NIGHT GAME 三章十九話 NightmareY![]()
目を開けると部屋は光に満ちていた。
ゆっくりと身体を起こす。痛みがないことは半ば予想していたので、わずかに残った違和感を頭を振って追い出した。なじみのない部屋を眺めて自分が置かれている状況を思い出す。
ここはどこかの病院。
常に身近にあるはずの千里の気配が感じられないことに心が喪失感を訴える。
欠落感に手足が震え始めた。乱れ始めた呼吸にとっさに両手で口を覆う。
大丈夫。
千里は家で待っている。
万真の帰りを待っている。
だから大丈夫。
――わかっているのに指が震える。恐怖に心がすくみ上がる。
大丈夫
大丈夫
大丈夫
大丈夫
吐き出した息を吸い込みながら一心に呪文を唱え続ける万真の肩に不意に触れる手があった。
「おい!」
かすかなフレグランス。
あの男だとわかってはいたが顔をあげる余裕はなく、ただ必死に呼吸をしていると急に肩を抱きこまれた。
「過呼吸か? 待ってろ、今」
「…いい」
伸ばした手に触れたシャツをきつく握りしめると、今にも部屋を飛び出そうとしていた男は動きを止めた。見下ろしてくる瞳を見つめ返す。
「………もう、おさまる、から」
ひゅう、と大きく咽喉を鳴らして、万真はそろりと視線をはずした。多少荒いが呼気は元に戻りつつある。
傍らに男が腰をおろすのを視界の端で見止めながら、呼吸を正常に戻すことだけに集中した。それを助けるように大きな手が背中に触れ、ゆっくりとさする。
10分ほどで発作はおさまった。比較的軽かったようだ。噴き出す汗をぬぐう。
「…ごめん。もう、大丈夫。ありがと…う」
見上げた先に、まっすぐ自分を見つめる瞳に出会い、反射的に身をひく。
男はかすかに眉間に皺を寄せて万真を見ていた。
「よくあるのか?」
質問の意図を理解して、万真はゆるゆると首を振った。
「……二年ぶり、かな」
「そうか」
背中の手が頭に移って、幼い子どもにするように二度撫でられた。
なんとなく子ども扱いされたような気がしてムッとする。
心なしか頬を膨らませた万真には取り合わず、男は立ち上がり、紙袋を万真に押し付けた。
「着替えろ、メシ食いに行くぞ」
言い捨てて男は部屋を出て行った。
静かに閉まったドアと紙袋を見比べる。中を見ると服が入っていた。
広げてみて絶句する。
涼しげな茶系のギンガムチェックのワンピース。
「えー…」
自慢じゃないが制服以外でスカートをはいたことがない万真だ。物心がつかないころはいざ知らず、ワンピースなんて着たことすらない。
「これ着るのー?」
途方に暮れ、とりあえず見なかったことにして脇に置くと、紙袋の中をもう一度覗き込んだ。ビニールに包まれたものは何度目を凝らしても下着のように見える。
「…自分で買ったのかなぁ」
男の趣味なのだろうか。正直万真の好みとは外れていたが、贅沢を言える立場ではないので黙って服を広げた。
どんな顔でこれを買ったのだろう。あのすかした顔で下着売り場に立っていたんだろうかと首を傾げる。取り出したブラがしっかりAカップであることになんとなく落ち込んだ。 再びワンピースに目をやる。やはりこれを着るしかないのだろう。
着替え終わり、自分の姿を見下ろして溜息をついていると、ドアが叩かれ男の声が飛んできた。
「終わったか」
「はい」
万真の返事を待ってドアが開かれる。
男は万真の姿を上から下まで眺めて不満げに眉を寄せた。
「あんまり似合ってないな」
「うるさい」
どうせ、と自分の胸元を見下ろす。やせっぽちの貧相なカラダ。
理想としているのは静香のような体型なのに、なぜか理想からは年を重ねるごとに遠ざかっていく気がする。
「背中はどうだ」
かけられた言葉に弾かれたように男を見上げた。
