第一印象は、「清潔そうな」家だった。
玄関から暗闇のリビングを通り抜け、奥の階段を二階に上がる。
「風呂沸かしてくるから、部屋行ってて」
千里の声に軽く手を上げて応じ先に立って歩き出した成一のあとを追って、日向も慌てて階段に足をかける。
家の人はいないのだろうか。
成一は勝手知ったる足取りで階段を上がり、探すことすらせず廊下の電気をつけると、手前のドアを押し開けた。そして一瞬後には部屋の中は明るい光で満たされていた。
部屋の色調はグレーで統一されていた。文庫本やハードカバーが並んだ本棚に、ノートが広げられたままになっている机、その隣のパソコンラック、きちんと整えられたベッド、全てがやや濃い目のグレーだ。そこに唯一色彩を添えているのが窓際の淡い青のカーテン。
成一が窓に歩み寄りすばやくブラインドを下ろした。そして慣れた手つきでエアコンのスイッチを入れる。
かすかな稼動音とともにエアコンが動き出した。やがて冷風が吹き付けてくる。
冷たい風を頬に浴び、成一が満足そうに声を出した。
「適当に座ってろよ。なにか観るか?」
突っ立ったままだった日向にクッションを投げて、キャスターのついたラックを引っ張る。そこに収められたビデオやDVDを見て日向はあきれ返った。
どこからこんな金がでてるんだ。
都心からはずれているとはいえ一戸建て。さらに垣間見た趣味のいい調度品を思い出して日向は知らず渋い顔になってしまった。
「あいつ、もしかして坊ちゃんか?」
その言葉に成一が吹きだした。なにやらお気に召したのだろう、「ぼっちゃん」「ぼっちゃん」と繰り返しひとしきり笑ってから、腹を押さえて声を震わせた。
「ぼ、ぼっちゃんかー。そりゃあいつの保護者二人とも医者だけどよ」
坊ちゃん決定。
ひそかに心の中で千里の顔に「ぼん」というスタンプを押す。そんな日向には気づかずに成一はくつくつと笑うと、ラックを足で軽く押した。ラックは音もなく床の上を滑っていく。
「ま、甘やかされてる方だろうな。でもこれは多分もらった金だけじゃねえよ」
もらった金だけじゃない。日向はいやな想像をしてしまった。
「……万引きか?」
とてもシンプルな日向の思考に成一は床にひっくり返った。そのままバタバタと足を泳がせて声もなく悶えている。
その態度が答えだった。
「…笑いすぎだ。まあ、相馬がこそこそ万引きしているところなんて想像つかねぇが」
「日向おまえサイコー。笑わせるなよ。あいつそんなことするくらいなら舌噛むぜ」
「だろうな」
千里のプライドの高さを思うと、万引きなんかするはずがないとわかりそうなものなのに、なぜそんな想像をしてしまったのか。きっとこの予想外の出来事に思ったよりも動揺しているのだろう。
千里の意外な言動から、無理やり思考を切り替える。
万引きではないとしたら、バイトか。
あまりしっくり来ない考えだが、小遣い以外での収入となるとそのぐらいしか思いつかない。ただ、あの千里が普通の高校生のようにアルバイトに精を出している様子は、万引き以上に想像できない。
そう素直に口に出す。床に寝転んだまま、まだ笑いの残る顔でクッションを引き寄せると、それを抱えて成一が言った。
「葉介さんだよ」
日向は軽く眉を上げた。
「ああ…あの人は二人に甘そうだな」
万真に対する様子を見ても良くわかる。あのマスターは二人を溺愛しているのだろう。
成一はクッションに顔をうずめてまた肩を震わせた。
「いやまあ確かにベタ甘だけどさあの人。でも金に関しては厳しいみたいだぜ」
「へえ?」
興味が声に出ていたのだろう、成一はにやりと笑った。
「小遣いほしけりゃ店で働けって。だからあの二人中1の頃から店を手伝ってる」
意外だった。葉介なら、なにも言わずに望まれるままに小遣いを渡していそうなのに。
「ま、そのぶん大めにもらってるみたいだけどな。働かざる者食うべからずってさ」
少し感心してしまった。ただ甘やかされているだけではないらしい。
もっとも、その金はほとんどが本とゲームとDVDにつぎ込まれているようだが。
「観たかったら観ろよ。どうせ千里は寝ねえし」
言われてラックに視線を戻した。有名な映画から聞いたことのないものまでずらりと並んでいて、壮観ですらある。一見したところ千里はアクション映画が好きらしい。
目についたものを見ていると、成一が伸び上がって廊下に顔を出した。
「二人ともおっせーなぁ」
千里だけではなく万真も上にあがってこない。
なにをもたもたしてるんだか。そう考え、ちらりと、怯えているのだろうか、という考えが成一の頭をよぎった。
家に帰ってくるまで万真は日向と目を合わせようとはしなかった。時折すがるように成一を、そして千里を見上げ、そして地面に視線を落とす、それを何度も繰り返していた。
万真は怯えている。この突然の事態に、どう対処すればいいのかわからず、怯えている。そしてそれは多分千里も同じだ。
