肌に感じる温もりに、万真は無意識に擦り寄った。
暑いくらいなのになぜか心地よい。
どこか遠くでジワジワとセミが鳴いている。
前髪をぬるい風がかすめて、万真はそっとまぶたを持ち上げた。
千里がいた。
静かな呼吸。穏やかな寝顔に口元が緩む。
かすかな息が肌にかかった。
肩にかかる重みは千里の腕だ。
こみ上げてきた面映さに肩をすくめる。
ふふ、と笑いを漏らしても、千里が目覚める様子はない。
万真は狭い隙間から手を出して、そっと千里の頬に触れた。
ぴくりとまつげが震えたが、まだ起きる気配はない。
ちょんちょんと頬をつついてみた。眉間に皺がよる。
「せーん」
眉の間を指でこすりながら呼びかけると、口元が緩んだように見えた。
「へへ」
なんだか無性に嬉しくて、子どもの頃のように千里の胸元に額をすりよせた。その時。
「あー、お嬢さん」
「うひゃっ!」
突然振ってきた声に万真は跳ね起きた。見ると、弘行が戸口にもたれて苦く笑っている。
「仲直りしたのはけっこうだけど、最後の一線だけは越えないでほしいな」
「な、な、何言ってんの」
「さすがのお兄さんも今のは鳥肌立っちゃったよ」
万真の顔は真っ赤だ。今にも湯気を吹きそうな形相で枕を掴み、振りかぶる。寝心地が悪くなったのか、千里が不満げに身動きした。
「葉ちゃんの真似なんかするなー!」
「あ、ちょっとは似てた?」
飛んできた枕を投げ返す。両手で掴むと、万真は再び振りかぶった。
「へたくそっ、全ッ然似てないよ!」
「………かず、うるさい」
こんな騒ぎの中で千里が起きないはずがなく、慌てた万真は枕を取り落とした。千里は半身を起こして枕元の時計を掴んでいる。
「あー……もう九時かよ」
呟いてごろりと仰向けになり、しばらくぼんやりと天井を眺めていた千里は、不意に傍らの万真に視線を移した。万真の視線を絡めとって、ふわりと笑う。思わず万真もへらっと笑った。
ベッドの上に座り込んでいる万真に両手を差し伸べて、笑いながら、
「起こして」
と言う。
そんな甘えた仕草が恥ずかしくて、万真はへらへらと笑いながらその手を取った。
身を起こした千里の手を話し、ベッドを降りようとするとしゃがみこんでいる弘行を発見する。
「弘くん?」
「いやー、なんつーかさー」
わしわしと真っ赤な頭をかき回して、弘行はぼそぼそと呟いた。
「砂吐きたくなる気持ちがわかった気がするわ」
万真はきょとんとしている。
そんな万真と、ベッドの上であぐらをかいたままぼんやりしている千里を見やって弘行はちらりと苦笑すると、「よいせ」と立ち上がった。
中途半端に開いたままだったドアに手をかけて二人に声をかける。
「さっさと着替えて下りてこいよ。お仲間がきてるぜ」
わかった、と気の抜けた声を返してきた千里に、弘行は意地の悪い笑みを向けてから部屋を出て行った。
閉じたドアを睨んでから千里を振り返る。まだベッドの上に座ったままの千里は、ようやく目が覚めたのだろう、先ほどとは打って変わって神妙な顔をしていた。
真剣な表情に知らず万真の背中が伸びる。
「――怪我は?」
「もう大丈夫。傷痕も残ってないって」
言うなり、千里の手が伸びてきた。Tシャツをめくられる。背中に感じる視線に、万真は逃げ出したくなる衝動をなんとか我慢した。
無言のまま時間が過ぎて、万真の我慢も限界近くなった時、ようやくTシャツが下ろされた。そのまま後ろから抱きしめられる。
「……よかった」
耳元に落ちてきた声があまりに苦しそうで、万真は声をなくした。
「よかった」
腕に込められた力が今までの千里の不安を物語っているようで、しくりと胸が痛んだ。そっと腕に手をかける。
「ごめんね」
心配かけて。
返事の代わりに強く抱きしめられた。
「俺こそごめん。不安にさせた。いっぱい傷つけた」
ごめん。
落ちる言葉には疑いようのない後悔が深く滲んでいて、千里の心情を雄弁に物語る。
ここ一週間のことを思い出した。
突然の千里の行動。あの喪失感と絶望は今なお胸に巣食っている。
でも、今はこの暖かさにひたっていたい。
そっと目を閉じて心の疼きを押しやると、優しくその腕を叩いた。
「ごめん」
「……もう、勝手にどっかに行っちゃったりしない?」
「二度としない」
「なにかあったら、ちゃんと相談してくれる?」
