NIGHT GAME 三章十六話 NightmareV
 不意に周囲が明るくなった。
 驚いて顔を上げると、ドアにもたれた少年がこちらを見つめていた。
「もう七時だぞ」
 窓の外を見やるともう薄暗い。読みふけっていたノートを閉じて脇に積んだ。これで12冊目だ。
 今日一日で何年分読み進んだのだろう。
「結構はまるよ」
 そう事前に少年が言ったとおり、読み始めたら止まらなくなった。
 最初は名前で書かれていた登場人物がすぐにイニシャルで表記されてしまったため、人物関係を把握するのに手間取ったが、それでもかなりのことがわかった。
 両親のこととか、成一の父親のこととか、彼らがしていたこととか。
 両親をそれなりに理想化していたから、現実の姿を見せ付けられてギャップに悩んだりもしたが。
(カズには絶対に教えられないな)
 自分以上に両親を理想化してしまっているから。
「夕飯は? 食べてくか?」
「いい」
 遠慮がちな誘いをあっさり断って立ち上がる。部屋を出ようとすると、すかさず行く手を阻まれた。
「帰るのか?」
 帰るさ。
 無言のまますり抜ける。追って来る声を無視して家を出た。
 嫌味なほど広い庭。駆け寄ってきたゴールデンレトリバーをかわして、まっすぐ門を出る。犬はちゃんと繋いでおけ。
 宵闇が迫りくる。
 影に包まれつつある周囲から天へと目を向けて、嘆息した。
 万真の声が聞きたい。
 成一と馬鹿なことを言い合いたい。
 葉介のご飯が食べたい。
 一日しか経ってないのに、彼らが懐かしかった。




 ぽつん、と、手の甲に冷たいものが落ちた。ぽつん、ぽつん、はかない音を立てて髪に肩に鼻梁に落ちるもの。
 手の甲にある水滴を不思議そうに眺め、鼻の頭に触って指先についたしずくを見つめる。
(………みず?)
 ぽつん、ぽつん。
 かすかな感触。
 ゆるゆると顔を上げ、空を見上げる。夕焼けに黄金色に染まっていた空は、いつの間にか濃い灰色に塗り込められていた。視界の片隅にともった街灯がまぶしい。
 水滴は空から尽きることなく落ちてくる。
 顔に落ちるそれがなにか、万真はようやく認識した。
 雨だ。
 夕立には遅い時刻。激しく降るわけではなく、ただぽつぽつととめどなく落ちてくる雨粒を、万真はぼんやりと見上げていた。
 街灯の光の中、銀線がかすかにきらめいている。
 ああ、と、万真はひそやかに慨嘆した。
 低く、重たげに垂れ込める雲の影は、自分の心に巣食っているものとよく似ている。
 影に覆われたこの心の大半を占めているのは千里だ。だから、彼がいないだけでこんなにも心もとなくなる。なにも手につかなくなる。
 もともと少ないキャパシティがさらにさらに少なくなる。
 頬にひたいに受ける雨粒が心を冷やしていく。
 すぐ近くにある街灯が、なぜか遠く感じられた。
 周囲にあるのは影。
 世界と万真を切り離すもの。切り離し、そして護るもの。
 千里がいない。
 それだけでこんなにも世界が遠くなる。
 弘行がともした光は、既に消えかけていた。闇が忍び寄る。
 世界が遠ざかる。
「――万真!!」
 突然耳元で大声がした。わずかに遅れて肩が揺れた。
 パチン、と、目の前でなにかがはじけたような、そんな感覚とともに視界が晴れる。
「万真!!」
 再び名を呼ばれて、肩を揺さぶられた。
 ゆっくりと顔を上げ、そこに成一の顔を見て目を見開いた。
「…いち」
 いつの間に来たのだろう。
 そしてなぜそんなに必死な表情をしているのか。
 不思議に思ってなおも呼びかけてくる成一を見つめ、首を傾げる。
「一?」
 成一の名を呼ぶと、彼はほっとしたように息を吐き出した。肩を掴んでいた手を離し、その場にしゃがみこむ。そして長い溜息をついた。
「――よかった」
 成一の声が少しだけ遠く聞こえた。
 しゃがみこみ、うつむいたまま髪をかき回す。その姿に薄い霞がかかっていく。
 こちらを見上げて、成一が口を開く。
「ケータイ、いくらかけても出ないから、なにかあったのかと思った」
 ケータイ。
 ジーンズのポケットに手をやって、あるべきはずのものがないことに気づいた。
 ああ。家に置いてきたんだ。
