直江 景綱
内政
謙信のもっとも信頼の厚かった武将。
越後三島郡の与板城を領し、はじめ与平衛尉実綱を名乗ったが、永禄五年(1562)ごろ、謙信より一字を与えられて大和守景綱と改めた。
年齢は謙信を上回ること二十余歳、謙信の父長尾為景の代からの家臣であり、謙信の兄晴景にも仕えた。謙信が「旗本之者共」と呼んだ譜代家臣団の第一人者であり、すでに晴景の代から内政に重きをなしていたらしい。
しかし、晴景は病弱であり、戦国武将としての器量にも欠けるところがあった。そのため、家臣のあいだに弟謙信を擁立しようとするクーデター計画がもちあがると、景綱も率先して加わり、ついに晴景の隠居および謙信の家督相続を実現させた。
これ以後、景綱は大熊朝秀、本庄実乃らとともに謙信政権の中枢を形成し、所領安堵などの内政から外交、軍事などの万般にわたって主導的な役割をはたすことになる。
たとえば、永禄二年(1559)、謙信が5000余の兵を率いて上洛した折は、外交使節として先遣された神余親綱を助け、朝廷・室町幕府のあいだに周旋するところが大きかったという。永禄十二年(1569)、それまで犬猿の仲であった謙信と小田原北条氏との間に、武田信玄の動向に備えての軍事同盟が成立した。このいわゆる越相和睦にあたり、小田原の北条氏の使節団との折衝を担当したのも、景綱である。
軍事
軍事面での景綱の活躍も、めざましいものがある。謙信のたびかさなる関東出陣に際しては、越軍の動因を差配したり春日山城の留守を担当したりし、時には増援軍を率いて関東に馳せ参じた。
また、永禄四年(1561)の川中島の決戦の場面では、はじめ2000の小荷駄隊を率いて上杉軍の戦闘を側面から援助し、ついで信玄の嫡男義信の一隊に攻めかかって、これを敗走させた。
それから三年後、謙信の姉婿であり、上杉家きっての実力者、長尾政景が領内の池で舟遊びをしている最中、溺死するという椿事がおこった。その真相は不明の部分が多いが、一説に謙信が政景を除こうとし、その意を受けた景綱ら重臣が協議し、舟遊びにことよせて謀殺したのだともいわれる。
景綱の没年は、天正五年(1577)とされる。その翌年、謙信も中風のため急死するが、枕頭に伺候して謙信の遺言を聞きとったのは、景綱の未亡人であった。この一事をもってしても、景綱がどれほど謙信の内奥に関わってか、如実に分かるであろう。なお、直江家は、子の信綱がほどなく没したので、樋口与六が家名を継いだ。この与六が、のちに名軍師と謳われた山城守兼続である。