こぼれた光が闇を切り取った。絶え間なく降りそそぐ細い銀糸が光を受けてかすかにきらめく。
千里は、猫の額のような庭から、ガラスに映るおのれの顔に焦点を合わせた。やわらかい髪は濡れるとぺたんと肌に張り付く。湿り気を帯びた前髪を乱暴にかきあげたとき、背後でドアが開く音がした。
「千ー見て見て」
明るい声。ガラスの中でドアを足で抑えながら明るく笑っている少女に口元を緩めて、ゆっくりと振り向いた。
「行儀悪いぞー」
「両手ふさがってるんだもん、しょうがないでしょ」
両手で大きな盆を支えながら、万真は器用に足でドアを閉めた。万真も風呂上りらしく、ハーフパンツに薄手のシャツといったラフな格好だ。髪がしっとりと濡れている。
盆を低いテーブルの上に慎重に置き、丸い大皿をそっとテーブルの上に乗せた。
「ほら。結構いい出来でしょ!」
丸皿の上に乗っているのはかわいらしい軽食だった。薄いビスケットの上にチーズや野菜、ハムなどが上品に乗っている。
「カズが一人で作ったのか?」
「うん」
心なしか胸を張った妹を見て、千里は笑った。カーテンをきっちり閉めて、ソファに歩み寄る。ソファに身を沈めると、首にかけていたタオルを手にもって万真を手招きした。
千里の意図に気づいた万真がへらっと笑って彼の足元にぺたんと座った。
「ちょっとはうまくなったじゃないか」
「“ちょっと”じゃなくて“ずいぶん”ですー」
口を尖らせる万真の頭にタオルをかぶせて、やさしく髪を拭いていく。
「最初に作ったときは惨憺たるものだったもんな。それに比べれば雲泥か」
「……いつまで覚えてるのさもう」
悔しそうな口調に軽く笑ったとき、再びドアが開き、長身の男が顔を出した。伯父の良樹だ。
彼は双子に目をとめて「相変わらず仲がいいな」と笑った。そしてそのまま姪と同じように足でドアを閉める。
たしなめたのは万真だった。
「行儀悪いぞー」
千里の口調を真似た言葉に、良樹は手にしたものを振って見せる。
「両手がふさがってるからな」
万真とまったく同じ言葉に千里は苦笑し万真は声を殺して笑った。
良樹はそんな双子に笑みを返して、手にしていたビンを置く。ウィスキーとワイン、そしてジュースだ。
「万真、グラス出してくれ」
千里の手が離れて、ぼさぼさの頭を手櫛で整えていた万真は、その声にぴょこんと立ち上がり壁際の戸棚に駆け寄った。
毛氈の上に伏せられているグラスを取り出し、慎重にテーブルの上に置く。指で弾くと澄んだ高い音を奏でるこのグラスの値段を聞いて思わず取り落としそうになったことは記憶に新しい。
「残りは?」
ビンとともに並べられた二つのグラスを見て千里が問い掛けた。
「すぐに幸枝が持ってくる」
そう言って、千里の隣に移動する。そして甥が手にしていたタオルを取り上げると、生乾きの頭にかぶせた。
「わっ」
乱暴に髪を拭かれて千里は思わず声を出したが、良樹は構わない。わしわしと力強く髪を拭いて、そして千里を開放した。
「人の世話を焼く前に自分をなんとかせんか」
「……はいよ」
ぼさぼさの頭で憮然と返事をした千里を見て万真が声をあげて笑った。
「いいなぁ千」
バカなことを、と苦笑した良樹の大きな手が万真の髪をかき混ぜる。その感触に首をすくめた万真を見て千里がやわらかい表情でため息をついた。
「あら、葉介君は?」
と、そのとき、ドアが開いて穏やかな声が飛び込んできた。幸枝だ。
「まだ風呂」
答えた千里の傍らから、万真がはねるように飛び出して幸枝のもとに駆け寄る。彼女の手から半ば奪うようにグラスと氷を受け取った。
万真に微笑みかけて、幸枝は「相変わらずねぇ」と笑った。
「千里も、少しは葉介君を見習いなさい。いつもいつも烏並に早いんだから」
「行水だもんねー千は」
うるさいな、と毒づく千里に万真が笑った。すねたようにそっぽを向く千里の耳を引っ張ったのは良樹だ。
「ちゃんと耳の裏洗えてるか?」
