NIGHT GAME 三章四話 トモシビ
 風が吹いた。
 生ぬるい風に舞い上げられた髪を気にすることもなく、その少年は滑るように宙を移動し、乱立するビルの中の小さな屋上に舞い降りた。靴の底がコンクリートの床につくよりも早く高い声が飛んできた。
「ちょっと慧、どこに行ってたのよ!」
 言ったのはまどかだ。
 まどかと、そして相変わらずノートパソコンを前にあぐらをかいている衛を見やり、慧は軽く首を傾げた。
「他のやつらは?」
 訊いたとたん、なぜかまどかは顔を赤くした。
「ちょっと出てるだけよ。べ、別にあたしたちやましいことなんかなにもしてないからね」
 バカか、お前は。
 思わず口走りそうになり、危うく押し留める。そんなことを言ったら、やましいことをしていましたと告白しているようなものだ。衛の背中が大きく溜息をついたのが見えた。
 溜息混じりに、言い返す。衛とまどかの関係など、興味ない。
「別に、誰も訊いてねえだろ」
 まどかの顔がさらに赤くなった。
 それにはかまわず、慧は衛のとなりにしゃがみこみ、画面を覗き込んだ。暗闇に慣れた目にはこんなに暗い明かりでも眩しく感じられてしまい、目を眇める。
「どんな感じだ?」
 低い問い掛けに、衛は軽く肩をすくめて答えた。
「四国チームが、こっちに入ってきたとたんに全滅。相手はカマイタチだ。あの女、本性出しやがった」
 慧は軽く眉を上げた。衛はキーを叩きながらさらに続けた。
「東京に入ったのは今んところ関西2チームと四国、中部。後…東北、か。九州はまだ見てねえな」
「関西のチームなら見たぞ」
 衛が慧を振り返った。眼鏡越しに、問い掛けるように見つめる。視線を受けて、慧が答えようと口を開いた瞬間、複数の足音が彼の言葉を封じた。
「悪い、遅くなった」
 亮はからっとした表情でそう言うと、コンビニの袋をガサガサと言わせながら衛の傍らに腰を下ろした。取り出されたアイスを受け取りながら、まどかが慧に問い掛けた。
「で? なにを見たって?」
「関西チーム」
 ペットボトルの封を切って紗綾に手渡していた亮が振り返った。興味深そうに瞳を輝かせる。
「関西? お前、逢ったのか?」
 差し出されたペットボトルを受け取りながら、頷く。よく冷えたそれが心地よい。
「どっかのチームと戦闘中だった。…神威が、巻き込まれていて」
 全員が、反射的に顔を上げ、慧を見つめた。
「神威?」
 呟いたのは亮だ。
 それには答えず、封を切り緑茶を一口飲んで、再び口を開いた。
「俺が見たのは途中からだったから、力がどれくらいあるのかはよくわからなかったが……かなり、やばいやつらだった」
 関西側も、もうひとりの男も、どちらからも危険な空気がびしびし伝わってきていた。だから、万真を無理やり遠ざけたのだ。
 口の中が乾いて上手く声が出なかったので、もう一口口に含む。
 全員の視線が痛いほどに食い込んでくる。
 なにから話せばいいのか、よくわからない。
 脳裡に、不安定に揺れる大きな瞳が浮かんだ。
「万真と、話した」
 気がついたら、そう呟いていた。
 なんの脈絡もなく落とされた言葉が彼らに与えた衝撃は決して小さくはなかった。
「…万真ちゃんと? 話したの?」
 小さく頷く。揺れる瞳が頭から離れない。
「あいつ、俺のこと覚えてた」


 ポツリと落とされた一言。
 それに、頭が真っ白になった。
「…なんだって?」
 声を上げたのは衛だった。
 腰を浮かし、食い入るように慧を見つめる。
「万真が、お前のことを…?」
 そんなはずはない。
 あの時、確かに彼女の叔父は、衛の存在を拒否した。
 それに、成一の存在でさえ忘れていたと、そう言っていたではないか。
 慧は淡々と言葉をつなぐ。
「完全に覚えているってわけじゃねえ。ただ、俺の顔に反応したんだ。――『どこかであったことはないか』って、そう訊かれた」
 再び、眼に見えない衝撃が衛達を襲った。
 亮の瞳に生気が戻った。ゆるゆると顔が輝きだす。
「――じゃあ。俺たちのことも、覚えてるかもしれない」
 慧も一つ頷いた。
「断言はできねえがな。…完全に忘れてるっていうよりも、記憶の底に沈んでいるって感じだった」
 青ざめていた紗綾の頬に紅が差した。
「あたしたちの顔を見たら、思い出すかもしれないの…?」
「かもな」
 降りた沈黙は、奇妙な緊張を孕んでいた。
 慧はペットボトルを握り締め、床を見つめたまま口を閉ざしている。
 衛は凍りついた表情で、そんな慧を凝視していた。
 瞳を輝かせて亮が口を開き、なにか言おうとした。
 その時だった。
 閃光が夜空を白く染め上げた。
 明るく照らし出され、五人ははっとして顔を上げ、反射的にそちらに眼をやる。
 低い轟音がここまで届いてきた。戦闘がはじまったのだ。
 衛の瞳が伏せられた。そのまま、感情をうかがわせない声で呟く。
「――万真たちのことは、また後だ。…なにも急ぐことはないから」
