油膜を通る瞬間、またあの奇妙な感覚が全身を襲う。全身に――何十兆という細胞すべてに得体の知れないなにかが染み込んでいくような、不快感。だがそれにも慣れてしまった自分がいる。
油膜を飛び出した万真は、携帯電話からこぼれる声に従って周囲を見回した。視線の先に、小さな公園を見つけて小さく声を上げる。
「あ」
ほかの三人に顔を向けてから、小走りに公園に近寄った。
植え込みの間の入り口から覗き込むと、そこには数人の青年たちが集まり、何事か話しこんでいた。紫煙が三筋細くたなびいている。
万真の姿に気づいた女性が、携帯電話を耳から離して片手を上げた。その動きに従って指に挟まれたタバコが赤い線を描いた。
「早かったね」
ナンの言葉に万真は笑って手を振った。携帯をジーンズのポケットに押し込んで公園に入る。四人の姿を見て、ゼンとライトが軽く手を振ってきた。
公園にいたのは神竜のメンバー――ナンをのぞいた四人の青年たちと、ナンたち三人。万真に続いて公園に入った千里は、片隅の木のベンチに寝そべっている青年を認めて軽く苦笑した。
「…弘くん。眠いならくるなよ」
「……うるせー…お前ら気楽なコーコーセーに勤労学生の気持ちがわかるか」
「勤労って、今夏休みじゃん」
「今が稼ぎ時なんだよ。頼むから寝かせてくれ…」
成一の言葉に力なく応えて、弘行は再び寝息を立て始める。
風邪ひいても知らないよ、と笑って、万真はナンの前にしゃがみこんだ。
「なにやってたの?」
ん? と笑って、ナンはタバコをもみ消した。紫煙が細く吐き出される。
「今東京に来てるチームをね、割り出してたとこ」
その一言に興味を覚えて千里と成一がナンの周りに集まってくる。万真と同じようにしゃがみこんだ成一と、立ったままでいる千里を見比べて、ナンはに、と笑った。
「今東京に来てるチームがどれくらいかわかるかい?」
千里と成一は顔を見合わせた。軽く首を傾げて、千里は答えた。
「ざっと……三十くらい?」
「悪くない線だね。26さ」
あっさりと答えたナンの顔を、四人はしばし見つめた。にじゅう、ろく。
新しいタバコに火をつけながら、北斗が静かな声をだした。
「さらに、そのうちの1チームはさっき南が片付けたから、現時点では25チームか」
「へえ…」
千里が感心したような声をあげた。
「すごいな。そういう情報、どこから得るんだ? サイトには載ってなかったはずだけど」
ああ、と北斗がうっすらと微笑み、ちらりと万真に眼をやった。
「おまえらも知ってる、ある情報屋からな」
とたん、ピシリと音を立てる勢いで少年たちが固まった。奇妙に表情をなくし、抑揚のない声で千里が問い掛けた。
「……それって、まさか、銀とかいう名前の?」
「そう。万真ちゃんの情報もやつから買ったんだ」
にこやかに蓮見にそう言われ、さすがの千里もすぐには反応できなかった。万真は笑みを浮かべたまま固まり、成一は口元をひくつかせ、日向に至っては完全に硬直してしまっている。
そんな四人をおもしろそうに見やって、北斗はタバコをふかしながら口を開いた。
「あいつ、あんなやつだけど、結構有名なんだぜ。なかなかいいカード持ってるしな。今日びあれだけ質のいい情報を集めてる情報屋はめったにないよ」
その分高くつくけどな。
そう言って北斗は笑ったが、四人は笑えなかった。
拳を握り締めて、千里は他人事のような顔をしているライトを振り返る。
「ライト、自分の兄だろ、ちゃんと管理しとけよ」
いきなり話を振られたライトは一瞬目を瞠ったあと、すぐにムッとした顔になった。
「あのなぁ。あれはあいつのショーバイ。そんなこと俺に言われても困るし、だいたい管理しようにも俺あいつとは他人だから」
「他人?」
首を傾げた万真に、ライトは答えなかった。そのままそっぽを向いて黙り込んでしまう。
万真はそれ以上尋ねなかった。北斗たちも訝しげにライトを見やったが、それだけで特に追及しようとする気配はない。