「うん」
「約束だからね」
「うん」
「破ったら絶縁」
「…それは、ちょっと、困るなぁ」
くつくつと耳元で咽喉が鳴る。
見上げると、見慣れた瞳が細められた。
微笑むと、安心したように腕の力が緩んだ。
「千」
「うん」
「納得できる説明、してね」
包み込むように回されていた腕が一瞬硬直したように感じたのは、多分、万真の気のせいではないだろう。
笑顔の先で黒い瞳が泳いだが、やがて観念したのか力ない笑みが返された。
身支度を終えると、それを待っていたかのように成一と日向が現れた。手にはそれぞれ朝食が乗ったトレイがある。
厚切りのトーストに、スクランブルエッグ、ソーセージ、そしてサラダ。二人の体調を気遣ってか、店で出されるモーニングのメニューにホットミルクが添えてある。葉介の心遣いが嬉しい。
テーブルの上にトレイを置いた成一の背中に飛び掛る。
「イチー」
「あぶねっつの。身体は?」
「全然大丈夫」
「ホントに?」
疑わしそうに振り返った成一の首にかじりついたまま、
「何なら脱ごうか?」
そう笑ったら拳骨が降ってきた。
「ばっか、日向の前でナニ言ってんだ」
日向の前じゃなかったらいいんだろうか。
ちらりとそんなことを考えて、「イマイチ一の考えていることって良くわかんないな」と結論づける。全く同じことを自分がぶら下がっている相手が考えているとはつゆも思わず、なぜか眉間に皺を寄せている日向を見やった。
腕の力を抜いて成一からおりる。
「日向」
声をかけたら、眉間の皺がなくなった。まっすぐ降ってくる視線。
「心配かけてごめん」
まっすぐな瞳になぜか息苦しくなった。
鋭い目元が緩む。く、と持ち上げられた口元を見て、今度は胸の辺りが苦しくなって。
「……無事でよかった」
静かな声と穏やかな笑みに、なぜか涙が出そうになった。
「あー、万真サン」
成一の声に振り向くと、困った顔で立っていた。千里もどことなく複雑な表情をしている。
「早くメシ食ってくれ」
二人の表情の意味はよくわからなかったが、とりあえず笑って頷いておいた。
問い詰められることがわかっているからだろう、千里の表情はどことなく硬く、視線もテーブルの上に落ちたままこちらを見ない。その強情な様子に成一の怒りが再燃する。
万真はというと、成一の顔を見てさっと視線をそらしたきり、食事に専念している振りをしていた。寝起きであまり食欲がないのか、トーストを少しかじったっきり後はもっぱらサラダをつついている。それでも落ち着きがないのは成一の視線に気づいているからだ。
傍らでは、日向が先ほど弘行が運んできてくれた麦茶のグラスを揺らしている。氷のかすかな音すら二人にとってはプレッシャーのようで、グラスが揺れるたびに落ち着きをなくしていった。
わかってやっているなら日向も相当性格が悪い。
成一の視線に気づいて、無言で見返してきたところをみると、どうやら故意のようだ。見た目に反して自分たちよりははるかに穏和な日向でも、今回のことではかなり怒っていたらしい。
自分の中での日向の評価をさりげなく変更して、目の前で一生懸命口に詰め込んでいる双子を見やった。
ほとんど手をつけていない万真と違って千里はもう食べ終わろうとしている。
スクランブルエッグをつついている万真の姿に、そんなに食が細かっただろうかと内心首を傾げていると、隣りから声がした。
「伊織、無理して食うことないぞ」
きょとんとした顔で双子が日向を見る。三人の視線を受けて、日向は居心地悪そうにしながらも口を開いた。
「まだ、胃、本調子じゃないんだろ」
思わず見やった万真は、決まり悪そうに口を尖らせていた。
「聞いてねえぞそんなの」
言った言葉は自分でも驚くほど非難がましい。
「まさかまた吐いたんじゃねえだろうな」
問うと、万真は困ったように視線を落とした。その仕草で疑惑が確信に変わった。
「…一回だけだよ」
千里の眉が跳ね上がる。
「なんで言わなかったんだよ」
「……言うも何も、原因は誰かさんだし」
とたん、千里は沈黙した。
気まずい表情で押し黙った千里を見て成一は身を乗り出した。
「で、千里。説明しろよ」
「カズがまだ食ってるから」
「ごちそうさま」
絶妙のタイミングで万真が手を合わせた。
「全然食べてないだろ」
「胃の調子が悪くて」
