NIGHT GAME 三章十二話 誘い
 目の前に建つ店を見上げて千里は軽く息を吸った。黒を基調とした庵に比べて明るい色彩の概観。
 不安げに打ち続ける心臓を無視して、思い切ってドアに手をかける。庵のものとはまた別のドアチャイムの音がした。
 昼下がり、店内に客は少ない。ぐるりと狭い店内を見渡し、年配の女性客の中に自分と同じ年頃の少年を見つけた。少年はまっすぐに千里を見つめている。
 彼だ。
 く、とみぞおちのあたりが縮んだのがわかる。
 なにを緊張しているんだ。ただ、話をするだけ。それだけだ。
 心の中で繰り返し、少年の方へと足を向ける。
 少年はなにも言わずに千里の一挙一動を眼で追っていた。
 少年の向かいの椅子に腰掛け、背もたれにもたれる。そして彼の眼を睨みつけた。
「来てくれると思ったよ」
 少年は千里の視線を受け流して微笑みすら浮かべて見せた。
「おまえ、誰だ」
 少年は答えずに、紅茶のカップを口元に運ぶ。湯気が出ていないことに気づき、千里は眼を眇めた。いつから待っていたのか。
 店の場所がわからなかったため、千里は十分ほど遅れてしまった。
 おそらく冷めてしまっているだろう紅茶を眉も動かさずに飲み、彼は再び千里を見た。
「パルチザンのアキラ」
 言って、軽く口を閉ざした後、再び口を開いた。
「一条亮だ」
 少年が簡単に本名を名乗ったことに千里は驚いたが、だがそれだけだった。名前を知りたいわけじゃない。
 少年は千里の反応をうかがっていたが、なんの表情も浮かばないことを知ると哀しげに瞳を伏せた。ソーサーに戻したカップが不快な音を立てたが千里は少年の動揺には気づかない。
 千里は少年の瞳を睨みつけた。
「それで、話は」
 違う。話などどうでもいい。一番知りたいのはそのことじゃない。わざわざこんなところまで、この男の話に乗ってやってきたのは、そんなことのためじゃない。
 はやる心を、動悸を押さえて、千里は少年を見据えた。
「…おまえはなにを知ってる?」
 少年はゆっくりと顔を上げ、そして笑みを浮かべた。



 店の前を車が通り過ぎていく。白いセダンを見送って、万真はため息をついた。
 暇だ。
 相馬の家で一眠りした後、昼前に万真は庵に戻ってきた。一時から二時半ごろまでの間、店はぽかっと暇になる。カウンターに両腕を付き、その上にあごを乗せてお客のいない店を眺める。店の収支は今のところなんとか黒字だが、今夏は赤字になるかもしれない。
 そんなことを考える。
 客足がたえた頃を見計らって葉介は買い物に出かけた。弘行は遅番なのでまだ来ない。つまり、万真は、今この家に一人きり。
 洋楽が空しく店に響いている。
「…本でも読もうかなぁ」
 家にある本はあらかた読んでしまった。宿題も終わった。
 買い物のついでに葉介がなにか本を買ってきてくれればいいのだけれど。葉介と万真では本の好みが異なるが、それでもなにもないよりはマシ。
 また車が一台通り過ぎていった。
 またなにか本を買おうかなぁ。
 そんなことを考える。どの作家がいいだろう。海外のものでもいい。久しぶりに泣ける本を読みたいなぁ。
 窓の外を影がよぎった。自転車だ。
 新たに買い足す本のことをあれこれ考えていると、カランと軽やかな音がしてドアが開いた。お客か。
 期待して立ち上がった万真は、現れた姿に「なんだ日向か」とカウンターにへたり込んだ。
 そんな万真を見て日向は眉を潜めた。
 いきなり「なんだ」はないだろう。
「暇そうだな」
「それは禁句」
 万真が拗ねたように塩の小瓶をつつく。見渡した店内には客の姿はない。
「この店大丈夫なのか?」
「それこそ禁句」
 万真の口調が若干強くなった。すまん、と謝って、日向はカウンターに突っ伏している万真を見下ろした。
