その声に、今にも力を放とうとしていた両者の動きが止まった。
くすくすと、押し殺した声が道路に響き渡る。周囲にそびえるビルに反射して笑い声は何十にも重なり合い、この世ならぬハーモニーを奏でる。
どこか浮世離れした笑い声に、成一の背筋をなにかが走った。
「…誰や。出てこんかい!」
苛立たしげな怒声が上がる。
声の調子が変わった。
「あらあら。ずいぶん粗野なお客さんね。礼儀作法って言葉は地元に置き忘れてきちゃったのかしら? 他所のエリアでずいぶんと大きな顔してくれちゃって。せめてもうちょっと殊勝に振舞っていればまだかわいげがあるのに」
甘い声は冷気を含み、全員の言葉を凍らせる。
我に返った千里は、硬直している成一の腹を肘で軽く小突いた。
「おい」
「……ああ」
成一も気づいた。
この声には、聞き覚えがある。
「――悪い子には、お仕置きしなくちゃねぇ」
語尾が消えたその瞬間、周囲から光が消えた。
そう遠くもないところから狼狽した声が上がった。
闇の中、ぽう、と青白い光が浮かび上がる。
光はひとつ、二つ、と数を増やし、ゆうらりと揺らめきながらゆっくりと動き出す。
「…今度は人魂かよ」
げんなりとした声で成一が呟いた。
人魂は無数に増殖し、揺らめきながら徐々に円を描き始める。その円の中に、なにかが現れ始めた。
ゆらゆらと、なにかが揺れている。
長く――細く――それは、長い長い女の髪だった。
高い悲鳴が聞こえた。おそらく、関西の女性たちだろう。
青白い光に照らされ、現れたのは、一人の女だった。
濡れているのだろう長い髪は、女の全身に張り付いている。
もとは白かったのだろうワンピースは赤や茶で染め上げられている。
顔を覆う髪の間から、やせこけ、色を失った肌と、異様な輝きをもつ瞳がのぞき、千里たちを見据えた。
別のところでも悲鳴が上がったところを見ると、全員の眼にこの映像は見えているのだろう。
す、と音もなく腕が持ち上がり、千里を真っ直ぐに指し示した。その腕には肉が一切なく、まさに骨と皮のみ、という印象を受けた。
はだしの足が一歩踏み出す。
ぴしょん、と滴るのは、赤黒い液体。
鬼火に照らされたその姿は、いっそ幽遠とすら言えた。
狂乱した絶叫が聞こえた。「こんといて」と繰り返すその声は恐怖に彩られている。
成一はそっと千里に寄り添った。その気配を感じ、千里はかすれた声を発する。
「……消せるか?」
「いや…能力の感じがわからねえから、ちょっと……。おまえはどうだ? ゼンがやったみたいな」
「……アレも、どういうふうに力が働いたのかわからないから、コピーできない」
「…役立たず」
「…お互い様だろ」
女性は血を滴らせながら確実にこちらに近づいてくる。気のせいか、気温までもが下がったようだ。
「どうする」
千里が低く呟いた時。
「いいかげんにさらせ薄気味悪い真似しくさって!」
大音声とともに、一瞬で周囲の闇が拭い取られ、同時に眼の前の幻影も全てが消え失せた。
突然のことに千里たちはとっさに反応できなかった。
現れた街頭の光がやけにまぶしく感じられ、眼を細める。
幻覚は、どこにもなかった。
眼の前には、先ほどと全く変わらない、傷つき形を変えた道路と、乱立するビル、そして仁王立ちしている男の姿がある。
「…ふうん。伊達に東京にきているわけじゃないってことね」
さして残念そうでもなく、平然として声が呟く。
「伊達でこんなけったくそわるいとこにこられるかい。それよりさっきからなんやねん。勝負に横槍入れんなや」
「下品ねえ」
「じゃかあしわ」
「そこら辺が下品だって言ってるの」
明らかに怒気すら越えて殺気を含む男とは対照的に、声はどこまでも伸びやかだ。
千里は数歩後ろに下がった。それにつられて路地に入り込んでしまった日向と成一に囁く。
「…今のうちに、とんずらしないか」
日向は怪訝な顔をしたが、成一は一も二もなく賛成した。ウィッチが絡んできたとなると、こんな場所からは即刻退散した方がいい。
よし。
頷いて、くるりと回れ右をした三人に、声が降ってきた。
「こら、どこに行くのよ。行っていいなんて誰も言ってないわよ」
「……チッ」
低く舌打ちしたが、千里はおとなしく足を止めた。ふたりも同様にして、不承不承その場に佇む。