 でもいい。どうせ千里から電話はかかってこない。メールもこないだろう。
 成一がなにか言っている。
 でも声が遠い。よく聞こえない。
 ああ…。
 万真は静かに吐息を落とした。
 成一までもが遠くなる。
 なにもかもが幕の向こうにあるようで、遠く感じる。あらゆるものから隔絶されてしまっているかのようだ。
 肩が揺れた。成一が触れたのだ。
 少しだけ肩が熱を帯びる。幕が薄くなったのを感じる。
 成一がなにか話し掛けているのがわかる。
 言葉はわからないけれど、とても優しいトーンだ。
 ほんのりと心に灯がともる。闇が少しだけ遠くなる。
 大丈夫。
 一人じゃない。
 一がいる。
 だから、大丈夫。
 そっと、成一の手に自分の手を重ねてみた。
 あたたかい。
 そのぬくもりが自分と外の世界とを繋ぐ糸のように思えて、万真はそっと成一の手を握り締めた。


 重ねられた万真の手にかすかに力が入ったように感じた。
 相変わらず表情はうつろだが、少しだけ頬に赤みがさしたような気がする。だがそれも、薄暗い照明の下では定かではない。自分の希望が見せた幻かもしれない。
 自分の気持ちで手いっぱいで、万真のことに気づいてやれなかった。
 まさかここまで自分を追い込んでしまうなんて思っていなかった。
 ベンチの上の万真は、きゅ、と身体を丸めて外界を拒絶してしまっている。そんな姿はもう久しく見ていなかった。
 成一すらも、拒絶しようとしている。
 万真を護る透明な殻が眼に見えるようだった。
「万真」
 万真の手を握り締める。ぴくり、と指が動いた。ゆるゆると指に力がこめられる。
 万真の手を両手で包み込んで、成一はもう一度呼びかけた。
「万真」
「………うん」
 大丈夫。自分の声は届いてる。成一に破れない殻じゃない。
 肩に手をまわすと、硬直していたからだから力が抜けていくのを感じた。
「寝てるか?」
「…うん」
「メシ食ってるか?」
「…うん」
「嘘つき万真」
「嘘じゃない」
 ちゃんと食べた。
 かすかな力のない声で、それでもちゃんと受け答えしてくる。大丈夫。万真はまだ大丈夫だ。
 肩を抱く手に力を入れた時、日向の姿が見えた。公園に駆け込み、成一たちを見て足を止める。
 日向は一瞬ためらうような様子を見せたあと、まっすぐこちらへ向かってきた。
 眉間の皺を見て成一は内心苦笑する。またごちゃごちゃ考えているのだろう。
 万真の肩を二三度叩いてから、手を離した。日向を少し離れたところに引っ張っていく。
「昨日はすまん。変なところ見せた」
「あ……いや」
 日向は一瞬奇妙な表情になったあと、なにかをこらえるように眉を寄せ、そして低く言った。
「気にするな」
 短く言ったあとその視線が背後に流れたのを見て、成一もそちらに眼を向けた。ベンチの上で膝を抱え、小さくなっている少女。華奢な肩がさらに小さく見えた。
 問いかけるようにまっすぐ見下ろしてくる日向の眼から顔をそらし、かわりにその肩を叩いた。
「昨日よりは浮上した。俺もあいつもな」
 もう大丈夫、と言えないのが辛いところだ。日向はまた軽く眉を寄せて、「そうか」と呟く。
 思い返してみると、昨日の自分はかなり壊れていた。パニックになったのなんか久しぶりで、自分がどういう状況にあるのかすら理解できていなかった。
 静香に喝を入れられたおかげで若干冷静になれたが、それでもまだ千里の行動に動揺している。
 だが、少しでも冷静になったからこそ、考えられることがある。
「頼みがある」
 万真に聞こえないように声をひそめると、日向はなぜか驚いたように眼を見張った。それからまた眉をひそめた。
「なんだ」
「万真のこと、頼む」
 無言で理由を問うてくる瞳をまっすぐに見返す。
「俺ちょっとあっちに行ってくる」
「独りでか?」
 咎めるような響き。声に含まれた非難に気づいて、成一はそっと背後に視線を走らせた。
「千里はきっと万真のことを気にしてる。だから、そんなに遠くにはいない。万真や、俺の動きがすぐにわかる場所にいるはずだ」
 少なくとも、成一たちがいつも利用しているこの公園か、「世界」へのドア付近が見える場所にいるだろう。