 店に入るのに、かつてないほど緊張した。今朝のことが頭から離れず、自分を見て万真がどういう反応を示すのか、それを知るのが怖かった。
 それなのに、緊張して店に入った日向を見て、万真は「なんだ」とのたまった。
 緊張した自分が馬鹿みたいだ。
 万真は日向を見上げて、ことりと首を傾げた。
「コーヒー飲む?」
 誰かこいつに上目遣いを禁止させてくれ、と日向はそんなことを思った。そんな自分は自分でも馬鹿だと思う。
 ビミョーに万真から眼をそらして。
「…いや、水でいい。相馬は?」
 なんとかそれだけ口にした。
 万真は拗ねたように口を尖らせた。
「まだ来てない。寝てるんじゃないかな」
「そうか」
 言った声には自分でも驚くほど落胆がにじんでいた。
 万真が丸い眼で日向を見た。
「千に用事?」
 だからその眼はやめてくれ。
 顔が赤くならないようになんとか心を落ち着けながら、手にした鞄を上げてみせる。
「宿題教えてもらおうと思ったんだが」
 そういうことか、と万真は頷いた。それで自分ではなく千里に会いに来たのだ。
 一瞬よぎった考えにドキッとした。
 なんだ今の。まるで千里にヤキモチを妬いているみたいじゃないか。
 そう考えて、一気に今朝の出来事が甦る。
(うわぁ)
 万真は思わずカウンターに顔を伏せた。
 なんで今思い出すかな。日向がいるときに。
「伊織?」
 問いかけてくる日向の声は平静で、今朝のことなど忘れてしまったかのようだ。
 それが悔しいなんて、なんでそんなことを思ってしまうのか。
「どうか」
「なんでもないなんでもない」
 訝しげな日向の声に慌てて手を振った。落ち着け。いいから落ち着け。
 長く息を吐き出して、意を決して顔を上げた。…日向の顔は直視できなかったが。
「宿題なら、あたし全部終わらせたよ」
 日向の目が軽く見開かれた。
「早いな」
「もうすぐ夏休み終わるじゃない。早くなんかないよー」
 笑って言った万真に向かって苦笑してみせる。
「まだ半分残ってる俺はなんだろうな」
 知らないよそんなの、と笑って、万真は立ち上がった。
「宿題とって来る。なにがいる?」
「一通り全部」
 日向の答えに万真ははじけたように笑い出した。
「半分終わったんじゃなかったの?」
「…一通り半分は終わらせた」
 変なの。軽やかに笑って、万真はキッチンへと消えていった。万真がいなくなると、日向はつめていた息を吐き出し、カウンターのイスに座った。さっきとは別の意味で緊張していた。
 今のところ、万真からあの変な壁や距離は感じられない。昼間だからだろうか。
 千里がいなくてよかったかもしれない。
 千里がいたら、きっと今ほど万真と話せなかった。
 ぼんやりと無人の店内を眺めていると、すぐに万真が戻ってきた。
 両手にずっしりと課題を抱えている。
 どん、とカウンターに置かれたそれを見て日向は両手をあわせた。
「感謝」
「いえいえ」
 迷ってから、いつもの席へと移動しようとしたら万真に止められた。
「カウンター使っていいよ。どうせお客さんこないだろうし」
 そうか、と、万真の言葉に甘えることにして、さっそくカウンターに課題を広げた。正直万真のそばにいられるということは嬉しい。
(……重症だ)
 やっぱり千里か成一がいてくれたほうがいいかもしれない。どんどん思考が暴走する。
 宿題に意識を集中させようと、万真のノートを開いた。そして眼を丸くした。
 きれいな字で丁寧に解かれた数学の問題。最後のページまで変わらない調子で書かれたそれを見て日向は感心した声を上げた。
「凄いな。伊織が頭がいいって話は本当だったんだな」
「千たちのほうがずっと頭いいよー」
 カウンターから身を乗り出して万真が言う。日向は若干身を引いた。
 そんな日向には構わず、万真は彼のノートを覗き込むと、ふと首を傾げた。
「写すの?」
「…………まずいか?」