「…万真がいないだけマシか」
成一が複雑な声音で呟いたとたん。
「あ、大丈夫。あの子の居場所はちゃんとわかってるから」
という言葉が降ってきて、とたんに千里と成一は渋面になった。
「…まあ、その件は後にして―――ちょっとそこの関西人」
「一括りにしぃなや! 俺は大阪人や!」
少年が吠えた。
その隣では、優しげな面立ちを険しくしている青年が低く吐き捨てる。
「俺は京都やしな。なんでもかんでも『関西』言うといたらそれでいいやろ言うこっちの考えはさすがに俺も許せへん」
少女も深く頷いて口を開く。
「ええこと言うやん。一括りにされんのってめっさ腹立つ。ってちょっとあんた! どこの誰か知らへんけどな、姿見せたらどうやねん! どうせ暗闇からこそこそするしかでけへんようなぶっさいくな女なんやろ!?」
その啖呵には聞いていた成一たちも思わず息を飲んだ。
地獄の静寂が降りる。
「………乳臭い小娘がなーにをいきがってるのかしらねえ」
優しい、優しすぎる声が静かに降りた。
ふわ、と頭上から一人の少女が舞い降りてくる。
緩やかにうねる長い髪が宙を舞い、彼女が地面に音もなく降り立つと同時に、彼女を優しく縁取った。
その、端麗な顔にあるのは冷ややかな笑み。
「…誰が不細工ですって?」
関西側の少女たちが顔色を変えるのが、はっきりとわかった。
薄暗い街灯の明かりの中、彼女は輝いていた。
それほど背は高くはないが、肢体のバランスが取れているため実際よりも高く見える。ほっそりとした脚は細身のパンツに包まれていて、その脚線美を露わにしていた。卵形の小さな顔立ちは、一目で美形とわかる。
男たちは、はっきりと少女たちの負けを確信した。
少女たちも悔しそうに顔をゆがめている。
ウィッチは妖艶な笑みを浮かべると、背後に意味ありげな視線を送った。
「あなたたち…そのこになにかよけいなちょっかいかけていたわよね。彼はあたしのお手つきだから」
「違う」
間髪いれず千里が言ったが、それはあっさりと無視されてしまった。
「それに、さっきずいぶんいじめてくれた子。あの子も、あたしが目をつけている子なの。顔に傷一つでもつけたらその場で殺してやろうと思ったけど、その必要はなかったみたいね。飛び入り君に感謝しなさいね」
日向が問い掛けるような視線を二人に向けたが、二人は全身で無関係を主張した。
そんな彼らを無視して、ウィッチの主張はさらに続く。
「それに、ここは一応あたしのテリトリーだから。赤龍さんも、古株だからって人の家にずかずか土足で踏み込んだ揚句散々暴れまわってそれでも笑って許してもらえるなんておこがましいこと考えてないわよね? 知らなかった、なんて今更ナシよ?」
釘を刺されてはガクはなにも言えない。
ウィッチはことさらにっこりと微笑んだ。
「――じゃあ、お仕置きタイムといきましょうか」
緊張が走る。
張り詰めた空気を破るように、千里たちの斜め右の路地から、うっそりとひとりの男が姿を現した。
その巨大な体躯を見て誰もがギョッとする。
男は鋭い目で周囲を睨みつけると、ふ、と右手を動かした。
とたん。
一瞬、空気がたわんだように見えた。
次の瞬間、千里たち三人を除いた全ての人間が地に倒れ伏す。どこかでどさどさと音がしたところを見ると、姿を隠していた赤龍の人間もやられたのだろう。
一瞬のうちに起こった出来事に唖然としていた千里たちだが、悠然と振り返ったウィッチに気づいて顔を引きつらせた。
「あらやだあなたたちにはなにもしないわよ。恩を売っとこうとかそんなことこれっぽっちも考えてないから安心して」
「……つまりは、恩を着せられたってことか」
「………うっわ。嫌の極地だな」
千里と成一の呟きが聞こえていないはずはないのに、彼女は相変わらず謎の笑みを浮かべている。
「あらなあに? お姉さまありがとう? もーお礼なんかいいのに。でもどうしてもって言うのなら、あなたたちが一晩あたしの意のままになるってことで許してあ・げ・る」
その言葉が終わらないうちに三人は踵を返し、駆け出した。
「あ、ちょっとー!」という声が聞こえたが、無視する。
「おい、伊織は」
日向の声にも、二人は足を止めなかった。
