『冷たい部屋』
グラスの中の氷がまた1つ完全な液体になった。ちょうどジュースを飲むのによさそうな大きさのグラスに冷凍庫で作った氷を7つ入れて、ただそれは夏の日差しの差し込む出窓に置いてあった。
暑くなるとシオンはよくそうしてグラスをおいておく。動きのあるその透明な置物は風鈴なんかよりずっと涼しい気持ちにさせてくれると思った。

僕はある日海岸沿いを歩いていて、シオンに拾われた。夕陽がキレイだったからーそして失うものなんて何もないような気持ちになっていたからー学校の帰り道電車を乗り過ごして海辺の町まできてしまった。
日本人ばなれした白く細く長い手足、薄茶色の目の色。水森汐音は僕より年上のそんな人だった。

ある朝僕は目が覚めて冷蔵庫のよく冷えたミネラルウォーターに口をつけて飲んでいた。まだ固い真っ赤なトマトを手に自室に戻ろうとすると足元にかさこそとした感触があった。拾いあげるとそれはキレイに2列に5粒づつ並んだ白い錠剤だった。いつもシオンが食後に飲んでいる。あんまり定期的に飲むのでこの薬そのものがシオンのような気がして、僕はいたづら心をおこして1つ取り出すと手にしていた水で一気に飲みくだした。
「ユウそれ飲んだの?」
いつの間にか寝室から起き出したシオンが立って僕の方を見ている。彼女の寝室からはいつもウォーター系の香水の香りがする。
「これ何?」僕が聞くと彼女は笑って「せーしんあんてーざい」と言った。
僕は精神安定剤という言葉にあわててむせたけど、シオンはなんでもないことのように笑って「心配ないわよー。ただちょーっと眠くなっちゃうだけ」と言った。
そしてまた花の香りを含んだような水の香りの寝室に消えていった。

この1年間ずっと一緒にいたけど、ほとんど必要のない言葉はかわさない僕達はお互いのことをほとんど知らなかったし詮索もしなかった。
それにふたりともほとんど外にでなかった。キッチンにつづくリビングからは見事な海岸がガラスばりの壁越しに見渡せているというのに・・・。
シオンが精神安定剤を服用していてもそんなに驚くことじゃない。シオンは繊細な面の連続みたいな人だ。少しでも水をあげなければ枯れてしまう、多すぎれば根が腐ってしまう植物のように。
僕は、彼女のなんだろう。なんでもよかった。ただここがこの部屋の冷たい感触が気持ちよくて居ついている。

ピンポーン。マンションの自動ドア開閉のインターフォンが鳴る。僕はあけてやり、3日に1度届く数箇所からの小包みを待つ。
ピンポーンドアの向こうにたどりついてまたチャイムを鳴らす。僕は宅配屋さんから受け取りハンコをおしていく。僕たちの食料はミネラルウォーターと数種類のサプリメンと生で食べられる野菜だけだ。
シオンは動物を食べない。動物性のものをひどく嫌う。それで僕もシオンにあわせていた。はじめは変な感じだったけど、慣れてみればこの方が気分が軽い。体が軽い。口の中がいつでも軽い。

僕は精神安定剤を飲んでしまってふらふらしはじめた頭で数少ない考えなくちゃいけないことを考えはじめた。(シオンを起こさなくちゃ)
2度寝のシオンを起こすのは容易ではないけれど今日は仕事の入っている日だ。ここの家賃も宅配便の料金も食べるものもすべてシオンの稼ぎからでてる。
唯一シオンが植物でなく動物のようでいられる時間だ。でも、仕事はすべて家でする。特別に作らせた廊下はそのためにある。玄関からプライベートルームに向かう廊下と仕事部屋に行くためだけの廊下。仕事仲間はプライベートルームにはいれない。あの動物的なうるさいモデル仲間はもちろんマネージャーでさえも。
シオンは僕が彼女が出ているファッション雑誌や写真集を買うのを嫌う。彼女は自分のモデルとしての価値に興味がない。今の自分を残しておきたいとも思わないといつか僕に言ったことがあった。外での撮影(野外だけでなくスタジオでの撮影すら)をいやだと言えばモデル仲間が集まって自室のスタジオまがいのところで撮影を許されるほど人気の高いモデルだ。彼女が着た服はファッション誌に載ったとたんその店に予約が殺到し完売してしまうほどの能力をもっているというのに。
「私がモデルかどうかなんてどうでもいいの。ただ誰にもたよらず、干渉されず、気楽に、好きなように生きていたいだけ。お金があればそれができる。たまたま私がモデルとして使える素材に生まれてきただけ。私はそれをいかしてるだけ。」彼女はとつとつと言う。
それなら・・・と僕は思う。もし、今のような素材じゃなくそこそこの素材の人間だったら、お金を自由に使って楽に生きるためにファッションヘルスみたいなことをこのマンションでするのか・・・って。話が飛びすぎてると思われるかもしれないけど、その時のシオンの表情はそれくらいたんたんとしていた。