もっとも千里は、それなりの覚悟があって日向に声をかけたのだろうが。今の千里の状態を考えると、日向をこうして招くにはかなりの勇気が必要だったのだろう。
千里はともかく、万真はこの事態をどう思っているのか。
(そこんとこ、ちゃんと聞いておかないとなぁ)
千里は頭がいいためか時々暴走する。一応そのストッパーを任じている成一としては、彼の考えをしっかり聞いておきたい。万真とちゃんと意思疎通ができているのか、ということも。
帰路の二人の様子を見るかぎり、あまり意志の疎通はできていないように感じた。
寝転んだまま姿勢を変えて日向の背中を眺める。どうやら二本にしぼったらしい。両手に持ったDVDを見比べているその背中は大きくて、なんとも不本意ではあるが、見ていると安心してしまう。
日向が持つ不思議な存在感、安心感。
多分、それに、あの二人も惹かれたのだろう。
そんなことを考えていると、その大きな背中が静かに話し出した。
「…俺、ここに来ても良かったか?」
一瞬言葉の意味を掴みかねた成一だが、すぐに理解した。そしてしみじみと背中を眺めた。
気づいていたのだ。千里と万真の緊張に。二人の様子に。
じんわりと胸が熱くなる。
心に広がる喜びのままに日向の背中を眺めていると、沈黙に耐え切れなくなったのか背中がそわそわと揺れ出した。
「おい」
いつまでたっても答えが返ってこないことに不安になって振り返ると、横になったまま成一は自分を見つめていた。その顔に浮かぶ穏やかな表情にわけもなく動揺する。
「水城?」
問うと、成一はゆっくりと瞬いた。笑みがさらに大きくなる。
「ああ、悪い。なんか嬉しくてよ」
「あ?」
嬉しい?
なにが。
当惑した日向の表情を見て、成一はくくっとのどの奥で笑った。
「正解だぜ、日向。あそこで断ってたら、きっと千里はもっと壁を厚くしてた」
その言葉を聞いて日向は息を吐き出した。安堵が胸に広がる。
では、自分がとった行動は間違っていなかったのだ。
が、安堵したのもつかの間、次に成一が放った言葉は日向をその場に凍りつかせた。
「もっとも万真はどうかはしらねえけど」
伊織。
ここに来るまでの、妙にふさぎこんだ彼女の様子が甦った。
壁も感じたが、それよりも、彼女の不安定な様子が気にかかっていた。
今回家に誘ってくれたのは、千里の最大限の譲歩だろう。それだけ、自分の中に日向が踏み込んでいくことを許してくれた。千里の生活に日向が関わってくることを許してくれた。
それは嬉しい。もちろん嬉しい。千里が心を開きかけていることに気づいて、怖くなったほどだ。
だが、それはあくまでも千里の働きかけであって、彼女は相変わらず壁を築いたままだ。
なにが違うのだろう、と日向は思う。千里と万真、どちらに対する態度にも、それほど差はないはずだ。万真に対するアプローチが若干多いような気がすることには眼をつぶる。それは自意識過剰の一言で片付けられるものだから、気にしないことにする。
千里と、万真。なにが違うのだろう。
瞳の色を深くして考え込んだ日向を見て、成一は知らず微笑んだ。
日向は千里と万真に真剣に接してくれる。いいかげんに扱わない。そのことに無意識のうちに気づいているから、千里もだんだん彼に懐き始めたのだろう。
懐く。
浮かんだ言葉に思わず吹き出しそうになった。
そうだ。その言葉がぴったりだ。千里はそろそろと、怖がりながら日向に懐き始めている。
千里も万真も猫だ。警戒心が人一倍強い猫。
と、階段を上ってくる軽い足音が聞こえてきた。この足音は万真だろう。日向はまだ考え事をしている。
やがて万真が開いた戸口から顔を出した。両手で支えた盆の上には涼しげに水滴をまとったグラスがある。
「クーラーつけてるならドア閉めなきゃダメだよー」
のんきに言ったその顔にはいつもの笑顔。しかし、隠しようがない瞳の表情に、成一は怯えを見て取った。
日向が首を回して万真を見る。彼がなにを考えていたのかは知らないが、表面上は平静を保っていた。さきほどまでの苦悩の表情がきれいに消えていることに成一は感心し、安心した。
「アイスティー入れてきたんだけど、飲む? のど渇いてると思って」
「なんだ、麦茶でよかったのに」
身を起こしながら言うと、万真が軽く肩をすくめた。
「こっちの方が早かったから。今麦茶も作ってるよ」
盆を床に直接置く。日向が手を伸ばしてグラスを持ち上げた。
礼のかわりに軽く掲げてから、問いかける。
「相馬は?」
万真は軽く首を傾けた。
「もう来るんじゃないかな」
言葉の通り、すぐに千里の足音が聞こえてきた。戸口に立って、日向に目をとめる。
「日向、汗かいてるだろ、風呂入れよ」
日向は驚いた。千里の顔は真面目で、慌てて首を横に振る。
「いや、いい。そこまでしてもらうわけには」
いかない。言おうとした言葉は咎めるような成一の声に消されてしまった。