「…もう全然」
男の表情を見逃さないようじっと見つめる。
着替えるときに恐々触れた背中はなめらかで、怪我の痕跡などどこにも感じられなかった。
万真の表情から何か悟ったのだろう、男は苦く笑うと言った。
「説明はメシの後だ。行くぞ」
身を翻した男の背中をじっと見つめる。
予想はある。だが事実を知る覚悟はまだできていない。
ふ、と軽く息を吐き出すと、軽くこぶしを握って男のあとを追うために足を踏み出した。
「大丈夫?」
耳に滑り込んできた声にかすかに頷くと、千里は握り締めていたビニール袋を下ろした。まだ息が荒い。全身が気持悪い汗で濡れていて、シャツを引っ張って顎から落ちた汗をぬぐう。
祖母の死以来起こしたことがなかったはずの過呼吸が再発したのは昨夜未明。今朝もまた、夜が白み始めると同時に呼吸が覚束なくなった。
肩を抱く葉介の手に力が込められる。千里は体の力を抜いて、そっと葉介の胸にもたれた。
「……も、大丈夫」
大きな手が三度背中を撫でて、離れていった。
「お茶でも入れよう。もう少し休んでる?」
立ち上がろうとした葉介は、ふとかすかな抵抗を感じて動きを止めた。見やると、千里がシャツを掴んでいる。
「俺も行く」
苦しげな咳をひとつしてそう言った千里の肩を抱いて、葉介は口元を持ち上げた。
「早いけど、下でなにか食べようか」
小さく頷いた千里の頭を、葉介は思いをこめて撫でた。
咽喉に残るコーヒーの苦味をやり過ごそうと、万真は何度も唾を飲みこんだ。
小さな喫茶店に入った男はモーニングセットを2つ注文した。サラリーマンをターゲットにしているのだろう、ボリュームのあるそれに閉口しながらも、男に脅されるようにしてなんとか半分胃に納めた。
ふと、前にもこんなことがあったように感じた。
記憶を辿って、すぐに思い出す。
(弘くんだ)
あの日。食べ物を口に入れることができなくなった万真を、優しくなだめて促してくれた。
ほんの2日前のことなのに、一ヶ月も前のことのように思える。
窓の外を流れる見慣れない景色。咽喉に残るコーヒーの味が気持ち悪い。どうやらあの店ではあまりいい豆を使っていないようだ。
ステレオから流れる洋楽のメロディを聞くともなしに聞きながら、車窓の風景をただ眺める。聞き覚えのある曲。葉介も良く聞いていた、80年代の曲だ。
男が葉介と同じ年頃だということに、今さらながらに気づく。たった一晩で彼に慣れてきたのはそのせいもあるのだろうか。もちろん未だに緊張を溶くことはできないし、こうして近い距離にいると体が固まってしまってはいるのだが。
冷気が頬をなでる。冷房を強めに入れてあるのに、ガラスから降りそそぐ日差しに剥き出しの腕がじりじりと焼ける。
「何も聞かないんだな」
唐突に隣りから聞こえた声に首を回すと、男はハンドルを握ったまま前を見ていた。
「聞いていいの?」
「どうぞ」
振り向くことなく投げられた声に、躊躇せずに問いを返した。
「どこに行くの」
車は高速に乗ろうとしているところだった。一瞬目を瞠り、男が面白そうに口元を歪ませる。
「なんだ、家に帰りたくないのか?」
今度は万真が目を瞠る番だった。勢いよく振り返ろうとしてシートベルトに阻まれる。
「帰っていいの!?」
「怪我は癒えてる。帰さない理由はねえなぁ」
「帰っていいんだ!」
千里の顔が目の前に浮かんだ。自分以上に心を痛めているだろう千里。苦しんでいるだろう千里。
あいたい。
「質問はそれだけか?」
千里の面影を無遠慮な声がゆるがせる。
万真は軽く眉をひそめると、窓の外を見つめたまま声を投げた。
「昨夜のアレ。なんで」
「日本語は正しく使ってくれ」
少し、ほんの少しムッとした。
男を振り向く。
「どうやってあたしの怪我治したの」