「衛」
 声を上げた亮を眼で制して、衛は静かに瞳を閉じた。
「俺たちは“パルチザン”だ。…そうだろ、リーダー」
 声を上げかけた口を閉じ、亮は渋々頷く。
「…わかった」
 そしてそのまま立ち上がる。
 促されて、まどかと紗綾も衛に視線を投げながら立ち上がった。そして後ろ髪を引かれながらも屋上を出ていく。
 一人残った慧は、しばらく動かない衛を見下ろしていた。
 千里眼を使っている間は、衛は普通の視界を失う。
 それでも、傍らに立つ慧の気配は、手に取るように感じられた。
「…行けよ」
「――俺は」
「行け」
 低い声を無理やり遮った。
 聞きたくなかった。その続きを聞くのが怖かった。
 だが、低い声は無情に続けた。
「…俺は、あいつに逢いたい。せっかく顔と名前を覚えさせたんだ。これで終わりには、したくねえ」
 瞬間、千里眼もなにもかも振り払い、無理やり眼を見開いた。
 切り替わりの速さについていけない視界がぐにゃりと歪み、頭がくらりとしたが、かまっていられなかった。無意識に傍らの存在にしがみつこうとした手が宙をなぐ。
「慧ッ」
 ぼんやりと視界が晴れていく。
 慧は――宙に浮いていた。空中から衛を見下ろしている。
 その、綺麗な顔には、どこか哀しげな表情が浮かんでいた。
「お前がためらう気持ちはわからなくもねえ。…だけど、俺は、自分の気持ちに従う」
「慧!」
 慧は衛に背を向けた。そのままふわりと宙を移動する。
「待て! おまえ、わかってんだろうな! 下手したら、全部ダメになるんだぞ! あいつらの家族の努力も、成一の努力も、全部! 俺たちの願いも、全部!!」
 白い顔が振り向いた。
 夜空に白い花が咲く。
 一瞬の閃光に照らし出された顔は、人形のようで――だが、悲しみに似たもので歪んでいた。
「わかってる。昔のことも――“パルチザン”のことも、今はどうでもいい。余計なことは言わねえ。ただ…もう少し、いたいんだ」
 一緒に。
 落とされた科白は、衛の想像を超えていた。
 音の羅列を日本語に変換し、その内容を理解したときには、もう彼の姿は遥かかなたへと行ってしまっていた。
 今、なにげにものすごいことを言われなかったか。
「……ちょっと待てよ」
 言った時の、困ったような、微苦笑に近い慧の表情が鮮やかに脳裡に蘇る。あいつのあんな表情は初めて見た。
 いやそんなことよりも、今の科白の内容。
「…あいつって、誰だ」
 慧の科白を思い出してみる。
 あいつに該当する人物は――― 一人しか、いない。
「………ちょっと、待てよ」
 待て。
 よくよく考えると、あいつ、結構すごいことを言っていたような気がする。
 気がするのではなく、言っていた。
 あの、他人に対して興味を持たない慧が。
 衛達に対してさえ、淡白だった慧が。
 ――「逢いたい」と、そうはっきりと口に出したのだ。
 そんな言葉を聞いたのは、16年間の付き合いの中で初めてだ。
 先ほどの、慧の爆弾発言以上の衝撃が衛を襲った。
 まどかとのキス未遂シーンを慧に目撃された時と同じくらい、彼は動揺していた。
 これはまさか。
 いやでも慧に限ってそんな。
 街で美人のおねーさまにナンパされても顔色一つ変えなかった慧が。
 ――万真、相手に。
「……うそだろ…」



「…ふぇっくしゅッ」
 静かな路地裏にくしゃみの音が大きく響いた。そのことに軽く驚いて、万真は鼻をすすって低く唸る。
「…やばいかも…」
 さっき、火あぶりにされかけたときに汗を大量にかいたのがまずかったらしい。あの後、屋上でうだうだしているあいだに身体が完全に冷えてしまっていた。
 なんだか、微妙に寒気までするような。
(…まずい…)
 軽く身震いする。
 すると、傍らを歩いていた日向がそれに気づいて足を止めた。そのまま長い身体をまげて万真を覗き込む。
「…大丈夫か?」
「ん、だいじょう――」
 顔を上げて、思わぬ至近距離に日向の顔があり、硬直した。
 忘れてしまっていたはずの数日前の出来事が鮮やかに脳裡に浮かぶ。
(うひゃあっ)
 音を立てる勢いで顔に血が昇るのがわかった。
「だ、大丈夫! ほら、元気だしッ!」
 ムダに両手を振り回し、ごまかすように日向から距離を取る。日向はそんな万真の顔を見てわずかに眉根を寄せた。
「そうか? なんか、顔赤くないか?」
「へっ!? ううううん、そんなことないよ」
 ばたばたと両手を胸の前で振り、そのまま勢いよく歩きだした。
 小走りに、少し前を歩いていた千里に駆け寄り、服を掴む。
「あ?」
 いきなり服を引っ張られて驚いて振り返ると、そこには真赤な顔をした万真がいた。
 心なしか、見上げてくるその眼が潤んでいるような気がする。
「カズ?」
 声をかけるととたんに万真は視線をそらした。俯いて、ポツリと呟く。
「ごめん、ちょっと避難」
「は?」
 避難?