「入ってこいよ。おまえ汗臭い」
日向は沈黙した。夏なんだから仕方がないだろう、あれだけ運動したんだから汗もかく、それらの言葉は口に出せずに終わる。万真の顔を見るのが怖かった。
眼を泳がせた日向を見て千里は笑った。正直な男だ。
「遠慮するなよ」
重ねて言うと日向はようやく頷いた。そのことに軽く安堵する。
覚悟のこととはいえ、日向の口から拒絶の言葉が出るのはまだ怖い。
そんな自分を隠して、千里はクローゼットの中から着替えと未使用の下着を探し出した。大き目のシャツとハーフパンツ。小さいということは多分ないだろう。
それを日向に押し付けて、先に立って風呂場まで案内する。
脱衣所に押し込むと、なんともいえない顔をしている日向を見ていたずらぽく微笑んだ。
「それ、前に一が持ってきた奴だから、遠慮しなくていい。のんびりしろよ」
その言葉を残して脱衣所のドアが閉まるのを日向は呆然と眺めていた。そろそろと手の中のトランクスに眼を落とす。
成一のものだから遠慮するなと言われても。
シャツやハーフパンツぐらいは貸してくれるだろうと思っていたが、まさかここまでされるとは。
至れり尽せり。あいつはきっといい奥さんになれる。
ちらりと頭によぎった考えを慌てて振り払う。
なにを考えているんだ俺は。
着替えを籐の籠の上において、汗で汚れたシャツを脱ぐ。
なんだか、完敗したような気分だった。
日向がいなくなったとたん万真の顔から笑みが消えた。
愛用しているクッションをぎゅうと抱きしめて、壁にもたれて身体を丸める。
成一は、日向が残した二本のDVDを手にとりながら、そんな万真の様子をうかがっていた。
やっぱりだ。万真はかなり気を張っている。
沈黙がさらに万真の緊張を高めているような気がして、成一は少しためらったあと右手のDVDをプレーヤーにセットした。去年の夏爆発的にヒットしたアクションコメディ。
画面に映像が映し出され、音楽が流れ出すと万真の瞳が動いた。一瞬テレビに向けられたそれは、すぐにまた床の木目に戻る。
軽い足音とともに千里が戻ってきた。
部屋に満ちる緊張に気づいたのだろう、ちらりと万真を見てから確認するように成一に視線を投げてくる。頷きで答えると、千里は瞳を翳らせた。
まっすぐに万真のもとに歩み寄り、隣に腰をおろす。
そして、遠慮がちに問い掛けた。
「…怒ってるか…?」
万真は無言のまま首を振った。なおも問い掛けてくる視線、気遣うような表情に、このままではいけないと心を決めて口を開く。
声が低く沈んだ。
「怒ってないけど。……怖い」
成一が万真を見るのがわかった。
そう。怖いのだ。
千里が頭を万真に寄せてくる。
「うん。俺も、怖い」
静かな声が胸に落ちた。
ことり、と、心が音を立てる。
「でも、怖いけど、俺は変えたい」
千里の声が波紋を呼び起こす。凪いでいるはずの心に波紋を。凪いでいなければならない心を波立たせる。
「今の自分を変えたい」
千里の声音は決意に溢れていて、彼の心にしっかりとしたなにかが芽生えたことを知った。根を張り葉を茂らせ大きく成長していくだろう気持ち。決意。
万真の中にはまだないそれ。
きゅうとクッションを抱きしめ、柔らかいそこに顔を押し付けた。
「……あたしは、怖い」
心が震えている。
万真は、初めて、口に出した。
「日向が、どんどん心に入ってくる」
おそらくは恐怖の根底にある現実を。
今までこんなことはなかった。どんどんこちらの心に居場所を作り居座ってしまう存在など知らなかった。
「今が変わってしまいそうで、怖い。変わってしまうことが怖い」
変化を、さらにその先の未来を、受け止められる用意はまだ出来ていなかった。千里は一人でさっさと心の準備をしてしまった。その事実が、さらに万真を追い詰める。
みんなが先へ先へと歩いていってしまう気がした。万真一人を残して。
肩を抱く千里の腕を感じた。
「俺も怖いよ。でも、変わらないとだめなんだ」
このままじゃ俺たちはダメになる。
静かな声が心をさらに波立たせた。
わかっている。変わらなければならないことは。
わかってはいるけれど、その覚悟がまだ万真には出来ていない。
「わかってるけど……怖いよ」
呟いたままクッションに顔をうずめてしまった万真を見つめて、千里は内心吐息を付いた。
早まったかもしれない。
後悔が胸にわきおこる。
成一の咎めるような視線が痛い。
落ちた沈黙を破るような明るい音楽や効果音が空々しかった。
永遠に続くかのような沈黙を破ったのは日向だった。
濡れた髪もそのままに部屋に入ろうとした日向は、そこに満ちた奇妙な緊張感に気づいて怪訝な顔になった。
訝しげな日向をよそに千里が軽く万真の肩を叩く。
「ほら、はいってこい」