「わかってるんだろう?」
問い返されて、反発心をさらに強くした。やはりこの男は信用ならない。
なぜか。その予想はついていた。だが口に出すことにはためらいがある。
「……あれがあんたの能力?」
「まあな」
「家の中なのになんで」
触れた手の、焼け付くような熱がまだ背中に残っている。あれだけの痛みが今朝は欠片も残っていなかった。常識では考えられない現象。
「なんでって、なにが」
やっぱりこの人好きじゃない。
その思いを新たに胸に刻んで、尖った声を投げた。
「なんで、家の中なのに、能力が、使えるの」
一言一言区切って言うと、男の口元がまた歪んだ。
「そりゃ、あそこが『夜』だったからだ」
ヨル、と万真は口の中で繰り返した。夜、すなわち万真たちが言うところの「あっち」。
「家の中なのに? なんで」
男はただ静かに笑った。
「もうわかってるんだろう?」
質問に質問で返すのは卑怯だ。
窓の外に目を向ける。脳裏をよぎるのは吸い込まれそうな漆黒。飲み込まれそうな、底の知れない瞳の色。
「あれが鍵なんだ」
男は答えなかった。ただ口元に笑みを刷く。
「ずっとモノだって思ってたよ」
「おまえは自分が鬼だって知ってたのか?」
また質問。
ガラスに映る男を見つめて口を開く。
「人に言われた。裏だって」
「そうか」
「あんたも鬼なんでしょ?」
男は黙ってウィンカーを操作した。高速を降りる。
今さらながらに湧いた疑問に万真は男を眺めやった。
「すっごく今さらなんだけど。今まであたしどこにいたの?」
東京まで何キロという表示を何度か見た。ということはつまり、東京以外の場所にいたということだ。
「のんきだねお前。横浜だよ」
最近ほぼ初対面の人間からのんきといわれることが多いような気がする。暗に馬鹿だといわれているような気がして正直面白くないが、それよりも予想外の地名に対する驚きが先に立った。
「横浜ぁ? なんでまたそんなところに」
「あれが連れてきたからだろ」
そんなところで悪かったな、と続けられた言葉は耳からこぼれてしまった。
アレ。
一瞬で夜の闇が目の前に広がった。
知らず膝に置かれたこぶしに力が入る。
「――親しいの?」
主語も目的語もかけた言葉。先ほどのような指摘は入らなかった。
「まさか」
「仲良さそうに見えたけど?」
「冗談だろ」
眉間に皺がよるのが見えた。
男と少年の会話から、気の置けない雰囲気を感じたのだが、気のせいだったのだろうか。
そういうと、男はますます眉間の皺を深くした。
「俺はいつも押しかけられてるだけだ。あれはな、お前さんみたいな怪我人を見つけては俺に押し付けるんだよ。まあ、それも数年ぶりだがな」
はた迷惑なやつだ。
吐き捨てられた言葉に暗い感情を見た気がして、万真は驚いて男を見上げた。前方を睨みつける瞳は一体なにを映しているのか。
「……鍵が、怪我した人を助けてるの?」
先日であった関西弁の少年を思い出す。血を滴らせながらも笑っていた。心当たりとはもしかしてこの男のことなのだろうか。
一瞬そう考えたが、すぐに先ほどの男の言葉を思い出して否定した。男は数年ぶりだと言った。
「あれはそんなんじゃない。あれを善意の存在だと思ってたら取り込まれるぞ」
不穏な言葉に胸がざわめく。吸い込まれそうな闇を思い出して背筋がひやりとした。
「あれが連れてくるのは気に入った人間だけだ。迷惑な話だな」
形にならない思考が頭の中でぐるぐると渦巻く。
男は苛立たしげに舌を鳴らしとハンドルを切った。高速に乗っていたときに較べると荒くなった運転。カーブの勢いに体が運転席側に流れる。
「道あってるか」
問われて、男の顔と外の風景、カーナビを見比べて、うんと答えた。あまり自信はなかったが。
「初めて会ったんだな?」
