NIGHT GAME 三章十八話 NightmareX
 鮮やかに輝く七色の光を見たような気がした。


 鼻先を消毒薬の匂いがかすめた。
 額にひんやりと冷たい風が当たる。
 ぼんやりとした視界は真っ白な色で埋め尽くされていた。
「…ん」
 瞬きする。手を動かすとさらりとした手触りのシーツが指に絡みついた。ひんやりと冷たい。風が肩を撫でた。
 眼を閉じると、かすかにきらめく光が見える。鮮やかな色。鮮烈な光。
(――夢?)
 風が肩に触れていった。ひやりとして気持いい。
 遠くからかすかなざわめきが聞こえてくる。今日も店は繁盛しているようだ。
 葉介が炒れたコーヒーの香りで目覚める瞬間が、万真は大好きだった。
 またどこからか消毒薬の匂いがした。
 違和感を感じたのはそのときだった。
 コーヒーの香りがしない。家中に染み付いているはずの香りがない。
 顔を上げる。
 目の前で白いカーテンが揺れていた。大きく切り取られた窓からのぞくのは青い空。
 白い光に眼の奥が痛くなる。
「え…」
 心臓が大きく跳ねた。
 さやかに揺れる白いカーテン。視線をめぐらせると、壁際の重厚なデスクと立派な書架が目に止まる。サイドテーブルの上には開いたままのノートパソコンがある。
「え…?」
 白い光が頭の中まで染め抜く。
 見知らぬ光景。
「ええっ?」
 慌てて上体を起こしたとたん、背中に激痛が走った。悲鳴を吸い込んだ枕を抱きしめて、もう一度、恐る恐る顔を上げた。
「………ここ、どこ?」
 高い天井。見知らぬ机。見知らぬ壁紙。背の高い書架にはぎっしりと分厚い本とファイルが並んでいる。
 万真の部屋じゃない。千里の部屋でもない。
 こんな場所知らない。
 カーテンが揺れた。冷たい風に肌が粟立つ。
「――千」
 無意識のうちに己の半身の名を呟く。
 突然ドアが開く音がした。
 反射的に振り向く。
 戸口をふさぐように見知らぬ男が立っていた。
「――お」
 聞こえてきた音が男の声だと理解するのに多少時間が必要だった。
 不躾なほどまっすぐに見つめてくる眼鏡の奥の瞳を睨み返す。
「起きたか」
 落ち着いた声は胸にざらりとした感情を呼び起こした。
「……あんた誰」
 男が軽く眼を見張る。そして口の端を持ち上げた。
「この格好見て想像つかない?」
 言われて男の姿を見直す。大きな白衣。その胸元では聴診器が揺れていた。
 聴診器と男の顔を見比べる。導き出された単語を口に出すまでにものすごい葛藤があった。
「…………医者?」
「まあな」
 激しくうさんくさい。
 その思いが顔に出ていたのだろう、男の口元がさらに歪んだ。
「信じられないならそれで結構。眼が覚めたのならちょうどいい」
 逃げるなよ。
 物騒な一言を残して男は部屋を出て行った。
「…そう言われたら逃げたくなるのが人間だよね」
 呟いて、ゆっくりと身を起こす。また背中に激痛が走った。
「い…ッ」
「なにやってんだ」
 冷たい声にとどめを刺された。ぼふんと間抜けな音を立てて顔が枕に埋まる。
「動くと傷が開くだろうが。おとなしく寝てろ」
 しゅ、と衣擦れの音が近づいてくる。消毒薬の匂いが強くなった。
 頭に手が乗せられる。ひんやりとした指が額を撫でた。
「まだ熱があるな。ガーゼを変えるからそのまま寝てろ」
「熱?」
 それでさっきから頭がぼんやりしているのか。などと考えたときだった。
「ひやっ!?」
 背中に冷たいものが触れて思わず顔を上げた。
「動くな」
「なななななにやって」
 ピ、と軽く痛みが走る。そして今度は濡れたものが押し当てられた。
「やややちょっと」
「動くなっつってんだろ」
「動くなって」
 肌にじかに触れる感触。痛む背中を押して万真は無理やりその感触から逃げ出した。
「なんであたし服着てないの!?」
 シーツを手繰り寄せて絶叫する。そりゃ風が気持ちいいと思うはずだ。
 睨みつけた先の男は万真を見て眉を上げた。
「血糊べったりでぼろぼろになった服を着せとくわけにはいかねえだろ」
「血?」
 なんのことだ。
 眉をひそめたのとほぼ同時、小ばかにしたように男は口の端を持ち上げた。