シオンのモデル仲間がマネージャーに連れられて玄関から入ってきた。そして仕事部屋へと続く廊下をざわざわと歩いていく。騒がしい声、きつい香水の香り。雑誌の専属モデルの子達だから見慣れた顔ばかりだ。
そんな顔が撮影部屋にのみこまれていく中で最後にひとり見慣れない顔があった。先月号にも載っていなかった子だ。その子はまだモデル慣れしていない純粋な感じで他の子よりも親近感を覚えた。その子はおずおずと先輩モデルの後についていく。
だけど、それがシオンの危機につながるなんて思ってもみなかった。

それからその子は撮影の日には必ず来るようになった。除々に先輩モデルの中に溶け込んで、初日一番後ろを遅れがちにおずおずと入って来たあの子が真ん中でまざってくるようになり、半年も経つ頃には先輩モデルを後ろにしてマネージャーと親しげに仕事の打ち合わせの話なんかをしながら入ってくるようになった。ブランドのバック高そうな服、きつい香水の香りをさせて・・・。
いつの間にか雑誌のページにシオンの割合が減ってかわりにあの子の割合が増えていった。この雑誌のトップだったシオンはいつの間にか2番手になっていった。
それでもシオンの生活は変わらなかった。相変わらず3日に1度の宅急便で買い物はすませていたし、水の香りのする寝室で遅くまで眠っていたし、食べたい時に食べ起きたい時間に起き寝たいときに寝た。僕と必要なことだけふたこと、みこと言葉をかわし、観葉植物に水をやって、ガラスばりの壁から海岸を眺めていた。
ただ変わっていったのはモデル仲間がくる日が少しずつ減っていった。しまいにはこなくなった。どういう契約がなされたのか僕は知らないただシオンは知っている。だけど、シオンは撮影のために外にでかけていくこともなく、平然と生活を続けていた。

「シオン・・・。今月号にシオンが載ってないよ」僕は冷蔵庫の中のレタスを取り出してるシオンに言った。
「そうよ。だって仕事してないもの。載ってたらおかしいわ。」シオンは何でもないことのようにさらっと言った。
「シオンもう仕事はしないの?モデルやめちゃったの?」僕はシオンの顔色をうかがいながら聞いた。
「やめちゃった?う〜んやめさせられちゃった・・・かな?」シオンはレタスを洗いながらなんでもないことのように言う。「別にいいよねぇ。ユウだって何にもしてないんだし、生活だってしていける。あの廊下潰しちゃおうか?あの部屋今度は何に使おう」
洗ったレタスに塩だけふってひとかじりしながら逆さむきに首だけかしげてうつむいた僕の顔を下からのぞきこんだ。からかってるような、あざけってるような、何にも考えてないようなシオンの目がそこにあった。

それからまた何ヶ月かが経ったある日シオンが海岸沿いの空を眺めて、「今日大雨が降りそうだね・・・。ほら真っ黒な雨雲がこっちにむかってる」
「うん」キーンと寒そうな冬の空。
「ねぇユウ今夜私を撮ってくれる?」そんなこと言うシオンははじめてだった。
「いいけど」僕が首をたてにふるとシオンは寝室からカメラを持ってきて「これ使ってよ。カメラマンが素人でも使えるからっておいていったの。」
リビングの白いソファにふたりで腰をおろしてまっすぐ海岸をしばらくみつめていた。もう夜だったから二人ともパジャマだった。いつ撮るんだ?と思いながら僕はシオンの様子を時々うかがっていたけど、シオンはじっと海岸をみつめてるだけだ。
そのうちざぁーっとすごい音をたてて雨が降り出した。
「ユウ行こう」シオンはいきなり立ち上がると玄関に向かって走り出した。玄関を出るシオンをその時僕ははじめて見た。パジャマのままで裸足のままでシオンは飛び出した。僕は慌てて追いかけようとしたけど、さすがにパジャマ姿ででるのは気がひけて簡単なふだん着に着替えてシオンを追いかけた。
エレベーターを使って1階まで降りてマンションのエントランスまでたどり着いた時もうそこにはシオンの姿はなかった。外は激しく叩きつけるような雨が降り続けている。まるで滝だった。僕は自動ドアを通って外との境界の境目まで足を進めた。
目の前の海岸に等間隔にたった鉄の棒の先からオレンジ色の光が海岸を照らしていた。その光と豪雨の中にシオンがいた。白く長い両腕をのばして、長い髪を濡らしてびしょびしょになっている。僕はカメラを構えて思いきり望遠にした。シオンの白い顔に濡れた髪が無造作にかかっている。滝のような雨とうずまくような風の中、身動きひとつせずに両足をしっかりふんばって立ちつくしているシオン。いつもは儚げに見える彼女が少したくましくみえてしまった。
カメラのファインダー越しにみるシオンはすごくキレイだった。メイクをしなくても大きな目と整った少し薄いまゆと唇の形。凍えて紫色にはなっていたけど、じゅうぶん絵になると思った。
僕はこんな少ない光の中じゃ写るはずもない波うち際のシオンにピントをあわせて1度だけシャッターをきった。それから僕はあまりの寒さに部屋に戻ってしまった。もちろん2,3度大きな声でシオンを呼んだけど・・・。それがシオンに聞こえたかどうか。
まさかそれがシオンとの最後になるなんて思わなかったから・・・。僕はそれを知った時薄情な自分を呪った。