「…あいつにゃ悪いけど、後だ。俺も貞操は惜しい」
「あいつがいるビルはわかってるから、とりあえず遠回りしてでも迂回してでも時間がかかってもいいから」
「……そんなにあの女が怖いのか」
千里と成一はぴたりと口を閉じた。そして同時に日向を見た。
「――そんなわけないじゃないか」
くるりと振り向いたその顔は、思わず身を引きたくなるほど真剣だった。
千里をして、万真を後回しにさせるほど、危険な女なのかと日向は記憶に留め置く。それにしても美人だった、という感想も忘れずに。
(まあ、あいつがついてるのなら、心配はないか)
万真を助けたのは、間違いなく慧だ。彼が万真に危害を加えるはずがないから、彼女は安全だろう。成一も、そこら辺を留意してこの判断を下したに違いない。
ウィッチが追ってきていないことを確認してから、三人はようやく万真がいるビルへと足を向けた。
鉄の柵を握る手が震えていた。
目にしたことが理解できず、万真はただ呆然と眼を見張る。
一瞬、波のようなものが大きくうねったかと思うと、次の瞬間男たちがその場に崩れ落ちたのだ。総毛立つほどの、強い力。
女が千里たちに向かって何事か言っている。千里たちが踵を返し、路地の向こうへ姿を消した。
(どこへ――)
どこへ行こうというのか。自分はまだ、ここにいるのに。
思わず声が漏れそうになったとき、ひとり立っていた女性が振り仰いだ。その顔にある勝ち誇ったような笑みを見て、反射的に万真は身を引いた。
逃がさない。
そう言われたような気がして、膝が震えた。
ペタン、とその場に座り込む。
夏だというのに、寒気がした。
千里がいない。
成一もいない。
――誰も、いない。
目の前が真っ暗になる。深い闇にも似た恐怖に身体を震わせたそのとき。
「大丈夫か?」
闇を切り裂く一条の光のように、平淡で抑揚がない中に優しさをたたえた声が耳を打った。
びく、と身体を震わせ、上げた眼の先には、一人の少年がいた。
宝石のような、きれいな瞳に映る己の顔を見たとたん、すとん、と震えがおさまった。なぜかはわからない。彼の端麗な面立ちの中に心配そうな表情を見たからかもしれない。
恐怖はいまだ消えたわけではなかったが、先ほどのような心を圧倒するほどのものではなくなっている。心を落ち着けさえすれば、忘れることができる程度だ。
万真はのろのろと首を動かした。
大丈夫。
喉はまだ硬直していて声を出すことはできなかったが、それは彼に伝えるというよりはむしろ、自分に言い聞かせるためのものだ。
差し出された少年の手にかすかに首を振り、かすれる声をなんとか絞り出して尋ねた。
「…あの、女は?」
少年は万真を見つめていたが、ややあって視線を眼下に注いだあと、静かに言った。
「もういねえ」
千里たちは? と聞きたくなる衝動を、万真は無理やり押さえつけた。
大丈夫。
彼らが、自分を放っていくことはない。
大丈夫。
ともすれば恐怖に飲み込まれそうになる心に強く言い聞かせると、万真はゆっくりと腰を上げた。膝が震えないことに安堵して、しっかりと少年を見つめた。
暗がりで見ても、やはり少年はきれいだった。
以前と同じ感想を覚えながらも、無理やり作った余裕の中、万真はじっくりと彼を観察する。以前、そしてさっきは、そこまでの余裕がなかった。それに、先ほどは頭が朦朧としていたこともあってか、ずいぶん彼に心を許してしまっていたような気がする。
だが、気を許してはいけない。
彼は『他人』なのだから。
心の中でそう唱える。
少しずつ、いつもの調子を取り戻してきたようだ。
少年の身長は、あまり高くなかった。
おそらく170の半ばを出ないだろう。成一よりも若干低いと目算する。明るい茶の髪は猫ッ毛らしく、ふわふわと好きな方向に遊んでいる。
年のころは、万真とそう変わらない。
特筆すべきは、やはりその顔だ。
一言で『美形』と表せる。
そのガラス玉のような瞳を見つめながら、万真は不思議な違和感をぬぐえずにいた。
どうしても、恐怖が湧いてこないのだ。
この場合の恐怖は、警戒心と言い換えてもいい。