「それ以前にガキに手を出すほど女に不自由はしてないんで」
「な…ッ」
 あまりの言い様に声を上げようとしたが、再び大きな手で頭を押された。
「動くな。傷が開いただろうが」
 消毒をしているのだろう、ひやりとしたものが数度背中に押し当てられる。そのたびに走る鋭い痛みを声を殺して耐えた。
「ったく、もう少し早くつれてきてくれたらすぐに治ったのに、いたずらに放置しやがって」
 耳に届いた呟きに気を引かれた。そっと首を回して男の顔を見る。
「最近やたらと物騒なニュースを見るけどな。もしかしてまた『ゲーム』が始まったのか?」
 耳を疑った。
「――え?」
 ガーゼを切りながら男は一人ごちる。
「チームだなんだと今はずいぶんと小難しくなってるらしいな。俺らのときはただの落ちこぼれの溜まり場だったのに」
「え?」
 背中にふれる感触。ガーゼだ。
「でもお前もやっかいな奴に見込まれたな。今は“裏”とか言うんだって? また仰々しい名前を付けたもんだ」
 なんの話をしているのか。
 ゆるゆると記憶が戻ってくる。そうだった。千里をかばって怪我をしたのだ。だけどそれと男の話の内容がかみ合わない。
 男はあの世界のことを知っているようだった。それもかなり詳しく。
 呆然と凝視する万真の前で男は淡々と治療を終えると白衣からガーゼのくずを払った。
「…なんであたし、ここにいるの。ここどこ」
 千里を突き飛ばした瞬間背中に痛みが走ったことは覚えているが、そこから先の記憶がない。先ほど目を覚ますまでにいくつか夢を見たような気がするが、よく覚えていない。
「俺の病院。運ばれてきたんだよ。覚えてないのか?」
「知らない。誰に?」
 考えるより先に口が動いていた。見つめる先で、男はことりと首を傾げる。
「クソガキ」
「………は?」
 言われた言葉が理解できなかった。
「……がき? こども?」
「お前も気の毒に。あんな奴に見込まれて」
 立ち上がりざまに落とされた言葉にますます混乱する。
「なんの話?」
 と、いきなり頭からシーツをかぶせられた。慌ててシーツを払ったときには男は背を向けていて。
「ちょっと」
「寝てろ」
「待ってよ!」
 叫んで半身を起こす。
「帰る」
 身体にかかっていた薄い上掛けで胸を隠し、痛む背をおしてベッドを降りようとすると、呆れた声が降ってきた。
「馬鹿言うな。後一日は絶対安静」
「帰る」
 胸が騒ぐ。
 千里の存在を感じられない。そのことに足元の基盤が消え失せてしまうような、そんな喪失感と焦燥に支配される。
 ここ数日の心の距離に追い討ちをかけるようなこの別離。
 千里がいない。
 心があげる悲鳴に――それに重なる半身の悲鳴を感じる。
 千里。
「帰る」
 激痛に顔を歪ませて、汗を浮かべながらもそれでも立ち上がろうとする万真の姿に、さじを投げたように男がため息を落とした。
「わかったからとにかく横になれ。気持ちはわかるが今日は無理だ。帰すわけにはいかない」
「帰る」
「医者として、そんな状態の患者を帰すわけにはいかないよ」
 思ったよりも穏やかな声が落ちてきて、暖かい手が肩を抑えた。静かにベッドに押し戻される。
「イヤ、帰る」
「無茶言うな」
 一度腰をおろしてしまった身体はいくら力を込めても立ち上がることを拒否していた。息が弾む。噴きだした汗が急激に冷え、ぞくりと体が震えた。痛みに遠のきかける意識を唇を噛みしめて引き戻す。
 頭がぐらぐらした。横になれ、と促されたが首を振って拒否する。一度横になったら最後、二度と起き上がれないような気がした。
 上掛けでしっかりと身体を包み、再びため息を落とした男を見上げる。
 男は呆れたような笑みを浮かべていた。
「こんなに強情な患者は見たことないぞ、まったく」
 そう声を落とし、デスクチェアを引き寄せて腰を下ろした。半身を万真に向けて机に向き直る。
「名前は?」
 唐突な言葉に一瞬反応できなかった。
「…え」
「名前。一応カルテ作ってるから」
 疑わしげな万真の表情をちらりと見やり、男は付け足した。
「住所や電話番号を聞く気はないから安心しろ。名前だけだ」
 短い葛藤の末、万真は口を開いた。
