NIGHT GAME 三章十五話 NightmareU![]()
鼻先を小さなシャボン玉がかすめた。
指先に力を込めて、機械的に手を動かす。手元は白い泡に隠れて見えない。指先の感覚だけを頼りに頭皮を洗う。
定休日。店内には人気がなく、閑散としている。ガラスを覆うスクリーンの隙間から差し込む午後の陽光が、床や壁を焼いていた。
手を動かしながらも、成一は頭ではまったく別のことを考えていた。
昨日のあの電話から千里と一度も連絡が取れない。
こんなに千里のことがわからないと思ったのは初めてだった。
時々突っ走った行動をとることはあっても、事前に必ず理由を説明してきた。ここまで説明も弁明もなにもないなんてことは今までなかった。
わけがわからない。
「……ち」
わけがわからない。
千里にとって自分は一体なんなのか。
なにを考えているのか知らないが、相談ぐらいしてくれても――。
「成一!」
突然思考に割り込んだ怒鳴り声に一瞬頭が真っ白になった。
瞬きすると、まっすぐに自分を見上げてくる瞳と眼があった。
端正な顔も頭が泡に包まれていると魅力は半減…などとのんきなことを考えている間にくっきりとした眼が険しくなる。
「なに考えてんの」
姉が頭を預けている洗面台から泡が溢れそうになっていた。慌ててシャワーを出す。たっぷりとした髪を丁寧に荒い流して、リンスを手にとる。
「ごめん」
「あんた仕事舐めてんの?」
「舐めてなんか」
もう一度シャワーをあててから、長い髪をまとめてタオルで包む。足で椅子のリクライニングを操作していると、静香は椅子の背が元に戻るのを待たず立ち上がった。
「ごめん」
言ったとたん肘で思い切り頭を殴られた。
久しぶりの、本気の肘打ち。
「…ってぇな」
「なに言ってんだこの石頭。こっちが痛かったっつーの」
言いながらもさらに肘でこめかみを狙ってくる。
「ちょっ、まっ」
慌ててガードしようと手を上げたとたん、ぐい、と肩を押された。え、と思ったときには足を払われていて、受身をとる間もなく頭から床に倒れこんだ。
ガツンと後頭部に衝撃がきて、目の前に星が散った。
「い…ッてぇ…ぉわっ!」
涙でにじんだ目をあけると視界に飛び込んできたのは髪を振り乱して肘を打ち下ろす姉の姿。慌てて身体を反転させると、次の瞬間成一のちょうどみぞおちがあった箇所に肘が落ちてきた。
鈍い音が響いた。
さすがに痛かったのだろうか、肘を押さえて「チッ」と舌打ちしている。
「いきなりなにすんだこのババ…」
言い終わらないうちに手のひらが飛んできた。ガードしようと立てた腕を掴まれ、強く引かれた。
予想外のことにバランスが崩れる。
よろけたとたん、首に細い指が絡みついた。しっかり頚動脈を押さえている。
「誰がババアだって?」
「…美容師やめて全女に入れよ」
静香がにっこりと微笑んだ。見慣れた笑顔に警戒したが間に合わず、みぞおちに容赦ないパンチを食らった。
「ガフ…ッ」
腹を押さえて身体を折った弟を見下ろし、静香は冷たい声を出した。
「練習台になってくれって言うから身体を開けておいてやったのに、なによ。全然身が入ってないしずっと考え込んで。千里と万真はどうしたの? 悩み事があるならジムにでも行って暴れて来い」
たたきつけるようにそう言うと、姉はさっと身を翻して店を出て行った。ドアが閉まる間際「掃除忘れずにやっとけよ」という捨てゼリフを残して。
音を立てて閉じたドアを見つめて、成一は溜息を落とした。斜陽の差し込む店の中、それはやけに空虚に響いた。
店の置時計が六時を知らせた。
低い音が鳴り終わるのを待って、弘行は店に顔を出す。ちょうどカウンターに戻ってきた葉介が、弘行を見てふと眉を下げた。
「万真は?」
弘行は無言で肩をすくめて見せた。それを見て葉介は小さく息を落とした。
朝から一度も万真の姿を見ていない。声も聞いていない。ただひたすら部屋に閉じこもったきりだ。
「…夕食だけでも食べさせよう。いいかげん何かお腹に入れさせないと」
「水分補給もね」
店内には静かなざわめきとそれとは意識しない音量の音楽が満ちている。客が落ち着いているのを見て取って、葉介は弘行と入れ替わりにキッチンに入った。
二十分ほどして葉介に呼ばれた弘行がキッチンに顔を出すと、二人分のトレイが用意されていた。パスタとサラダが彩りよく配置されている。
ひとつは万真の分として、もうひとつは?