思えばあの時のシオンは正気じゃなかった。どしゃぶりの雨の中寒くてもなんでもシオンのところまで行き、嫌がる彼女をひっぱってでも雨の中からひきずりださなければいけなかった。
シオンが戻らなくなってから1週間になる。僕はシオンの借りてる部屋でシオンがいた頃となんら変わらぬ生活をしていた。
3日1回来る宅急便もなんのかわりもなかった。
僕はこのさきどうしようかと考えることさえなかったその1週間は。海辺で拾われて1年半余りシオンをたよりに生活していた僕は今は飼い主のいない子犬・・・いやシオンにとっては観葉植物と変わりなかったんじゃないだろうか僕の存在は。
あの日海辺で気まぐれに僕を拾ったのも道端に見慣れないキレイな花が咲いていた、このままここに咲いていても昼の暑さや夜の寒さや風雨に耐えられるような花じゃないそれならいっそ根っこをそのまわりの土ごと掘り出して持ち帰り、自分の部屋で育てようか・・・そんな心境と変わらなかったのかもしれない。
確かにあの時の僕はいつになく弱っていた。僕はシオンのいない寂しさとこの部屋がシオンの体温のない分だけ前よりよけいに冷たくなったような気持ちがしていた。

そんなよく晴れた日の午後だっただろうか、以前シオンと一緒に住んでいたと言っていた少女がやってきたのは。少女は玄関のドアをあけると名乗るなりずかずかとプライベートルームに続く廊下を通って僕とシオンの空間に足を踏み入れた。
「変わってないなぁ」高校生くらいのその子は健康そうな体つきと明るい表情でキンチンとリビングを見渡した。美夏(みなつ)と名乗るその少女は白いソファに若い乱暴さでどかっと腰をかけると気づいたように僕に振り返った。
「ねぇ、あんたいつまでここにいるつもり?もうシオンはかえってこないんだよ。これからどうしようとかそういうことは考えないの?」
そう言われて僕ははっとした。飼い主がいる子犬でも、水をくれる人がいる植物でもないんだ。僕は。
「あんたもシオンと同じタイプの人間なのかもね。」そして少女は続けていつかシオンが言った言葉を口にした。少女がシオンと住んでた頃シオンから聞いた言葉だと言う。
「好きなように気楽に生きていたいだけ・・・。」
外部との接触は極力避けて静かに生きていきたい・・・。僕にもどこかそんな感情が眠っていたのかもしれない。だからシオンに出会ってそういう環境を与えられてぬくぬくとなんの疑問も感じずに心地よく暮らしてきてしまったのかもしれない・・・。そしてシオンが消えたあともひきずって・・・。
「ユウくんって言うんだよね。だめだよ。シオンみたいな生き方しちゃ。人間はそんな生き方しちゃいけないんだよ。キレイなもんばっかり見てちゃいけないんだよ。刺激を避けてちゃいけないんだよ。」彼女は続けた
「シオンはもうそんなこと言ったって無駄だったけど、ユウくんはまだ間にあうから。シオンがそう言ってた。」
(え?・・・)僕は耳を疑った。シオンはこの少女、美夏に僕のことを話してる?美夏は過去のシオンとの思い出話をぽつりぽつりとはじめた。