 瞬きを一つしてから、後方を見やる。
 怪訝そうな成一と、困った顔をしている日向を見比べた。
 もう一度万真を見る。
 髪からのぞく耳まで、赤い。
 もう一度日向を見る。
 困惑した、その顔。
(…なんていうか…ものすごくあてられてるような気がしてるのは、俺だけか?)
 いいかげんにしろよ、お前ら。
 なんとなく事態を察し、ものすごく虚しくなる。
「こら」
「いたッ」
 腹立ち紛れにデコピンを一つお見舞いしてやった。
「なにすんのさ」
 赤くなった額を抑えて恨めしげに見上げてくる。
 その表情に――胸の奥が、じくりとうずいた。
 ふ、と軽く息を吐き出す。
 そしてそのまま万真の肩を押した。
「逃げるなよ。ほら、一、パス」
「は?」
 ぼんやりと万真の様子を見ていた成一は、いきなり万真を自分のほうへ押しやられて当惑した。ぶつかってきた背を支えて、何事もなかったかのように歩きだした千里の背を見やる。
「千里?」
 なんとなく、千里の背中を遠く感じて、ざわりと胸が騒いだ。
 彼が纏う空気に、覚えがあった。
 千里の様子に戸惑う万真の肩をつかみ、ぐいと後方に押しやる。
「日向、パス」
「はえッ!? ちょ、一!?」
 焦りに焦りまくった万真の声は無視して、先を行く千里を追った。その肩をつかみ、隣に並ぶ。覗き込んだ千里の顔は、予想通り、固く強張っていた。
「千里」
 千里は眼だけで成一を確認した後、再び視線をそらし、そして溜息をついた。
 それだけで、成一は千里の気持ちがわかってしまった。
 溜息をつきたいのをこらえて、口の端だけで笑う。苦い笑みになった。
「…まあ、それもまた人生だ」
「………シェイクスピア、だっけか?」
 彼にしては珍しいことに、ぼんやりとした声、表情でそう呟く。
 成一は軽く肩をすくめて見せた。
「姉貴の口癖」
「嘘だろ?」
 成一の姉と今の言葉とのあまりのミスマッチに千里は思わず傍らを振り向いた。そんな千里に向かって成一はにやりと笑った。
「男にふられるたびにこう言っては酒かっくらうんだ」
 千里はがくりとうなだれた。
「……そう言うたとえを持ち出すなバカ一」
「人がせっかく慰めてやろうとしてんのにバカはねえだろバカは」
 肩に回された腕を取り、軽くひねり上げる。
「お前なんかバカで充分だ」
「いで、いででっ」
 そんな風にじゃれあう二人を、万真はどこか複雑な表情で見つめていた。
 いつからかは知らないが、最近、千里があのような空気を纏うことが時々あった。万真を拒絶するような、そんな雰囲気、そんな瞳を、時々見せる。
 それを見るたびに、万真はどうしていいのかわからなくなった。
 そしておろおろしているうちに、成一がやってきて、あっという間にいつもの千里に戻してくれるのだ。
 万真には触れられない千里に、成一なら簡単に触れることができる。万真は寄せ付けない千里が、成一は簡単に受け入れてしまう。
 すっと胸が冷えていくような、そんな感覚。
 足元が、今自分が立っている地面が、音もなく崩れていくような、そんな錯覚。
 ひたひたと忍び寄る闇黒を感じ取ったとき、万真の耳に低い声が届いた。
「伊織?」
 静かな声。
 それを聞いた瞬間、ふっと胸が軽くなったような気がした。
 顔を上げると、やや離れたところにこちらを見つめる日向の顔があった。心配そうに揺れる切れ長の瞳を見たとたん、心が浮き立つような、そんな感覚を覚えた。
「あ…」
 言葉にならない声が漏れた。自分の声のか細い響きに、万真は再び顔を伏せた。
 ダメだ。
 このままじゃ、どんどん闇に取り込まれてしまう。
 なんとか浮上しないと。
 顔を上げ、前方を見やる。
 さっきまではじゃれあっていた千里と成一は、もう普段の調子を取り戻して何事か語り合っている。
 ――心が、重く沈みこむ。
 いつもなら、このような状態でもなんとか笑うことができた。
 だけど、今はできない。
 笑えない。
(…ダメだってば。いつもみたいに、笑わないと。でないと――)
 日向が、不審に思う。
