三年生 白石 由里
早速帰宅を済ませたいずみは、約一年半ぶりに剣道具一式を押入から取り出した。
カビがないか心配だったが、綺麗にしまい込んであり、防虫剤も放り込んである。
「ありゃ、おかあさんかね」
そういえば、自分でしまった覚えがない。
母に感謝である。思わず一階の台所方向を望み手を合わせた。
一番上には剣道着と袴がある。
「おお、懐かしい」
面を取り出し、甲手を取り出す。
たれに挨拶し、最後に胴を取り出すと、当時の想い出が走馬燈のように走り出す。
「おおっ!」
感動した後は、一度着てみたくなった。
部屋のカーテンを閉めると、制服をするすると脱ぎ、剣道着にさくさくと腕を通す。
あの頃はブラジャーなんてしていなかったから違和感がある。いずみは少し考え込んだ。
するっとブラジャーを外し、剣道着の紐を結ぶ。
「ちょっと小さいや・・・・」
よく見ると縫い止めがされている。
成長期だったので、少し大きめの物を用意していたのだ。
「お母さんにあとでほどいてもらおっ」
再び母に感謝である。
続いて袴、たれ、胴、面、小手、すべて装着しおえると、竹刀を取り出して玄関の大鏡の前に立つ。
「やっぱり綺麗だよ、私の赤胴ちゃん久しぶり」
いずみはふと、この防具セットを父親にねだった日の事を思い出していた。
あれは成人の剣道大会を観戦した後のことだった。
その大会に出ていた女性剣士の一人が、それは綺麗な白袴と赤胴をつけて連戦連勝である。とても強かった。
それに感化されてだだをこねたのだ。
しかし、その半年後に剣道を辞めている。
「ありゃ?、私どうして剣道辞めたんだろう・・・・」
いずみは首をかしげた。
翌朝、いずみは縫い止めをはずした剣道着を、大事そうに防具入れにしまう。
「よし、今日も楽しくがんばるよ」
朝食を終えるとすぐに玄関へ向かう。
「重いや、どうしよう・・・・そだ!」
いい方法を思いついた。
それはよくテレビなどで見る光景である。
竹刀を防具入れの紐に通して、肩に掛けるのである。
そうすれば、多少重い荷物でも学校までなら持っていける。
「いってきまーす」
いつものように元気よく出かけた。
いつもより時間が早いので、通学路にはだれもいない。
学校までは丁度1q位で、いつもは12〜3分で到着する。
しかし今日は流石に3分はよけいにかかりそうだ。
「ひやー・・・・おもいよォ・・・・」
するとどうだろう、防具が持ち上げられ、ふっ と荷物が軽くなった。
「あれっ?」
「おはよう、あなた剣道をやるの? 中等部よね」
振り返ると、名前は知らないけど、たまに見かける颯爽とした表情がそこにあった。
「えっと、あれぇ??」
「あなた名前は?」
「のはら いずみ です、二年です、よろしくお願いします」
「ふふふっ」
何がおかしかったのか解らず、いずみはポヤンとしている。
「・・・・?」
「ごめん、ペコリと下げた頭がかわいらしくって、私は白石由里、三年生、剣道部なのよ」
この人が由里さんかぁ・・・・
何だか元気が沸いてくる。綺麗で優しい人である。
その後、いくつか言葉を交わしたが、後で思い出そうとしても、何を話したのか覚えていなかった。
由里先輩は校舎屋上にある剣道場へ足を向けたようだ。
とにかく、気持ちのいい朝である。早起きは三文の得とは、まさにこの事であった。
教室への階段を、力を振り絞って登ってゆく。
いずみは生まれて初めて一番で教室に入った。
窓からは光がキラキラそそぎ込んで綺麗だ。
早速窓を開けて席に座る。すると、教室の昨日の空気が追い出されてゆく。
「わー・・・・気持ちいい!!」
彼女の席は、窓側の最後尾である。抱えてきた防具は椅子の後ろに置く。
そうすれば邪魔にならない。
やがて一人、二人と、クラスメートが入ってくる。
「あれ? いずみぃ・・・なにそれ?泥ボーさんの袋?」
「ど・・・泥棒・・さんのじゃないよ」
「あれ? いずみちゃんそれなに?」
次々と物珍しそうに集まってきた。
いずみは仕方なく、中をあけて見せる。
皆、剣道具を間近で見た事が無い人ばっかりである。
クラスメートは、一様に興味津々で、人だかりが山となるまで大して時間はかからなかった。
「そだ! みんな!」
