に出すぎるから。
弘行の顔が浮かんだが、すぐに打ち消した。
彼は関係ない。
葉介――ダメだ。この人を巻き込んではいけない。
ため息がこぼれた。
押し付けられたノートには、両親の名前が出てきた。一条と名乗った少年の話から考えると、記録者は彼の父親だろうか。
あの「世界」での、詳細な活動記録。そこに自分の両親の名前が出てきた時の動揺はいまだに尾を引いている。
それに、両親の能力。
能力について詳しく触れられている箇所はなかった。だが、断片的にでてきた描写。
無意識のうちに千里は頭を抱えていた。
渡されたノートはごく一部だと言っていた。
(…どうすればいい)
いきなり投げ出された問題は、千里の手には余った。だけど相談できる相手がいない。自分で片をつけなければならない。
――どうすればいい。
知るべきだ、と頭のどこかで声がする。
逃げないと、誓った。
日向を家に呼んだときに、前に進むことを決意した。
狭い世界に閉じこもっていることに満足していないで、前に出ろ、と。踏み出せ、と、自分に命じた。
だけど、いきなり与えられた課題は、あまりにも難解すぎた。
「――なあ」
不意に降ってきた声に千里は顔を上げた。いつの間に現れたのか、目の前に少年が一人しゃがみこんでいる。
丸い眼が興味深げに千里を覗き込んでいた。
「今日は一人?」
見知った顔だった。ここの総師範の息子。
知らない仲ではないが気を許した相手でもないので、千里は無言で視線をはずした。
相手は気を悪くした様子もなく、頓着なく声を投げてくる。
「朝からずっとそこにいるけど、調子悪い? 他の二人は?」
応えず、立てた膝を引き寄せる。少年はさらに首を傾げた。
「もう四時だけど、昼飯食ってないだろ。上行ってなんか食うか?」
煩わしかったが、心配されているらしいことはわかった。
「いい。腹減ってない」
「あ、そ」
少年はおどけたようにくるりと眼を回して見せた。
と、「康太ぁ」と呼ばれて少年は背後を振り返った。
「へーい!」
大声を返して、身軽に立ち上がる。
去ろうとして立ち止まり、少年は言った。
「上の冷蔵庫にスポーツドリンク入ってるから、飲みなよ。さっきから見てたけど、千里君水分全然とってねえだろ」
再び呼ばれて、少年は不承不承千里に背を向けた。
首だけ向けて「ちゃんと水分取れよ」と言い捨てて、走り去る。
細いその背中をしばし眺めてから、千里はことんと背後の壁に頭を預けた。
それからどのくらい時間が経っただろうか。
目の前の光景を眺めながら、ずっと考えていた。
どう行動することが一番いいのかを、ずっと考え続けていた。
そしてようやく考えがまとまったと思った時。
ふ、と落ちた影に顔を上げようとしたとたん、額に冷たいものが乗った。
「千里君」
同時に降ってきた声に目を上げると、先ほどの少年が怒ったような顔をして立っていた。
「飲めって言ったのに!」
額から冷気が去り、代わりに手にペットボトルを押し付けられる。額がしっとり濡れていた。
「ああ……ありがとう」
ペットボトルはよく冷えていて、傾けると喉を詰めたい液体が滑り落ちる。
三分の一ほど飲み干すと、少年は安心したように笑った。
「千里君最近こねえからしらねえだろうけど、昨日もぶっ倒れた奴いたんだ」
それで神経質に「水飲め」を繰り返していたのだろうか。
ふと周囲を見回せば、先ほどとは顔ぶれが変わっていた。時計を見ると五時を回っている。随分長い間ここでぼんやりしていたようだ。
少年が口うるさく話し掛けてきた理由がわかった気がした。
タオルで汗を拭いて、少年は千里の前に座り込む。そして片手に持ったペットボトルの中身を勢いよく飲んだ。口をぬぐい、千里を見て言う。
「今日は他の二人こねえの?」
周囲に頓着しない少年の様子に笑みを浮かべようとしていた千里の表情が凍った。
ゆっくりとドリンクを飲み干して、口を開いた。
「ああ」
少年は気づかずに汗で濡れた髪を拭いている。
「ふーん。珍しいね」
千里は少年を見、それから背後のフロアの様子を眺めてから、再び少年に視線を戻した。
「俺が一人でいるの、変か?」
少年は首を傾げた。
「変っていうか、見慣れないから、珍しいなーとは思うけど。やっぱり三人でいるイメージが強いし」
うん、と頷いて、少年は続けた。
「ケンカしたのかなーとか、なにかあったのかなーとか、思うかな、やっぱり。ケンカしたの?」
好奇心に溢れた少年の言葉に千里はちらりと笑った。
「まさか」
だよなぁ、と少年も笑った。
タオルを肩にかけて立ち上がる。
新たにフロアに入ってきた同年代の少年たちに足を向けようとして、彼はふと立ち止まった。振り向いて、軽く笑う。
「千里君、ちょっと顔色よくなった」
言って、少年は千里に完全に背を向けた。
友人と合流した少年を見てから、千里は天井を仰ぐ。高い天井で煌々と輝くライトを見つめてから、軽く目を瞑った。
心は静かだ。
傍らに投げ出した携帯を手に取る。
既に記憶してしまった番号を押し、コール音を聞く。
ふと、万真の顔が目の前に浮かんだ。
今にも泣き出しそうなその顔に、胸が痛んだ。
(…ごめん、カズ)
心の中の万真に呟く。
と、無機質な音が途切れ、警戒したような声が聞こえてきた。
「――パルチザンの亮?」
耳元で息を呑む音が聞こえた。
「…俺だ。詳しい話が聞きたい」
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