うん、と小さく頷いて、万真は逃げるように部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送ってから、日向は残る二人に視線を投げる。眼だけで問いかけると、成一は軽く首を振り、千里はわずかに瞳を伏せた。
聞かない方がいいのだろう。
そう思いつつ、なにげなくテレビに目をやる。
そして、固まった。
派手なアクションシーンに見覚えがある。
「……これ、観たかったのに」
最後の最後までもうひとつのものとどちらにしようか悩んでいた奴だった。日向の声に含まれた隠しようもない落胆に気づいて千里が軽く笑った。
「最初から観ようか」
どのみち、さっきはほとんどみてないからな。
呟きは口には出さず、リモコンに手を伸ばした。
千里とは違って風呂は好きなほうだったが、今日はあまりくつろげなかった。どうしても不安が零れ落ちてしまい、無意識についてしまったため息に気づいて慌てて下腹に力を入れる。
しっかりしろ。
日向はなにも悪くないんだ。問題があるのは自分。こんなふうにしか考えられない、こんなふうにしか人と接することができない自分に、問題がある。
台所に行くと成一が一人新聞を読んでいた。まだ朝刊は届いていないのか、昨日の夕刊を読んでいる。
万真に気づくとにやりと笑って見せた。
「疲れは取れたか?」
言われてようやく万真は全身の疲労感に気づいた。どうやら万真の能力はずいぶんと体に負担をかけるものらしい。ずっと心をふさいでいた不安ともあいまって今日はいつになく疲れていた。体が重い。
作っておいた麦茶をグラスに注ぐ。口に含み、ゆっくりと流し込むと冷たい液体が身体にしみこんでいくようだ。
部屋に持っていったほうがいいだろうか。
少し考えて、その案を却下した。たいした運動ではないのだ。台所まで来てもらおう。
飲み干し、からになったグラスをシンクに置く。水を出そうと蛇口に手をかけた時、静かな成一の声が背を打った。
「万真は、日向が怖いんだな」
指が滑った。かちゃん、と耳障りな音を立ててグラスがシンクに倒れた。
「おまえは日向に惹かれてる。それが怖いんだ」
グラスを持ち上げる指先が惨めなほど震えているのがわかった。
がさがさと紙面をめくる音がする。カタン、といすを引く音。大きな手が頭を叩き、離れていく。
台所のドアがしまり、成一の気配が消えるまで、万真は動くことができなかった。
千里の部屋に戻ると、そこでは、日向と千里が二人でDVDを見ていた。万真も何度か見たことがある映画だ。目下のところの千里のお気に入りだったはず。
万真専用のクッションを拾い上げ、壁にもたれて、二人の後ろ姿を眺める。
千里と日向の間の距離、それは多分、千里の無意識の自己防衛だ。
千里の背中に比べると、日向の背中は大きく見える。体格の差もあるのだろうが、日向が大きく見えるのはそれだけではないような気がする。
黒いシャツに覆われた背中が時折揺れる。笑っているのだ。
瞬きもせずにその背中を眺めながら、万真は成一に言われた言葉を否定できない自分に気づいていた。
わかっている。言われなくても、自分が一番わかっている。
日向に惹かれている。
これが恋かどうかなんかわからないけれど、それは変えがたい事実。
何度も気づき、そのたびに眼をそらしてきたことを、あらためて目の前に突きつけられて、万真はクッションに顔を伏せた。
日向に惹かれている。そのことが、怖い。日向に心を許してしまいそうな自分も怖いが、それよりも。
もし、心を許してしまったら。
心を許した相手に、日向に、拒絶されたら。
きっともう立ち直れない。
そうなることがなによりも怖い。
変化よりもなによりも、一番怖れていることはそれだった。
どうすればいいのかわからない。
頭がだんだん重くなる。
何度も聴いた音楽は不安を減らす助けにはならない。気持ちを沈めるにはこんなにぎやかな音楽ではなく、もっと静かな曲がいい。
隣の、万真の部屋ならばそんな曲がいくらでも聞けるとわかってはいたが、この部屋から出る気にはならなかった。
一人になりたくない。
顔を上げ、日向の背中を見つめる。
大きな背中。
それを見るだけで、日向の存在を感じるだけで、安心する自分がいる。
そのことがひどく腹立たしく、そして哀しかった。
成一に呼ばれて千里が風呂に入りにいった。成一は部屋に戻るのかと思ったが、期待に反して千里とともに階下に降りてしまった。
万真と部屋に残されて日向は狼狽した。
落ち着きなく視線を彷徨わせる。映画はクライマックスにさしかかろうとしていたが、急に興味を失った。
万真は先ほど部屋に入ってきたときから一言も口を聞かない。部屋の隅にうずくまったままだ。
首をめぐらして、万真の姿を認めた。部屋の隅で身体を丸めて横になっている。抱きしめたクッションに顔をうずめているため表情はわからない。
「伊織?」
遠慮がちに声をかけてみたが、応えがない。
そっと近寄り、肩を叩いた。
「伊織?」
反応がない。
まさか、眠っている?