「痛いな――洗ってるよ」
良樹の手を振り払って、すねた顔でそういう千里を、夫妻は温かな瞳で見守っていた。
普段は大人ぶっている千里も、葉介や伯父夫妻の前ではとたんに子供の顔をする。
再び部屋を出て行った伯母が、今度は果物を盛り付けた皿を持って戻ってきた。テーブルの上に乗せて、もう用事は済んだらしくソファに腰を落ち着ける。
千里の隣に腰をおろした万真が、ちらりと時計を眺めて苦笑した。
「長風呂だね」
「いつものことだろ」
葉介はとにかく風呂が長い。それは今に始まったことではなく、二人の記憶にはいつしか葉介=長風呂と刻み込まれてしまっている。
彩りの良いカナッペを前に万真が落ち着きなく足を揺らしている。千里もワインのビンを興味深げに眺めやっている。その様に伯父夫妻が苦笑したとき、ようやくドアが開いて件の人物が顔を出した。
「遅くなりました」
「遅い!」
千里と万真が同時に声を投げる。葉介は二人に「ごめん」と謝ってから、あけられた席に腰をおろした。そんな葉介におっとりと言いさしたのは幸枝だ。
「ゆっくり入ってくれていいのよ」
「ありがとうございます。いいお湯でした」
砕けた笑顔でそう言う葉介に笑みを向けながら、良樹は慣れた手つきで水割りを作ると葉介に差し出す。幸枝にはワイン。子供たちにはジュース。そして自分も水割りのグラスを手に取ると、す、とテーブルの上に掲げた。それに倣って残りの四人もグラスを持ち上げる。
キン、と静かな音が部屋に響いた。
グレープのジュースを飲みながら不満げな声をあげたのは千里だ。
「…ワインが飲みたい」
「生意気言うな未成年」
伯父にぴしゃりと言われて千里はさらに表情を曇らせる。
「一は飲んでるのに、酒」
「水城家は水城家。うちはうち」
今度は伯母だ。万真はそ知らぬ顔で果物をつまんでいる。
千里は澄ました顔で手ずから水割りを作っている葉介に眼を向けた。視線に気づいて、葉介は軽く苦笑した。
「そんな顔してもダメだよ。僕は一番下っ端なんだから」
「なに言ってるのよ葉介君」
と驚いた顔をした妻を見やって苦い顔をしたのは良樹だった。
「とぼけたことを……なにかと彼に物を頼むのは誰だ?」
あら、と幸枝は眼を丸くする。
「私、葉介君を使い走り扱いしたことなんてないけれど」
「この間吊り棚の修理を頼んだのはどこの誰だ」
「あら、だってあなたに頼んだりしたら指を釘で縫いつけかねないじゃないの。その点葉介君なら器用で確実だし。ねえ」
と話を振られた双子は笑いをかみ殺していて答えない。
「…この間のクーラーの修理も」
「下手な電気屋に頼むよりも葉介君のほうが早くて正確なんだもの」
「……だからって便利屋扱いしては彼に悪いだろう」
いえ、と口をはさんだのは今度は葉介だった。
「僕は全然構いませんよ」
にっこりと穏やかな、それでいて控えめな微笑を向けられて良樹も沈黙せざるを得なくなる。それに勢いを得た幸枝が勝ったように笑みを浮かべた。
「主人はともかく千里もこの手のことにはあまり役にたたないし、こういうことにはやっぱり葉介君よねー?」
「…それって遠まわしにけなしてませんか幸枝さん」
「あら誰を?」
「僕を」
とんでもない、とばかりに眼を丸くして見せる幸枝の様子に、葉介はもとより良樹も困ったように笑うのみだ。
そんな伯父たちを眺めていた子供二人は、肘でお互いをつつき合うと申し合わせたように食べ物と飲み物を持てるだけ持って席を立った。
「飲むもの飲めないんだったら俺たち上行くよ」
おい、と声を上げた伯父を戸口で振り返り、いたずらっぽく笑ったのは万真。
「これ以上ここにいたら酔っ払いの愚痴に付き合わされるのわかりきってるからねー」
小さく舌を出してドアの向こうに姿を消す。ドアを抑えていた千里も、半身だけ出してにっと笑った。
「二日酔いにならない程度に楽しみなよ。じゃ、おやすみ」