初対面の人間に、必ず抱くもの。他の人々とは違って、万真は警戒心がことのほか強い。初対面、いや、数度逢っても簡単には警戒を解かない。日向にさえ、いまだに警戒を解いているとは言い切れない。
それなのに、この目の前の少年にはその警戒心が働かないのだ。
それはすなわち、万真の心を守る機能が、彼に限り働かないということだ。
それどころか、彼には不思議な親しみすら抱いていた。
初めて彼の顔を、その瞳を見た瞬間に心に沸きあがった、懐旧の思い。
危険信号が鳴り響く。
警戒心を抱けない相手。それは、いろんな意味で危険だ。
万真は用心深く距離をとりながら、口を開いた。
「…なんで、助けてくれたの?」
少年は軽く眼を見開くようにした後、小首を傾げた。
「なんとなく、じゃいけねえか?」
「あんまり納得できない理由だね」
少年もそれは感じていたのか、特に反論はしなかった。考える素振りをしてから、口を開く。
「…女が宙吊りにされていてその下では火が燃え盛っていたりするのに、見捨てて逃げるような人間じゃねえってことだな」
素っ気無い物言いにも、特に不快感はない。
そのことに酷く困惑する。
なぜ?
いくら問い掛けてみても、答えは出ない。
――悪い人では、ないのかもしれない。
以前逢ったとき、あんな状況ではっきり敵対していたというのに、彼は宙に放り出された万真に向かってとっさに手を伸ばした。その顔にあった驚きと焦りは、今でも覚えている。
(……あーうー。なんか変な感じ)
もやもやしている。
なにか、大切なことを忘れているような。
頭と、そして胸の奥が鈍く痛み始める。
その感覚が、以前にも感じたことがあるものだと、誰かが告げていた。
だが、その根源にあるものを理解することを、万真は拒否した。
思い出してはいけない。
それは、自分を傷つけるものだから。
眼を向けてはいけない。
しかし、その思考そのものが、以前と同じ繰り返しだということは、漠然と理解する。理解したくないのに、わかりたくないのに、わかってしまう。
眼をそむけなければ。
蓋をしてしまわなければ。
目覚め始めていた意識を、無理やり眠りにつかせる。
疼痛は治まったが、代わりに万真は、一つのことを自覚してしまっていた。
――自分は 彼に 好意を持っている。
その理由には、眼を向けたくない。
同じことを感じたのはいつかなど、考えたくもない。
と、それまで続いていた沈黙を、目の前の少年が破った。
「…遅いな」
その声に顔を上げると、少年は表情のない顔で宙を見ていた。その眼は向かいのビルを眺めているようでもあり、また、なにも見ていないようでもあった。
一瞬なんのことかわからなかった万真だが、すぐに千里たちのことだと悟り、愕然とした。
彼らのことを忘れるほど、動揺していたのか。
再び、閉めだしていたはずの恐怖がひたひたと近づいてくる。
胸が苦しくなる。
「…前んときは、悪かった」
唐突に言われた言葉に、一瞬呼吸が楽になった。それと同時に恐怖がさあっと引いていくのがわかった。
万真の視線に、少年はふいと顔をそむける。
「あんときは、俺たちも気が立ってたし。いきなりあんなことして、ごめん」
たった今心を支配していた恐怖も忘れて、万真は少年を見つめた。
なにを言われているのかわからなかったのは一瞬のことで、すぐにあのときのことを言っているのだと悟る。と同時に、なんだかおかしくなって、思わず口元がほころんだ。
「…それは、お互い様じゃないかな。こっちも結構気が立ってたし。それに、正当かどうかは知らないけど、そっちには一応理由もあったしね。そっちから見たら、いきなりあたしたちが割り込んできたんでしょ? 邪魔だと思ったのは当たり前だよ」
「………まあ、あんたがそう言うのなら……別に」
少年がぶっきらぼうにそう声を投げる。顔はやはり、どこかのビルを見つめている。
不思議だった。
この少年には、どこか、成一と共通するようななにかを感じる。
その理由を考えるのは怖くてできないが、それでも、やはり警戒心は湧き上がってこない。
少年はしばらくどこか遠くを見ていたが、やがて唐突に顔を戻すと万真を見据えた。
その端麗な顔に、思いがけなく真剣な色を見て、万真は背筋を伸ばした。
「…なあ。俺、高遠慧って言うんだ」
万真は眼をしばたたいた。