 せっかくなので丸写しさせてもらうつもりだった日向は万真の声の調子に怯んだ。そういえば千里はそこのところはかなり厳しかった気がする。
 万真はことりと首を傾げて日向を見たが、ややあってニィと笑った。猫のような笑みだった。
「べつにいいよ? 写せば?」
 全然良くなさそうな表情だ。
「…ジュース一本」
「安いよ」
「二本」
「安いしジュースあんまり飲まない」
 日向は唸った。ニヤニヤと笑っている万真を見やる。さてどうするか。
 なにげなく店内を眺めていると、レジの横に置かれたぬいぐるみが眼に入った。間抜けな顔したサル。見覚えがある。
 少し考えて、言ってみた。
「…好きなぬいぐるみとってやる」
 とたんに万真の顔から笑みが消えた。むぅと考え始める。万真の指が五回カウンターを叩いた。
「…わかった。交渉成立」
 日向の案がお気に召したらしい。
 言って、万真はにっこりと笑った。
「…そういうところは相馬に似てるな」
「キョウダイですから」
 ふふふ、と笑う。そんな万真を眺めてから、日向は宿題に取り掛かった。
 それきり会話はなくなった。洋楽が控えめに静かな空間を満たす。
 静かな空間を壊さないように、万真は意識して息を吐き出した。
 緊張する。
 軽く握り締めていた拳を開くとしっとりと汗で湿っていた。クーラーが効いた店内は快適なはずなのに、やたらと息苦しい。
 今までどのように日向に接してきたのかがさっぱり思い出せなかった。
 日向の声に、表情に、仕草に、感情が、怖れが溢れ出してしまいそうで、怖かった。
 ほんの数分前のことを振り返る。変なことを言ったりしなかっただろうか。日向に万真の怯えを気取られはしなかっただろうか。
 ざわめく胸はそのままに、ぼんやりと日向の頭を眺める。短い髪は見るからに強そうだ。少し癖がある。ストレートで触れるとさらさら手のひらにこぼれる千里の髪や、猫っ毛であれこれ手を加えているおかげでぱさぱさになってしまっている成一の髪とはまた違う。
 少しごつごつしている大きな手も。たくましい身体も。鋭い目つきも。太くて低く響く声も。あの二人とは全然違う。
 違う。
 そのことに、どうしていいかわからなくなる。
 自分を脅かしている正体を、日向がつれてくる恐慌の理由を、考えようとして頭から振り払う。
 考えたくなかった。今はまだ。なにも考えたくなかった。
 日向は顔を上げず、熱心に手を動かしている。
 以前の自分が彼にどんな態度をとっていたか、わからない。
 これからの自分の心が、気持ちが、どう変化していくのかもわからない。
 それでも、一つだけわかることがある。
 これから先、以前のように無邪気に日向に接することは、きっとできないだろう。



 立ち上がった拍子にテーブルが揺れ、水がこぼれた。一瞬店内の客の視線が千里に集中したが、彼は気づかなかった。ただただ、目の前の少年の顔を凝視する。
「………嘘だ」
 少年は動揺の欠片も見せずに千里を見返した。片肘をつき、頬杖をつくと立ったままでいる千里を咎めるように見上げる。
「俺には嘘をつく必要性も動機もないな。座れよ」
 言われるままに、力なく椅子に崩れ落ちた。心臓ががんがん肋骨を叩いている。頭は恐慌状態に陥っていた。
「…嘘だ」
 それだけをただ繰り返す。頭の血管が異常に自己主張していた。頭が痛い。
 目の前の少年はそんな千里をちらりと見ると、一冊の古ぼけたノートを取り出し、千里の前に滑らせた。
「裏づけが欲しいならやるよ。今俺が話したことはほんの一部だ」
 千里は瞬きもせずその古ぼけた大学ノートを見つめた。黄ばみ、ごわついたそれは、目の前の少年の言葉が本当ならば千里よりも年をとっている。
 腕が身体にぴたりとくっついてしまったように動かない。
 ノートを手にとる。そんな考えはまったく思い浮かばなかった。
 少年はあいている手で空になったカップに触れた。まったく音を立てずに指で押してカップを回す。