大人たちの呆気にとられた表情に笑いながらドアを閉め、万真とともに階段を駆け上がる。自分の部屋の電気をつけた千里は上げたままになっていた窓のブラインドを下ろし、ベッドに腰をおろした。
万真も、部屋の隅に転がっていた自分専用のクッションを抱えて腰を落ち着ける。そして二人同時に息を吐き出した。
月に一度、こうして伊織と相馬の面々が集まる。伊織の祖父母が存命のときから、これは滞ることなく続けられている一種の恒例行事だ。
葉介も相馬の伯父伯母も、お互いをすでに「家族」とみなしていることもあり、内容は親戚の集まりとなんら代わりがない。違うところがあるとすれば、こうして集まる目的が団欒などではなく、ただ、情報交換の一事にのみある、ということだ。
千里の、あるいは万真のこの一ヶ月間の様子はどうだったのか。なにか変わったところはなかったか。
――そう、両方の「保護者」が情報交換しあう機会。
だからこそ、万真も千里もこの「家族」全員が集まる日を楽しみにもし、また厭うてもいた。
「あーあ」
ポツリ、と万真が吐息を落とす。その瞳はブラインドの向こうに向けられていた。
「……不満か?」
あそこに、行けなくて。
千里の問いには「ううん」とだけ答える。
体を丸めて、クッションを抱きしめて万真は先ほどとは打って変わった静かな声を落とした。
「…雨の音、すごいね」
ん、と、千里も外の気配に耳を済ませる。絶え間なく耳に届く雨音。心なしか、先ほどよりもきつくなっているようだ。
「…雨の日って、あっちはどうなるんだろ。やっぱり雨降るのかな」
「さあ……降るんじゃないか、やっぱり」
二人の心は自然と現実と虚構の狭間にあるような不思議な世界へと飛んでいく。
「…雨だったら、日向も、家にいるよね」
「……たぶんな」
ごろりとベッドの上に寝そべった千里が、次の瞬間見事な腹筋を見せて跳ね起きた。ほぼ同時にすぐそばのステレオに手を伸ばす。入れっぱなしになっていたCDがにぎやかな音楽を奏で出す寸前――万真も、気づいた。
階下から、かすかに聞こえてくる話し声。
思わずクッションを抱く腕に力がこもる。
すぐに流れ出した音楽にその声がかき消されても、万真はしばらくの間肩の力を抜かなかった。抜けなかった。
ゆるゆると力を抜いていき、長いため息を落とす。万真の吐息を背中で聞きながら、千里は机の上のパソコンに手を伸ばして電源を入れた。かすかな稼動音とともに画面に変化が現れる。
椅子に座りなおした千里を見上げて、万真は軽く首をかしげた。
「…千?」
「久々に例のサイト見ようと思って。なんか新しい情報入ってるかもしれないし」
明るくなった画面の中、千里の手がマウスを操作しブラウザを開く。万真は膝立ちでにじり寄り、サイトにアクセスする様を興味深く眺めていた。
この一ヶ月の間にすっかり見慣れたデザインのサイトが立ち上がる。千里は迷うことなく更新情報を開いた。
ここ数日の、ゲームの様子が事細かに書かれている。
いつ、どこのチームが東京入りをしたか。現在東京にいるチームの数。ここ数日で『戦死』を宣言されたチーム。
古い記述から順に眺めていた千里が、突然「あ」と小さな声を出した。ほぼ同時に万真が身を乗り出す。
「千、これって」
言いながら指差したのは、昨日更新されたばかりの情報だった。
【昨夜未明。関西No.2チーム『ジャッカル』が、METHとの戦闘に敗れ『戦死』】
簡潔な一文を、万真は食い入るように眺める。そして呟いた。
「……関西を制したって、あれ嘘だったんじゃん」
「突っ込みどころはそこじゃないと思うんだけどな俺は」
千里がぼそりと突っ込む。そしてそのまま髪をかきあげた。
「METHかー。これまた懐かしい名前が出てきたな」
「最近逢ってなかったもんね。また動き出したってことかな」
「……厄介だな」
「ホントにね」
再び、先ほどとは違った感慨を持って画面を眺める。