何にとは言わなかったが、万真は理解した。深く頷く。
「あれにだけは心を許すなよ。なにがあっても信用するな」
唐突に落とされた言葉に驚いて男を見つめた。まっすぐ前を見つめながら、男は言葉を綴る。
「あれは澱だ。夜の底に溜まった澱。近づくと取り込まれて抜け出せなくなるぞ」
男の言葉は抽象的すぎてよく理解できない。
「俺はね、10年以上前にあちらに入り浸ってたんだよ。ちょうど君ぐらいの頃からか」
軽いブレーキの負荷。信号だ。
「それ以来だからあれとの付き合いはかなり古い。不本意だがね」
苦い声。軽い負荷とともに車が発進する。
気がつけば見慣れた景色が窓の外を流れていた。
「ナビできるか?」
住宅街へと入るからか、カーナビではなく万真にそう振ってくる。頷いて、このまままっすぐと告げると男は無言で口元をゆがめた。
時計は10時20分を指している。この調子なら家まで後十分ほどでつくだろう。
「裏って呼ばれていた奴らを俺以外に八人知っている」
男の言葉はいつも突然で、断片的で理解に時間がかかる。瞬いて、そのセリフの真意を探るようにゆっくりと男を伺った。まっすぐ前を見ている男。
「今生きていると確実にわかっているのは俺を含めて三人だけだ」
「え?」
言われた内容を理解するのに数分かかった。その間にも男の言葉は続く。
「三人はあそこで死んでいった。一人はこっちで亡くなったがもういないことには変わりない」
あっちとこっち。それぞれに対する言葉づかいの違いが少し気にかかったが、続いて落とされた男の言葉にそんな疑問は吹き飛んだ。
「鬼に逢ったのは四年ぶりだよ」
四年。
鬼。
その符合に血の気がひいた。
「あとの一人はどこにいるのやら。生きていることを祈るよ」
指先が震えるのがわかる。足に力が入らない。
(ナンさん……!)
胸を切り裂くような悲痛な叫びが耳に甦る。
「ああ。その一人ってのが変わった奴でな」
なにやら思い出しでもしたのか、男の口元から押し殺した笑い声が漏れる。だがそれに気づく余裕は万真にはなかった。
「能力自体はどう考えても鬼で、性質的にも“鍵”に近いのに、あれに嫌われたおかげで面倒なことにかかわらずに済んだラッキーな奴だった」
スピードを落としてハンドルを切る。
震える唇を動かして、万真は渇いた咽喉から声を絞り出した。
「四年前の人って」
「おい、ここでいいのか?」
かけられた言葉に慌てて意識を外へ向けると、前方になじみの店が見えていた。シックな概観。壁面では日差しにくたびれたツタが申し訳なさそうに這っている。
「あ、うん」
いつの間に、との思いを隠して頷くと、車は緩やかに店の前へと滑り込んだ。ドアの正面を避けて停車する。
ドアにかかった『CLOSE』の札にドキッとする。頭の中を占めていた疑問は一瞬で霧散した。
男がエンジンを切るのを待たずにシートベルトに手をかける。おいと声をかけられたが反応する余裕はなかった。
エンジンが沈黙すると同時にようやくシートベルトが外れた。
「こら」
追ってくる声を無視してドアを開け飛び降りる。履きなれないスカートの裾がめくれるが気にする余裕もない。
背後で車のドアが音を立てて閉まった。
黒いドアのノブに手をかける。勢いよく開いたドアから店内にまろび出た。
「ただい…ッ」
見渡した店内に求める姿がないことに気づいて足がすくむ。
照明が落とされた室内は薄暗い。テーブルの上に上げられたままの椅子。いつもは染み付いているコーヒーの香りがかすかにしか感じられない。
「……千?」
沈黙しているサイフォン。
「――千っ!」
足元が崩れ落ちる恐怖に襲われて千里の名前を叫んだ瞬間、奥から叫び声が聞こえてドアが乱暴に開かれた。
「カズ!?」
千里だ。