「…万真」
「男みたいな名前だな。どういう字を書く?」
 余計なお世話だ、と心の中で吐き捨てて、こちらの返事を待っている男を睨むようにして見た。
「数字の万に、真実の真」
 ふん、と気のない声を出して、男はさらに問うてくる。
「名字は?」
「……必要?」
「できれば」
 簡潔な返答に躊躇したが、結局素直に答えていた。
「伊織」
「―――字は?」
「伊豆の伊に織物の織」
「年は?」
「16」
「家族は?」
 続けざまによこされた質問に、不審をあらわに顔をしかめた。
「なんで?」
「いや、いい。聞いてみただけだ」
 さらに何事か書き綴る。ペンを置くとカルテを薄いファイルに挟み、机の引き出しに納めた。鍵がかかる音がした。
「電話する元気はあるか?」
「え?」
 顔をあげるのと、男がくるりと椅子を回して万真に向き直るのとは同時だった。
「家に電話。気になってるんだろう?」
「――いいの?」
 答える代わりに、男は机の上の携帯電話を投げてよこした。覚束ない手つきで受け止め、手の中のそれと男の顔とを見比べる。
「どうぞ」
 促すように差し出されたてのひらと男の顔を見つめたあと、携帯電話を握りしめ、そっと開いた。



 ドアにさした影に、弘行はそちらを振り向いた。ドアにかけられた臨時休業の札を見たのだろう、客と思しき人影はしばらくドアの前にとどまった後離れていった。
 人影が見えなくなったのを確認してから、弘行は視線を戻した。
 店内は昼間だというのに暗く沈んでいる。
 この店に勤めるようになってからそれなりの年数が経つが、こんな「庵」は初めてだ。
 カウンターにいる少年たちに眼をとめた弘行は、こみ上げてきた溜息をそっとかみ殺した。
 千里が成一の肩に顔を伏せたまま、ぴくりとも動かなくなって久しい。成一も千里の肩を抱いたまま、険しい表情で目の前の空間を睨みつけている。二人から離れた窓際の席では、日向が組んだ両手に額をつけてじっとうなだれていた。
 胃のあたりにさしこみを感じて思わずそこに手を当てた。しくしくと痛む。
 重たい頭を片手で支えて、息を吐き出した。
(……ちくしょう)
 視界の端に映る青年の姿を締め出すように硬く目を瞑った。先ほどから頭を抱えたままぴくりとも動かない青年。あんな姿を見るのは初めてで、胸が押しつぶされる。
 もう何度目になるかわからない溜息を落として、渦巻く黒い液体をカップに注いだ。バイトをはじめた当初はとても飲めたものではなかったコーヒーもいつの間にか客に「うまい」と言ってもらえるようになった。
 ミルクパンに注いだミルクの中にブランデーを数滴落とす。軽く温めてアルコールを飛ばしてからマグカップに注いだ。
 機械的に作業を進めていた弘行は、そこでようやく顔を上げた。店内を見渡す。そして先ほどから全く変わらない光景に息を吐き出した。
 千里と成一の前にマグを置く。成一の眼だけが動いて目の前に置かれたものを確かめた。すぐにそらされた視線にまた胃がきりりと痛んだ。
 かすかな反応を示してくれたのは日向だった。目の前に差し出されたカップと弘行を見比べて、かすかな目礼をくれる。
「…すいません」
 掠れた声に、彼もまた相当まいっているのだと窺い知れた。目元が赤らんでいる。軽く頭に触れてから、問題の人物へと眼を向けた。
 全く動く様子のない背中へと足を向ける。胃が痛い。
 両手で頭を支えたまま動かない葉介の前にまわると、そっとカップを置いた。かすかな音が聞こえたのだろう、ゆるゆると顔が上げられる。
「…ごめん」
 目の下に刻まれた隈を見て弘行はそっと眉を寄せた。くしゃりと両手で髪を乱して溜息をつく、そんな葉介を見るのははじめてで、どうすればいいのかわからなくなる。
 葉介は頭を抱えたまましばらくじっとしていたが、やがて息を吐き出すとゆるゆると顔を上げた。
「ごめん。もうちょっと」
 語尾は口を抑えた手のひらに吸い込まれてしまった。
 何度も目をしばたたかせている様子に、胸がしくりと痛んだ。
 葉介にとって万真がどれほど大切な存在なのか、あらためて思い知らされる。
 千里と万真。葉介の、最後の家族。
(――頼むと、言われたのに)
