色部 勝長

阿賀北衆の国人の一員で、越後岩船郡の平林城を領したが、謙信の父長尾為景の代から臣属した。そのため、本庄氏の支族でありながら、春日山城での席次は、何度か謙信に叛いた本庄繁長より上位にランクされた。
 弘治三年(1557)武田信玄が北信濃を侵し、葛山城に攻めかかったとき、勝長は謙信から懇切な手紙をもって救援の出陣を求められた。ただし、勝長が出陣したかどうかは不明であり、葛山城もほどなく落城している。
 永禄四年(1561)の川中島決戦の際は、先陣の柿崎景家が崩れかかったところへ駆けつけて、飯富兵部らの軍を敗走させた。その功により、謙信から「血染めの感状」を授けられており、この感状は現存する。
 ついで永禄七年(1564)、関東に出陣して佐野城攻めに活躍し、同城を預けられたが、永禄十一年(1568)またも叛いた本庄繁長を討つべく、謙信に従って本庄城を攻略中に没した。