万真の姿を認めると、千里は顔をくしゃりと歪ませた。
「千!」
駆け出したのはどちらが先か。
名を呼んだときには千里はもう目の前まで来ていて、強引に胸に抱きこまれた。痛いほどの抱擁に胸が泣き出す。
溢れ出した感情は、ぼろぼろになった体の隙間を音もなく埋めていく。千里の熱がしみこんでくる。それが切ないほどに愛しくて、千里の力に負けない強さで目の前の大きな背中をかき抱いた。
カズ、と呟くかすれた声に、どれだけこの存在を渇望していたのかを思い知った。
千里の存在が心を満たす。ただそれだけのことで、足元が確たるものになる。
生かされている。
万真は千里に生かされている。
そしてそれは千里も同様だということを、今さらながらに再確認する。
名前を呼ばれて、頷く。何度も何度も。
千里は泣いていた。祖母の葬式以来見たことがなかった涙。頬をつけた黒いシャツが瞬きをするごとに色を濃くしていく。
「ごめんね。もうどこにも行かないから。ずっとここにいるから」
強く強く抱きしめられて、負けないくらい強く抱きしめて、それでも全然満たされない。
「どこにも行くな」
耳をかすめた囁きに、痛いほど強くまぶたを閉じて――万真は何度も頷きながら千里の思いを全身で受け止めた。
安堵のあまりその場にへたり込みそうな身体を意志の力で支えて、日向は目の前で抱き合う二人を見つめた。
二階のソファでうずくまり、ニュースを眺めてた千里が突然階段を駆け下りていったときには驚いたが、万真の姿を見とめた瞬間なぜかすとんと腑に落ちた。
ドアが開く音も万真の声も聞こえなかった。だが千里は気づいた。
二人のつながりの強さを今さらながらに実感する。
「どこにも行くな」
掠れた声が胸をついた。
二人の姿が切なくて、そっと目を伏せる。その時だった。
「あっ」
弘行が小さく声を上げた。顔を上げると、二人が抱き合ったままその場に倒れこむところだった。
駆け出そうとした日向よりも早く葉介が動き、二人の身体を受け止める。さすがに二人分の重さは受け止めかねたのか、その葉介も次の瞬間大きく体勢を崩した。
「葉介さん!」
飛び出した成一よりも早く、横から伸びた手が葉介を支えた。
顔を上げて、成一の動きが止まる。その男を見とめて日向も動きを止めた。
「――誰だ、あんた」
背の高い男だった。細身のフレームが成一に向けられる。
男は軽く口元を歪ませて笑みらしきものを作ると、ぽかんと口を開けて自分を見上げる葉介を見下ろした。
「久しぶり」
「………章吾?」
初めて聞く頼りない声に、隣りの成一が驚いたのがわかった。
男の口元が笑みの形にほころぶ。葉介を助け起こしながら男は言った。
「やっぱりお前の血縁だったか」
「え?」
千里を抱えようとする男の動作に、我に返った成一が駆け寄った。日向もほぼ同時に千里に駆け寄り、成一と二人で万真から引き剥がす。意識を失っていてもなお強く万真を抱きしめている千里の姿にしくりと胸がいたんだ。
そうしている間も男は続ける。
「名前を聞いてもしかしてと思ったんだが、本当にお前の姪っ子だとは思わなかったよ」
なんとか万真から離した千里の身体を背中に担ぎ上げる。万真は、と見ると、いつの間にか成一の手から葉介の手へと渡っていた。万真を抱き上げて、葉介は男を見やった。
「章吾が助けてくれたのか」
男はただ笑うだけだった。
二人を万真のベッドに寝かせると、葉介にソファへと促された。
男にソファを勧めてコーヒーを入れようとする葉介を弘行が押しとどめる。
「俺がします」
「ああそう。じゃあよろしく」
と言いながらもどことなく落ち着きなくソファに腰を下ろした葉介の姿を、成一は注意深く見守った。この展開にイマイチ頭がついていかない。