そうっと、本当にそうっと前髪を払ってみた。どうやら眠っているようだ。耳を澄ませるとにぎやかな音楽にまぎれてかすかな寝息が聞こえた。まっすぐなまつげが震えている。
そう言えばずいぶん疲れているようだった。
ふと、数日前彼女がくしゃみを連発していたことを思い出す。クーラーに弱いといっていた。迷ったが、クーラーはそのままに、ベッドからタオルケットを持ってくると彼女にかけた。クーラーは千里か成一がとめるだろう。
派手な音楽が鳴り響いた。だが、あらためて画面に眼を向ける気にはなぜかならなかった。
万真の静かな寝息を聞いているうちに急に眠気が襲ってきた。
あくびをかみ殺し、壁にもたれる。
不思議と穏やかな気分だった。
「一?」
廊下に座り込んでいる成一を見て千里は首を傾げた。ドアの脇にもたれてぼんやりしていた成一はその声に千里を見る。そして言った。
「よ」
「なにやってるんだ?」
部屋にも入らずに。
成一はそれには答えずくいと親指で部屋の中を差した。開けっ放しのドアから中を覗き込み、千里は思わず笑い出したくなってしまった。泣き笑いのような表情で成一を振り返る。
「なんだあれ」
「なんだろなぁ」
投げやりな口調に苦笑し、部屋にはいった。
彼が出て行ったときにはまだついていたテレビは消えていた。映画が終わるには早すぎる。成一が消したのだろう。
それを見て取ってから、問題のブツに眼を向けた。
タオルケットに包まって安らかに眠る万真と、その傍らのブツ。
普段強面な日向の穏やかな寝顔を見て、浮かんだのは怒りでも当惑でも困惑でもなく、ただただ穏やかな感情だったことに千里は驚いていた。
最初は壁にもたれていたのだろう、ずり落ちたのか上半身を壁に引っ掛けるようにして眠っている日向に、「しょうがないな」以外の感情は浮かんでこない。
そんな自分を受け入れることは今ではそう難しくはなかった。
いつの間にか千里の傍らにしゃがみこんでいた成一が、眠る万真を見下ろして苦笑した。
「あれだけ日向のこと怖がっておいてまーすよすよと気持ちよさそうに眠れるな」
「あれだけ怖がるってことが本当は気持ちの裏返しだってことに、気づいてないんだな、カズは」
いつまで目をそむけるつもりなんだか。
そうひとりごちた千里を成一は見上げた。
「なんだ、気づいてたのか」
当たり前だ。言いながら千里は身を翻して部屋を出て行く。成一も慌てて後を追った。
隣の万真の部屋から予備のタオルケットとクッションを持って移動する。千里を手伝って両手にクッションを抱えながら、成一は今夜(今朝)の寝苦しさを思ってため息をついた。
「寝るスペースあるか? あの部屋に四人は無理があるぜ」
「カズは起こしたくないから」
今下手に動かすと万真は眼を覚ましてしまうだろう。それは避けたい。
そんな千里の気持ちを読み取って成一は軽く天井を仰いだ。これは小さくなって寝るしかない。
「じゃあ俺は万真の部屋で寝るとしよう」
「追い出されたいか」
冷え切った声に内心笑いを漏らす。千里は成一にも万真の部屋に立ち入ることを許さない。相馬の家でも伊織の家でも変わらない断固とした態度を貫いている。
兄馬鹿だ。
笑いが顔に出る前に、慌ててさらに声を投げる。
「なら俺がベッドで寝るってことで」
「ざけんなここは俺の部屋だ」
成一の手からクッションを一つとりあげ、日向の頭付近に投げる。そしてタオルケットを広げて日向にかけた。はだけていた万真のタオルケットをきちんと肩までかけなおす。
かいがいしく動く千里をニヤニヤしてみていた成一は、千里がこちらを睨んでくるのに気づいて慌てて床に寝転んだ。すぐに千里がタオルケットを投げてくる。
「優しくしろよ」
「廊下で寝るか?」
「ちぇっ」
口では不満げだが成一の顔は笑っていた。
千里がベッドにもぐりこむ気配がして、すぐに静かになる。
しばらくくつくつと笑っていた成一だが、窓の外が徐々に白んでいくに連れて静かな寝息を立て始めた。
まぶたの裏に光を感じて日向は重いまぶたを無理やり押し開けた。視点が定まり、眼に入った見慣れない机に内心首を傾げる。
疑問はすぐに氷解した。
そうだ。ここは千里の部屋。彼の家。
複雑なものが胸をよぎったが、すぐに締め出した。不安に思うのはいつでもできる。
今何時だろう。
ブラインドの隙間から部屋に射し込む光は充分に日が高く上っていることを示している。
