北条 高弘

 北条高弘は中越の刈羽郡佐橋庄北条(現柏崎市北条)を本拠とする国人。大江広元の孫、毛利経光が左橋庄の地頭となって入部してから土着し北条城を築いたので、北条氏と称した。経光の次男時親は安芸吉田庄に移って安芸毛利氏を名乗った。つまり、のちの中国の雄、毛利氏とは同属になる。
 越後毛利一族(北条・安田両氏)は守護代の出自だった為景・謙信の二代が越後国主となるのを助けた功労者だった。
 ところが。天文二十三年(1554)冬頃、高弘は突如、謙信(当時景虎)に背いたうえ、武田晴信(信玄)に内通した。晴信が高弘に与えた書状の写しが残っている。
 これによれば高弘が先に晴信に内通の使者を送ったものと思われる。北信濃への攻勢を強めていた晴信にすれば、越後国内が乱れるのはもっけの幸いだった。
 高弘の不穏な動きは、隣接する同族の安田景元に察知された。景元は謙信の宿老直江実綱に即刻注進した。
 弘治元年(1555)二月初旬、謙信自ら出陣して善根(柏崎市善根)に布陣して、北条城を包囲した。
 北条城の攻防がどのようなものだったか具体的には分からないが、謙信が安田景元に二月十三日付で与えた感状があるので、高弘の反乱は二ヶ月ほどで鎮圧されたと思われる。謙信は国衆対策に頭を悩ませていたせいか戦後処分は寛容で、降伏した高弘を助命し本領を安堵した。
 高弘がなぜ謙信に背いたのか、その理由は資料不足もあって不明である。一説によれば、同族で分家筋の安田景元がいち早く謙信に注進した事実から、景元との確執や対抗意識があったのではないかと推測されている。景元は国衆ながら、早くから為景・謙信に接近して、あたかも譜代衆のようであった。
 その後、高弘は一転して謙信に忠節を励む。謙信も高弘を奉行人として遇し、政権中枢に取り込んだ。
 永禄五年(1562)頃、高弘は関東管領に就任した謙信の命で上野国厩橋城番になった。厩橋城は上杉家の直轄領となり、謙信の関東経営の戦略拠点だった。高弘は本領の左橋庄とは別に厩橋周辺に新たに所領を宛行われ、謙信の上野守護職の代官的な地位にあったといわれる。
 高弘は謙信n意を体して上州で健闘したが、永禄九年(1566)になると、後北条氏の攻勢が強まり、常陸小田氏、下総結城氏、下野小山、宇都宮両氏などの大名や上野の由良氏などの国衆が次々と離反した。そして、この年九月頃と思われる謙信の書状の断簡に「丹後守、(中略)殊に譜代の芳志を黙止、妻子を捨て、南・甲へ一味」とあることから、関東での上杉方の退潮を見極めた高弘は再び謙信に背き「南・甲」(後北条氏・武田氏)に寝返った。
 再び寝返った高弘だが、永禄十二年(1569)「越相一和」すなわち上杉と後北条方の同盟交渉が始まり、後北条方が譲歩して上野国を上杉方の領国にすることを認めたのに伴い、高弘は北条氏政らの斡旋により、また謙信の放免がかない、三度上杉氏に帰参することになった。
 しかし、高弘はそのまま上州に居座った。上州は上杉、後北条、武田の三大勢力が角逐する不安定な地域だった。「越相一和」後も、情勢が変動するたびに、高弘は目まぐるしく立場を変えた。
 天正六年(1578)、謙信の死と御館の乱で再び後北条氏に与し、その後、武田勝頼に臣従し、天正十年(1582)の武田氏の滅亡後は滝川一益に従った。