学級委員の律子さんの一声である。
何を始めるのかと思ったら、机を6ヶも寄せ集めている。
「何するの?」
いずみの心配をよそに、中身をみんな引っぱり出し、やんややんやの大騒ぎが始まった。
全く困ったものである。甲手や面を着けては、隣の人に叩いて貰い、その付け心地を批評している。
「これ知ってる! はかまっていうんだよね」
「なに? おかま?」
「袴だよぉ・・・・」
「これ甲手でしょ・・・臭いのよね〜っ」
「赤胴っていうのよね、鈴の助ね」
「お父さんもそう言ってたけど、それって何?・・・・」
「そうだ! いずみ着てよ! 着て見せてよ」
勿論断ったが、「いずみコール」に押されて着て見せる事になった。
着替えが終えた頃、ようやく香里が到着する。
「おはよ・・・って、いずみ何してるの?」
「おはよう香里」
「はわっ・・・・綺麗な防具だね」
なんと言っても、白い袴に赤胴、赤い竜の刺繍がワンポイントの甲手。
そのバランスがとてもいい。
「わぁ・・・いずみちゃん戦国の姫様みたい」
振り返ると静香である。
まさに馬子にも衣装。いつもは頼りない いずみだったが、今はなんともりりしい美少女剣士だった。
早くも放課後である。
あの後、いずみは大変だった。
上杉先生には笑われるし、他のクラスの子にも「見たい!」とねだられた。
それを断れなかったので、昼休みはいい見せ物になったあげく、イヤなあだ名がついてしまった。
ようやく掃除当番も終え、剣道場に向かっている途中なのだが、香里も静香もくすくす笑いっぱなしだ。
さすがにだんだん腹が立ってくる。
「いい加減にしてよっ!」
「ふっふっ、ごめん、ごめん、パンダちゃん」
そう、嫌なあだ名とは「パンダちゃん」なのだ。
人が気にしているのに言うなんて!、こんなの友達じゃないよねぇ。
校舎屋上の道場に着いた。
いずみは一礼して道場に入ったが、二人はそんなしきたりを知るはずがない。
気がつかなかったいずみも悪かった。
「おい! その二人、入り直し!」
よく通る声だ。
見ると白石先輩じゃない。
見たことのない三年生が二人いた。
「あっごめん、香里 静香、道場に入るときは一礼するんだよ」
二人はあわててそそくさとやり直した。
安心して振り返ると、その三年生が随分と突慳貪に話しかけてきた。
「あなたが野原さん? 剣道経験者だそうね」
「はい」
「練習前には道場の掃除をするのよ」
「掃除・・・?」
「今日は取りあえずモップかけるだけでいいから、じゃぁね」
「あの、お名前はぁ・・・・?」
名前なんて聞く暇もない。
言い終わると、二人の先輩は大慌てである。
だが、人に言うだけの事はあった。
急いでいても、出口で振り返り、きちんと一礼して道場を後にした。
何じゃありゃ?? いずみは一寸プンプンである。
「わー、何だかあこがれていたかも、こういう雰囲気」
一番いやがっていた香里が、半分ほわんとして自分の頬を撫でている。
「ありゃ?」
気がつくと、静香はモップで掃除を始めていた。
「ありゃりゃ」
いずみは驚いている。何だかいい雰囲気で部活動初日が始まった。
道場には、モップをかける静香の足音だけが響いていた。
丁度掃除も一段落ついた頃、白石先輩がやってきた。
「あら、もう来ていたの? お掃除まで・・・・ありがとう」
今 気付いたが、身長はいずみより少し高いくらいだ。
「163くらいかねぇ・・・」
三人は掃除道具をしまうと、取りあえず先輩の所へ集まった。
「初めまして、白石由里です。上杉先生から話は聞いています。よろしくね」
一同少し照れる。
「こちらこそ」
三人はまじまじと彼女を見つめる。
つま先から、頭のてっぺんまで眺めた感想は、「こんなに制服が似合っている人見たことない」である。
「な、なぁに?」
「すみません、制服似合っているなぁって」
「ありがと」
その時の仕草が何だか古風でよかった。
「ああっ、やっぱり、この雰囲気を求めてたわ、私・・・・」
「おい、香里・・・・」
一番いやがっていた奴が、一番染まるのが早い?。
いずみはあきれたが、何だか嬉しくもあった。
女も三人よればかしましいという。
和気藹々していると、上杉先生がやってきた。
「おう、来ているな」
「来てま〜す」