彼らとまともに話をするようになってからそう時間は経っていないが、弘行といい、北斗といい、聞かれたくない、という態度を少しでもこちらが見せた事柄には一切触れようとしなかった。それはナンにも共通することで、万真が感じた不思議な居心地のよさはおそらくそういうところから来るのだろうと見当をつける。
必要以上に干渉しない。それは「冷たさ」とはまた別種のものだ。
落ちた沈黙を破ったのはナンだった。
「で、あんたたちが見たっていうやつらの話だけど」
「あ、うん」
万真たちはナンに視線を戻した。ナンは形のよい足を組む。
「どんなやつらだった? なにか覚えてたら教えてくれないか」
四人は顔を見合わせた。首を傾げて、万真が呟く。
「うーん……関西弁?」
万真の頭を軽く小突くマネをして、千里が続ける。
「女が二人に、男が三人――だっけ? 強かったな、かなり」
今度は北斗たちが顔を見合わせた。顎に手を当てて、シュウが呟く。
「…メンバーが変わってる可能性を忘れてたな」
「え?」
訝しげな千里たちを軽く片手を上げて押しとどめ、シュウは傍らの蓮見を見やった。視線を受けて、蓮見は軽く首を傾げる。
「…五人ってことは、かなり変わってるか。年齢は?」
「高校生ぐらいのやつが…二人? 男と女。あとは…二十歳、くらいかなあ」
「でかい男はもう少しいってそうだけどな」
千里と成一は、強面でガンガン怒鳴っていた男を思い浮かべる。
「…ガクって男と、言い合っていたやつだな」
日向の静かな声に、万真は興味を覚えてナンたちを見やった。身を乗り出して、尋ねる。
「赤龍と知り合いだったの?」
真竜の面々は意味ありげに顔を見合わせた。紫煙をくゆらせ、北斗がうっすらと笑う。猛々しい笑みだ。
「知り合いじゃない。昔散々コケにした覚えはあるがな」
そのセリフに固まった少年たちを見て、蓮見までもがヒトの悪い笑みをこぼした。
「よせばいいのに突っかかってくるから。俺たちも若かったからね。まぁ、多少荒っぽいマネはしたけど」
「……へえ……」
曖昧に呟いて、万真たちは先ほど垣間見た闘争の様子を思い浮かべた。なんとなく、彼らが『神竜』にこだわる理由がわかったような気がする。
心なしか引いている少年たちには気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか、先輩諸兄たちは物騒な話を笑いながら続けている。
「特に俺たちみたいに下手に名が上がるとな、血の逸ったやつらに狙われる狙われる。『神竜』に勝つっていうのが、まあ当時の東京では一番の出世コースだったんだなぁ。名をあげるには手っ取り早い方法でさ、色々と、ね。血気盛んなやつらは南が一撃で沈めてたけど」
「余計なこと言うんじゃないよ」
ぴしゃりと言われてシュウは首をすくめた。万真の視界の端で、ライトが顔を引きつらせるのが見えた。
顔を引きつらせて、成一は乾いた声で笑った。「もう笑っとけ」という心境である。
「まあ、そん中じゃあ『赤龍』が一番まともで…一番うざかったな」
「名前がかぶってたからね。ややこしいんだって、ずいぶん大人気ないまねをしたような気がするなぁ」
のほほん、と発言したのは蓮見で、すかさず周囲がそれに同調する。千里が無言で額を抑え、日向がうなだれた。
「え、えーと、じゃあ、その関西人は? 心当たりはあるんでしょ」
話題を変えようと万真が慌てて口を挟んだ。とたんに青年たちは顔を見合わせ、首をひねる。
「ああ。赤龍とやりあってたって言うんなら、まず間違いなく」
「Wicked Goddessだろうな」
蓮見の語尾に、静かな声が重なった。かすれたような特徴のある声音に思わず発言者を振り向く。眠っていたはずの弘行の瞳が開かれていた。
宵闇を見つめて、弘行は続けた。
「“ゲーム”のたびにここへ来てる――いわば、常連だな。それなりに名も知れてる」
千里は宙を見つめる弘行を眺めていたが、ややあって小首を傾げると、呟いた。
「wicked……邪悪な、女神?」