 それがわかったら、とるべき行動は決まっている。
「一発ぶん殴ってそれから考えてること全部吐かせてやる」
 パシ、と右手のこぶしを左のてのひらに叩きつける。
 日向がまた奇妙な表情を浮かべた。なにか言いたげに口を開き、それから思い直したようにうつむく。
 その様子に少しだけ違和感を覚えたが、すぐにこれからとるべき自分の行動へと思考が移った。
「万真のこと、任せたからな」
 言い放って、万真の元へと歩み寄る。膝の上で硬く握られた小さな手に自分の手を重ねて、万真の顔を覗き込んだ。
「万真」
 ゆるゆると、万真の頭が持ち上げられた。うつろな瞳を見つめて、伝える。
「万真。俺、今から千里を探しに行ってくる。絶対に見つけてくるから、万真はここで待ってて」
 万真の瞳がかすかに揺れた。手がさらに強く握り締められたのを感じて、優しく両手で包み込んだ。
「大丈夫。絶対見つけるから。だからここで待ってて。な?」
 ギュ、と手を強く握ってから、万真の手を離した。優しく頭をなでる。
 それから日向を見た。
 日向はどことなく憮然とした表情で自分を見ていた。
「行ってくる」
 それだけ言って、万真に背を向けた。
 正直万真のそばを離れることには不安があった。だが日向がいる。
 日向なら、万真が最悪の状態に陥ることだけは阻止できるだろう。
 公園を出る直前、振り向くと、ベンチに丸まった万真に日向が歩み寄る姿が見えた。
 それを最後に、成一は完全に彼らに背を向けて駆け出した。
 大丈夫。日向がいる。
 だから、俺は自分のやるべきことをやればいい。
 目の前で街灯の光を受けてかすかに揺らいでいる膜。
 この向こうに千里がいる。
 確信を抱きながら、成一は勢いよく膜に飛び込んだ。



 熱が離れていった。
 成一が遠くなる。
 足元の地盤が急激に脆くなったように感じた。
 足元が崩れていく。
 光が遠くなる。
 闇が忍び寄ってくる。
 寒気を感じて、万真はさらに身を縮めた。
 寒い。
 暗い。
 怖い。
 光が消える。
 真っ暗になる。
 闇に、飲み込まれる。
 怖い。
 光がない。
 誰もいない。

 ――ひとりきり

 突然胸のあたりに不快感がこみ上げてきた。
 無意識のうちに口元を抑える。
 気持悪い。
 頭がぐらぐらする。
「――り! 伊織!」
 誰かの声が聞こえた。
 執拗にくり返されるその声がだんだん大きくなる。
「伊織!」
 耳元で音が弾けた。
 不快感が喉元までせりあがる。
「伊織!」
 突然背中に熱が降りてきた。ぽつん、と、小さく灯る柔らかな光が見えたような気がした。
 その瞬間気がゆるんでしまったのだろう。
 こみ上げてきたものを抑えられなかった。身体を二つに折った圧迫感と、のどの焼け付く痛みに咳き込む。
「吐いちまえ」
 低い声が耳に届いた。熱が背中を移動する。上に。下に。
 酸がのどを焼く。その痛みと苦しさに涙が出た。
「う、え」
「我慢するな」
 するりと心にしみこんでくる声。視界が晴れてくる。幕が、消える。
 咳をした。のどが痛い。気持悪い。
「――我慢するな」
 ぐらぐら揺れる頭でも、それが誰の声なのかわかった。
「ひゅう、が」
 大きな手が背中を撫でる。あたたかい、熱。
 瞬きすると、涙がぽろりと零れ落ちた。
 のどの痛み。すえた匂い。
 自分がしたことを、ようやく悟る。
「日向」
 情けなくなった。なにをやっているのか。
「ごめん」
 葉介が作ってくれたご飯。弘行が食べさせてくれたのに。せっかく作ってくれたのに。心配してくれたのに。
 自分が情けない。
「ごめん」
 心配かけてごめん。
 迷惑かけてごめん。
「馬鹿、謝るな」
 強い口調で遮られる。それなのに背中を撫でる手はあたたかく、優しい。
 世界がにじんだ。街灯の光が淡くぼやける。
「ごめん」
 背中を撫でる手が一瞬止まった。熱が離れたかと思うと、無理やり頭を撫でられる。
「だから、謝るな」
 うん。頷いたあと、もう一度「ごめん」と呟くと、さらに強く撫でられた。
 ぱた、ぱた、とかすかな音を立てて膝に落ちるものはきっと雨だ。
「落ち着いたか?」