にっこり笑ってそう言われると、千里に返せる言葉はない。最近成一たちに慣れたのか、軽い口論になると決まって仲裁に入る日向も、今回ばかりはこちら側だ。
三人の視線を受けて千里はようやく諦めがついたのか、やけに重たい溜息を落とした。
両手を上げて、呟く。
「……わかったよ」
それからわずかに視線を下げて、千里は話し始めた。
曰く。
千里たちの両親が、かつて、あの世界に出入りしていたことを知った。
不確実な情報を万真に伝えて動揺させたくなかったから、一人で調べようとした。
成一にも知らせなかったのは、成一が顔に出すぎるから。
(敵を騙すにはまず味方からって言うけど、そりゃいくらなんでも俺のこと信用しなさすぎだろう)
その段になってまずひとつ突っ込みたかったが、黙って千里の話を聞いた。千里が話している間中、万真の口元がもの言いたげに動いていたが、沈黙を守ることに決めたらしい。瞬間湯沸し器には珍しく堪えている。
千里の話は続く。
隠し事をしているのが苦しくて、余計に顔を合わせられなかった。だから避けた。それは本当に申し訳ないと思っている。
両親のことは少しだけわかった。
あの世界で、かなり大きなチームの中心的な存在だったらしい。
だけどそれだけだ。
それ以上のことはわからなかった。
静かな部屋の中、千里の声だけが落ちる。セミの声すら聞こえない。
「――でも、今は後悔してる」
あんなことをしなければ、万真は怪我もしなかったし、ここまで傷つくこともなかった。
……という述懐で締めくくられたが、納得できるはずがない。
成一はうつむきがちな千里を睨みつける。
「それが理由?」
「うん、まあ」
頭がいい千里の、あまりにもお粗末な説明。信じろというほうが無理だ。千里もそれがわかっているのだろう、歯切れが悪い。
「俺もずいぶん馬鹿にされたな」
千里は応えない。
腹が立った。
馬鹿にするなと怒鳴りたい。
衝動を堪えて、組んでいた腕を解いて人差し指を突きつけた。
「じゃあ聞くぞ。おじさんたちのこと、どうやって知ったんだ?」
千里は答えない。困ったように眉を下げ、沈黙している。
「誰かに聞いたのか? 誰に」
「………それは言えない」
「なんで」
「ごめん」
頭を下げられても、それで納得できるはずがない。
乱暴に髪をかきむしると、傍らから気遣わしげな視線が飛んできた。もちろん無視したが。
「お前わけわかんねえよ。なんで言えないのかも言えねえの?」
「ごめん」
「あーっ」と叫んで頭をかきむしった。ものすごく頭にきていた。
そんな成一に業を煮やしたのか、今度は万真が口を開く。
「お父さんたちがあっちに行ってたのって、どう考えても20年は前だよね。なんでそんな昔のことを知ってるの。だいたい、どうやって知り合ったわけ?」
「……ごめん、それはまだ言えない」
「千ッ」
叫んで万真が立ち上がったときだった。
「――それぐらいにしておきなさい」
静かな声が降ってきた。
振り向くと、階段の脇、壁に寄りかかるようにして長身の青年が立っていた。
「葉ちゃん」
千里の口から力ない声がこぼれる。
葉介は無言で背を伸ばすと、まっすぐ千里に向かってきた。
一度も口を開くことなく千里の足元にひざまずき、しっかりと瞳をあわせる。
「誰から聞いたか、どうしても言えない?」
千里はしばしの逡巡のあと、諦めたように目を伏せた。
「……ごめん」
予期していた答えだったのだろう、葉介も眉を寄せて息を落とす。
「――そう」
呟くように声を落としてから、青年は苦く笑った。
「千里ももう高校生だから、隠し事のひとつや2つあるのは当たり前だし、するなとも言わない」
葉ちゃん、と万真が声を上げたが、眼で制される。
「僕にだって君たちに言えないことのひとつや2つはある。だから無理に言わせようとは思わない。本音を言うと、千里が何を隠しているのか、なぜそこまでかたくなに隠すのか、知りたいけどね」
葉介はちらりと笑い、次いで真剣な表情になった。
「突き放すような言い方かもしれないけど、何をしようと千里の勝手だし、いちいちそれに口を出す気もない。君たちも、自分で自分の行動の責任を取ることを覚えていい年齢だからね」
千里はただ黙って葉介の言葉を聞いていた。