「今の話で、君たちに仲間になって欲しい理由はわかったと思うけど」
 千里の反応をうかがうように眉を上げたが、千里はただノートだけを見つめていた。少年は構わず続ける。
「ほかの仲間はともかく、俺は父親の後を継ごうとか思ったことはないよ。ただ、証明したいんだ。父親が出来たことなら俺にもできる。そう証明したい」
 父親。その言葉に千里の肩が揺れた。
「正直な話俺は自分の父親が嫌いでね。だからこそ、そいつがなにを考え、なにをしてきたのかを知りたいんだ。そして父親を越えたい。俺は父親に劣る存在ではないと証明したい」
 伏せた顔の中で千里の瞳が彷徨う。父親。
 カチ、と、カップがかすかに鳴った。
 少年は千里を見据えた。
「知りたくないか。自分の親がなにを考えて生きてきたのか。なにを思っていたのか」
 少年はかたくなに顔を伏せ続ける千里に向かって、告げた。
「相馬正樹と伊織多紀のことを知りたくはないか? いつまでも過去から目をそむけて生きていきたくはないだろ?」
 激しい音を立てて机が揺れた。半ばまで水が入ったカップは大きく揺れたが、奇跡的に倒れなかった。
「…悪い。言い過ぎた」
 千里は机を蹴った足をもてあますように投げ出した。
 顔を上げようとしない千里を亮は見つめる。
 種は蒔いた。後は千里の心に任せるだけだ。これ以上話すことはない。
 亮は大学ノートを手元に引き寄せると、机の隅に立てかけられたボールペンを手にとり数行書き付けた。そしてまた元のようにノートを千里の前に滑らせる。
 まったく動かない千里を眺めてから、立ち上がった。
「それはほんの一部だ。もっと詳しいことが知りたかったら連絡をくれ」
 言って、傍らを通り過ぎる。
「お前ならいつでも歓迎するよ」
 少年が立ち去り、ドアが閉まる音を聞いても、千里は動くことができなかった。



「あれ?」
 店に入るなり目に入った姿に成一は眼を丸くした。日向だ。
 万真が顔を上げて成一を見とめ、安堵の表情になった。客の相手をしていた弘行が成一を見て眉を上げて見せる。
 弘行に会釈だけ返して、成一はカウンターに歩み寄った。足音に日向が顔を上げ、振り返る。
「よっ」
「…おう」
 無愛想に答えるとまたノートに顔を戻した日向を見て成一は首を傾げた。
「宿題?」
 日向は無言だ。
 なんとはなしにそれを見やり、成一は眉を寄せた。カウンターに広げられたノートの文字に見覚えがある。
「…丸写しってのはどうかと思うぜ」
 咎める響きに忙しく動いていたシャーペンがぴたりと止まった。
「見逃せ」
「おーい」
 しょうがねぇなぁ、と苦笑しながらちらりと万真に目をやると、彼女もまた苦く笑っていた。成一の視線を受けて、首をすくめる。
「えーと、見せる代わりに好きなだけぬいぐるみとってもらえることになったから」
「おい」
 声を上げたのは日向だった。
「好きなだけとは」言ってない。
 万真は最後まで言わせなかった。きらりと目を光らせて。
「あとどれくらい残ってるのかな?」
 と、にっこり笑う。日向は言葉に詰まり、一瞬目を瞑ったあと諦めたような息を落とした。
 そんな日向の背中を励ましの意を込めて拳で叩いた成一は、万真の後ろ、キッチンの扉の影に立つ葉介に気づいた。
 すばやく手招きをされる。葉介の表情から、用事の内容が推測された。
 カウンターからキッチンに向かいがてら、手を伸ばして万真の頭を軽く叩く。そのまま無言で店に背を向けた。

 キッチンへと消えていった成一から目を離し、日向はうつむいている万真を見やった。店に入ってきた成一を見たとたん安堵の表情になった万真。一見なにも感じていないように見えても、日向と二人でいるということはかなりの緊張を強いるものだったのだろう。