 問われて、かすかに頷く。
「そうか」という声とともに熱が離れた。傍らの人物が身動きしたのを感じて、思わず振り向く。
 日向が立ち上がろうとしていた。
「どこいくの」
 こぼれた声は耳を疑うほどか細くて、振り返った日向がギョッとしたように眼を見張った。よほどひどい顔をしているのだろう。
「どこいくの」
 固まっていた日向の顔がほどけていった。困ったように眉を下げて、万真の頭に手を乗せる。
「飲み物買いにいってくるだけだ。すぐ戻る」
 日向が去ってしまう。
 そのことだけが頭を支配する。
「…日向も、行っちゃうの?」
 日向が軽く眉を寄せた。考えるように下を見て、それからまた万真を見る。
 いきなり髪をくしゃくしゃかきまぜられた。
「3分で戻る。心配なら数えてろ。3分以内に戻らなかったら、遅れた分だけ今度ゲーセンで人形とってやる」
 戻る。
「戻って、くる?」
「3分な」
 日向が数歩後ろに下がった。
「数えてろよ」
 言い残して公園を駆け出していく。
 日向がいなくなった公園で、万真はしばらくぽかんと公園の入り口を見つめていたが、やがて両手を見下ろした。
 それから必然的に視線はさらにその下へ行く。
 ……やってしまった。
 日向はきっとあきれただろう。
 吐しゃ物には固形が残っていて、夕食がほとんど消化されていないことを知る。
 弘行の顔が頭に浮かんだ。
 普段、あんな行動をとる人ではない。きっと葉介になにか言われてきたのだろう。
 心配させた。今もきっと心配している。
 二人になにも声をかけずに家を出てきてしまったことにちくりと胸が痛んだ。
 顔をあげると、街灯の光が目に入った。暗いはずの光がやけにまぶしく感じる。
 雨はいつの間にか上がってしまっていたようだった。雲の切れ間から真っ暗な空が見える。星は見えない。
 風が吹く。胸に灯った光が揺らぐ。
 日向は帰ってこない。
「……3分」
 もうとっくに過ぎているのではないだろうか。
 風が吹いた。木々のざわめきが耳に届く。不安を誘うその響きに胸が波立った。
 闇が忍び寄る。
 灯りが揺らぐ。
 指先の熱が引いていくのを感じた。手に力が入らない。
 膝に置かれた自分の指が小刻みに震えているのを、他人事のようにぼんやりと見下ろした。
 足元から這い上がる冷気。街灯の光が見えなくなった。
 日向。
 帰ってこない。
 ――独りになる。
「――ッ」
 ぞくりと背筋を冷気が這い降りた。
 その時。
「伊織」
 低い声が耳に滑り込む。顔をあげるとそこには日向が立っていた。軽く息を切らし、汗をぬぐってこちらを見ている。
「悪ィ、遅くなった」
 まっすぐな瞳。
 日向の顔を見たとたん、すとんと肩の力が抜けた。
 ――かえってきた。
 と、突然日向の顔が強張った。
「お、おい!」
 視線が泳ぐ。握りしめられたペットボトルが上下した。忙しく開閉されて、それなのに声が発せられない日向の口をぼんやり眺めていた万真は、ふと口の端に落ちてきたものに気を引かれた。
 指の背で触れてみる。ぬれている。
 舌で舐めとるとほんの少ししょっぱい味がした。
「あ…」
 頬がぬれていた。
「あれ?」
 日向の姿がぼやける。頬をこすった指先についた水滴を見て、万真は初めて自分が泣いていることに気づいた。


 街灯が瞬いた。
 街灯に引き寄せられ踊る蛾から、力なくうつむいている少女に目をうつす。軽くなったペットボトルを握りしめ、ただ足元を見つめるその瞳に先ほどまでの影がないことを見とって肩の力を抜いた。
 少し落ち着いたように見える。
 なんと声をかけていいものかわからず、ただその姿を眺めていると、万真の方から口火を切った。
「ごめん」
 率直な言葉にうろたえる。
「いや。もう大丈夫なのか?」
 身体についてのセリフだったのだが、万真は別のとらえ方をしたらしい。
「…わかんない」
 小さな声に、まだ心は揺れているのだということがわかった。あんなに取り乱した万真は初めてで、零れ落ちる涙を思い出して日向はそっと少女から視線をはずした。
「でも、さっきよりはずっと元気になった」
「――そうか」
 その言葉を信じたい。