疑問が表情に出ていたのだろう、弘行を見て葉介はおっとりと微笑んだ。
「君も休むといい」
普段万真の見ていないところでこき使われている身としては、滅多にないお言葉だ。思わず口笛を吹きまじまじと葉介を見やった。
「珍しいっスね。なにか企んでるんじゃないでしょうね」
とたん、葉介の顔に浮かんだ表情をみて、弘行は反射的に数歩後ろに下がった。
「マ、マスター…?」
「相変わらずそういうところだけは妙に聡いというか。とりあえずこれを食べて? 話はそれから」
葉介の笑みが、怖い。やけに怖い。
「それ食べたらもう戻れないところに行っちゃうような気がするんスけどーっ?」
「うんむしろ行っちゃって?」
小首なんか傾げて、若作りの店長はそんなことを言う。
「ヨースケさん、キャラが違う」
「大丈夫、違わない」
いや絶対違ってる。キャラが完璧に変わってる。
無意味に首を振る弘行の肩に手をおいて、葉介はつと眼を細めた。
「これから三食プラスおやつもつけるから」
「…から…?」
にっこり笑顔を浮かべながらも眼はちっとも笑っていないことに弘行は気づいてしまった。冷房はいやというほど効いているのに汗がふきだしてくる。
「万真からそれとなくなにがどうなっているのか聞き出して」
「ムリ!」
「大丈夫弘行ならできる」
「根拠は!?」
「あと、できれば万真のことをそれとなく見守って欲しいんだ」
「だから根拠は――って」
弘行は言葉を切ると、肩から葉介の手を強引にはずした。力を込めて手を押し戻す。
「見守るってーのは、昼間だけ?」
「まさか」
女性客が揃って溜息をつきそうな笑顔を浮かべて葉介はそう言いきった。笑いながらも手には力がこめられ、弘行の力をものともせずぎりぎりと押し返してくる。
「思いっきり時間外労働なんですけど」
「ボーナス弾むよ」
「俺の睡眠時間と勉強時間は」
「昼寝もつけるし、なんなら部屋を空けよう」
「それもしかして住み込めってことスか?」
冗談のつもりで言った言葉に相手は思いがけず真面目な表情になった。
「それもありだね」
(ちょっと待て――ッ!)
「よよよよーすけさん…?」
背中を嫌な汗が流れ落ちるのを感じながら必死に笑みを保ち続ける。ここで呑まれたら負けだ。
「真面目な話」
葉介が手の力を抜いた。恐る恐る手を離して、若干距離をとる。葉介の真面目な顔は昔から苦手だった。その顔から笑みが消える瞬間が、一番怖い。
「弘行、うまく隠しているけれど、今の生活結構ギリギリでしょう」
名前を呼ばれて反射的に身構えた。笑みがない。その上呼び捨て。
「君のことだからまだ大丈夫なんてたかをくくっているんだろうけど、そのクマはいただけない」
やんわりと指摘されてとっさに目の下を手で覆った。
「…目立つ?」
「かなりね。寝てないんだろう?」
断定的に言われては否定できるはずがなく、ただまっすぐ見据えてくる視線から逃れるように眼をそらす。
「おまけに痩せた」
――マジかよ、と心の中で呟いて、顔を覆った。そんなことまでばれているとは。
と、いきなり頭が重くなった。手を置かれたのだ。グ、と押されるままに頭を垂れる。
「バイトがきついなら時間を減らすよ」
「それは困る!」
顔を上げられないながらもなんとかそう訴えると、だろうね、と溜息まじりに返された。
バイトを減らされたら生活できない。
「『あちら』に行くのも」
「あー、今はちょっと」
やめられない。
そう告げると無言で溜息を落とされた。
「それで寝食削って勉強かい? 馬鹿だろ」
さらりと落とされた言葉はかなり心臓にきた。他でもない葉介に「馬鹿」と言われるのはかなり堪える。
「そ、その馬鹿にさらに難題押し付けようとしてるのは誰だよ」
「俺だ」
(――うわぁ)
息を飲み、そして弘行は心の中で涙した。
(『俺』とか言っちゃってるよこの人ー!)