 成一が来たとたん、彼女がリラックスしたのがわかった。彼女の頭に手を乗せた成一の親しげな態度を頭から振り払い、止まっていた手を動かす。
 数学の公式が全然頭に入ってこない。
 やっぱり自分はおまけでしかないのだろうか。
 そう思うとなんだかやるせなかった。


「座って」
 葉介がそう言ったときにはもう成一はソファに腰をおろしていた。それに気づいて軽く微笑んで、葉介も向かいに座る。そして口を開いた。
「なんの話かはわかっていると思うんだけど」
 そう前置きしてから、切り出した。
「万真、なにかあった?」
 さすが、一緒に暮らしているだけはある。
 成一は内心で軽く手を叩きながら、そうする代わりに頭をかいた。
「いや…まぁ、あったというかなんというか」
 どういえばいいのか考えている合間に葉介が話し始める。
「ずっとぼんやりしていてね。…前よりも内に閉じこもっているように見える」
 最後の言葉に成一は顔を上げた。思いがけず真剣な顔を見て姿勢を正す。
「なにがあった?」
 柔らかい口調ではあっても、そこに含まれた強い響きに気づかないわけがない。成一は少し考えてから、慎重に答えた。
「…日向が、相馬の家に泊まったんです」
 成一の言葉に葉介が反応するのに少し時間がかかった。
「……泊まった? 日向君が?」
 葉介の顔にははっきりと驚愕が現れている。
 まっすぐ見つめてくる視線を見返すことがなぜか出来なくて、成一はまた頭をかいた。
「いや、正確には、千里が無理やり泊めたというか…」
 葉介は絶句したらしい。おっとり笑いはするがあまり感情を表に出すことがない葉介のめったに見ない表情に、成一は「この顔をあの二人にも見せてやりたい」とちらりと考えた。
 そんなことを成一が考えているとは露も知らず、葉介は大きな手で驚愕の色を隠し、「……泊めた、ねぇ」と呟く。
 大きく息を吐き出し、手をおろしたそこにはもう驚きはなかった。
 肘掛に肘をつき、頭を支えて、なぜか困ったように笑う。
「喜ぶべきことなんだろうけど……驚いた」
 俺も驚きました、と成一は口の中で呟いた。表情から成一の言いたいことを察したらしい、葉介はふわりと微笑んだ。
「そうか…あの千里が…。がんばったんだね」
 しんみりとした声と言葉に顔を上げると、葉介は感慨深げな表情で成一の向こうを眺めていた。どこか遠くを眺めている。
「千里は臆病だから、決断するにはきっと凄く勇気が要ったと思う。…強くなったんだなぁ」
 しみじみとした呟きを聞きながら、成一は遠い昔を思い出していた。
 あの時も、打ち解けてくれるのにずいぶん時間がかかった。アレはアレで大変だったなぁ、と思い起こしていると不意に葉介が名前を呼んだ。
「成一君」
「はい?」
 顔を上げると葉介は穏やかに微笑んでいて、表情そのままの暖かい声で静かに言った。
「ありがとう」
 一瞬固まって、そしてすぐに成一は首を振る。
「な、なに言ってんすか。俺なにもしてねえし」
「成一君がいてくれるから、あの二人があんな風に笑えるんだよ」
 成一は慌てて手を振った。感謝されるいわれなどなにもない。
「いや、ほんと、俺なにもしてないから。それに俺もあいつらに救われてるところあるし」
 葉介はどこか寂しげに笑うと、そう、と呟いた。
 ふと部屋に落ちた気まずい空気を断ち切るように、成一は慌てて声を上げる。
「それより、万真、やっぱり様子変?」
「うん」
 きわめて簡潔に答えられて成一は肩を落とした。そのままため息を落とす。
「…なんか、俺、わかんね。千里と万真、なにが違うのかなー」
 と、そんな成一の呟きを聞いた葉介は、なぜかくすりと笑みをもらした。
「わからない?」
「へ?」
 思わず見やった葉介は満面の笑みを浮かべていて、それが成一を困惑させた。
 葉介は穏やかに笑いながら口を開いた。
「千里と万真とじゃ、多分彼に対する抵抗感が全然違うよ」