「………はあ」
改まってなにを言うかと思えば。
万真の反応に、少年は苦笑したようだった。
口元をゆがませて、何事か呟く。
「え?」
聞き取れなくてそう問い返したとき。
なにやら慌しい物音がしたかと思うと、屋上の端にあるドアが乱暴に開いた。
「カズ!」
千里だった。
飛び出してきた彼は、万真の背後にいる少年に軽く眉をひそめる。千里に続いて飛び出してきた二人が驚いたように眼を丸くしたのが見えた。
「あ、えっと」
なにか言おうと、万真は少年を振り返る。すると、彼は柵の上に片膝を立てて腰掛けていた。
危ないよ。
思わずそう言おうとした万真だが、先に口を開いた少年の言葉に声をなくした。
「……やっぱり、前にどこかで逢ってたのかもな」
「え――」
トン、と屋上の床を蹴り、彼の体が浮き上がる。
真っ直ぐに伸びた少年の手が万真の髪に触れた。
「え、わっ?」
そのままくしゃりとかき回され、万真は狼狽した。
「俺のことは慧でいい。――パルチザンは、おまえたちの敵にはならねえから」
その言葉の意味を尋ねようと顔を上げたときにはすでに、少年の姿は夜空の中に溶け込もうとしていた。
千里が駆け寄ってくる。
遠ざかっていく少年の姿を睨みながら、万真に問い掛ける。
「あいつが助けたのか?」
「……うん、みたい」
「……なんでそんなに曖昧なんだ?」
疲れたような声で訊かれたが、万真にもいまいち状況が理解できていないのだ。
ひたすら首を傾げていると、今度は別の方向から声が掛かった。成一だ。
「なんだか親しげだったじゃねえか。こんなことされて」
そのまま乱暴に髪をかき回される。その感覚に、あの少年の手つきは優しかったと、そんなことを思い出した。
「知らないってば! 面識ないのに親しいもなにもないでしょ!」
面識――はあるのだが、前回のあれを面識とは呼べないだろうと思い、そう反論する。すると成一は一瞬奇妙な表情を浮かべた。
それを怪訝に思う間もなく、今度は日向が声をかけてきた。
「さっきなにを話してたんだ?」
「あ、その…。パルチザンは敵じゃないって」
三人は顔を見合わせた。
千里が訝しげに眉を寄せた。
「敵じゃない? 敵にはならないってことか?」
「うん。そう言ってた」
「なんで」
「さあ…」
万真はことりと首を傾げる。それはこちらが訊きたい。
眉間にしわを寄せて考え込んだ千里と、どことなくバツの悪そうな表情で沈黙している万真は、成一と日向が顔を見合わせて意味深な頷きを交わしたことに気づかなかった。
意味もなく両手をばたばたと遊ばせると、万真は口を尖らせた。
「…なにも他所のケンカに顔を突っ込むことないじゃない」
とたん渋面になったのは成一だ。
「あのなー。俺らが、仲間にあんなことされてその礼もしねえような奴だと思ってんのかお前」
あんなことされて。
その言葉に、ほんわりと胸が温かくなった。
怒ってくれたのだ。自分のことで。
「…思って、ない」
くしゃり、と大きな手が髪を乱した。万真の不安などかき消してくれる、優しい熱。
「心配するだろうが。…ったく。だからお前は眼が離せないんだ。怪我とかしてないな?」
「……うん。ごめんね」
へへへ、と万真は顔をくしゃくしゃにして笑った。
あんなに不安になったことが、嘘のようで。千里の存在が心の空洞を満たしていく。それが嬉しくもあり――哀しくも、あった。
泣き顔にも似たその表情に、日向はなぜか心に不安が広がったのを感じた。
なぜ、こいつはこんな表情をするのだろう。
日向の視線の先では、万真はもういつもののんきな笑顔を取り戻している。一瞬の、不思議な表情。
「――さっきの、関西軍団? あれって、ナンさんたちと関係あるみたいだよね」
いきなり変わった話に、千里たちは一瞬奇妙な顔をしたがすぐに頷いた。
「の、ようだな。しかもかなりいわくありげだし」
「…やっぱり、連絡しといた方がいいよね」
言うなり、返事も待たずに携帯電話を取り出す。
そして小さなボタンを数回押した。
ライトは眼の前の光景に絶句していた。傍らのゼンも同様で、丸い眼を見開いて眼の前を凝視している。