元気よく挨拶である。四人は先輩を横に見て一列に並んだ。
先生は場を和ませようと色々考えていた様子で、普段言わない冗談を口にしたりした。
だが、すぐにその必要が無い事に気づくと、自分のらしくない姿を認めて少し照れている。
その後、簡単な練習メニューを白石に指示すると、近く始まる学園祭準備の職員会議を理由に道場を後にした。
何となく静香に目が行き、顔を覗いたが、何だががっかりした様子だった。
今日の内容は、素振りと、切り返し、あと、お人形を使っての基本技の教授である。
「はい、それじゃ香里さんと静香さんは体操服に着替えて、それからいずみちゃんは防具をつけてね」
「いーなーっ、いずみだけっ」
香里と静香の声が揃う。
「へへへっ、パンダの特権だよっ!」
本当の意味で道着に腕を通す時が来た。
皆着替え終わり、白石先輩は二人に素振りと、人形を使った面と小手の打ち込みを教える。
教え方がいいのか? 二人はすぐにやれるようになった。
いよいよ私の番である。
「久しぶりだよ、体が動くかね?」
足をあげたり、体をひねったりしてみる。
先輩は二人を優しく励ますと、準備運動を始めた私を見て笑った。
先輩はにこにこしている。
「柔軟体操は? けがするわよ、一度胴とたれ外しなさい」
「・・・・・はい」
せっかく着たのになぁ、そう思いながら防具を外す。
そうか、だから先輩、まだ袴姿だったんだぁ
まず私が先輩の背中を押してあげる。
体育の時もそうだが、私は人の背中を押すとき、妙な感覚が走る。
その背中が、何故か現実感のない「もの」のように感じるのだ。
くにゃくにゃする、別の生き物的な感覚である。だから人の背中を押す事が好きではなかった。
「次はいずみちゃんね」
「はい!」
それに比べて、押されるのは大好きである。
「体が柔らかいから、みんなびっくりするんだもんね」
今回もきっと驚くだろうと思ったが、随分とあてが外れることになった。
ありゃ? 何かが変である。
「あれ?、いずみちゃん以外と硬いね」
・・・・ガーン・・・・
明らかに自分でも意識できる。それ位い体が硬くなっている。
体育の時、準備運動をいい加減にやっていた事がいけなかったのだろうか?。
変なプライドだが、彼女には「軟体動物いずみちゃん」と呼ばれた意地がある。
同時に、「今すぐに胸が床に付かないと、永遠に体が硬くなってしまうかもしれない」
と、いった不安もよぎる。
「そんなっ!、えいっ!!」
☆ゴリッ☆
「・・・・いずみちゃん大丈夫?」
「だ・い・丈夫ですぅ」
いずみは床に胸を付けられて安心だった。
体操も終わり、いよいよ防具をつけた。
素振りから始まる一連の練習を進める度に、あのときの感覚が戻ってくる。
飛び込み面に、切り返しを終え、十分に体温も上がったところで、白石先輩が心をくすぐる事を言ってきた。
「かかり稽古もいいけど、試合形式でやってみる? 審判は居ないけど」
「はい!」
何だかうれしくってしょうがない。
「香里さん、静香さん、今から練習試合してみせるから、窓側に座って見てみて」
本当に久しぶりである。
一礼して場を仕切ると、いずみと由里の竹刀が、中央で パン と音をたてた。
道場に二人の気合いがはしる。
面金具の向こうに見える先輩の目は、やさしいくにこにこした人物の物とは違っていた。
由里は開始早々飛び込んでくる。
そうはいかないと、ピョンとバックステップで避けるが、先輩の踏み込みが全然深かった。
「面ン!」
やられたっ! 今のは絶対一本だよ!。
綺麗にのびる先輩の体が、いずみの右をすり抜けていく。
いずみはすぐに振り返り、剣先を由里の喉へ向けるが、簡単にはじかれる。
「小手!、面!」
打たれるがままである。
由里は一旦距離を置いた。
「いずみちゃん・・・・気がぬけてるなっ!」
再び攻撃が開始されたが、いずみは逃げるので精一杯である。
何とか攻撃をかわし、つばぜり合いから離れるときに小手や面をねらう。
そんな攻撃しか出来ない。主導権を握られる、よく聞く言葉だが、いずみは初めてそれを感じていた。
「いやっ! 面!」
由里はつばぜり合いにうんざりしていた。
打ち込んだ面をかわされると、そのまま激しい体当たりを いずみに食らわせた。