確か壁に時計がかかっていたはず。そう思って寝返りをうとうとして――日向は、固まった。
誰かの寝息が聞こえる。すぐ近くで。そして、この、胸のあたりに感じる穏やかな熱は。
千里か成一だったらいい。いやあまり嬉しくはないが、彼らだったらいい。
祈りにも似た気持ちで視線を動かし――そして日向は石になった。
黒い頭が見えた。それだけならば千里の可能性もあるのだが――この、耳に心地いい、寝息。千里じゃない。その片割れ。
勘弁してくれ、と、心から思った。
なんでこんなことに。
混乱した頭で、さらに万真以外の存在を察知する。千里や成一もこの部屋にいる。
彼らの存在を意識したとたん、どっと汗が噴き出した。
こんなところを見られたら最後、なにを言われるかわからない。それに万真。目を覚ました時、日向を見てなにを思うか。
想像すらしたくない。
最悪の場面すら想像してしまった。
そろそろと、日向は身を起こし始める。なんとか万真が目を覚まさないうちに体勢を変えなければ。
そもそもなぜ万真がこの部屋で寝ているのだろう。千里がそんなことを許すとは思えない。てっきり他の部屋で寝るものと思っていたのに。
頭が混乱している。
そう、っと、気をつけながら万真から離れていく。頼むから起きるな。そのまま寝ていてくれ。
が、しかし。
日向の必死の祈りは天には届かなかったらしい。
なんとか万真とのあいだにスペースを作ったところで、万真が小さく唸った。
とたん日向が固まる。
もぞもぞと動き、万真の頭が持ち上がった。
きょときょとと丸い眼をしばたたいて。
そして、日向を見たとたん石になった。
ああ…と日向が心の中で嘆いたことを万真は知らない。彼が内心呪いの言葉を吐いたことはもちろん、内心滝の汗を流していることを知らない。
目を覚まし、顔を上げるとそこに日向がいて、こちらを見下ろしていた。理解できたのはそれだけだった。
すぐそばに日向の熱を感じ、一気に体温が上昇した。
考える間もなく体が動いていた。
「うわぁっっ!?」
跳ね起き、飛びずさろうとしてはずみに本棚で頭を打つ。鈍い音が静かな部屋に響いた。
頭を抱えた万真に驚いて日向は慌てて起き上がった。
「大丈夫か? 見せろ」
ぶつけた場所を押さえた手に自分の手をかけたとたん、それを振り払われる。
「いいいいイイッ! 大丈夫!」
必死に首を振る万真の眼には涙が浮かんでいて、全然大丈夫そうに見えない。どこがだ、そう言おうとした日向の声は別の声に消されてしまった。
「………なにしてる日向」
とたん、冷たいものが背中を滑り落ちていった。
ゆっくりと顔を上げる。万真の向こう、ベッドに半身を起こしたまま静かに自分を見据える千里を見つけた。
千里の表情は怖いほど平静だった。
「朝っぱらから人の妹になにしてるんだ?」
言われて、日向は自分の姿勢に気づいた。
半身を起こしたまま片手を万真の肩にかけ、もう片方を頭に添えて、彼女の顔を覗き込んでいる。
そんな自分に気づいて慌てて飛びのき、そして今度は罵声を浴びた。
「いてェ!」
成一だった。
慌てて足をどけるとわざとらしいほど大仰に顔をしかめて成一は踏まれた手を振って見せた。
「いてえだろ馬鹿。騒ぐな」
言ってからにやりと笑ったところを見ると、彼は一連の出来事をしっかり見ていたのだろう。それに気づいて日向の顔がさらに赤くなった。
千里の眼が、万真の表情が、成一の笑みが痛くて、日向は慌てて彼らに背を向けた。
「か、顔洗ってくる」
逃げるように部屋を出て行った日向を見て千里は吹きだした。成一も遅れて笑い出す。
真っ赤になった日向は見ものだった。同じく真っ赤になって座り込んでいる万真も。
「な、なにがおかしいのさ」
一人真っ赤になって怒る万真の頭を軽く撫でる。
「なんでもない」
「なんでもなくないでしょその顔」
万真のブーイングは聞き流して千里は時計に目をやる。九時半。
「だからなんでもない。いいからまだ寝てろ」
「もう眠くない」
頬を膨らませてそう不機嫌に言う。成一はそんな万真をニヤニヤとした笑みを浮かべて眺めていた。
「朝っぱらからドキドキだ」
「一ッ!」
真っ赤になって怒鳴った万真に成一はげらげらと笑った。そんな成一に万真は憤然とクッションを投げつける。
「ほらまだ寝てろって。まだ九時――」
言いかけて、千里はもう一度時計を振り仰いだ。
九時半!?