彼らの周囲では、十人ほどの男たちが地面に倒れていた。何重にも重なった呻き声が耳にこびりつく。そんな中、一人毅然と仁王立ちしていた女性は、片手を腰に当て、もう一方の手で肩から髪を払うと、鼻を鳴らした。
「ふん。他愛もない。ここに来るならもう少し実力をつけてからにしてほしいねぇ。相手にするだけ時間の無駄だったよ、まったく」
先日、改めてチームのリーダーとなった女性の言葉に、ライトとゼンは引きつった笑いを返すことしかできない。
呻き声が絶えることはない。鉄にも似た血の匂いが鼻につく。
女性が振り向いた。くっきりとした顔立ちが、華やかな笑顔を作った。
「なにかたまってんだい? ――ああ、一人で片付けちまって悪かったよ」
「………いや、それはいいんスけど」
手を出す暇なんかなかった。眼の前に男たちが現れた――と思った次の瞬間には絶叫が上がり、全身から血を噴き出しながら男たちが崩れ落ちたのだ。
ライトの表情に気づいたナンは、あっけらかんと笑った。
「ああ、大丈夫、死にはしないよ。血の流しすぎってことも多分ないだろうし。明日の昼まではもつだろうね」
もつ、とかそういう問題ではないのでは。
そう思ったが、口には出せない。
なんとなく、以前の銀の言葉の意味が分かった気がしたライトだった。
先日の件以来、ナンはまるで憑き物が落ちたように晴れ晴れと笑うようになった。以前のような影はもうかけらも見えない。そのことに安堵する一方で、複雑な気持ちを抱えている二人だった。
「さ、こんなけったくそ悪いところにはもうおいとますることにしようか」
あっさりと歩きだしたナンの携帯が突然華やかなメロディを奏で始めた。全員の足が止まる。
「はい?」
ナンの言葉に重なるように、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『ナンさーん? 万真です』
万真だ。ナンの顔に笑みが浮かんだ。
「ああ、どうかした?」
『いや、ちょっと……その、さっき、変なやつらと逢っちゃったんだけど』
変なやつら。
ライトとゼンは顔を見合わせた。ナンも訝しげな表情になって首を傾ける。
「どんな奴だい?」
『その…多分、関西エリアのチームで』
ぴくりとナンの眉が上がった。
「…名前とか、聞かなかった? なにか特徴は?」
ナンの言葉が詰問調になった。それに気づいたライトとゼンが訝しく思うのと同様に、万真も不審に思ったのだろう。声に訝しげな色が現れる。
『多分、ナンさんの知ってる人だと思う。名前はよくわからなかったんだけど……ちょうど、赤龍とかいうチームと戦闘中で』
ぴくりとナンの眉が跳ね上がった。
「――赤龍?」
『うん。それで、その、赤龍のリーダーっぽい人となんか言い合ってて。…「神竜を倒すのは俺たちだ」みたいなことを』
へえ、と呟いたナンの口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「なんだ、あいつら、まだ抜けてなかったんだ」
『え?』
「いや、なんでもないよ。そうだね、そいつらには近づかないほうがいい。ろくでもない人間だから。赤龍にも、近づくんじゃないよ」
その言葉にライトとゼンが顔を見合わせたが、ナンは気づかなかった。
「それに、そうだね。その、関西人と赤龍、どっちでもいいから見つけたら連絡してくれ。単独でやつらとやろうとか考えるんじゃないよ。いいね?」
『…はあい』
という、なんとも頼りない返事を残して電話は切れた。
通話を終えた美しいリーダーを、ライトとゼンは恐る恐る眺めやる。
振り返ったナンは、うっすらと微笑んでいた。
「ちょっと、用事ができちまったね。――これから神竜と合流するけど、あんたたちも来るかい?」
「いいんスか?」
ナンは笑った。
「もちろん。あんたたちももう仲間なんだから」
仲間なんだから。
その一言が、心の中に明かりを灯す。
ライトとゼンは顔を見合わせると、ほぼ同時に頷いた。
先に立って歩きだした女性の後を慌てて追った彼らは、そのころ万真たちが「なんかさっきの人たちって、一人の女の人を奪い合う男の図みたいだったね」などと笑いあっていることを知らない。
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