物騒な響きに思わず万真が顔をしかめた。そんな万真を見て小さく笑い、ナンが言葉をそえた。
「もう抜けたらしいけど、物騒な女がいたんだよ」
「ナンさんよりも?」
よけいな口を挟んだ成一は、ぎろりと睨まれて首をすくめた。成一とナンの様子を見て蓮見とシュウが軽く笑った。
「同じくらい物騒だったよ」
「蓮見」
「事実だろ?」
穏やかな笑顔で言い返されて、ナンはふてくされたようにそっぽを向いてタバコをふかした。かすれた声がのどかな空気を破った。
「残ってるのは……ヤスか」
「ああ。年齢的にも、あいつはまだいるだろう」
弘行に応じて、北斗は少年たちに鋭い視線を向けた。
「名前とか、聞かなかったのか?」
少年たちは揃って首を横に振った。「ヤス」と言う名前には聞き覚えがあるが、それ以外はなにも聞いてない。と思う。
少年たちを後目に、弘行は低く呟いていた。
「高校生は……多分、違うな。年齢的に見て、新しいメンバーだろ。…四年、経つからな」
「四年か」
北斗が紫煙を吐き出す。
短くなったタバコを地面に押し付けて、呟くように言った。
「あいつも、来てるんだろうか」
「いるだろ。絶対」
弘行が即答した。宙を見つめたまま、低く呟く。
「あいつは抜けてねえよ、まだここにいる」
北斗たちはそんな弘行をしばし見つめていたが、やああってそっと視線を外した。
沈黙がおりた。
北斗やナンは再びタバコをふかし始めるし、弘行は何事もなかったかのように眠りに落ちている。
気詰まりな沈黙に四人は顔を見合わせた。
いったいなにをしにここに来たのか、よくわからない。
千里が時間を確かめた。一時。家に帰るにはまだ早い。
成一が沈黙している日向を見やった。ふと疑問に思ったのだろう、むっつりと押し黙っているその顔を覗き込んで、尋ねた。
「日向はさ、夜出歩いても問題ねえの?」
日向は面食らったように成一の顔を眺めていたが、ややあって軽く小首を傾げて、頷いた。
「ああ。特には。……今更、だな」
「今更、ですねえ」
「お前のほうは問題ないのか?」
「千里ン家に泊まるって言ってあるから」
会話を聞きつけて千里が顔をしかめる。
「だから人をアリバイ工作に使うなって」
「毎度のことだろ」
「いつのもことだから言うんだよ」
「小さいことでぐちぐち言うなって」
「そういう問題じゃないだろ。おばさんたちが家にはなにも訊かないからいいようなものの」
「信用がありますから、相馬家は」
なにを言っても無駄だと判断したのだろう、千里が深い溜息をついた。相馬の伯父たちにしても、成一が家に泊まることはむしろありがたいことなので、文句を言うことはありえない。それがわかっているからこその、成一の発言だった。
溜息をついてぶつぶつ文句を言っている千里と、その横で笑っている成一を見比べて、日向は首を傾げた。
「お前らは、知り合って長いんだろ?」
と、二人は顔を見合わせた。成一の瞳に浮かんだ奇妙な光を見て、代わりに千里が口を開く。
「…親同士が仲良かったんだよ。俺たちが産まれる前から知り合いだったらしくて」
ふと疑問に思っただけなので、日向は「へえ」と呟いただけだった。千里は成一の表情をちらりと見てから、日向に視線を戻した。
「いつから知り合いなのかは知らないけどな。訊いたことないし」
訊こうにも、両親はいないし。
その一言は、心の中だけにとどめておく。
と、日向が二人を見た。
「前から気になってたんだが……男子校って、どんな感じだ?」
その一言に二人はふきだした。
「は、はあ!?」
「なにをいきなり」
会話を耳に挟んだのだろう、ナンが口を挟んでくる。
「え、あんたたち男子校なんだ。見えないねぇ」
「ほっといてください」
憮然として呟いた成一を見て、ナンは声をあげて笑った。明るい笑顔だった。
万真はそんな彼らを眺めていたが、やがて視線をそらすとやはり一人タバコをふかしている蓮見に眼をやった。北斗はシュウとなにやら話しこんでいる。
蓮見は万真の視線に気づいて「なに?」と小首を傾げて見せた。