 間に合わなかった。
 またしても。
 その言葉だけが頭を占める。
 またしても、間に合わなかった。
 甦るのはかつての光景。鮮やかな緋色。
「…ごめん」
 口から言葉が零れ落ちた。
「ごめん。俺、なにもできなかった」
 葉介の眼がまっすぐに自分を見据える。その視線を受け止めることができなくて、顔を伏せた。
「……弘行が謝ることじゃない。悪いのは僕だ。“裏”だとわかった時点で可能性だけでも万真に伝えておくべきだったんだ」
 低い呟きのあと長く息を吐き出して、葉介は椅子の背にもたれた。
 視界の端で日向が顔を上げてこちらを見た。
「落ち着こう。万真はいきなり消えた。そうだね?」
 まだかすかに震える指先で、テーブルを打つ。視線を受けて日向が頷いたことを確認して、葉介は「そうか」と一言呟いた。
 ふと思いついて、弘行はジーンズのポケットを探った。タバコを取り出し、葉介の前に突き出す。箱と弘行の顔を見比べてから、葉介は小さく礼を言った。
 タバコが口元に運ばれる寸前にライターを差し出す。灰皿を引き寄せて、自分も一本くわえた。
 吐き出した煙が薄れていく様子を見つめながら、口を開く。
「俺、思うんですけど。カズ坊、多分、無事です」
 注がれる視線に、もう一度煙を吸い込んでから、答えた。
「…“鍵”だと思うんですよ」
 成一や日向の話からは、何度考えてもその単語に行き着いてしまうのだ。
「ドアもワープもないところにいきなりゲートが開いて…って、もろ鍵のパターンだし」
 目の前で人が消えたり現れたりするのは何度も目撃した。
「…俺の、仲間が、そうだったから」
「わかるよ」
 低い声が遮った。煙を細く吐き出して、葉介はくしゃりと髪を乱した。
「だから余計にたちが悪い」
 静かな声に、弘行は声をなくした。
 そうだ。鍵が関わっているからといって、安心できることなどなにもない。むしろ不安要素は増える一方なのに。
「何の話ですか」
 頭を抱えた弘行の背に低い声が投げかけられた。振り返り、まっすぐにこちらを見つめてくる鋭い目に気づいた。
 カタリ、と、椅子の背を押して、日向はまっすぐに葉介を射る。
「何の話を」
 強い視線。伺った葉介は、まっすぐにその視線を受け止めていた。
「日向君は」
 煙が細く吐き出される。指先の震えはもう見られない。
「鬼とか鍵とか、聞いたことある?」
 日向の瞳が揺れた。かすかなためらいのあと、しっかりと顎を引く。
「俺は鬼だと言われています」
 日向を見て、葉介は短く「そう」とだけ告げた。紫煙がたなびく。
 葉介がその先を続ける様子がないことにじれて、弘行は口を出した。
「カズ坊はたぶんつれて行かれたんだと思う」
「誰に」
 鋭い声を出したのは成一だった。立ち上がり、まっすぐ見てくる視線を受け止めて、弘行は答えた。
「鍵」
 二人の瞳が戸惑いに揺れた。
 当惑に満ちた視線を受け流し、煙を吐き出す。
 煙が虚空に広がり散って行く様子を見つめながら、弘行は静かに口を開いた。
「これは俺の勘だけど、鍵が連れていったんなら、たぶんカズ坊は無事だ。俺が知ってるパターンだと、ひょっこりどこからか出てくることが多かったな」
 突然姿を消して、そしてまたどこからともなく現れる。弘行が知る「鬼」はそんなことがしょっちゅうだった。
 でも、と弘行は言葉を継ぐ。
「カズ坊、怪我してんだろ」
 さっと二人の顔に緊張が走った。
「そっちの方が心配だ」
 地面に残った血痕。千里のシャツを染めた赤。出血の量はどう軽く見ても少なくないはずだ。
 落ちた沈黙を切り裂いたのは、震える声だった。
「――俺のせいだ」
「千里」
「俺のせいだ」
「千里!」
 千里の叫びに、誰もが息を飲み、その場に立ち尽くす。両手で頭を抱え、うなだれた千里の肩を成一が抱く。
「俺が――俺が」
「違うだろ。あれは事故だ」
「俺が追い詰めた。俺が…!」
 変な意地を張らなければ。
 素直に万真に相談していれば。
 いやそもそもこんな話に乗りさえしなければ、万真と離れてしまうこともなく、こんなことも起きなかったはずだ。
 自分が馬鹿なことを考えさえしなければ――!