「やばいっ」
跳ね起きて、成一を飛び越えて部屋を飛び出していった千里を残された二人は唖然として見送った。
顔をぬぐって、日向は水を止めた。鏡を覗き込む。少しは赤みが取れただろうか。
タオルの場所がわからず、出してもいいものかわからなかったので、シャツの裾で顔を拭いた。洗って返そう。
まだ心臓がバクバクしている。ああくそ、落ち着け。
唸って洗面所を出ようとして、日向は足を止めた。
見知らぬ男がこちらを見ていた。
五十がらみの男の顔が不審気にゆがむ様を見て、日向の心臓が再び踊りだした。
まさか。
「あっ」
どこからか聞こえたかすかな声に男が顔を向け、言った。
「千里」
救いの神だ。
さっきの出来事も忘れてそう思ってしまった自分を殴りたい。
すぐに男の傍らから救いの神兼疫病神が顔を出す。
申し訳なさそうな表情だ。
「友達か?」
男が千里に問い掛けた。
その表情と千里の反応で理解した。これがウワサの医者――ではなく、千里の伯父か。
「あ、うん、そう」
どこか幼い千里の答えをいぶかしく思いながらも男に向き直る。
「日向です。お邪魔してます」
下げた頭を上げると、男は奇妙な表情で自分を見ていた。
「学校の友達か?」
視線を横に流し、千里に問いかける。日向は困った。おそらく千里も困ったのだろう、ちらりと日向を見て、頭をかく。
「いや、学校は……万真と一緒で」
まさか正直に答えるとは思わなかった日向は、男に問い掛けるように見られて反応に窮してしまった。反射的に千里の答えを肯定するように頷く。
男はそれ以上なにも訊こうとしなかった。ただ「相馬です」と短く告げると、指をかけたままだったネクタイを解き始める。
彼がまだ洗面所の入り口にいるため日向は出るに出られなくなってしまった。わかってやっているのなら相当性格が悪い。さすが千里の保護者だとそんなことを考えてしまった。千里も居心地悪そうに男の隣に立っている。
「万真は」
「寝てる。伯母さんは?」
「今上にあがっていったよ」
男がはずしたネクタイを千里が受け取る。シャツのボタンをはずしながら男はなにげなく問うた。
「成一は? 来てるのか?」
来ていないはずがないという断定に満ちた問いかけだった。
千里は頷くことで答えにかえる。そして日向を手招きした。
男の前を通るときにはさすがに緊張した。彼は日向の身体を上から下まで眺めると、感心したような声を出す。
「背が高いな。なにかスポーツでも?」
出来るなら早く退散したかったが、千里の、万真の保護者だと思うと下手な素振りは出来なかった。それだけに緊張もいや増す。
「あ、空手を、してます」
言いながらちらりと千里に視線を投げると、彼も困ったように伯父と日向を見比べていた。
男はそれで満足したようだった。
「ゆっくりしていってください」
そう言うと、興味を失ったかのように背を向け、台所にはいっていく。
彼の姿が消えたとたん千里が大きく息を吐き出した。
「…びっくりした…」
心底疲れたようにそう言った姿を見て、彼も日向と同じくらい緊張していたのだと知る。
視線を受けて千里は軽く片手を上げた。
「悪い。時間をすっかり忘れてて。あの人たちのこと忘れてた」
あの人。
他人行儀な呼称が心に引っかかった。そして、千里のやけに疲れた様子に首を傾げる。
千里が成一以外にはじめてこの家に連れてきた人間が自分なのだということを、日向は知らない。
結局朝食まで食べて――無理やり食べさせたとも言えるが――日向は帰っていった。日向を送るといって成一も一緒に帰っていき、それを見送ったあと万真はまた横になった。昨日の疲れと緊張がたまっていたのだろう。いまだ起きてくる気配はない。
リビングで朝刊を読みながらコーヒーを飲む。千里が入れたコーヒーは万真がいれたものほどうまくない。葉介とは比べるだけ無駄なので比較したことすらない。
夜勤あけの伯父伯母は今ごろ夢の中だろう。