いやー『葉ちゃん』帰ってきてー、との弘行の心の叫びは当然本人には届かない。さらに強く頭を押される。
「こんなことを頼めるのはお前しかいないんだ」
「うっわぁ殺し文句」
言ったとたん頭を強く押された。痛い。
「あのヨースケさん。今首の筋が変な風に」
「だから頼む」
無視かよオイ。
首が痛い。ついでに頭も痛い。
「あんたさっき俺のカラダの心配してたでしょうが」
「悪いけど万真の問題のほうが優先度は上」
「まーそうでしょーけどね」
言った声は自分でも驚くほど拗ねていて、そんな自分に少し慌てた。万真に張り合うつもりなど毛頭ないのに。
さらに悪いのが自分の心情が葉介に確実に知られてしまったことだ。声を発した直後、頭にかかる圧力が一瞬ゆるんだ。確かにゆるんだ。
「お前も心配だよ。このままじゃ夢をかなえるどころじゃないだろう」
「……痛いところをぐさぐさと」
少しは手加減してください。確かに今のままでは夢のまた夢かもしれないけれど。それでも。
「まずは少しでも安定した生活パターンを作らないと」
「あー、早く『あっち』から手を引けって?」
「それもあるけど」
ぐい、と頭を引き寄せられた。また首が少し変な風に引っ張られた気がする。もう好きにしてください。
「もうふらふらしてられる歳じゃないんだから、早く定職に着きなさい」
あ、と思った。
『葉ちゃん』だ。
声は穏やかに耳を滑り落ちていく。その心地よさに引きずられないように、おどけた声を出した。
「いやそういうわけにもいかなくて。まあ何事も経験?」
言ったとたん頭を叩かれた。容赦がない。
「そこでふざけない。本気なら、家においで。格安で部屋と食事を提供するから」
驚いて目をしばたたいた。
「ヨースケさん。まさか、本気?」
「冗談だと思った? うちなら今よりは環境がよくなるだろうし、勉強もしやすいと思うけど」
「いや、ていうか。だって、万真は?」
本気で自分を住み込ませるつもりなのだろうか、この人は。万真がいるのに。
見やったそこには穏やかな光を宿した瞳があって、当惑した。
「大丈夫だろう。弘行には今までの積み重ねがあるし。万真の方も、弘行にはかなり慣れてるから」
葉介の言葉に驚きながらも、犬猫レベルだな、と頭の片隅で思う。言うに事欠いて「慣れる」とはなんだ。でもこと万真に関しては、その言葉が一番しっくり来る気がするところがもうなんだかな。
複雑な気持で口を閉ざした弘行の頭を叩いて、葉介は言った。
「兄代わりの身としては、お前に夢をかなえて欲しいと思ってる。弘行の自立心の強さは良く知ってるけど、そのぐらいの援助はさせてくれてもいいんじゃないか?」
でも、と言いかけた弘行を、葉介は穏やかに遮った。
「お前は弟みたいなものだから。だから、いつでも頼ってくれていい。むしろ甘えなさい」
――とっさに言葉が出なかった。胸が熱くなる。
「もうガキじゃないし、そんな歳でもない。つかそれ命令?」
「そう、命令。あんなところに出入りしている時点でまだオトナじゃないよ」
またまた痛いところをつく。確かにその通りだけれども。
と、また頭を叩かれた。
「まあ、ゆっくり考えなさい。夏が終わるまでには答えを出してくれればいいから」
「うん……ってあと三日しかないんですけど」
「そういうことで、万真をよろしく」
思考が停止した。
ゆるゆると顔を上げると、敵は既に微笑を顔に貼り付けていて。
「いつ俺が了承しました?」
「この状況は君も居心地悪いだろう?」
「そりゃそうですけど――あッ」
慌てて口を抑えたときにはもう遅く、葉介の笑みはさらに大きくなっていた。
ポン、と肩に手を置かれて。
「よろしく」
なんて笑顔で言われた日には断るなんてことができるわけがなく。
