本庄 実乃

 謙信は十四歳のとき、林泉寺を出て、兄晴景の越後平定を助けることになるが、そのとき本拠とした越後古志郡の栃尾城の城代をつとめていたのが本庄実乃である。以後、実乃は謙信と軍事行動をともにし、やがて晴景に代えて謙信を擁立しようとするクーデター計画がおこると、その実現のために奔走した。
 謙信が家督を相続して春日山入城をはたしたのちは、直江景綱、大熊朝秀らと謙信政権の中枢を構成。天文十八年(1549)、のちに関東管領職を謙信に譲り渡す上杉憲政が越後に救援を求めたきたときには、仲介の労をとった。
 しかし、天文二十三年(1554)ころより、訴訟問題をめぐって大熊朝秀と対立をきたし、政権内部のいざこざに嫌気がさした謙信が出家を宣言をするという騒ぎに発展した。結局、この政争は実乃と直江景綱ラインの勝利に帰し、謙信も出家を思いとどまったが、敗れた大熊朝秀は武田陣営に出奔することになる。
 実乃の没年は不詳。その子秀綱は、謙信の死後に生じた上杉家の家督相続争いで、小田原北条氏出身の景虎派に属し、敗れて会津に逃れた。そのため、栃尾本庄氏はここに滅亡する。