ううん、と万真はかすかに首を振り、蓮見の隣に移動する。
「…ちょっと、訊いても、いい?」
蓮見は穏やかな表情で万真を見て、頷いた。万真が傍らに腰を下ろすのを見てからタバコをもみ消す。
「あ、いいのに、タバコ」
「いや、一応ね。受動喫煙は毒だから」
クスリと笑うその仕草に、万真も小さく笑った。その笑顔がすぐに曇るのを見て、蓮見は静かに問い掛ける。
「どうかした?」
万真は瞳を伏せて、しばらくじっと地面を見つめていたが、やがておずおずと口を開いた。
「……律也さんって人は、どんな能力を持ってたの?」
思いがけない一言に、蓮見は万真の横顔を眺めた。沈み込んだその表情に、なにか察するところがあったのだろう、笑みを消し去って宙を見つめる。
「そうだなあ……あいつの能力は、なんていうか……力の傾向としては、北斗に似てたかな……口じゃ上手く説明できないんだけど」
遠い眼で、ポツリポツリと言葉を継ぐ。
「そんなに強い力じゃなかった。どちらかといえば不安定でね。戦闘にはあまり参加しなかった。俺と一緒に、離れて見てたよ」
万真は顔をあげた。そして、蓮見の静かな表情にぶつかる。蓮見は静かに問い掛けた。
「…なにか、あった?」
万真の瞳が揺れた。また顔を伏せてしばらく逡巡していたが、やがて意を決したように、口を開いた。
「…さっき、またどこかのチームと、戦闘になって」
「うん」
「………あたし、なにもできなかった」
「うん」
「守られてるだけで、なにもできなかった」
「…そうか」
蓮見は静かに座っている。彼がまとう穏やかな雰囲気に押されるように、万真はずっと胸をふさいでいたものを吐き出した。
「一はすぐに能力が出たし、千だって簡単に能力がわかった。でも、あたしは……もう、ここに来て一月経つのに、いまだにみんなのお荷物で」
呟いて、また地面を見つめる。悲嘆に暮れるその横顔を見て蓮見はしばし躊躇したあと、そっと頭に手を置いた。ぽんぽん、と二三度叩く。
「あんまり、急ぐなよ。ここにいるってことは、君にも能力があるってことだし」
「でも」
言いかけて、万真は口をつぐんだ。
…守られるだけの存在にはなりたくないと、そう彼に言ったところで、なんになるだろう。
黙りこんだ万真を見て、蓮見は軽く頭を掻く。こういうときにはなにを言えばいいのか。
少し考えて、彼はなるべく明るい声を出した。
「物事には時期ってものがあるし。そう気にしなくても大丈夫だよ」
うん、と、少女は小さく頷く。それでもまだ憂いは晴れないようだ。
「それにさ、能力がわかったところで、それが戦闘向きじゃなかったらどうする?」
「え?」
少女は眼を瞠った。そんなことは考えても見なかったのだろう。蓮見はふわりと微笑む。
「俺もね、戦闘向きな力じゃないから。だから戦闘のたびに物陰に隠れてた。恥ずかしい話だけどね、こればかりはどうしようもない。ケンカしようにも、力がないからね。とにかくみんなの邪魔にならないように縮こまってるぐらいしかできないんだ」
万真は眼を丸くして穏やかに笑う男を見ていた。
「まあ、俺はもともとケンカとかそんなに好きじゃないから、俺にあってるといえばあってるんだけどね。誰がどんな能力を持つのかとか、いつ能力が発現するのかとか、誰が決めてるのか知らないけど――…変な言い方だけれど、悪いようにはならないと思うよ。俺が知ってる限りじゃ、結構その人にあった能力が発現するみたいだから」
その人にあった能力。
呟いて、万真は少しだけ、笑った。
「…そっか。千も一も、そう考えたら、結構あってるよね、あの力」
「南なんて、もうイコールカマイタチってほとんどの人間が記憶してるだろうしな」
万真の瞳に光が灯ったのを見て取って、蓮見も笑って頷く。
「ありがとう、蓮見さん。なんか元気でた」
「ん、そうか、そりゃ良かった。なにかあったら、俺でも弘さんでも、なんでも言えよ」
「うん、ありがとう」
はにかむように笑った少女は、次の瞬間ふと翳りのある表情を浮かべた。