壁に手をついて項垂れていると、背中に声がかけられた。
「僕が聞いたんじゃ、たぶん万真は警戒してしまって口を閉ざしてしまうから。弘行君ぐらいの距離がちょうどいいと思うんだ」
「うまく聞き出せるかはわかりませんよー」
投げやりに言うと「期待してるよ」というなんとも無責任な言葉が返ってきた。肩に疲労がどっかりと乗っかった気がする。
仕方なくトレイを取り上げた。くだらないやり取りで思わぬ時間を食ってしまった。せっかくのパスタがのびてしまったかもしれない。店に戻ろうとしている葉介を横目で睨んで、声を投げた。
「ボーナス弾んでくださいね」
「期待していいよ。ついでに部屋も掃除しておくから」
敷居につまづきそうになった。トレイの上の皿がかすかに音を立てる。
「あ、あのねえ!」
「未来の弁護士に恩を売っておくのも悪くないね」
ドアが閉まる間際に聞こえたそのセリフに、その場にうずくまりたくなった。
わざとか無意識にかしらないが、プレッシャーをがんがんかけてくださる。今恩を売ったのはむしろ俺だと声を大にして言いたい。言えやしないが。
結局葉介に丸め込まれてしまった。
こんな調子で夢をかなえられるのだろうか。甚だ不安だ。
葉介には首根っこをしっかり抑えられているようなものなので、どうしても頭が上がらない。別に上げたいとも思わないので、現状を厭うわけではないが、こうも簡単に丸め込まれてしまうと少し情けなくなってくる。
階段を上りきり、ローテーブルにトレイを置く。夕方六時半。外はまだ明るい。洗濯物は既に取り込まれていて、バルコニーでは外に出された観葉植物が気持よさそうに風に葉を揺らしていた。
万真が部屋から出た形跡はない。
テーブルの上に置かれたリモコンを取り上げ、テレビをつける。チャンネルを変えてニュースを選ぶと、テレビはそのままに万真の部屋へと足を向けた。
ドアをノックする。
「カズ坊」
呼びかけてみる。
もう一度ノックする。
しばらく待ってみたが返事はない。
もう一度声をかけてから、ノブに手をかけた。予想していた抵抗はなく、ノブが回る。
開いたドアから遠慮がちに部屋を見渡して、そして眼を見張った。
部屋は無人だった。
「カズ坊?」
下ろされたままのブラインド。ベッドの足元に丸められたタオルケット。清潔そうな白いシーツがわずかに乱れている。
いつの間に起きたのだろう。そしていつ部屋を出たのか。
焦って部屋を出る。葉介に知らせないと。
階段に足を向けて、ふとその脇のはしごが目に止まった。
しばらくそれを見つめてから、ロフトを眺める。
まさか、と思いつつ、はしごに手をかけた。
短いはしごはほんの数歩で上り終えた。ロフトをのぞき、そこにある顔を見て思わず溜息をつく。
万真が、そこにいた。
千里の布団で、千里のタオルケットに包まって、千里の枕を抱きしめて、眠っている。
暑かったのだろう、汗で髪がひたいに張り付いていた。眉間には皺がよっている。
「カズ坊」
そっと声をかけたが、万真は小さく唸っただけだった。目覚める気配はない。
「カズ坊」
「うー……」
ごろん、と、背を向けられる。
ロフトの床に肘をついて、呼んでみた。
「カズ」
一瞬の間をおいて、万真の背中が跳ね上がった。
その勢いのまま天井にしたたかに頭を打ち付ける。止める間もなかった。
「あちゃ…」
頭を押さえて悶絶しながらも、それでも万真は振り向いた。
真ん丸に見開かれていた眼が弘行の顔を見たとたん固まり、次の瞬間失望に曇った。
悲しげに眉を寄せるなりうつむかれて、弘行は慌てて手を振り回した。
「あー、ごめん! 悪かった!」
万真は応えない。ただ膝を引き寄せて、身体を丸くする。何かから自分を守るかのように。