それは日向も同じらしく、壁にもたれたまま戸惑ったような表情で男と葉介を見比べていた。
「章吾は今なにを?」
ああ…と笑んだ男は、ふと日向の傍らに視線を止めて立ち上がった。男の動きを追い、気づく。
部屋の片隅、黒いラックにひっそりと置かれた質素な質素な仏壇。手前に置かれているのは万真の両親と祖父母の写真だ。
男はそれを見つめると、無言で手を合わせた。
ふと鼻先をコーヒーの香りがかすめた。見やると弘行が盆を持って立っている。どことなく複雑な表情で男の背中を眺めていた弘行は、成一の視線に気づくと慌てたように動き出した。テーブルにコーヒーカップを並べていく。
男が顔をあげ、振り向いた。
再びソファに戻りながら口を開く。
「もう10年近く経つんだな」
「11年になるよ」
葉介の背後のドアに目を向けて、苦く笑う。
「まさかあのこが例の双子だとは思わなかった」
「経緯を聞いても?」
心なしか葉介の口調が変わっていることに成一は気づいた。いつもの穏やかさがない。
「詳しいことは言えない」
「相変わらずだな」
今度は葉介が苦笑する番らしい。
悪いな、と謝り、男はカップに手を伸ばした。
「背中の怪我がひどくてな。癒すのに丸一日かかった。ま、痕も残さずきれいになおしてやったから安心しろ」
一瞬固まった葉介の表情がゆるんでいく。肩を落として息を吐き出すその姿に、三十代という年齢をはじめて感じた。
「――ありがとう」
「いや」
かすかに笑む男は葉介とそう変わらない年頃に見える。落ち着かない成一たちに気づいたのだろう、葉介がふと笑って成一を見た。
「ごめん、紹介してなかったね」
「お前丸くなったな」
「うるさいよ。こいつは甲斐といって、若い頃に『あっち』で良くつるんでいたんだ」
あっち。
ということはつまり。
「そもそも葉介さん、『あっち』のこと知ってたんですか?」
くすりと笑うその表情にぐらりと脳天が揺れた。
「うん。黙っていてごめん。昔はよく入り浸っていたよ。だから夜な夜な君たちがどこに行ってるのかもちゃんと知ってる」
えー。
「まーじでーすかー」
「必死にごまかそうとしている万真と千里がかわいくて、ついね」
「ついじゃないだろう」と、さっきまでの憔悴ぶりはどこへ行ったのか、相変わらずの茶目っ気を出し始めた葉介に気が遠くなる。
あの自分たちの苦労はなんだったのか。「葉介に隠し事をするのはあまり楽しくないね」と苦笑した万真の気持ちはなんだったのか。
必死に小細工をしていた自分たちが間抜けなピエロのように思えて、成一は疲労に肩を落とした。
ここ数日の不眠と疲労が一気に頭を重くする。
溜息をひとつ落として、「二人の様子見てきます」と言うなり背を向けた。背中で日向の気配を感じながら万真の部屋に入る。
冷房がない部屋は熱気がこもっていて、扇風機がむなしく空気を撹拌していた。ジワジワとセミの声が響く。
日向が静かにドアを閉めたのを確認して、成一はベッドに歩み寄った。タオルケットにくるまれて、寄り添うようにして眠る双子を見下ろす。
あらためて眺めると、ここ数日の心労のためか千里の目元には隈ができ、頬の肉も落ちていた。以前よりも尖ったように見える顎のライン。そしてそれは万真も同じだ。
こけた千里の頬に指先で触れる。しっとりと汗をかいた肌が少し荒れているのをみて哀しくなった。静香が羨んでいた千里の肌。
昨夜も眠れなかったと聞いた。それを知る葉介もきっと眠っていないのだろう。かく言う成一も一晩まんじりともしないで夜を明かした。
秀でた額にうっすらと浮いた汗をぬぐって自分のシャツで拭く。その手を今度は壁と千里に挟まれるようにして眠る万真にのばした。
目元を隠している髪をかきあげ、耳にかける。浮いた頬骨と目の下の隈が痛々しかった。頬をなでるとかすかにまぶたが震えたが、起きる気配はない。