「…でも、やっぱり、一緒に闘えるような能力がいいなぁ」
蓮見の視線に気づいて、慌てて微笑む。
「守られるだけの存在には、なりたくないから」
蓮見は一瞬眼を見開いたあと、ふ、と微笑した。
「…そうか」
そう呟いたその瞳は、なぜか暗く翳っていた。
「男ばかりの生活って、どんな感じだ?」
一方の千里たちの間では、いまだに男子校トークが続いていた。
日向の疑問に、二人は苦笑する。
「どうもこうも。もう慣れたよ」
「うちはさー、女家族だから、逆に女がいなくて安心したぜ、俺は」
成一のセリフに、ナンが悪戯っぽく目を輝かせる。
「うわ、問題発言?」
「なにが。なんかさ、女って、すぐギャーギャーわめくだろ? 俺、あれ苦手なんだよ。それに人のことすぐオモチャにするし」
溜息をつきながらの言葉に、ナンはあきれ返った表情になった。
「なにナマイキなこと言ってんだいあんたは。じゃあ万真は? 万真も苦手なの?」
成一はふるふると首を振った。
「いや、あれは別」
あっさりと言い切る彼を見て、日向は軽く眼を細める。そんな日向には気づかず、千里は軽く肩をすくめて淡々と言う。
「まあ、中学からだしな。最初は戸惑ったけど、丸3年過ごしたら慣れるよ。俺もどっちかって言うと女は苦手だし」
「へえ?」
「え?」
ナンと日向の言葉が重なった。千里は日向をちらりと見てから、困ったように頭を掻く。
「店に来るおばさんがさー、なんていうか、すごく元気で。俺のことかわいがってくれるのはわかるんだけど、どうも、苦手で。後、若い女の人とか」
「千里はおばあさんから幼稚園児まで選り取りみどりだからなー……って、すまん俺が悪かった」
拳を固めた千里を見て慌てて謝り、成一は拗ねたように口を尖らせる。
「お前はまだましだろうがよ。うちなんか、おふくろに姉貴にあと店のスタッフからなにまで、俺のこと男扱いしねえんだぜ。客のおばさんなんかはもう、お小遣いあげましょうかってな勢いだし」
ナンと日向はただ眼を丸くして二人の愚痴を聞いていた。首を傾げて、日向は訊いた。
「水城の家も、なにか商売やってるのか?」
「あー……ビヨウイン」
美容院。
漢字変換に成功して、日向はなんとも言えない気持ちで眼の前の少年を見やった。道理で時々髪の色が変わってると思ったら。現に今も、今までのくすんだ茶色とは違って、明るい金髪になっている。日向の視線に気づいて、成一はぶつぶつとぼやいた。
「…姉貴やスタッフが、俺の髪練習台にしやがるんだよ」
日向はなんとも言えず成一と眺めていたが、やがて最初の疑問を思い出して苦笑している千里に眼を向けた。そして、言った。
「……中学、伊織と一緒じゃなかったのか?」
千里の瞳が揺れた。困ったような、どこか哀しげな笑みを浮かべて、首を振る。
「区が違うから」
短い一言で、すんなりと納得してしまった。そう言えば、以前クラスの女子が言っていた。伊織はずっと一人だったと。
成一を見やると、彼は祈るような瞳で軽く肩をすくめた。
万真を頼むと、その言葉を思い出す。
日向はしばらく二人を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「…そうか」
きっと、二人とも、日向には想像もつかないような色々な想いをしてきたのだろう。そして、伊織も。
と、突然成一が言った。
「それにしても、あいつはあんなところでなにやってんだろね」
その言葉に視線を移すと、万真がなにやら蓮見や北斗と話しこんでいた。いつの間にあちらに移動したのか。
「…あいつは、また…」
千里が見る間に不機嫌になるのを見て、ナンが軽く笑った。
「そんな顔しなくても。まだ怒ってんのかい?」
千里は無言で頷く。成一が苦笑し、日向はそっと溜息をついた。頑固なやつだ。
「そんな心配しなくても、あいつらなりにあのこのことかわいがってるんだと思うよ?」
「どうだか」
苦く吐き捨てた千里の背後から、ライトとゼンが顔を出した。にやっと笑って、ライトが言う。
