本庄 繁長
下越(奥郡の国衆)、いわるゆ楊北衆屈指の豪族といえば、岩船郡村上の本庄繁長である。永禄二年(1559)の太刀献上の儀式において、繁長は国衆では中上藤資に次いで第二位に位置づけられていた。また国衆ながら、謙信の関東出兵では下野国佐野城代をつとめたり、春日山に出仕して奉行人的な仕事もするなど、謙信政権における有力者の地位を固めつつあった。
ところが、永禄十一年(1568)三月十三日、繁長は武田信玄などと結んで謙信に背いた。春日山に出仕していた繁長は謙信が越中に在陣している隙に、奉行人の長尾藤景を討ったうえ、春日山を抜け出して村上城にこもった。
繁長叛逆の理由は長尾藤景との不仲や関東出兵の恩賞への不満などが挙げられるが、何より武田信玄が蘆名盛氏の家臣小田切冶部少輔に宛てた条目によれば、謙信がこの年正月、上野沼田城に在城しているときから計画が練られた。その一条に「来る四月、越国に至り乱入せしむべく候、この時手合いの動きを猶予あるべからずの事」とあるように、四月に武田・蘆名の両軍が同時に越後に攻め込み、それに繁長が呼応するという段取りが取り決められていた。繁長の春日山出奔もこれと見事に符号する。ところが、繁長の挙兵は誤算つづきだった。まず加勢を期待した蘆名勢は小田切氏が主君盛氏から繁長への合力を制止された。また繁長は村上籠城とともに、揚北衆である中条藤資や、同族の鮎川盛長にも挙兵を呼びかけたが、ことごとく拒絶された。なかでも、中条藤資は繁長からの書状を封のまま謙信に差し出したので、謙信に大いに感謝されたほどである。もっとも謙信も孤立した村上城を一気に攻め立てる態勢がなかなかとれなかった。それというのも、武田軍が北信の上杉拠点である飯山城に攻め寄せ、また越中の一向一揆にも越後口への攻勢を呼びかけていたからである。
両すくみのまま半年ほど推移したが、九月、繁長を背後から支えていた大宝寺義増が謙信と和睦した。また信玄は奥郡の村上城まで効果的な支援ができず、そのうち、駿河に目を向けはじめたために、繁長の孤立は一層深まった。それを見てとった謙信は十月下旬、ようやく村上城攻撃に向かった。孤城となった村上城だったが、その守りは堅く、それから数ヶ月にわたって籠城をつづけた。
翌十二年二月、近隣の蘆名盛氏と伊達輝宗が繁長放免を条件に和睦を申し入れた。繁長の頑強な抵抗に業を煮やした謙信も渡りに船とばかりにこれに応じた。繁長は一子千代丸を謙信に人質に出して降伏した。
本庄繁長の反乱は一年の長きにわたったが、謙信治世中、最後の内乱だった。以降、謙信の領国支配は次第に強固となり、天正三年(1575)の「御軍役帳」の成立により、一門・国衆・譜代の別による越後統一が完成したのである。