 耳元で成一が叫んでいる。心の中まで入り込むことのない音はなんの意味もなさない。
「カズ。カズ、カズ」
 胸が痛い。ちぎれそうに痛む胸を強く押さえる。
「――カズ!」
 胸を押さえ、虚空を見つめて己の半身の名を呼び続ける少年の姿に、みな声をなくした。
 悲痛な叫びが心を切り裂く。
 見ていられなくて、弘行はそっと眼を伏せた。
 そのときだった。
 カウンターの奥、キッチンの方から電話のコールが聞こえてきた。
 どこか非現実的なその響きが空気を凍りつかせる。千里の叫びがふいに途切れた。
 誰も動き出せず、ただ凍りついたように奥に続くドアを凝視する。
 長く続いた呼び出し音は、その始まりと同じく唐突に終わった。
 ふ、と弘行は息を落とす。
 すぐに鳴り出した店の電話を見やって、のろのろと立ち上がった。出ようとした弘行を制したのは葉介だ。
「僕が出る」
 軽く息を吸い、受話器を上げた。
「はい、コーヒーハウス庵で――」
『葉ちゃん』
 流れ出した声に葉介は息を止めた。
「万真!」
 刹那、背後で激しい物音がした。
 ぶつかるようにして受話器を奪い取り、千里が受話器に噛み付くようにして怒鳴った。
「カズ!?」
『千』
 受話器から流れ出るほっとしたような息遣い。耳になじんだ柔らかい声音に視界が歪んだ。
「カズ、カズ、カズ」
『うん。ごめんね。心配かけてごめん』
 穏やかな声が心に染み渡る。震える指で受話器を握りしめ、千里は己の半身の気配にバラバラになってしまった自分の身体が再構築されていく音を聞いた。
「カズ。ごめん。ごめん」
 身を斬るような慙愧の念とともに吐き出した言葉は柔らかい声に受け止められる。
『うん。大丈夫だよ。あたしは大丈夫』
 肩に葉介の手がかかるのを感じながら、ただ万真の声だけに意識を澄ます。
「身体は」
『大丈夫。お医者さんがいて、治してくれた』
「本当に? 大丈夫なのか?」
 両手を染めた緋色とその温もり一生忘れることはないだろう。あの瞬間を思い出して身体を震わせると、葉介の腕が強く抱き寄せてくれた。
『うん、大丈夫。痛くないよ』
 耳をかすめる声が潤んでいることに気づき、千里は強く眼を瞑った。
『明日帰るから。だから心配しないで』
「――うん」
『待っててね』
 胸が苦しい。
 熱い痛みに圧迫される咽喉を絞って、千里は囁いた。
「カズ――」
 言葉にならない想いを、しかし半身は誰よりも――本人よりも正確に理解し、受け止める。
『帰るよ。千のところに帰ってくるから』
 だから待っていて。
 涙声で告げられた言葉に、ただただ無言で頷く。
『千』
「うん」
『…大好きだよ』
 耳元に落ちたかすかな声は濡れていて、久しぶりに耳にしたその言葉に千里は静かに涙をこぼした。



 ありがとう、と言って携帯電話を持ち主に返すと、代わりにタオルが降ってきた。そのまま大きな手で抑えられる。
「拭いとけ。で、もう寝ろ」
 くぐもった声で返事をすると、もう一度頭を乱暴に撫でられた。
 千里の声を聞いた安堵からか、すうと意識が遠のきそうになる。それに逆らわず、万真はシーツを引きずってベッドに横たわった。かつてないほど身体が重く感じる。
 大きな手が上掛けを肩の上まで引き上げてくれた。
 あんなに遠かった千里との距離がなくなったのを感じた。
 ぴったりと寄り添う半身の存在を意識の端で感知する。
 もう足元は揺るがない。
 今にもくっつきそうなまぶたを持ち上げて、エアコンの温度を調節している男を見上げる。
「……ねえ」
 顔をわずかに傾けて振り向いた男の顔は無表情で、先ほど感じたぬくもりを連想させるものはどこにもない。それでも万真は、彼の纏う空気になぜか安心感を覚えていた。
「名前。教えてよ」
 くい、と眉があがり、男の口の端がわずかに持ち上がった。白衣が翻り、男がベッドサイドに歩み寄る。消毒薬の匂いがきつくなった。