「万真って、妹タイプだよな、なんか」
「ですよね」
ゼンまでもがそう頷く。
「こらこら、あんた万真より年下だろ?」
苦笑するナンに、ゼンも困ったように笑いながら答えた。
「でも、なんかそんな感じがするんですよね」
なんだそれ、と笑う千里たちの傍らで、日向は首を傾げていた。
「ああ、でも……わかるな」
その発言に、一斉に視線が日向に集中した。
「…ひゅうが〜あ? イモウトとか言っちゃってもいいのかぁ?」
絡んでくる成一に面食らいながらも、あっさりと答える。
「なに言ってんだ? いや、うちの妹よりも、よっぽど妹らしいな、と」
とたんに成一が眼を見開いたまま絶句した。一瞬ぽかんとした千里が、我に返るや否や万真を呼びつける。
「カズ!」
呼ばれて万真は顔をあげて千里たちを見た。なにやら固まっているメンツを見て、首を傾げる。
「なに?」
のんきな返事に、千里は語気を強めた。
「いいから、早く来い」
訝しげにしながらも、ほいほいとやってきた万真を強引に傍らにしゃがみこませて、千里はニヤニヤと笑いながら言った。
「日向、妹がいるんだって」
その一言に、万真もまた硬直した。
まじまじと日向の顔を眺める。そして、言った。
「……へえぇ」
とたんに日向は渋面になった。そんな日向に追い討ちをかけたのは成一だ。
「お前に似てる?」
眉間にしわを寄せたまま日向はしばし考えていたが、やがて低い声を出した。
「………似てる、と言われたことも、ある」
「うわ、気の毒に」
口走り、慌てて成一は口を抑えたが――遅かった。
ぎろりと睨みつけられて慌てて謝る。
「いや、悪い」
そんな様子に声をあげて笑って、万真はことりと首を傾げた。
「でもなんでそんな話になったの? なに話してたの?」
千里やナンたちはそれぞれの顔を眺めやった。代表して、ナンが軽く答えた。
「んー? 万真って、妹タイプだよね、って話」
いきなり言われて面食らった万真は、瞬きをして首を傾げる。
「……なんの話さ」
首を傾げる万真を見てナンは笑った。
「かわいがられてるってことだよ」
そうそう、と頷いたのはゼンだ。笑いながら、無邪気に万真に話し掛けた。
「万真さん、まだ15でしょう? 僕と一緒だ」
その言葉に万真はきょとんとして、自分を指差しながら言い返す。
「え? あたしもう16だよ?」
一瞬、奇妙な沈黙が降りた。
「…え?」
声を上げたのは日向だった。
「“え”とか言われても。あたし誕生日7月だし」
「……え?」
再び声を上げた日向に一千万の視線が集中した。きらん、と千里の瞳が輝き、成一がオモチャを見つけた猫のように笑った。
「じゃあ日向の誕生日は?」
「何月だ?」
二人に言われて、日向は珍しく動揺を見せた。慌てたようにナンたちの顔を見るが、どの顔にも一様に愉悦の表情を見出して助けにはならないと判断する。
万真が無邪気に訊いた。
「日向は何月生まれなの?」
決定打だった。
万真の笑顔から顔をそらし、ポツリ、と呟く。
「………12月」
言った瞬間、
「年下」
とユニゾンで言われて日向は落ち込んだ。にやにやと、本当に嬉しそうに千里が笑う。
「そうか、日向って実は一番年下だったんだ」
この場合当然ゼンは除外されている。
「なんだよ年下かよー」
にやにやと笑いながら言うのは成一だ。
「…関係ねえだろが」
顔を背けて低く吐き捨てる日向の肩に手を回し、成一は笑顔で声をかける。
「アニキって呼んでもいいんだぜ?」
「…バカか。俺より背が低い兄貴なんかいらん」
「あっ! てめ、言ってはならんことを!」
毒づかれて成一は日向の腕を固めにかかった。が、日向はあっさりと成一から逃げる。
「そういう水城は?」
逆に日向に腕を抑えられてしまった成一は、その言葉ににやりと笑った。
「聞いて驚け、四月だ」
ひひひ、と笑う成一を、驚いたように見たのはナンたちだ。
「なに、じゃああんたたちん中じゃ成一が一番年上? 見えねー」
「なんとでも言いなさい」
