斉藤 朝信

 謙信の老臣で、下野守を称し、越後刈羽郡の赤田城を領した。その人となりは勤倹で、部下を愛し、民に情けをかけたので、領内はよく治まったという。
 永禄三年(1560)、謙信が発した向こう五ヵ年間の租税免除令の施行を掌るなど、内政に参画するかたわら、軍陣でも勇猛さを発揮し、たびたび先陣を命じられ、また敵城を奪取すると、きまってその城将に任じられたともいわれる。
 永禄四年の川中島決戦の際は、武田信玄と連携して越後に攻めこむ姿勢を示していた一向一揆などに備えるため、山本寺定長とともに越中に出陣し、主力の川中島移動を側面から助けた。
 謙信没後、上杉家の家督相続争いがおこると、謙信の血縁の景勝方に味方し、小田原北条氏出身の景虎(竹王丸)一派の野望をうち砕いた。
 ついで、急成長をとげた織田信長の重圧に抗すべく、宿敵武田氏と攻守同盟を結ぶのに奔走。天正九年(1581)、柴田勝家を総大将とする織田軍の猛攻を越中魚津城に拠って迎え撃ち、翌十年には武田攻めの織田軍に備えて信州に出陣し、川中島の要衝海津城を守った。没年は天正の末年と伝えられるが、年月日は詳らかでない。