 万真の顔を大きな手が覆う。視界を閉ざされて、万真は静かにまぶたを閉じた。
 疲労に混濁していく意識の端で、低い声を聞く。
「――甲斐だ」
 穏やかで、どこか懐かしいその声音に、もう大丈夫だという気持ちが湧き上がる。
 意識を覆う暗闇に、深い安堵の中万真はその身を委ねた。


 ちらちらとまなうらを光がよぎった。
 くるくると輝く虹色の光に意識が吸い寄せられる。手を伸ばし、プリズムを掴み取ろうとしたとき、なにかに掬い上げられるように意識が浮上した。
 人の声がする。
 目を開くと、部屋の中が薄暗く感じた。怪訝に思って一度目を閉じ、開いたそこには光が溢れている。眩しさに顔をしかめた。一体今のはなんだろう。
 とろとろと開いた目に映ったのはくしゃくしゃになったシーツ。低い男の声が耳に流れ込んでくる。
 一瞬感じた違和感はすぐになくなった。
 そうだ。ここは病院。甲斐と名乗った男の家。
 己の所在を確認すると、腕に力を入れて伏せていた身体を起こした。
 声が止まる。
 そちらに顔を向けると、予想していた顔が万真を眺めていた。
「起きたか」
 甲斐だ。
 昼間とは変わって、シャツとスラックスのラフな姿に、勤務時間が終わったことを知る。
 声をかけようとして、その傍らにひっそりとたたずむ少年の存在に気づいた。
 万真の視線を受けて、ふんわりと微笑む。万真よりも一つかふたつ下だろうか。
 肩にまっすぐな黒髪がこぼれている。鴉の濡れ羽色とはこういう色をいうのだろうと、頭の片隅で感心した。
 まっすぐ自分を見つめてくる瞳を見返す。真っ黒な瞳。
 すいこまれそう。
 ふうわりと瞳がやさしい色を帯びた。万真を見つめて彼は微笑む。柔らかい笑みだ。
「こんばんは」
 柔らかな、耳に心地よく響く声。だが、その瞬間万真の肌が粟立った。
 なぜかはわからない。ただ少年が怖かった。
 身を硬くした万真に気づいたのか、少年の表情が曇った。
「どうかした?」
 細い手が伸ばされる。反射的にあとずさろうとして、背中に走った激痛に小さくうめいた。
「コウヤ」
 低い男の声が割り込んだ。肩に大きな手が触れる。消毒薬の匂いが鼻先をかすめた。
「まだ怪我が癒えていないんだ」
「あ、そうか。ごめんね」
 恥ずかしそうにくしゃりと笑むその様子は微笑ましくすらあるのに、なぜか寒気が止まらない。
 肩の手に導かれるようにして再びベッドにうつ伏せる。注がれる視線を避けるように枕に顔をうずめたのは半ば無意識の行動だった。
 大きな手が頭に触れる。なだめるような手の動きに、肩からゆっくりと力が抜けていった。それでもまだ少年の方に顔を向けることができない。
「傷を見るから」
 声と同時に背中に熱が触れた。
 ほんのりと暖かい手のひらから熱が傷口に広がっていくような感覚に、万真は肩から力を抜いた。
 熱い。
 傷口が熱い。男の手のひらが燃えるように熱く感じる。
「…ッ」
 目の前が歪んだ。頭がくらくらする。
 患部に心臓が移ったかのように脈打っているのを感じていた。焼け付くような熱が体に広がる。
 痛みにもうろうとした意識の中で、万真は違和感に眉宇をひそめた。
 おかしい。
 疑問がふくらむ。
 シーツを握りしめ、痛みをこらえて顔を動かした。かすむ目を凝らして傍らに立つ男を見上げようとする。
「動くな」
「…待って」
(変だ)
 思いを口に出すよりも早く、大きな手に頭を押されて再び枕に沈没させられた。
「動くなって」
 頭に触れる手のひらからも熱が伝わってきて、苦しさに息が弾んだ。
 頭の中が渦巻いている。思考が奪われる。
 うっすらと開いた眼に飛び込んできた色彩。深遠を覗き込んだかのような底知れない暗闇に、薄れゆく意識の果てで万真は己が真実に触れたことを悟った。

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