すばやく言い返し、成一は日向に腕をとられた姿勢で心もち胸を張った。
「おうよ、俺が一番年上だ。千里も万真も日向も、崇めなさい讃えなさい敬いなさい、そして俺をオニイサマと呼べ!」
「日向、やれ」
「ああ」
みしみし、と音がする勢いで絞めつけられて成一は絶叫した。そんな様子を見て万真がのんきな顔で笑う。そんな彼らを見て、ナンたち三人は顔を見合わせて困ったように笑っていた。
そのまま千里たちはプロレスになだれ込み、散々暴れた後には地面に倒れ伏している成一だけが残った。千里と日向はすっきりした顔で服の砂を払っている。そんな彼らを万真はナンたちと一緒に離れたところで呆れた顔をして眺めていた。
「元気だねー」
「若いからな」
万真の呆れた声に千里はさらりと応える。その言葉尻を捉えたのは北斗たちだ。
「若いというより、ガキって言うんだ、そういうのは」
北斗の言葉に蓮見とシュウが声を殺して笑う。
一瞬で千里の顔から表情が消えたのを見て取って、万真は片手で顔を覆い、日向は疲れたようなため息を落とした。
そんな二人の反応は無視して、千里は一瞬の無表情から笑みを作った。うっすらと、酷薄ですらある微笑だ。
「…あれ? もしかして、羨ましい? 気の向くままにじゃれあおうにもあんたたちじゃトウが立ちすぎてるし? コーコーセーなら微笑ましいで済むプロレスも二十歳過ぎた男がやればただの目の毒だしな。下手したら警察呼ばれるぜ」
――夏なのに。
なぜか日向は体感温度が急速に下がったようなそんな錯覚を覚えた。ようやく身を起こした成一も、今回は参戦せず千里と年長の男たちをあきらめたように眺めるだけだ。
敵意を撒き散らす千里を見て、蓮見が微笑んだ。千里に負けず劣らず、それはそれは冷たい笑顔。
「なるほど、十代の言い分だと思って真摯に受け止めさせてもらうよ。でも、トウの立ったオトナの視点から言わせてもらうと、ところかまわず座り込み、不平不満を吐き散らすばかりで礼節なんて言葉をどこかに置き忘れてきたとしか思えないイマドキのコーコーセーも大概目の毒、って言うか害悪な気もするけど?」
「一部を取り上げて一般化するのはあんまりアタマがイイ大人のやることとは思えないけど?」
「君が述べたのは一般論だろ? 俺が述べたのも一般論だ」
その場の全員が、二人の間で火花が飛び交ったのを確かに目にしただろう。それほどまでに、緊迫した空気が漂う。
刺々しい空気に日向はそそくさと二人から距離を置き、北斗はあきらめ顔でため息をついた。
二人の舌戦はまだ続く。
「動き回る体力なくてこんなところでうだうだしてるくらいならさっさと引退すれば? あとは俺たちが全部、なにもかも、引き受けるから」
「勢いだけの若さよりも充分すぎる経験をつんだ熟練者のほうが役に立つ場合のほうが多いって世間のコトワリ、君は知らない? ――ああ、年の差ってつまり、生きてきた時間の差ってことだよね? てことは、当然君よりも俺のほうが人生経験積んでるぶんモノをよく知ってるわけだ」
その瞬間、千里の頭の中でなにかが切れる音を、万真は聞いた。確かに、聞いた。
「せ〜ん〜〜」
困ったさんだなあ、と思いながら手を伸ばして背後から千里の襟を引っ張る。しかし千里は聞かない。押し殺した声で、低く、言った。
「……その挑戦、受けた」
彼を知るものならすぐにわかる。明らかな、本気の怒りの兆候。マジ切れ、五歩ほど手前。
あせって万真が千里の気をそらそうと口を開いたとき、千里を挑発した張本人が、笑顔のまま口を開いた。
「なんの話? 俺挑戦なんかつきつけた覚えないんだけど」
「…このケンカ、買った」
「千ー、やめなよー」
千里の腕を掴んでそうたしなめた万真を横目で見やって、日向が呆れた声を出した。
「……伊織、本気で止める気ないだろ」
その声に万真が日向を振り向き、へへ、と笑って小さく舌を出した。そのしぐさにめまいを覚えて日向は思わず手で顔を覆う。顔が赤くなるのが自分でもわかった。「……あほか」という明らかに自分に向けて発せられた成一の呟きにも、ろくな反応を返せない。