「…………なんで?」
 そこがイマイチわからない。
「万真が彼に抱いている感情と千里が彼に抱いている感情とは違うようだから」
 あっさりと落とされた葉介の言葉に、成一は眉根を寄せた。
「それは俺もわかってるんだけど」
 だからといってもあそこまで反応が違うとは思わなかった。
 万真があそこまで怯えようとは。
 そう言うと、葉介は軽く首を傾げて。
「万真の気持ちはちょっと置いといて」
 そう前置きしてから話し出した。
「千里の場合はそう話は難しくないと思う。千里には君がいたからね」
「……俺っすか?」
 そう、と頷いて、葉介はゆったりと笑った。
「他人だった日向君の存在を、成一君のポジションまで引き上げることは、難しくはあるけれども無理ではないんだと思う。すでに過去に君に対してしたことを、日向君に対してもする、それだけのことだから」
 それが、あの子にとってはとても難しいんだけれどね。
 そう言って葉介は笑った。
 過去成一に対してしたように、心を開く。すでに一度したことを、もう一度することはなるほど無理な話ではないかもしれない。理屈の上では。
 が、成一としては、それはなんとなく――。
「面白くない?」
 いきなり言われて成一は慌てて顔を上げた。葉介が笑みをたたえてこちらを見つめている。
「心配しなくても、千里の中での成一君の位置は揺るがないよ。後から誰が出てきてもね。それは保障する」
「いいいいいや、なに言ってるんだよ葉介さん! 誰もそんなこと気にしてねえって!」
「そう?」と笑みを含んだ顔で言われて成一はもう一度否定した。あまり信じてはもらえなかったようだが。
 まだ笑みの残る顔で葉介は続けた。
「千里の場合には、成一君という前例があるからね。日向君を受け入れる土台がすでに出来ているだろうから」
 だから、あの子はなんとかなると思うよ。
 そう言う葉介の言葉に引っかかるものを覚えて成一は眉間の皺を深めた。
「…千里の場合には? じゃあ、万真は?」
 葉介の顔から笑みが消えた。困ったように眉を下げて成一を見やる。
「万真は、なんと言うか……日向君に、恋愛感情に近いものを感じているみたいだから」
 それは成一も知っていたのでただ頷く。葉介は前髪をかき上げた。
「多分、万真は初めて経験する感情だと思うんだ。だから、日向君をどういう風に位置付ければいいのかわからないんじゃないかな」
 クラスメイトのように無関心でいられる相手でもなければ、ジムの人々のように事務的に対応していればそれでいいわけでもない。成一ともまた違う。
「千里とは違って、前例がない。自分の中で位置付けができない。だから、怯えるんだと、僕は思う」
 成一が作った前例や土台が、日向に限ってはあまり役に立たない。
 葉介の言葉を反芻する。わかったようなわからないような。納得できるような出来ないような。複雑な思いが胸を去来し、すんなり納得できない。
 考え込んだ成一を見て葉介は軽く笑った。
「でも、成一君、覚悟しておいた方がいいよ」
「なにを?」
「もし万真が彼に恋愛感情を持っていて、日向君の位置付けが決まったら。下手すると彼、君よりも上に位置することになるかもしれない」
 ピシリ、と。
 成一は腕を組んだまま固まった。
「……万真の中で?」
「そう」
「俺が、あいつより、下…?」
「そう。あるいは同列」
「…………それは、面白くねぇ」
 思わずもらした本音に、葉介は楽しそうに声を上げて笑った。
「可能性だけれどね」
 ただの可能性だとしても、面白くない。万真の中で日向と自分が同じ重きを持って扱われるというだけでもなんとなく面白くない。
 万真と日向がお互いに好意を抱いているということに気づいてはいても、その先をまったく想像していなかった自分に成一はたった今気づいた。
 さっきまでとはまた違った理由で唸り始めた成一に、葉介は「ま、がんばって」と無責任に声を投げかける。