「私は2年前の冬、彼氏と海を見にドライブにでかけてこの海岸まで来て些細なことから大喧嘩になって殴られて、おきざりにされた。寒い冬の海岸、もう陽もかなり落ちてて少し寒かった。私は近くの駅を探して歩きはじめたんだけど、そのうち雨が降ってきて、殴られて火照ったほほには心地よかったけど傘もないし、上着は彼の車の中に置いてきちゃったから寒くて。その時だったかな。ちょうどこのマンションの前を通ったのは。あんまり雨が強くなってきたから雨やどりがしたくてこのマンションのエントランスに入ったの。」そこで彼女は海岸沿いのガラス越しに海岸を挟む狭い道路を覗きこんだ。
「ここから見てたのかなぁ。シオンさん。私がマンションを傘代わりにしはじめてすぐエントランスまで降りてきてね『よかったら私の部屋で暖まっていかない?』って声かけてくれて、私その時雨に濡れた寒さより彼氏に殴られた事実とほほの痛みの為に過剰にシオンの気持ちが嬉しくてその場で泣きくずれてしまったんだ。」美夏は照れたように笑って僕を振り向きまたソファに座った。
「それから私はちょうどこのソファーに座って今夜こうなったいきさつや彼氏のことやもう関係ないことまでも泣きながら一気に喋ったの。喋りきってすっきりして一息ついてシオンを見たら彼女遠く海岸を見るでもなくぼーっとしてたわ。でも、ちゃんと耳は聞いてたみたいで喋り終わるといいタイミングでこっちをむいて『そう、とても大変だったのね』と微笑んでそう言ったの。それで『いたかったらしばらくここにいていいのよ。あなたがいたいだけ』シオンはそう言ってくれたの。私は次の日の朝帰るつもりだったんだけど、勉強しなさい夜遊びはだめよって厳しい両親にもうんざりしてたから一晩考えてしばらく行方不明になって親をちょっと困らせてやろうと思ったの。それから1ヶ月はシオンの生活を一緒にしたわ。シオンのやり方の生活を。多分ユウ君がしてきたのと同じ生活。」美夏はキッチンの端によせてある宅急便の箱のサプリメントの会社名とミネラルウォーターをとっているところの会社名の入ったダンボールを遠目に見ながら言った。

結局美夏はシオンや僕とタイプの違う人間だったのか家族や学校や友達が気にかかったのか1ヶ月間でシオンのところを出たという。ただ美夏はシオンにこんな生活は普通じゃないから外に出よう、何か思いきり油っこい重いものを食べようと最後の1週間は説得しはじめたと言う。
シオンは首を横に振るばかりでらちがあかないからそれなら私が出て行くから気が変わったらココに連絡してと美夏の家の住所と電話番号の入ったメモを渡したと言うことだった。
それから美夏は何もなかったように今までの生活に戻ったけれど、シオンからはこの2年間なんの連絡もなかったらしい。それが1週間前突然手紙が美夏の家にきたと言う。
美夏はそこまで話すと一通の四角い封筒を僕に差し出した。表書きにはシオンらしい繊細な文字で『阿鐘美夏様』と書かれている裏書きを見るとそこには『水森汐音』と書かれていた。ミズモリ シオンと読むんだろうか・・・。シオンのフルネームをその時はじめて知った。
宅急便やなんかはすべてモデル事務所経由ということでモデル事務所の名前とモデル名のシオンだけだったから知らなかった。
「私はこれを読んできたの。良かったら中も読んでいいよ。」僕は封筒から白い便箋を取り出した。それはむこうがすける程薄い紙だった。

『美夏へ
お願いがあります。この手紙の消印の1週間後に私のマンションに来て下さい。私はいません。代わりにあなたの知らないあなたより少し年上のユウという名の男の子がいるはずです。もしいたら本当の自分の家に帰るように行ってください。私はもう生活の糧としてやってきたモデルとしてやっていけなくなりました。今さら他の仕事を探してあくせくするつもりもありません。事務所との契約が切れてもう半年が経ちます。半年間はお世話になることもできましたがもう来月からは事務所経由で買い物の手配をしてもらうこともできません。これ以上生きていても仕様がないように思えるので私は消えます。ただユウ君のことだけが気がかりです。ほうってもおけないので、美夏にまかせます。私はもうすっかり駄目だけど、ユウ君は美夏の力で人間らしい生活に戻れると思います。勝手ばかりでごめんなさい。さようなら。
P.S.彼のためにならないと思いながらも彼を自分のそばに1年半も置いてしまったのは少しでも私に人間らしい心が残ってたからでしょうか』

そこでシオンの手紙は終っていた。僕はシオンの遺言?通り自分の家に戻ることにした。
と言っても両親が小さいうちに死んで親戚のうちをたらい回しにされていた僕は失踪したのをいいことに親戚の叔父さんによって高校の中退手続 きがすまされており、失踪中たいしたさわぎにもなることなく戻ったら戻ったでまたやっかいものが来たという顔をされただけだった。
僕はこの叔父の家からそう遠くない美夏の家の住所と電話番号の書かれた紙を机の引き出しにしまった。

それから数日後シオンの死体があがったというニュースをバイト先のガソリンスタンドの休憩室で見た。元人気ファッションモデルの事務所解雇を苦にしての死ということに勝手にされていたがそんな理由じゃないことは僕と美夏だけが知っていればそれでいいじゃないか。

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日記帳にはエッセイを書いてます。読んでみてくださいね。