「だけどね、千里。これだけは覚えておいてほしい。人が一人動けば、必ずなんらかの形で誰かに影響を与えるんだ。それは君も例外じゃないよ。今回のことでどれだけの人が動いたのかは僕にはわからない。だけど一人や二人の話じゃないだろうことはわかる」
成一はふと弘行を思った。今回のことで巻き込まれた人間。弘行やその仲間たちもそうだし、葉介や、そして昨日のあの男もその一人だろう。成一の預かり知らぬところで、もっと大勢の人がかかわっていたのかもしれない。
「……みんなに心配かけたことは、本当に反省してる」
「うん。一ヶ月ぐらいは反省しておいてほしいところだけれど、それとは別にね。今回のことだけじゃない。普段でも、学校でもそうだよ。千里は一人じゃないし、周囲にいるのは万真と成一君だけじゃない」
神妙な面持ちで聞いている千里を見上げて、葉介は微笑んだ。
「周りにもっと目を向けて。そろそろ世界を広げてもいい頃だ」
万真もだよ。
そう囁いて、葉介は立ち上がった。千里の頭をやや乱暴な手つきで撫でる。
「成一君も、このぐらいで勘弁してやってくれないか」
困ったような表情でそう請われれば、否とはいえない。
不満は大量に溜まっていたが、反論しても望ましい返答が返ってこないのは明らかだったので、黙って頷いておくにとどめた。
万真も不満そうではあったが、最後の葉介の言葉に思うところがあったらしく、沈黙している。
成一たちの反応ににこりと微笑んで、葉介は再び千里に視線を落とした。
「でも、それと、みんなに思い切り心配をかけたこととは話が別だ」
顔を上げた千里に、成一が久しぶりにみる輝かんばかりの笑顔を向けて。
若き家長は宣言した。
「自分の行動の責任は取る。さあさっそく実践してみようか」
「シンデレラ、テーブルの上片付けろ」
「…へーい」
弘行の言葉にトレイと台拭きを持ってカウンターを出て行く後ろ姿はいつになく覇気がない。馴染みの客たちがくすくすと笑いながらそんな少年を眺めている。
午後三時。あれからずっと「シンデレラ」と呼ばれ続けて、最初はそれなりに真面目に対応していた千里も、さすがにげんなりとした表情を見せるようになっていた。
葉介は涼しい顔でそんな千里にあれこれと用事を言いつけている。当然のことながら、嬉々として千里に絡むのは成一と双子の片割れだ。
「シンデレラ、水持ってこい」
「これ飽きた。別の雑誌持ってきてよシンデレラ」
二人とも今回のことはかなり腹に据えかねているのだろう、言葉には全く容赦がない。納得出来ないもやもやをそのまま千里にぶつけているようだ。その傍らで日向がひとり我関せずといった態度でノートを写しているのが、なんとも彼ららしくて弘行の笑いを誘った。
客たちは皆何かの罰ゲームだと思っているらしく、笑いながらそんな千里たちを微笑ましく見守っている。
ふてくされた顔で戻ってきた少年は、ニヤニヤしている弘行の顔に気づくと眉間の皺を深めた。
「…で、次は何?」
「んー、何してもらおっかなー」
言っているところに買い物から葉介が戻ってきた。千里を見て、次いで店内を見渡して取り立てて急な仕事はないと判断したのだろう、簡潔に「トイレの掃除」と言い渡す。
「…へーい」
「シンデレラ、返事がかわいくないね」
「無茶言うな」
「笑顔はどこに忘れてきたの」
「葉ちゃんこそ笑顔がないよ」
「大丈夫、笑わないのは千里の前だけだから」
「………トイレ掃除行ってきます」
「ハイ行ってらっしゃい」
二人のやり取りに、弘行は噴きださないようにするだけで精一杯だった。力を入れたせいで腹が痛い。悶絶していると冷たい視線が降ってきた。
「弘行くん、仕事」
「はーい」
さっきのやり取りを思い出して小首を傾げてみたら、ますます視線が冷たくなった。
「かわいくないね」
「失礼っスね」
かわいげがないのはどっちだと一人ごちながら、カップ磨きを再開する。
ちらりといたずら心が湧きあがったのは、思うに暇だったからだろう。
カウンターを片付けている葉介を横目で見やって、弘行は抑えた声で言った。
「でも、マスターの隠し事って、ひとつやふたつで足りるんですか?」
カウンターを拭く手が止まった。
「…なにからつながる“でも”なのかな?」
「さっきの説教。マスターの隠し事って俺が知ってるだけでも両手じゃ足りませんよね」