 がんばれといわれても。
 この先の日向に対する態度を決めかねながら、重い腰を上げる。思ったよりも話が長くなってしまった。万真がやきもきしていることだろう。
 階段に向かいながら、ふと、成一は顔を上げて葉介を振り返った。
「あ、葉介さん」
 ん? と葉介が首を傾げて成一を見る。
「さっきの話、ちょっと違う」
「え?」
 訝しげな表情になった葉介に、成一は、はっきりとした声で言った。
「万真の初恋。多分弘さん」
 一拍置いて、葉介の顔から表情が抜け落ちた。
 本日二度目の貴重な表情だ。
 なんとなくさっきの仕返しをした気分で葉介を見返し、成一はさらに告げる。
「弘さんがここ来てすぐの頃。万真の弘さんに対する態度、俺とか千里に対するものとはちょっと違ってたから。日向に対するあの態度ともまた違うけど」
 言い切って、唖然としている葉介の表情をもう一度眺めてから、階段を下りた。
 店に戻るとすぐに万真が声をかけてきた。
「一、なにしてたの?」
 万真の顔は不安そうだ。無理もない。
 安心させようと軽く頭を撫でてから、身をかがめて声をひそめる。
「…誰にも言うなよ」
「…うん」
「実はトイレにこもってた」
 とっさに身を引いた万真を見てにやりと笑うと、とたんに万真はなにか察したらしい、眉を潜めて成一を疑わしげに見た。
「…一?」
 と、その時。家のほうから電話の呼び出し音が聞こえてきた。万真が身を翻したときには音は止み、代わりに弘行の声が聞こえてくる。キッチンにいた弘行がでたらしい。
 やがて弘行が店に顔を出した。
「カズ坊。千里から。今日はジムに行くからこっちにはこねえって」
「へ?」
 万真はカップを洗う手を止めてまじまじと弘行を見た。
「なんで?」
「さあ?」
 首を傾げて弘行はキッチンに引っ込んだ。閉じてしまったドアをしばし見つめて、万真は成一の顔を見る。成一も同じように訝しげな顔をしていた。
「…なんでいきなり、ジム?」
「さあ…」
 特にジムに用事があるような話はしていなかった。なんで突然。
 ふ、と、胸を不安がよぎった。
 が、慌ててそれを振り払う。
 なんてことはない。多分、千里の気まぐれだ。ふとジムに行きたくなっただけ。きっとそうだ。
 ――だけど、そうならなぜ、家に電話をしたのだろう。なぜ携帯にかけてこなかったのか。
 次々に浮かんでくる不安を振り払うように頭を振る。
 不意に頭を撫でられた。顔を上げるとそこには成一の静かな瞳があって、その目を見ただけで胸をふさぐ重石が軽くなる。
 こちらを見つめる日向の心配そうな表情に気が付き、万真はなんとか笑みを浮かべてみせた。
 万真の表情に浮かぶ不安に、成一は胸中で重いため息をついていた。
 なにをやっているのかあの馬鹿千里は。
 ただでさえ今朝からずっと不安定な万真にさらに不安をかけてどうする。
 しかし、成一も一抹の不安をぬぐえずにいた。今朝はあんなに上機嫌だったのに、一体どうしたのか。なんとなく避けられているような気がして、落ち着かない。
(……どうしたんだよ、千里)
 心の中で呟いたときだった。
 キッチンのドアが開き、現れた弘行の顔をなんとはなしに見やって、成一は怪訝な顔になった。
「…弘さん? どうかしたか?」
 弘行は、なんとも言えず奇妙な表情をしていた。
「ん、いや……お前マスターになにか言った?」
「え?」
「あー…いいや、なんでもね」
 弘行はそういうと、妙な顔のまま首を傾げる。
 奇妙な表情の弘行と、ふさぎこんでしまっている万真、そして納得いかないというように首を傾げている成一を、日向は眉を潜めて眺めてから、ため息を一つ落としてノートに顔を戻した。

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