「メシもって来たから、食おうや」
ふるふると、力なく頭が揺れる。
「昨日から全然食べてないだろ? 体がもたないぞ」
「……………いい」
ぽつり、と、かすかな声が聞こえた。
「え?」
「いらない。欲しくない」
小さな小さな声。聞きとりにくかったが、表情から弘行は言葉の内容を察した。察したとたん、ピシ、と頭のどこかが音を立てた。
勢いよく右手をロフトに振り下ろす。バン、と大きな音がした。
「ハイ、背筋を伸ばす!」
びく、と万真が顔を上げた。反射的に背筋が伸び、同時に頭が天井をかすめてまた背中を丸める。
「そしてそこから出る! 日光に当たれ!」
万真の目がバルコニーにむけられた。
「…もう夕方」
「いいから出て来い!」
怒鳴るように言うと、万真は眼を丸くして弘行を見つめていたが、やがてのろのろと動き出した。
万真がソファに座ったことを確認して、飲み物を取りに階下に向かう。暖めなおしたスープと水の入ったグラスをもって二階に戻ると、万真は弘行が去ったときとまったく同じ姿勢で座っていた。ぼんやりと前を見つめている瞳はうつろで、その顔には表情がない。
いつも、見ていて気持がいいくらいにくるくると良く変わる明るい表情を思い出し、弘行はそっと息を吐き出した。
葉介でなくても、成一でなくても、こんな万真を見ているのは辛い。
音を立てないように歩み寄り、トレイの横に静かにスープの器を置いた。続いて水を置き、自分の分も同じように置いてから、万真をうかがう。
「暑くないか?」
ずっと無人だったためか、クーラーは切られていた。窓は開けてあるものの、熱気がこもっている。じっとりと汗ばんできたので、弘行は手首まで覆っていた袖を捲り上げた。
「クーラーつけるか?」
その問いかけに、ようやくかすかな反応があった。小さく首を振り、万真はポツリと「…寒い」と呟く。
弘行は眉をひそめた。
今日は比較的暑い。室内でも「暑い」と感じこそすれ「寒い」とは。
万真の様子を危ぶみながら、手を合わせる。「いただきます」と声に出して言うと、触発されたのか、万真もゆっくりと手を合わせた。
今日のメニューはパスタと野菜サラダ、そしてスープ。パスタはトマトと鷹の爪の冷製パスタ。スープはコンソメだ。
大盛りの自分の皿にくらべて、万真の皿は弘行の眼にはひどくささやかなものに見えた。
万真はしばらくパスタを見つめていたが、やがて意を決したようにフォークを取り上げた。それを認めて、弘行もようやく食事をはじめる。
パスタは鷹の爪が良く効いていた。
万真は、と見ると、相変わらずぼんやりとした動作でフォークにパスタを巻いている。だがそれは口に運ばれることはなく、皿の上でくるくると回っているだけだ。
む、と眉を寄せて指摘しようとしたときだ。
万真のフォークがかすかに震えていることに気がついた。皿にあたり、カチカチ、と、かすかな、本当にかすかな音を立てている。
パスタを弄っているのではない。うまくフォークが操れないのだ。
何度もパスタを巻きつけようとしているが、うまくいかないらしく、フォークはつるつると皿の上をすべっている。
それを見て取ると、弘行はフォークを置いた。意識して柔らかい声を出す。
「スープ、冷めないうちに飲めよ」
フォークが止まった。パスタとスープを見比べて、万真はフォークを置いた。スープのカップを手に取る。暖を取るように両手で包んで、そっと口につけた。飲むというよりも、ただ口をつけているだけ。
無意識のうちに眉間に力が入っていた。
軽く瞑目してから、弘行は食事を再開した。パスタを豪快に口に放り込む。味なんかもうわからなかった。わかるのは鷹の爪の刺激だけ。