「立ち聞きとはまた行儀の悪い子だ」
澄ました顔は揺るがない。
「いやでもさっきの話は感動しました。かつてのマスターが実はあんなこと考えながらあーんなことやこーんなことしてたのかと思うとあっ思わず涙が」
千里の勝手、自己責任が云々のくだりでは心の中で盛大に突っ込みを入れたかった弘行だ。解消し切れなかった欲求をここぞとばかりに開放する。
「いやだな、弘行くん。そんな人聞きの悪い」
「マスターほんとお父さんしてますよねー」
葉介は笑顔だ。さりげなく距離を置きながら、グラスを三つ取り出して氷を落とす。麦茶を注ぐと、氷がきしむ音がした。
「でもヨースケさん、まさかあのままにしておくつもりはないっすよね」
問いが示していることを、葉介はすんなりと理解した。笑みの質が変化する。
「…もちろん」
「心当たりは?」
「弘行は?」
問い返されて、一瞬視線を泳がせた。脳裏をよぎるのはある光景。
千里たちの両親とつながる糸は、目の前の男以外には一本しか知らない。
「――たぶん」
「頼んでも、いいか」
「時給100円上げてくださいよ」
笑って言うと、甘い笑顔で返された。
「部屋の用意はしておくよ」
まじすか。
底の知れない笑顔に知らず腰が引けてくる。
「……えー、それはそれ、これはこれってことで」
汗をかいたグラスを乗せたトレイを持ち上げて、何か言われる前にカウンターを出た。
なぜ葉介があんなにも同居にこだわるのか理解できず、首を傾げる弘行は、傍目に自分がどれだけ不健康に見えているのか気づいていない。
(根っから心配性なんだよな、あの人は)
心の中で息を落として、高校生たちへと歩み寄った。
宿題が広げられているテーブルの隅にグラスを固めて置き、空いたグラスを回収する。
「弘くん、シンデレラは?」
「さぼり?」
「いや、トイレ掃除」
なんだ、と笑う二人から、黙々と宿題に取り組んでいる日向へと視線を移す。
「それ、今日中に終わるのか?」
「…大丈夫です」
低い声。
千里たちとはずいぶんタイプが違うだろうに、意外と馬があっているようなのが不思議といえば不思議だ。
きっと日向がオトナなのだろうと一人で結論付ける。
大柄で目つきが鋭い少年が三人とともにいる様子も、いつの間にか見慣れてしまっていた。
気がつけば、三人に受け入れられていた少年。
そう考えると、不思議な感じもする。
もしかしたら弘行が思うよりもずっと、千里たちの世界は広がりつつあるのかもしれない。
「大変だね高校生。ま、頑張れ」
「弘くんこそベンキョーいいの?」
「いや全然よくねえよ」
このところの騒動で、実は全く勉強できていない。
けらけらと笑う万真の頭を軽く叩いた。
「お前らこそ明日から学校だろうが。サボらずちゃんと学校行けよ」
まあ、行っても万真は寝ているだけだろうけど。
そんなことを考えていた弘行は、一瞬強張った万真の表情に気づかなかった。成一が気遣わしげな視線を万真に投げる。
日向も手を止めて、そんな二人を訝しげに見やった。
一瞬流れた奇妙な空気にようやく気づいて弘行は笑う。
「なんだ、実はサボる気だったとか?」
「もういいから弘さん仕事しろよ」
成一に邪険に追いやられ、笑いながらカウンターに戻る。
千里が戻ってきたのを確認してから、「水まいてきます」と断ってから店を出た。
とたんに降りそそいでくる日差しに目を細める。
明日から九月だというのに、日差しはまだ強い。ただ、空高く広がる層雲に、秋の訪れを感じた。
ホースで水をまくと、ほんの少しだけ暑さが和らいだような気がする。
晴れ渡った空の端には入道雲。
暑さはまだまだ続きそうだ。
水を止めて、ぼんやりと空を眺める。
「もう九月かぁ」
呟いて――唐突に理解した。
先ほどの万真の様子。成一の表情。
自分のあまりの無神経さに眩暈を覚えた。
(馬鹿か、俺)
口から出た言葉を撤回しようにももう遅い。
溜息を落としてから、のろのろとホースをまとめる。
強い日差しがじりじりと肌を焼く。
空を仰ぐと、傾いた太陽が弘行を見下ろしていた。
季節が変わる。
明日からの日々と、予想される残暑の厳しさに、弘行はひっそりと溜息をついて、店へと続くドアを開けた。
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