伯父が日向と鉢合わせしたときには冷や汗をかいたが、あまり詮索しなかったことに驚いた。伯父が千里と万真を気にかけていることは痛いほど承知していたので、もっと根掘り葉掘り日向を問い詰めると思ったのに。伯母に至っては「あらそうなの」で終わってしまった。あまりのあっけなさに気を張っていた千里は拍子抜けすらした。
そういえば葉介もそうだったな、と、はじめて庵で日向と落ち合った時を思い出した。
いきなり現れた日向を不審に思わなかったはずはないのに、千里たちが庵に着いたときにはすでに葉介は日向を受け入れていた。
気にかけていないはずがないのに、不安を欠片も見せず、全身で「信用しているよ」とサインを出してくる。
そんな彼らがありがたかった。
なんとなく暖かい気持ちでソファに身を沈めていると電話が鳴った。あまり長く鳴らすと上の人たちが起きてしまうので数回のコールで受話器を持ち上げる。
「はい」
短い沈黙の後、声が流れ出した。
『相馬千里か?』
千里は眉を寄せた。聞き覚えのない声。まだ若いように聞こえる。おそらくは千里とそう変わらない年頃の、男。
一瞬クラスメイトかと思ったが、すぐに打ち消した。彼らからのはずがない。彼らならまずに学校名とクラスを名乗る。
息を殺して低く問い掛けた。
「誰だ」
一呼吸おいて、声は答えた。
『パルチザン』
千里は息を呑んだ。
思いもかけない名前に思考が止まりかける。
なぜパルチザンが? どうして自分のことがわかった? なんのために電話を?
次から次へとわいてくる疑問を押しとどめて、耳を澄ました。返事をする気はなかった。
『話をしたい』
話。
呼吸を意識して深くする。落ち着かなければ。
千里はまだ答えない。
相手の意図がわからない。不用意な発言は出来なかった。
声はこちらの様子をうかがう沈黙のあと、場所と時間を告げた。
その段になってようやく千里が口を開いた。
「行く気はない。話にも興味がない」
頭はなんとか正常の機能を取り戻そうとしている。話の内容を少しも告げずにそうとだけ言われても応える義務などこちらにはない。
ただのいたずら電話。
そうきめつけ、受話器をおこうとしたときだった。
『相馬正樹』
流れ出した名前に心臓が跳ねた。
胸を押さえ、受話器を握り締める。
「…な…」
『伊織多紀』
ずくん、と、胸が悲鳴をあげた。さらに強く強く胸を押さえる。呼吸が苦しい。
感情をうかがわせない声はさらに続けた。
『久住一政』
限界だった。
叩きつけるように受話器をおくと、千里はそのままその場にくずおれた。
胸が苦しい。
息が吸えない。
なにも考えられなかった。
考えられたのは一つだけ。誰にも言えない。それだけだった。
今の電話を、万真はもとより、伯父にも伯母にも葉介にも言えない。ましてや成一には絶対に言えない。
全身に汗をかいていた。一瞬にして冷えてしまった汗に体温を奪われ千里は軽く身体を震わせる。
最初は勧誘かと思った。仲間にならないかとか、そう言ったもの。
だが、違う。そんな軽いものではない。
なぜ彼らの名前が出てくるのか。
最後の名前。成一にも関係があることを匂わせていた。
だけど、彼には話せない。
重すぎた。
千里には、今の一分にも満たない出来事は重すぎた。
成一、万真、日向…浮かんだ顔を次々に消していく。誰にも相談できない。
他に頼れる人間は。
ナンの顔が、北斗の顔が、弘行の顔が浮かんだが、それも消した。彼らに相談してなんになる。なんと言って相談する? 彼らはあの人たちを知らない。
最後に葉介の顔が浮かんだ。だめだ。葉介をこんなことに巻き込めない。
なんとか呼吸を深くする。落ち着け。落ち着け。
選択肢はない。千里が一人で対処するしかない。
忘れられたらいいのに、と、切に思った。
今の電話をなかったことに出来たらいいのに。ゲームをリセットするように。
だが、忘れ去るには、電話の声音は耳にしっかりとこびりつき。
心に深く深く刻み込まれてしまっていた。
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