胸にわきおこる感情をぶつけるように、無言でひたすら食べ続ける。大盛りのパスタは見る間に減っていった。
と、スープをすする音が耳に届いた。少しは食欲が出てきたのだろうか。
そうであって欲しい、と思いながら万真を伺う。
少女は、やはりぼんやりと前を見つめたまま、ゆっくりとカップを傾けていた。
複雑な心境のまま、トマトにフォークを突き刺した。どこから仕入れてきているのかしらないが、この店で扱う野菜はどれも瑞々しい。そこらのスーパーではお目にかかれないような完熟トマトを口に放り込む。やっぱり味はわからなかった。もったいない。
「……っ」
かすかな声がした。顔を上げると、万真はまだカップを両手に抱えている。少し、視線が動いていた。
「火傷?」
スープが熱すぎたか、と思い、尋ねると、万真はゆるゆると首を振った。
「…平気」
さっきまでの囁くような声に比べて、少しだけ声が大きくなっていた。
「そ」
軽く相槌を打って、食事を再開しようとした。
「日向」
唐突に落とされた単語にフォークが止まった。万真を見て、首を傾げる。万真はどこか遠くを見つめていた。
「…熱いの、苦手なんだ」
ヒュウガ アツイノ ニガテ
単語を漢字に変換して、さらにその意味を考える。
「ああ。何、あいつ猫舌?」
こっくりと頷かれた。
(似合わね)
件の少年の顔を思い浮かべてそう思ったが、だからどうした。
万真は静かにスープをすすると、カップを置いた。フォークを手にとる。スープで手が暖められたためか、先程よりもスムーズにフォークが動いた。少しだけパスタをとって、口に運ぶ。
咀嚼し、飲む込む。
「……からい」
「辛いの好きだろ」
そっけなく言いながらも、弘行はほっと胸をなでおろしていた。食べた。
万真は今度はサラダのトマトに取り掛かっていた。少しずつかじるように食べている。お世辞にもおいしそうな食べ方ではない。
「…一、トマト、キライなんだ」
「へえ。うまいのに」
言ってから、「うまいか?」と聞いた。
万真はことりと首を倒して考える素振りを見せたが、答えなかった。どうやら味を楽しむ心境ではないらしい。当然といえば当然だ。弘行ですらそうなのだから。
万真が少しずつ食べ始めたときには弘行は食事を終えようとしていた。水を飲みながら「コーヒーでも入れようか」と考えていると、万真の声が聞こえた。
「……千が」
聞き逃しようがない名前に、身体が勝手に反応する。気のない素振りで、だがしっかりと耳と頭を働かせながら、弘行は「ん」と声を出した。
「千が、どっかいっちゃう」
万真の手は止まっていた。うつろな眼差しで、少女は続ける。
「どっかいっちゃう」
色のない万真の顔を見て姿勢を戻した弘行は、少し考えてから静かに口を開いた。
「どこかって、どこ?」
「わかんない」
首を振る。力なく。
「わかんない」
そう言って、万真は口を閉ざした。その様子に弘行はひそかに危機感を抱いた。確かに、これでは葉介が弘行に目付けをさせようとするのも理解できる。
「…千里とケンカした?」
無言で否定。
ケンカではない。ではなんだ。
「千里が、カズ坊から去ろうとしてるって?」
瞳が揺れた。両腕で自分の身体を抱きしめる。かすかに体が揺れはじめた。
「…去る?」
――やっちまった。
たぶん自分の言葉は万真の核心に近いところを突いたのだろう。さらに不安定になった万真の様子に内心舌を打った。まずい。自分の手には余る。
空になったグラスを手の中で転がして、万真を眇めるようにして見た。身体を小さく前後に動かしている。
庵に来て数年経つが、こんな万真を見るのは初めてだった。
「…置いていかれるような気がして不安?」
「…おいて? おいていかれる」