 確かに口調はしっかりしてきたが、まだ顔色は青かった。
 ここで嘘でも「大丈夫」といわないところが万真らしいとちらりと思う。
 風が吹いた。今年は残暑が厳しく、夜でも風は生暖かい。
「…ごめん。びっくりしたよね」
 静かな声からは、昨日の成一のような焦燥も、先ほどのような混乱も感じられない。言葉を選びながら、日向は口を開いた。
「…こういうことは初めてなのか?」
 曖昧な表現になってしまった。意図しているところがきちんと伝わっただろうかと見ていると、少女がゆっくりと顔をあげた。そのまま日向を見ることもなく、目の前の空間に視線を定める。
「こういうことって、さっきのこと? それとも」
 そこで一度言葉を切り、万真は顎を引いた。
「――千のこと?」
 少し考えて、日向は「両方」と答えた。
 万真の言う「さっきのこと」がどこまでを指しているのかわからないが、日向が席をはずそうとしたときの万真の様子が気にかかっていた。
 日向が見つめる先で、万真は少しだけ笑ったように見えた。どこか寂しげな、空虚な笑みが口の端に浮かんでいる。
「吐くのは、時々。あんまり胃は強くないんだ。一とは違って」
「ストレスか?」
 口が勝手に動いていた。慌てて口を閉じたときには遅く、万真の顔がゆっくりとこちらを向く。その口元は皮肉げにゆがんでいた。
「日向結構遠慮ないね」
「…悪ィ」
 謝ると、万真の目元がふと和らいだように見えた。細い足が揺れる。
「いいよ。ストレス…と言えば、ストレスなんだろうけど」
 またうつむいて、揺れる自分の足を見つめるその口元には薄い笑み。
「あたしのキャパ、すごく少ないんだ」
 唐突過ぎて言われたことがイマイチ理解ができなかった。
「キャパ?」
「キャパシティ」
 ああ…と呟いた。なんのことかと思った。
「頭の?」
「怒るよ」
 キッと睨みつけられる。
(…結構元気じゃねぇか)
 万真はまた足元に視線を落とした。足はもう止まっている。
「頭も別にそんなに良くないけど」
「それは俺に対する挑戦か」
 お前の頭が悪かったら俺はどうなる。
「違うから。…容量少ないから、受け入れられることも少なくて。だから、なにかあると、すぐパニックになっちゃう」
 その独白は、とても痛々しく日向の胸に響いた。こぶしを握りしめる。万真の横顔を食い入るように見つめて、日向は言った。
「受け入れられることっていうか…ひとじゃないのか? 受け入れられないのは」
 言ったとたん、胸に重い固まりが落ち込んだ。
 万真の横顔がゆがむ。
「…きついね、日向」
 両手でペットボトルを握りしめたまま、万真は口を閉ざした。うつむくその瞳になにが映っているのか、日向に知るすべはない。
 万真の手の中で、ペットボトルが小さく音を立てた。
「……もうわかってると思うけど、あんまり他人と関わるの、得意じゃない」
「…ああ」
 知ってる。わかってる。
 成一の話がなくても、あれだけ壁を作られて、気づかないほうがおかしい。
 硬質な音がした。ペットボトルのゆがむ音。
「でも。でも、人と関わることが嫌いなわけじゃない」
 パキ、パキ、と、音を立てて変形していくペットボトル。万真は顔を上げない。うつむいて、ただ地面を見つめている。
「クラスの女の子がうらやましかったときもあったよ。友達が欲しいって、思ったこともあった」
 ひときわ大きな音がした。
「でも、だめなんだ。怖いんだ。受け入れて、去っていかれたらどうしようって」
 万真の手元から滴り落ちる水に気づいて日向は腰を浮かした。
「またあんな思いをするぐらいなら、人と関わらないほうがいいから」
「伊織」
 日向は強引に万真の手をとった。ペットボトルを持つ指は硬く強張っていた。
 ゆっくり指を開かせ、割れたペットボトルを取り上げた。
 万真の手の震えを感じて、眉を寄せる。
 最初に聞かされた成一の話を思い出す。万真が抱える心の闇が垣間見えたような気がした。
「少し切れたな」
 うっすらと赤く線がにじみだした手のひらを見てそう呟くと、く、と息を飲む音が聞こえた。
「…千まで」
 押し殺した声だった。触れたままになっていた万真の両手に力が入った。きゅ、と握り返されて日向は戸惑う。