少年たちが勝手にやってろ的な状態に陥っていたとき、するりと動いた人影がある。
千里の腕を抑えていた万真が、近づいてきた人影に気づいて安堵の表情になった。が、万真が口を開くよりも早く、人影が動いた。
パシン、という、威勢のいい音が夜の公園に響き渡った。それも複数。
万真は呆然として目の前の女性を見つめた。
「なななナンさん…?」
千里も、叩かれた頭を抑えてあっけにとられた顔でナンを見上げた。
「――ってぇ」
そう呟いたのは千里ではなく、蓮見だった。頭を抑えて、傍らに立つ北斗を恨みがましげに睨みつける。
「…今、本気で叩いただろ」
「グーじゃないだけマシだと思え。お前もだ」
その言葉に千里の眉が跳ね上がる。
「あんたにお前呼ばわりされる覚えはないな――って、ストップ!」
またも手を振り上げたナンを見て慌てて叫んだ。鼻を慣らして手を下ろしたナンと、蓮見を膝で軽くどついている北斗を眺めやって、聞こえよがしに吐き捨てる。
「…ったく、暴力的だな、こっちの双子は」
「あんたにだけは言われたくないねぇ」
「お前にだけは言われたくないな」
ほぼ同時にそう言われて、さすがの千里も苦笑した。蓮見とシュウが失笑する。万真も笑いながら千里の腕を引っ張った。
「はい、おしまい。もう終わり。これ以上くだらない言い合い続けたら怒るからね」
「……わかったよ」
疲れたように千里が応え、身をひいたのを皮切りに二人の間に漂っていた張り詰めた空気は霧散した。
すでに立ち上がっていた成一が、ニヤニヤと笑いながら時計に眼を落とす。
「かなり激しかったけど。すっきりしたか?」
「めちゃくちゃフラストレーション溜まった」
間髪入れず返されて成一は笑った。
「だろうな。…結構いい時間だぜ」
その言葉に千里も時間を確かめ、頷いた。
「だな。そろそろ行くか」
当然のように万真が千里に身を寄せる。成一がおどけてナンたちに敬礼した。
「俺たちそこら辺ぶらついてから帰るよ。それではセンパイ、よい夜を」
「バカ」
笑いながら万真がそんな成一の脇腹をひじでつついた。
ひらり、と手を振って千里が身を翻す。
「じゃ、おやすみ―――ああ」
と、首を回してナンたちを振り返り、千里は付け足した。
「俺たち、明日は来ないから。…弘君にバイト遅れないように言っといて」
ああ、という北斗の返事を聞いて、千里は完全に背を向けた。ぺこ、と頭を下げた万真の背を押してうながす。
後に続いて公園を出ようとした日向は、ナンに呼び止められて足をとめた。ナンは、笑っていた。
「あんた、ずいぶんあいつらと打ち解けたみたいじゃないか」
その言葉に、日向は眼を瞠ったあと、複雑な表情になった。
なにか言いたげに口を開き、しかしなにも言うことなく一礼して公園を出て行く。
その背を訝しげに見送っていたナンは、背後から聞こえた長いため息に振り返った。
そして軽く目を見開いた。
「なんだ、起きたのかい?」
いつの間に起きたのか、身を起こした姿勢で弘行は少年たちが消えた公園の入り口を見つめていた。
「千里から伝言。バイトに遅れるなって」さ。
最後の言葉は弘行の声によってさえぎられた。
「聞いてたよ」
心なしか硬い響きにナンは面食らったが、「そうかい」と言うにとどめた。
弘行にタバコを差し出しながら、蓮見が呟いた。
「弘さん。あの子、やっぱり似てるよ」
「言うな」
強い拒絶の響きに、蓮見は口を閉ざした。そして、黙り込んだまま新しいタバコに火をつける
沈黙が降りた。
戸惑うナンを、弘行は見ない。蓮見も、いつもは微笑んでいるその顔をこわばらせ、地面を見つめている。思い当たることがあるのだろう、北斗も、瞳に暗い翳りを落として宙を眺めていた。
事の次第がわからずに困惑しているのはライトとゼンと、そしてシュウだ。
流れる困惑した空気を振り切るように、弘行は細く、長く、タバコの煙を吐き出した。
一瞬白く空気を濁したそれは、ゆっくりと薄れ、そして消えていった。
|