柿崎 景家
上杉軍団の主力をなす国人グループは、比較的独立性の強い阿賀北(揚北)衆と、中郡・上郡を本拠として早期に上杉氏に従属した諸将とに大別される。柿崎景家は、後者の一員であり、城崎城および猿毛城を領した。
この両城のうち、とくに猿毛城は、春日山城下から下越地方へののど首を扼す要衝であった。
生年は不明だが、景家は永禄の初年(1558)以来、内政に関わるようになり、春日山城の留守居にも任じられた。永禄三年(1560)、謙信が領内の諸役、地子ほかを五年間免除するという思い切った政令を発したとき、景家は宿老の斉藤朝信らとともに奉行として、その施行にたずさわっていた。
だが景家の本領は、内政家というよりも勇猛果敢な武人という点にあった。上杉氏軍役帳によれば、景家の子、晴家は260人の軍役を担っており、たいていの場合、上杉軍団の先陣をうけたまわっていたようである。
謙信、信玄の一騎打ち伝説で名高い永禄四年の川中島大激戦の際も、景家はやはり先陣を命じられ、妻女山を一気に駆け下ると、朝霧にけむる八幡原の信玄本営に攻めかかった。ただし、緒戦における景家軍の働きは、めざましかったものの、途中から武田方の勇将飯富兵部の反撃を受けてささえ切れず、僚友色部勝長らの救援をあおいだという。
その前後のことであろう。ある年、謙信が越中攻めの軍を起こし、景家は、国境の城の攻略を命じられた。その戦いの最中、大川十郎とういう家来が、左腕を矢で射抜かれながらなお臆することなく、敵兵と渡りあい、首級をあげで景家の前に駆け寄ってきた。すると、景家は、誉めるどころか、「いまや合戦は、たけなわである。首の一つや二つ取ったといって、わざわざ見参に及ぶのは見苦しい功名であろう。急ぎ、合戦の場に立ち帰れ」と、逆に声を荒らげて大川十郎を叱りつけたという。功名手柄の評価は戦後のことであり、闘っている最中は、とにもかくにも勝利を確実にするよう心がけるべきだという、猛将景家ならではの大局観が、このエピソードにはよく示されているといえよう。
このほか、景家は永禄三年の関東出陣に従って小田原の北条攻めに活躍し、翌四年閏三月、上杉憲政より関東管領職を譲られた謙信が鎌倉の鶴岡八幡宮社前に晴ればれしく就任式をあげた折も、直江、斉藤らの重臣ともども社前への行列に供奉した。
没年は天正二年(1574)ないし三年とされる。その死にあたっては、いくつかの説があるが、どうも自然死ではなかったらしい。織田信長の謀略を信じた謙信により、謀反の野心ありということで誅殺されたというのが、いちばん蓋然性が高そうである。謙信はそれから数年して急死するが、その死因は夜な夜な枕元にあらわれて無実を訴える景家の亡霊の祟りだったの所伝もある。