謙信の生涯1

 享禄三年一月二十一日、虎御前が春日山城で2人目の男児を生んだ。この年が庚寅に当たるので、幼名を虎千代と呼ばれた。この子こそ、のちの景虎すなわち上杉謙信である。
 一世の英傑とうたわれた謙信だが、誕生当初は目立つ存在ではなかった。長兄晴景はすでに数えの十九歳、父にとって頼もしい跡継ぎである。生涯を合戦にあけくれた為景も、還暦を目前にしており、老境に入ったと云っていい。
 長尾為景が嫡男晴景に家督を譲ったのは、天文5年八月である。六十台も半ばに達し、疲労の極にあったろうし、晴景は二十代半ばの青年で、後継者にふさわしい。
 為景の死は、その年の十二月二十四日とされる。しかし、「上杉年譜」では天文十一年同日を命日としており、このころまで生存していたとみられる。
 虎千代が林泉寺に入ったのは、天文5年、数えの七歳のときとされる。このころ父が病床につき、虎千代ももの心ついて教育を受けるべき年齢に達した。こういう事情から寺に預けられたものか。
 春日山城下林泉寺は、守護長尾氏の菩提寺である。
 およそ四十年前の明応七年(1498)、長尾能景が父重景の十七回忌に当たって建立した。小千谷にいた名僧曇英恵応に請うて開山とした。六世住持が天室光育で、虎千代の教育に当った。
 虎千代の生母虎御前は、信仰心の厚い女性であったという。更に林泉寺に入って天室光育の膝下で暮らすうち、虎千代も深く仏の教えを信ずるようになったのであろう。
 幼い虎千代については、利かん坊の腕白で、弓矢や刀で遊ぶのがなにより好き、近習たちも持て余して「鬼若どの」と呼んだという。後年の謙信の武勇を見れば、それもうなずける。
 兄晴景が父に代わって越後の事実上の統率者となり得れば、虎千代の出番はなく、名僧知識として世を終えたかも知れない。しかし運命はそのようには働かなかった。

虎千代がいつ元服したかはわかないが、「上杉年譜」にしたがって天文十一年に為景が没したとすれば、虎千代は十三歳になっており、幼名を棄てて景虎と名乗ったのはこのころではないかと思われる。
 ともかく父の葬儀も無事に済んだ。武将として独り立ちした長尾景虎は、古志郡の栃尾城に入った。古志郡は蒲原郡とともに景虎の生母虎御前の実家、古志長尾の支配地で、祖父房景や伯父景信がいる。栃尾城は城代本庄実乃に任されていた。景虎はそこへ入った。
 生母の実家古志長尾に守られているとはいえ、府中を遠く離れた中郡で、阿賀野川を隔てて反抗的な揚北衆の本拠地の下郡と向き合うことになる。
 病弱な晴景としては、元気いっぱいの弟景虎を揚北衆の押さえとしたかったものか。
 栃尾城主となった景虎は、ほどなくその武勇を示すことになる。
 為景死後の天文十一年ごろ、長く守護上杉氏に仕えてきた黒田氏の当主秀忠が、晴景に犯意を抱き、晴景の弟景康を殺して逃げた。
 秀忠は一度は謝罪して剃髪出家すると約束したが、天文十五年二月、蒲原郡の黒滝城に籠もって反旗をひるがえした。
 上杉定実に黒田討伐を命じられた景虎は、電光石化、栃尾城から出兵すると、秀忠ばかりか一族ことごとく死に追いやった。戦陣に臨んでは火のように燃える性格が、この頃から如実に示された。
期待以上の弟の働きに、晴景は喜んだことだろうが、喜んでばかりも、いられなかった。
 なにしろ越後一円、たえず戦さがある。近隣の諸国に対しても、油断はできない。そういう時節に、老いた守護と、とかく薬餌に親しみがちの守護代をいただいているのでは、人心が落ちつかない。ここはなんとしても、協力な主君が欲しい。それは越後の豪族たちの当然の要求である。とりわけ、景虎を強く推したのが、為景の妹を妻とする高梨政頼と、政頼の娘を妻とする中条藤資である。
 景虎の守護代就任待望論に対して、当の守護代晴景は、むろんおもしろく思わなかったにちがいない。晴景の妹の夫で上田長尾の政景など、晴景に加担するものもむろんいた。
 気鋭とはいえ、弱冠二十歳にもならない弟が、兄を押しのけて守護代の地位に登るのは、どこか不穏当なものがある。そこで後世、兄弟の間に激しい闘いがあったと見られた。江戸時代に書かれた「北越軍記」には、次のような記事がある。
 天文十六年四月、長尾晴景は五千の軍勢を送って栃尾城を囲ませた。矢倉に上って晴景軍を睨んでいた景虎は、夜更けとともに門を開いて反撃に出た。軍師宇佐美定行が止めても聞き入れない。
 「敵方には兵糧の用意がない。今夜のうちに兵を引くつもりにちがいない」と云うのである。
 景虎の見込み道り、晴景勢は退くところだったから、背後から襲われては、ひとたまりもなく敗れ去った。
 そのあと、晴景は一万余騎の大軍をひきいて米山を越え、府中へ帰ろうとした。それを追って景虎は山の下まで来たが「疲れたので少し眠る」と云い、隣の家に入って眠ってしまった。宇佐美定行が、「いま休まずに敵を追えば、府中攻略もたやすいでしょう」と進言したが、景虎は応じない。
