河田 長親

 長親は近江国守山の出身であるが、謙信が二度目の上洛をした際、召し出されてその側近に侍することになった。当初、長親はその学識や交渉能力を評価され、主として外交文書の発給に携わったが、やがて戦場でも遺憾なくその実力を発揮し、関東や北陸を転戦する。
 なかでも、北陸戦線における長親の働きはめざましいものがある。その働きを賞され、謙信から魚津城、富山城を預けられた長親はさながら北陸戦線における上杉軍の総指揮官であった。天正五年(1577)謙信が待望の七尾城開城を実現したとき、その受領使に任じられたのも長親である。
 長親はまた、天正元年、武田信玄が没したときも、いち早くその情報を入手し、謙信に告げて喜ばれた。謙信亡きあと、織田信長より、近江本国の地を条件に誘われたが断り、松倉城主として上杉景勝に仕えた。
天正九年四月に病死したと伝える。