千里がマウスを操作してブラウザを閉じた。そしてそのまま電源を落とす。その作業をしながら、背後に向かって声を投げた。
「なにか観るか? ビデオでも」
夜はまだこれからだ。二人が寝ることを許されるまで、あと何時間もある。
「……コメディがいい」
「適当に選んで」
言われるまでもなく、万真はクローゼットの中から可動式の棚を出してくる。ビデオやDVDが詰まった棚だ。
「うーん。これこの前観たしなぁ」
「なんならホラーでもいいけど」
「よくないし」
からかい混じりの千里の発言をあっさりと却下し万真は一本のビデオテープを引き出した。受け取って、千里がビデオをセットする。
プツン、とテレビの電源が入り、ビデオが動き出すかすかな音が部屋に響き始めた。
軽快な音楽とともに繰り広げられるコミカルな会話。コミカルな動作。画面の中で繰り広げられるにぎやかなシーンを、しかし二人は見てはいなかった。
視線は確かにテレビに向けられている。だが、その瞳が映すのはまた別なものだ。
ベッドに持たれ、クッションを握り締めたまま万真はことりと千里の肩に頭を預ける。
「…眠い?」
「ううん」
にぎやかな音楽に混じって聞こえてくるのはかすかな雨音。
映画のテーマは「友情」だ。友情が築き上げられる過程がコミカルに、それでいて的確に表現されていく。
もう何度となく観た映画。あらすじなど空で言える。
――友情。
その概念は、二人にはわからない。
成一に対して抱く気持ちは、友情と言うよりはむしろ家族愛だろう。もしくは同族意識とでも言えばいいのか。
唯一、その言葉に当てはまる人間は――。
「…カズ」
「んー?」
千里の肩に頭を預けたまま、万真はとろんとした声で応じた。眠いわけではない。甘えているときの声だ。
千里は万真の髪に頬を寄せて、ささやいた。
「日向のこと」
ぴくん、と万真が小さく震えた。それには気づかなかったふりをして、千里は続けた。
「どう思う…?」
絶え間ない雨音と。盛り上がる音楽が、部屋に満ちる。
万真は無言でテレビを見ていた。ことん、と、千里はそんな妹の頭に自分の頭を持たせかける。
千里の熱を間近で感じて、万真はクッションを抱く腕に力をこめる。そしてかすかに口を動かした。
「………わかんない」
そんなことを訊かれても、困る。
それが万真の本音だった。
そして、「わからない」という言葉そのものが、ある意味答えであることに、万真は気づいていた。
成一とはまた違う。
弘行とも違う。
ジムの人たちとも、違う。
学校の、クラスの人たちとも、また違う。
――「わからない」人。そうとしか、表現できない。
「……千は?」
小さな問いかけに、千里はわずかに考えるような素振りをしてから、答えた。
「…俺も、わからない」
テレビの中では、理解しあった仲間たちが互いに肩を組んで笑い合っている。明るい表情。明るい雰囲気。希望にあふれた、空気。
「でも、なんか」
ポツリ、と、千里が言葉を落とした。
視線をテレビに固定したまま、ささやくように、言った。
「……あいつがいると、安心する」
短い沈黙ののち、万真は「うん」と、かすかな、本当にかすかな声を出した。
そう。
日向がいると、その顔を見ると、それだけでなぜか安心する自分がいた。
成一に対する安心感とはまた違う。
なぜかはよくわからない。
ただ、日向が持つ温度とでもいうのか、その存在感に、心のどこかでほっと息をつく。
一月前までは、考えられなかったことだ。
成一や、家族以外の人間に、そんな感情を持つなんて。
エンディングテーマが流れる。にぎやかな、明るいマーチ。
流れるそれをなんとはなしに目で追いながら、千里が、静かな声で言った。
「……もう、いつまでも閉じこもっていられる歳じゃ、ないんだよな」
その言葉は、静かに万真の中に落ちる。
ことり、と、心のどこかで音がする。それは波紋となって、心の中に広がっていく。
万真は、クッションを強く抱きしめた。強く――強く。