小さく口の中で繰り返す。瞳が揺れる。
「――…千は頭がいいから、先のことまで考えてるの。あたしは」
続きを口にするまで、若干間があった。
「あたしは、そんなこと考えないから。考えられないから。いつも千にひっぱってもらってきたの。千がひっぱってくれたの」
うん、と弘行は柔らかい声を出した。万真は身体を揺らす。
「でもいっちゃう。千がいっちゃう。ひとりでいっちゃう」
うつろな瞳は乾いていたが、弘行はそこに溢れる涙を見たように思った。
「カズ坊は、怖いんだな。置いていかれるのが怖いんだ」
こわい、と、少女は呟いた。口からこぼれたその言葉に、ゆるゆると万真の表情がほどける。瞳が揺らぐ。泣き出しそうなのに、でもその瞳はまだ乾いたままだ。
「置いていかれるのがいやなら、追いかければいいじゃん」
万真の動きが止まった。驚いたように目を見開いて、弘行を見上げる。今日はじめて眼があった。今日はじめてみた、表情のある瞳。
「追いかければ? つかまえて言ってやればいい。一緒に歩きたいって」
万真はぽかんと弘行を見ていたが、やがてくしゃっと表情をゆがませた。
「言ってもいいのかな」
「なんで」
「あたしがいつまでもぐずぐずしてるから、いやになったんじゃないのかな」
「千里が? それはない」
自信を持って断言する。
「追いかけてもいいのかな」
「いいだろ。とっつかまえてついでに一発殴って来い」
万真はしばらく考え込むように宙を見つめていたが、やがて「うん」と頷いた。
「追いかける」
そうか、と頷いて、弘行はほとんど手がつけられていないトレイを指で示した。
「そうと決めたらまず体力つけないとな。今夜も行くんだろ?」
「うん」
意を決したようにフォークをとった万真の手にはもう震えはない。体の揺れも収まっている。
万真がゆっくりとパスタを口に運び始めたのを確認してから、弘行はそっとソファの背に身体を預けた。
空になったトレイをもってキッチンに戻ると、物音を聞きつけたのかすぐに葉介が顔を出した。
「どうだった?」
いつになく忙しなく尋ねてくる。
「どうにもこうにも」
弘行は答えて、大きく息を吐き出した。
瞳に光が戻ったのはほんのひと時だけで、パスタを半分ほど食べ終えたときにはもうもとのうつろな瞳に戻ってしまっていた。
「なんとか全部食わせましたけど……いやぁもう」
シンクに置き、水を出す。葉介の視線を痛いほど感じながら、スポンジに手を伸ばした。
「重症っスね。2階、じっとしてるだけで汗噴きだしてくるほど暑いのに、カズ坊、「寒い」なんて言いやがる」
真っ青だった顔は、食事を終えても色を取り戻すことはなかった。
「事情は良くわかりません。ただ、ひどく怯えてるみたいでした」
「なにに」
いつもより低い声。おそらくその顔に普段の笑みはない。皿を洗う手元を見ながら、弘行は口を開いた。
「千里が自分から離れていってしまうって。そう言って、震えてた」
しばらくの沈黙ののち、溜息が聞こえた。顔を向けると、葉介は片手で顔を覆ってうつむいていた。
「……光明を見出したと、思ったんだけどなあ」
「え?」
葉介はポツリと呟いたきり口を閉ざし、再び溜息をついた。弘行を見て訪ねる。
「それで、今万真は?」
「あ、部屋に――」
言いかけたときだった。
ぱたぱたと廊下を横切る足音が聞こえた。そしてすぐに玄関のドアが閉まる音がした。
しばらくドアを見つめていた弘行は、ややあって我に返ると頭をかいた。
「あー…行っちゃいましたね」
どこへ、なんて、考えるまでもない。
三度目の溜息が聞こえた。
「…弘行」
「はいはい」
静かな声に溜息まじりに頷いて、エプロンをはずした。
「ボーナスはずんでくださいね」