安田 長秀
阿賀北衆の一員で、越後の北蒲原郡白河庄安田条の領主。すでに謙信の父為景の代から臣属していたとみられ、天文十三年(1544)には謙信の兄晴景から所領を新給されている。
謙信が林泉寺を出て越後平定にのり出した当初からその陣中にあり、謙信擁立のクーデターにも参画した。以後、謙信に従って関東や信州に出陣。
永禄四年(1561)の川中島決戦の際は、直江景綱、甘粕景持とともに、信玄の嫡子、義信の郡を倉科のあたりまで追撃し、戦後その功によって謙信から「血染めの感状」を授けられた。「安田冶部少輔殿」という宛名のこの感状は現存する。
謙信の亡きあとにおこった上杉家の家督争いでは、景勝派に味方し、恩賞を与えられた。天正九年(1581)、阿賀北衆の新発田重家が織田信長に通じて上杉に叛くと、景勝の軍令に従って新発田攻めに赴いたが、まだ、その決着がつかないうちに病没した、と伝えられる。