「……なんとか――」
千里が言った。
「…なんとか、しないと。でないと、本当にダメになる」
いつまでも甘えてはいられない――。
千里の呟きは、静かになった部屋の中に染み入るようにして消えていく。
強く強くクッションを抱きしめたまま、万真は小さく頷いた。
「………うん。そうだね」
小さな、小さな声だった。
チン、と、グラスが涼やかな音を立てた。
グラスをテーブルの上に戻し、葉介はわずかに視線を落とす。そして、言った。
「――最近、二人に、友達が出来たようです」
静かに落ちた一言に、思わず二人は顔をあげ、葉介を見た。
「…なに?」
驚愕の表情で問い掛けてくる良樹を真っ直ぐに見つめて、葉介は噛んで含めるように繰り返した。
「二人に、友達が」
雨の音が急に大きくなったような気がした。
幸枝の瞳に希望がともる。身を乗り出して、彼女はささやくように尋ねた。
「――本当?」
「ええ。万真と同じ学校の子なんですが……いい子で、千里も珍しく気を許しているようですよ」
「千里が? まあ」
と、幸枝は眼を丸くして口元を抑えた。良樹も「信じられない」といった表情で葉介を凝視している。
葉介は柔らかく微笑すると、グラスを口元に運んだ。
「これで、あの二人が少しでも変わるといいんですけれどね」
そう、少しでも。
一歩でもいい。
今いる場所から、歩み出せたら。
あの暗くよどんだ閉塞的な場所から、外の世界に眼を向けることができたなら。
それは、とてつもなく大きな変化だ。
だからこそ――。
だからこそ、葉介は、今の二人のわずかな変化を、大切にしていきたい。あの世界がきっかけで二人が少しでも変われるのなら、あえてそのことに眼をつぶっていたい。
焼け付く液体がのどを滑り落ちていく。
ふ、と、息をついて、良樹はカーテンの隙間からのぞく黒い夜を眺めながら、言った。
「……だからだろうか。最近、千里の様子が、少し変わってね」
伺うような葉介の視線に、良樹は意味もなく手を振った。
「いや、いや。昔から――心の奥に、絶対に人には触れさせない領域をかかえている子だったが……それが、少しずつ…なんというのか、変わってきているような気がする」
心の奥底に触れることをかたくなに拒んでいるのは万真も同じだ。それは、両親の死や、そして幸せだったゆえにつらい過去の記憶につながる場所。人を信頼することを、かたくなに拒否してきた、その根源。
良樹は照れたように笑って頭に手を置いた。
「そうは言っても、いまだによく千里とはぶつかるんだがね」
やはり男同士だからだろうか、千里とはことあるごとに軽い口論になる。口論にまで発展しなくとも、千里が良樹の干渉を拒否してそっぽを向くのはよくあることだ。万真と幸枝の間ではそういうことはないようなのだが。
葉介は笑った。
「それだけ気を許してるってことでしょう。千里は甘え方が下手ですから」
「だといいんだがね。……私は親を知らないから、どうしても接し方がわからない」
ポツリと、もらした良樹の瞳が暗く沈んだ。思慮深い瞳を向けてきた妻に安心させるように微笑みかけて、良樹はグラスをゆする。氷が涼しい音を立てた。
「世の中の“父親”は、どういうふうに子供に接しているのか。どういうふうに叱っているのか。……いつも手探りだ」
同僚に尋ねてみても、形ある答えは返ってこない。その内容もさまざまだ。
葉介はしばし無言でグラスを揺らし続ける男を眺めていたが、ややあってふわりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
顔を上げた良樹に、柔らかな言葉を紡ぎ、投げかける。
「…良樹さんは、ちゃんと、父親の顔をしています」
良樹は、その言葉に、ほっとしたような、それでいて複雑そうな笑みを浮かべた。
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