大熊 朝秀
大熊氏は代々、越後守護上杉氏の被官で、上越の箕冠城主だった。朝秀の父政秀の代から公銭方の奉行人をつとめた。公銭方とは守護職固有の権限である段銭などの徴収にあたる機能で、守護職の国内統治権の要である。
為景・晴景・景虎三代にわたる守護代長尾氏の下克上により、守護職上杉氏は房能が敗死し、定実は傀儡となって、国主の座を奪われた。しかし、その家臣団と守護職の統治機構は残存した。大熊前守朝秀はその代表格だった。
景虎政権の初期、朝秀は景虎擁立の立役者である直江景綱・本庄実乃とともに、奉行人連署状に名を連ねていた。朝秀は景虎のいわば三老臣の一人だった。国主となった景虎も旧守護被官衆を政権を支える勢力として無視できなかったのである。
しかし、景虎は旧守護職被官衆を次第に政権から排除する動きを強めた。もともと、朝秀の父政秀は景虎の父為景と仲が悪く、享禄三年(1530)には、為景と上条定憲(守護定実の一門)との疎隔を図るなど、一事は定実の復権に動いた過去もあった。だから、景虎が政秀の子である朝秀を警戒するのも当然であった。
朝秀が景虎から離反するきっかけになったのは、天文二十三年(1554)、上野家成と下平修理の所領をめぐる争論である。朝秀は本庄実乃とともに調停にあたった。一度は朝秀が肩入れする下平方に理がある裁定が下ったが、上野方が紛争地を実力で占拠する挙に出たため、朝秀は「言語道断」と怒り、上野方に裁定を服すようにという趣旨の文書を作成したが、奉行人の相方である実乃が加判を拒否した。実乃はひそかに上野方を贔屓していたのである。その後、結局、上野方の主張が通る形で決着し、朝秀の面目は丸潰れとなった。
じつはこの争論と前後して、北条高弘の反乱があり、また阿賀北では中条藤資と黒川実氏の境界争いも起きていた。そうした国衆同士の不満や諍いが続発するのに嫌気がさした景虎が上野・下平争論をきっかけに引退宣言をしてしまうという一大事にまで発展した。そして、周囲の空気は景虎引退と国内混乱の元凶を朝秀だと目するようになった。
朝秀はそれを不満として、これまでの忍従を止めて一気に挙兵した。弘治二年(1556)八月、朝秀はひそかに武田信玄と結ぶ一方、会津蘆名氏の家臣山内舜道とも通じた。舜道からの返書では、越後のことは蘆名氏家臣の小田切安芸守が楊北衆の黒川実氏とともに動くことを確約した。
そして朝秀自身は府内から出奔して越中に逃れて挙兵した。朝秀は南と北から春日山を挟み討ちにしながら、武田軍の介入により勝負を決しようとした。
ところが、朝秀勢は越後・越中国境の駒帰で景虎方の上野家成や庄田定堅に迎撃されて敗れた。朝秀の目論みは水泡と帰したので、武田信玄を頼って甲斐に落ち延びた。
信玄に庇護された朝秀は一時、山県昌景の同心となった。信玄は朝秀を譜代衆同様に遇した。何といっても最大の敵景虎対策に欠かせない人物だったからである。「甲陽軍鑑」によれば、信玄の旗本衆である「足軽大将衆」の一人に「大熊備前守 騎馬30騎 足軽七十5人」とみえる。「甲斐国志」によれば、朝秀はその後、山県昌景の同心衆から相備えと格上げになり、元亀二年(1571)には遠州小山の城代になっている。
天正六年(1578)、御館の乱が勃発したとき、武田勝頼は上杉景勝と同景虎の和睦を調停した。そのとき、勝頼は朝秀を景勝方の使者として派遣している。朝秀としても二十二年ぶりの春日山来訪に感無量だったであろう。朝秀は武田家の恩義に報い、天正十年三月、天目山で勝頼父子に殉じたといわれる。