「え?」
「千まで、いなくなったら」
 しゃがみこみ、自然と万真を仰ぎ見ていた日向は、目にしたものに反射的に肩を強張らせた。
「こんなこと、初めてで…っ。今まで、千が、なにも言ってくれないことなんてなくて」
 手に温かいものが降りそそぐ。握りしめてくる万真の指に力が入った。
「一人でどっか行っちゃうなんてことなくて」
 声が震えていた。さっきまでの落ち着いた声とは程遠い。小さな嗚咽が漏れた。
「千まで、いなくなったら」
 後はもう言葉にならなかった。はらはらと涙をこぼす万真を見て、日向は弱りきって天を仰いだ。両手はがっちりホールドされてしまっている。
 最後にあったときの千里の顔を思い出す。
 誰だ、大丈夫だとかぬかしたのは。
 万真の状態を本当にわかっていてあんな行動をとったのかと、今すぐ千里を怒鳴りつけたい気持をかみ殺して、声もなく泣いている少女を見た。
「伊織」
 返事はない。だが、そのかわり、手を握る力が少し強くなった。
「相馬がお前を置いていくなんてことは絶対にないから」
「そんな、わかんな…」
 小さな手を強く握り返す。
「絶対ない」
 繰り返すと、嗚咽が少しだけ小さくなったような気がした。
「相馬、一週間で終わらせるって言ってた」
とたん、万真が弾かれたように顔を上げた。大きく見開かれた丸い眼から涙が一滴こぼれた。
「……え?」
 頷いてみせると、ぱちぱちと瞬きをした。ぱらぱらとこぼれる雫。
「長くて一週間だって。だから相馬は伊織のところに帰ってくる」
 万真はまっすぐに日向の眼を見つめたあと、再びはらはらと泣き出した。
 きゅう、と日向の手を握る力が強くなった。
「ほんと、かなぁ」
 声が震えていた。
「あいつはお前には嘘はつかないだろ」
 嘘がつけないから、黙って距離をとる方法を選んだのだろう。
 万真はしばらく日向を見つめていたが、ややあって「うん」と頷いた。ぐい、と手で涙をぬぐう。
 万真の手がするりと抜けていく感覚にどこか落胆している自分を心の中で殴り飛ばして、日向はそっと乗り出していた上体をひいた。
 ひとしきり涙をぬぐって、顔を上げた万真の口元には笑みが浮かんでいた。
「うん。千のこと信じる」
 力強く言って、万真は空を仰いだ。いつの間にか雲は薄くなり、切れ間から星がのぞいている。
「信じる」
 そう言った少女の瞳に先ほどまでの影はない。
 よし。小さな呟きが聞こえた、と思った直後、「パン」という音が響いた。
 思い切りよく自分の頬を両手で叩いて、少女はぽんとベンチから飛び降りた。眼を丸くしていると袖を軽くひかれた。
「日向、ありがとね」
「……………あ、いや」
 一瞬、心臓が止まるかと思った。
 日向の心境など知りもしない万真は、日向を見上げてふわりと微笑む。
「日向がいてくれてよかった」
「あ…あー」
 万真からそっと距離をとり、口元を手で押さえて視線をそらす。動悸よ静まれ。
「日向?」
「あー、その。お前らのことは、仲間だと思ってるから」
 賭けだった。
 拳を握りしめ、そっと万真をうかがうと、彼女ははにかむような、それでいて泣き出しそうな、不思議な表情を浮かべていた。
「あ…」
 髪をすく手が震えていた。
「うわ、なんか。どうしよう。……嬉しい」
 そう言った万真の表情を――たぶんきっと、一生忘れないだろう。
 動揺する心臓を必死で静めていた日向は、また瞳が潤み始めた万真に気づいて慌てて話題を切り替える。
「それで、これからどうするんだ?」
 ぐい、と眼をこすってから、万真ははっきりした声で言い切った。
「千を見つける。見つけて殴る。心配させるな馬鹿」
 さっきまでの弱々しい様子とのギャップに戸惑った日向だが、万真の眼を見て苦笑した。いつもの万真だ。
「水城よりも先に?」
「う…じゃあ早い者勝ちで」
 その返答に日向は吹きだした。万真の背中を軽く叩く。
「なら急ぐぞ。下手したらもう相馬を見つけてるかもしれない」
 言った日向を見上げて、そして万真は大きく頷いた。

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