「しまった!」
そう思った刹那、いずみはポーンと後ろに飛ばされて、床に後頭部を激しく打ちつける。
これは痛みではない。頭の器官が悲鳴を上げる。
「イズミィ!!」
香里と静香は立ち上がろうとするが、由里がそれを制す。
いずみはやってきた痛みに耐えながら、片目で由里を探した。
あの人はきっと打ってくる。そう直感していた。
「あの人厳しい人だよ」
ようやく視界に由里を捉えたいずみは、腰を起こし、打ち落とされる竹刀をいなした。
「やっ!」
これ以上打ってこられるのはたまらない。
いずみは由里の胴を剣先で突いて間合いを取らせる。
「ひやぁ・・・・」
涙がでてくる。何だか悲しくって仕方がない。
このときの悲しさを彼女は後で考えたが、それは自分への悔しさだったと、そう整理した。
本当の理由は今でも解らないが・・・・。
「さぁ、これからでしょ? いずみちゃん」
そう、これからだ。
後頭部に小手の甲をあて、それほどの事もなかった事を確認する。
刺繍の竜がぼやけていたのもはっきり見えてきた。
「いずみがんばれ!」
親友の声がする。
いずみは声もなく笑うと、再び中央に立った。
目が覚めたっ!!。
いずみはお腹に空気をたくさん吸い込むと、一気に吹き出して姿勢を整えた。
剣道には三つの先という言葉がある。
それは、先の先、互いの先、後の先である。
彼女はどちらかと言えば、後の先を取る剣士である。
しかし、どうもそれでは後手後手に回りそうだ。
力が違いすぎる。それは事実である。
そこでふと思い出した言葉があった。
「どんなときでも、まず相手を攻撃できないかを考えろ」
これは何かの試合の時、誰だか知らないおじさんにアドバイスされた言葉である。
「よし」
いずみは待つ姿勢を捨て、攻撃に転じた。
星眼に構え、由里の顔面を牽制するように剣先を揺らす。
由里は胴打ちに自信がありそうなのは分かっていたので、何とか自然な形で引っかけようと考えた。
そして二三度仕掛け、自分から隙を作る。
「胴!」
由里が飛び込んでくる。
「来たよ!」
いずみは胴に突き刺さろうとする竹刀を打ち落とす。
返す竹刀で面をねらう。
「めん〜!!!!」一瞬で逆転である。
見事由里の面を切って取ったのである。
「いずみぃ!! がんばれ〜」
応援してくれる二人に拳をあげる。技を決められたことが嬉しい。
緊張していると言うより、しかめっ面だった由里の顔が緩んだ。
「見事!、胴打ち落とし面ね」
由里はやられたという顔をしている。
「まだまだよ、先に5本取った方が勝ち、私はすでに三本は先取しているわよねっ、いずみちゃんはまだ一本よ! いい?」
いずみは大きく頷く。
再び仕切りなおして二人は打ち合った。
現在4対2である。
あれからいずみの打ち落とし系の技は効力を発しなかった。
最初の打ち落としの時、由里の竹刀に十分すぎるほどの重さが伝わってしまったからだ。
相手の得意技が分かったら、当然誰だって警戒する。
由里は十分満足している。
特にいずみが転倒した後の対応にはびっくりした。
あそこで胴を剣先で突いてくるなんてホントびっくりである。
男子でも、そんな事をする人はなかなかいないだろう。
「お転婆ガールいずみね」
そんなことを考えていると、三本目を取られてしまった。
由里はサービスのしすぎに反省する。
「いやーつ!」
いずみは必死で攻撃を続けるが、両腕の握力が底をついてきていた。
だからといって弱みを見せたくはない。
しかし、由里にはすでにお見通しで、いずみが裏胴を狙ったその時、彼女の腕から竹刀をくるりと搦め取った。
宙を舞ったいずみの竹刀は、重力の法則で力無く床に落下する。
「めーん・・」
5本目は竹刀を拾う暇もなく簡単に取られてしまった。
いずみは竹刀を拾うと、中央に戻り、試合終了の挨拶を済ませる。
「いずみ!!」
香里と静香が走り寄ってくる。
「大丈夫?」
「だいじょうぶだよ」
その時のいずみは、すでにすっきりいい笑顔であった。
由里さんと並んで面を外す。
手ぬぐいには、絞ると水が出るほどの汗が吸い込まれている。
「先輩、ありがとうございました」
「大丈夫だった?」
心配してくれたのか、由里先輩はいずみの後頭部を撫でる。