二人の目元にかすかに残る涙のあとに眉をひそめた。
「ばかやろう」
呟いた声はかすれていて、我ながら泣き出しそうな声だと思った。
ベッドの脇にしゃがみこみ、白いシーツにひたいをつける。生温い風が髪を揺らした。
背中には日向の気配。
目を閉じるとこの悪夢のような数日間がまざまざと思い出される。
目の前には確かな存在感。
そのことに目頭が熱くなる。
自分がこんなにも二人に依存していたことに今さらながらに気づかされた。
「なんかさぁ。俺ってほんと役にたたねぇ」
呟いた声はくぐもっていて、扇風機のモーター音にかき消されそうだったが、日向には届いたようだ。日向が身動きしたのがわかる。
「千里がなに考えてるのかわかんねえ。万真を励ますこともできなかった。あー……くそッ」
なぜ何も語ってくれなかったのか。
あの夜、街灯の薄暗い光の下の千里は、今ほどではないが疲れた顔をしていた。眼の下に隈があるように見えたのは照明の加減ではないはずだ。
そんなになる前に、なぜ一言相談してくれないのか。
万真が目の前で掻き消えたあとも、千里のそばにいてやることしかできなかった。万真を見つけ出すことができなかった。
自分の存在意義がわからなくなる。
ただ、そこにいることしかできない自分。
「なにが鬼だよ。なにが幼馴染だ」
なにもできねえじゃねえか。
吐き捨てた時、なんの前触れもなく突然頭が重くなった。強引に頭を撫でられる。
朝シャワーを浴びたままの髪はぺしゃんこで、なんだか少し心もとない。
「…んだよ」
手はすぐに離れていった。と思うと次は肩に熱を感じる。
部屋は暑いほどなのに、日向の体温は心地よかった。
「お前がいたから、相馬も伊織も頑張れたんだと思う」
わかってる。
二人が自分をよりどころとして立っていることなど嫌というほどわかっている。
それでも、二人が助けを必要としているとわかっているのに、なにもできなかったことが悔しい。
目の前の双子は昏々と眠っている。
あれだけ心配をかけておいて、なんとも幸せそうな寝顔に思わず千里の鼻をつまんだ。
「こら」
すかさず伸びてきた日向の手に阻まれる。
「あーあ…」
吐き出して、シーツに顔を伏せた。
扇風機のモーター音にまぎれて二人の寝息が聞こえてくる。
穏やかな空間。
満たされたものを感じながら、成一は静かに目を閉じて、セミの声に耳を澄ました。
少年たちがドアの向こうに消えていくのを見届けて、男は笑った。
「しかし、あの葉介も今ではただの親馬鹿か」
丸くなったな。
そう笑った男は、葉介に視線を戻して目を見張った。
深々と頭を下げたままで、葉介は低く言う。
「…ありがとう」
「よせよ」
「君がいなかったらどうなっていたか。感謝しても仕切れない」
「やめろ。たいしたことはしてねえ」
「本当にありがとう。感謝する」
「あーっ」
唸って男は髪をかき回した。
「お前に頭を下げられると調子が狂う」
「それはひどいな」
ようやく葉介は顔を上げた。ふっと苦笑する。
「コーヒー、もう一杯どうだい?」
「もらうよ」
立ち上がった葉介に、壁にもたれてじっと二人を見守っていた弘行が慌てて声をかけた。
「マスター、俺が」
「いいよ。君はそのオジサンの相手をしてて」
「俺がオジサンならお前もオジサンだろうが」
男の声を背に受けた葉介は、数日振りにすがすがしい笑みを口元に乗せて、階下へと消えてしまった。
男と二人取り残されて弘行は落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「えーと。あの」
「あんたは店員? バイト?」
「あ、バイトです。その」
男は弘行から仏壇へと視線を移した。