 頭ではわかっているのに、心が、感情がついていかない。
 俯いたまま顔を上げようとしない万真の頭を見下ろしていた日向は、内心激しく動揺していた。
 なんだか、彼女の様子がいつもと違う。
 よくわからないが、なんとなく、ひどく弱っているような、そんな空気を感じる。
 困りきって、前方に目をやる。
 千里と成一は、日向の当惑など知りもしないでのんきに笑いあっている。
 隣の万真は、なんだかますます泣き出しそうな、そんなはかない雰囲気を身に纏っている。
(俺にどうしろっていうんだ)
 はっきり言って女性は日向の最も苦手とするものである。それが最近意識し始めた相手ならなおさらだ。
 ただでさえどう接していいのかわからないというのに、こんなに弱々しいところを見せられてしまった日向は、軽いパニックに陥った。
 救いを求めて千里と成一を見やるが、二人は万真のことなど歯牙にもかけていない。普段はあれほど万真に対して気を使っているくせに、今気にかけないでどうするのか。
 万真はまだ顔を上げようとはせず、とぼとぼと力ない足取りで歩き続けている。
 日向は狼狽した。大いに狼狽した。
 身内の女たちを思い浮かべる。彼女たちが落ち込んだ時は、どうしていたっけ?
 いやそもそも、伊織万真とうちの女どもを一緒にしてもいいものか。
 ためらいは一瞬。
 日向は軽く深呼吸すると、軽く万真の背中を叩いた。
「痛ッ――!?」
 どうやら力のかげんを間違えてしまったらしく、静かな通りに痛そうな音が響いた。
 振り向かれ、仰ぎ見られて日向は慌てて今しがた万真の背中を叩いた己の手を見る。
「いや、その」
 ぽん。
 もう一度、今度は本当に優しく、万真の背中を叩いた。
 そして丸い眼をさらに大きく見開いて注視してくる視線から逃げるように顔を背けると、物音に驚いて振り返った千里と成一の元へと向かう。
「………日向?」
 万真は眼を丸くして遠ざかる日向の大きな背中を見つめていた。
 通り過ぎる瞬間眼に止まった日向の耳が赤かったような気がする。
 叩かれた背中がひりひりする。でも、なんだか暖かい。
 背中だけじゃない。
 胸も、なぜか暖かく、ほんわかしている。
 万真は苦笑した。
 自然と浮かんだ、それは泣き笑いにも似た笑みだった。
「かなわないなあ…」
 心の中に、いつしか生まれ、居ついてしまった存在。
 それは暗闇に灯る街灯のように、ほんのりと万真の心を照らす。
 千里ではない。成一でもない。
 彼らとはまた違った、不安定な、でも暖かな存在。
 それは、初めての感情だった。
 くすぐったくて――でも、とてつもなく重い悲しみと表裏をなす、感情。
 万真の細い眉が歪んだ。
 瞳に落ちた暗い影は、しかし、心配そうにこちらを振り返った日向の姿を見たとたん、掻き消える。
「かなわないなあ」
 再び呟き、万真は先へ行ってしまった彼らの後を追って駆け出した。
 足音に振り返った日向の大きな背を思い切り叩く。
 パアン! と小気味良い音が響いた。
「いッッッ!!」
 背中を抑えてのけぞった日向を見て、万真は軽く笑った。
「お返しだよー」
 その笑顔を見て、苦悶の表情を浮かべていた日向の眼が丸く見開かれた。
 すでに駆け出していた万真はそれには気づかなかった。振り返り、眼を丸くして二人を見ていた千里の腕にしがみつく。
「…なにやってんだお前」
「へへへ」
 千里の腕を抱え込んでふにゃっと笑う。
 その万真の笑顔が、突然消えた。
 ほぼ同時に他の三人も真顔になる。
 立ち止まり、見据えた先に、闇を割るように白い人影が姿を現した。
 ぞろぞろと、道をふさぐように現れたのは若い男たち。その中心の、背の高い男が軽く肩をすくめて声を投げた。
「なんや、えらい勘鋭いなぁ。せっかく不意打ちしよ思たのに」
 間延びした口調、独特のイントネーションを聞いた瞬間、全員が身体を固くした。

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