たんこぶの大きさを確かめているのだろうか?。
「問題ないみたいね、保健室いく?」
「大丈夫です」
その時は本当に痛くもかゆくもなかった。
部活が終わった!、なんだか非常に心地よい雰囲気である。
考えてみれば、部活初体験である。部活がこんなにすがすがしいものだとは知らなかった。
剣道着と袴は、窓の枠に引っかけて干しておく、そうすれば明日使う頃には乾いているわけだ。
剣道着はわざわざ毎回洗わない。
私は三日に一度くらいにしている。
昔、防具を持って帰ったまま干さずに置いて、黒い斑点模様を作った事もある。
勿論面や甲手もそうである。ちゃんと袋から出しておかないと、カビゴンにやられてしまう。
カビが生えるとやる気も失せてしまう。それに防具はかなり値段が高い。
剣士の命でもあるので大切にしないといけない。
「こまめに洗った方がいいのかも」
そうとも思うが面倒だった。
四人とも一礼をして道場を後にする。
「あれ?、そう言えば、部活では黙想しないんですか?」
今頃思い出した。
「妄想?」
「もくそうだよ」
香里は自分のぼけを、笑ってごまかした。
「あのね、今日一日練習して、上手く行ったこと、上手く行かなかったことを、目を閉じて反省するんだよ」
白石先輩を見ると、ありゃーって顔をしている。
「ゴメン、黙想忘れてたわ」
練習中とは打って変わってほんわかしている。
そう言うところは何だか嬉しい。
「あ、そうだ! 忘れるところだった」
先輩は何か紙を取り出した。
「はい、今日帰ったら、これ読んでおいてね」
渡されたのは、「理業兼備」や、「打ち込み八得」「礼に始まり礼に終わる」
などの剣道の基本的な心構えや思考原理をプリントしたものだった。
いずみも話には聞いたことがあるが、実際文章で見るのは初めてである。
「これはいい物をもらったよ・・・・」
喜んだのは、その価値を理解するいずみだけだった。
今日は学校にいる時間がとても長かった。
ひょっとして、一番長い日だったのかと思う。
「ただいまー」
玄関に腰掛けて靴を脱ぐ。
玄関から居間までの廊下は、いつも綺麗にしてあるので、靴下だとスーッと滑れる。
「スイッとねっ!」
何だかぐっと体が重くなる。久しぶりに本格的に体を動かしたのだ。非常に疲れている。
「おかえりなさい」
お母さんの声だ。
「今日のご飯はなーに?」
「カレーよ」
「おっ!」
いずみ大好物のカレーである。
「制服着替えてきなさい」
「はーい」
いずみのお部屋は2階である。
広さは六畳位で、大きな机やベット、それに洋服タンスが幅を利かせているので、随分狭く感じる。
ベットにヘタッと腰を掛ける。 着替える力が出ない。少しぼーっとした。
着替え終わると、テンポよく階段を下りる。
居間にはいると、すでにカレーと福神漬けが並んでいた。
「お母さん、ラッキョは?」
「ごめん、切れてるのよ」
少し不満だったが、もうお腹が減って目が回りそうである。
「いただきまーす!」
あっと言う間に二皿平らげる。
「ごちそうさま! 今日はとってもおいしいよ」
「あら、ありがと、お風呂は?」
「すぐはいるよ」
いずみはお風呂大好き人間である。
人には話せないが、未だになにかしらおもちゃを持って入っている。
最近は泳ぐペンギンのおもちゃに凝っていた。
「ふーっ・・・・お父さんは今日も残業かね」
パタパタとばた足ペンギンがいずみの前を横切る。
やはり随分と疲れている。腕が重い。
シャンプーを始めると、転んで打った後頭部まで痛い。
「ふ〜っ・・・・たんこぶだよ・・・」
いつもは地肌をしっかりシャンプー攻撃するのだが、本日は後頭部方面には手を回さない。
体を洗い終わると、湯船につかり少しうとうとした。
力を振り絞ってお風呂から揚がる。
もう瞼の上と下がくっつきそうである。
「おかあさん、私もう今日寝るね」
「そう、おやすみなさい」
背中からお母さんのくすくす笑う声が聞こえた。
半分眠りかけた体で階段を上る。
「ひやぁ、ベットさん、ただいまぁ〜ぁぁぁぁぁぁっ」
こうして記念すべき第一日目は終わった。
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