「長いの?」
「はあ。まあ。あの、俺」
ふうん、と呟いて、男は低く声を落とした。
「もしかして葉介、今一人?」
「結婚はまだみたいですけど」
「そうじゃない」
男の意図がつかめず、首を傾げる。だが、男の視線の先にあるものを見て質問の意味を悟った。
家族の写真。
「……ご両親は、数年前に」
「――そうか」
声はひそやかに空気を揺らした。
沈黙が弘行にのしかかった。
写真を見つめる男が何に思い巡らしているのかはわからない。ただ、暗く翳ったメガネの奥の瞳にかつての出来事を思い出し、弘行は顔を伏せた。
男は何も言わない。
「あの、俺」
コーヒーの香りが強くなった。
音も立てずに階段を上がって来た葉介は、突っ立ったままの弘行に目を丸くする。
「あれ、まだ言ってなかったの?」
「はぁ」
困ったように頭をかいて、弘行は首の後ろに手をやった。
軽く笑んだ葉介が男にカップを手渡す。コーヒーの香りが鼻先をかすめる。
葉介が手招きした。ソファに促される。見ると、コーヒーは弘行の分も用意されていた。
促されるままにソファに座る。葉介の隣り。
男を見て、コーヒーを見て、葉介を見て、また男を見る。
落ち着かない所作に葉介が笑みをこぼしたのがわかった。
「なんだ」
視線を受けて男が首を傾げる。
カップを傾けてコーヒーをすするその様子を見てから、弘行は覚悟を決めて口を開いた。
「あの、甲斐さん。俺、弘行です」
「は?」
唐突な言葉に男は眼を丸くした。心持ち首を傾げる。葉介が笑みを深くした。
長細い身体を縮めて弘行は言い募る。
「あの、昔あっちで世話になった。弘行です」
「…………はぁ?」
乱暴にカップをテーブルに戻すと、男は中腰になり身を乗り出した。
「ちょっと待て」
おもむろに両手で弘行の顔をわしづかみする。
じろじろと舐めるように見回して、一言。
「お前、あのチビか」
「俺、まだチビっすか」
どこかピントの外れた弘行の言葉に葉介がくすりと笑みをこぼした。
「何だこの赤い頭! お前は猿か? そういや昔から猿だったけど」
「いや、その、甲斐さんちょっと」
ぐいと力任せにひっぱり上げられる。立て、と言われてしぶしぶ立つと、今度はいきなり腹を殴られた。
「ゲ…ッ」
「なんでそんなにでかいんだ! チビはチビじゃなきゃダメだろう!」
「そんなこと言われても。俺にだって成長期あったし」
「めちゃくちゃ腹立つなお前」
「いたたたっ、ちょっと甲斐さん」
かつてあっちでつるんでいた時からあまり成長していない甲斐を見下ろしていた弘行は、腹を立てた男に関節技をかけられてうめいた。
「痛いっす! マジ関節が!」
「俺の腰ぐらいしかなかったドチビが。こんなにでかくなりやがって生意気な」
「そんな言いがかりじゃないすか」
「うるさい。俺を見下ろすとはいい度胸だ」
「ジャイアニズムは相変わらずで…痛ぇ!」
もみ合う二人を微笑ましく見守って、葉介はカップに残るコーヒーを飲み干した。そして二人を尻目に万真たちの部屋に向かう。
「マスター! ヨースケさん! ヘルプ!」
「逃がすか!」
まるで子どものような二人に笑みをこぼして、静かにドアをあけた。
そして眼に映った光景に口元をほころばせた。
寄り添って眠る双子の傍らに、茶色い頭が伏せている。
ベッドに頭を乗せて眠る成一に身を寄せて、静かに寝息を立てているのは大柄な少年。
部屋は蒸し暑く、じっとしているだけで汗が吹き出てくるほどだというのに、少年たちは穏やかに眠っている。
ここ数日の騒動で心身ともに疲れ果てていたのだろう、苦しい体勢ながらも昏々と眠る二人を見下ろして葉介は眉を下げた。
どことなく疲れの滲んだ表情に胸を突かれる。
葉介は、言葉にできない感謝を込めて、二人の頭を静かに撫でた。