 米山を登りかけていた晴景勢は、景虎勢が追って来たらなら、高所を利用して追い落としてやろうと企てていたが、いっこうに現れない。
 やがて晴景勢が山道を降りかけたころ、はね起きた景虎勢は軍勢とともに山を登り、上から晴景勢を追撃したから、晴景方は算を乱して府中に逃げ帰った。
 更に景虎の軍勢が春日山城を囲んだので、晴景も諦めて自刃した。
 若き日の上杉謙信の作戦の妙を描いて、おもしろい話だが、史実とは違うようである。
 たしかに、豪族たちに擁立されようとする景虎と、兄晴景の間に争いはあったろうが、守護上杉定実が乗り出して和解させ、景虎を晴景の養子にするという形で守護代職を譲らせたというのが、真相と見られる。 
 むろん、晴景は不満であったろうが、自分が病弱の上に、景虎が興望をになっているとあっては、戦っても勝ち目はないとみて、諦めたのであろう。晴景は天文二十二年まで生きて四十二歳で亡くなったとされる。
 天文十七年(1548)の暮も押しつまった十二月三十日、景虎は春日山城に入り、兄に代わって守護代となった。戦国の英雄上杉謙信が、表舞台に登場した一瞬である。
 景虎自身は後年、当時の模様をこう語っている。
 「兄が病弱なせいか、奥郡のものが府中へ顔も見せず、手前勝手な振舞が多かった。私は、若輩とはいえ、ひとつには亡き父のため、また長尾の名を汚さぬため、思いがけなく府中に入って春日山城に移り、とやかくするうちに国内もおだやかに治まった。」
 これは戦国大名の大方に当てはまることだが、長尾景虎は一代で越後統一を果たしたわけではなかった。
 たとえば織田信長も、父信秀の長期間の奮闘と蓄財に、どれほど助けられたか知れない。
 長尾景虎の場合も、百度余りも戦場に臨んだという父為景が、守護を圧倒して勢力を扶植しておいてくれたからこそ、景虎がどれほど偉大であっても、土台が無ければ、とてもあそこまで名を成すことはできなかったろう。
 とはいえ、信長も景虎も、家督相続後、たいへんな苦難が待ち受けていた。
 最初に現れた敵は、同族でしかも姉の夫に当たる、上田長尾の政景だった。
 政景と景虎の姉の結婚がいつごろのことかについては、諸説がある。
 一説には、晴景が家督を継いだころ、上田長尾懐柔の手段として、妹を政景の妻にしたという。
 また一説には、景虎が政景の降伏を受け入れたとき、この縁組を成立させたする。
 のちに仙桃院と呼ばれた景虎の姉は、慶長十四年(1609)に八十六歳で亡くなっているので、逆算すると大永四年(1524)生まれとなる。が、享禄元年(1528)生まれとする記録もある。
 前者とすると、政景降伏の天文二十年(1551)には数えの三十二歳、後者でも二十八歳で、当時としては遅い結婚となる。それで、晴景の守護代時代に、すで嫁いでいたとする説が有力となる。
 しかしまた、政景と仙桃院の間の子でのちに景虎の養子となる景勝は、弘治元年(1555)に誕生している。景勝は次男だが、両親が天文二十年ごろに結婚したとすると、その誕生は自然に見える。
 いずれにしろ、政景は、晴景・景虎の兄弟の対立に当って、晴景を支持した。景虎が兄を隠居させて春日山に乗り込んでくると、政景の立場は微妙なものとなる。
 景虎の家督相続の翌年すなわち天文十八年夏には、上野国平井城に籠る関東管領上杉憲正が、小田原北条氏康に攻められ、落城寸前となった。そこで景虎に救いを求めてきた。生来、義を重んじる景虎は、すぐにでも救援に赴きたかったが、足元に問題が多過ぎて、出兵できない。
 天文十九年二月、上杉定実が亡くなった。子がいなかったため、家は絶えた。幕府は景虎を越後の国主と認めた。
 正式に越後国主となった景虎に対して、長尾政景の立場はいよいよ不利となる、これまでは一族間の争いで済んでいたのが、叛乱と見なされてしまう。
 いまや越後国内で景虎に服従しない最も大きな勢力は、政景だけになってしまった。
 政景に従う上田衆の一人、発智長芳の板木城へ、景虎が兵を送ったのは、天文二十年一月のことである。政景が援軍を送ったが、その到着前に城は落ち、長芳の家族は景虎に捕らえられた。そればかりか、これまで政景だった柏崎の琵琶島城主宇佐美定満が、景虎方に寝返った。
 たまりかねて、政景の弟が春日山へ来て和平を乞うた。景虎はあくまで政景を討つつもりで、八月一日進発と決めたが、政景がその父房長ともども降伏してきたので、これを許した。姉の夫とあって、助命したものか。
 こうして、最後の強敵も軍門に降り、景虎は越後統一を果たした。鼻っ柱の強い越後の国人衆も、ようやく景虎のもとに結集したのである。ときに景虎は二十二歳だった。(資料 疾風上杉謙信)